002話 この壊れた世界で貴女が
《スラム街》の片隅で、日向流斗は、神崎遥と名乗った少女に危機感を感じていた。
先程の遥の発言から、彼女は自分のことを知っているようだ。
流斗は、遥が自分のことをどこまで知っているのか疑問に思う。
「私はあなたを捕らえに来たの。大人しく拘束されなさい」
「そう簡単に捕まると思っているのか?」
とりあえず、バックステップで遥から距離を取って間合いを測る。
そんな中、騒ぎを聞きつけてできた人込みをかき分けて、柄の悪い三人の男が姿を見せた。彼らは、この《スラム街》の中でも折紙付の乱暴者で、他の住人からも疎まれていた。
「オイオイ、こんなところにすげぇ可愛い子がいるぜ」
「可愛いっていうよりは、キレイ系じゃね?」
「学校の制服着てるけど、高校生かな?」
男たちが口々に遥の容姿について感想を述べながら、彼女の周りへ徐々に近づいていく。
(……ここは一旦様子を見るとするか)
流斗は傍観を決め込むことにした。
「ねぇ、こんなところでナニしてんの? 暇なら、俺たちと遊ばない?」
三人のうち、頭に剃り込みの入った男が遥に馴れ馴れしく話しかけ、さらに大きく一歩彼女へと近づく。
そのとき、流斗は遥が纏う空気が一気に冷たいものに変わったように感じた。
「……おい、やめろ。そいつに近づくな! そいつはヤバ――」
流斗の忠告が男たちに届く前に、遥が手のひらを下ろす動作一つで、遥に近づこうとしていた男たちは「うっ」と情けない声を上げて、呆気なく地面に倒れた。
「今日は、その辺のゴミに用なんてないのだけど……。私の邪魔をするなら、ついでに処分しようかしら」
男たちを見下す遥の顔に表情はなく、自分に逆らうものは躊躇いなく殺してしまうような怖さがあった。遥の警告を聞き、流斗と遥の周りにできていた人だかりは、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように急いで逃げていく。
「やはり、当然といえば当然だが……魔術師か」
流斗は冷静に判断すると同時に、遥から少しずつ距離を置く。
(しかし、今の魔術はなんだ?)
なんにせよ、わざわざこの少女と戦う必要もないと判断し、流斗は逃げの一手を選んだ。
「《神経加速》」
そう唱えると、遥から逃げる人混みに紛れ、入り組んだスラム街のさらに細い道を、小刻みに曲がりながら逃走し始める。この《スラム街》は、初めて訪れる人間に覚えられるほど単純な構造をしていない。流斗もここに来たばかりのときは、よく道に迷ったものだ。
それに加えて、今の流斗は通常の二十倍の運動能力を有している。
先程発動した《神経加速》は強化系の魔術の一つで、流斗はその魔術で自身の身体能力を底上げしていた。
一度でも流斗の姿を見失えば、もう遥が後をついてくることは不可能だろう。
流斗は後ろを振り返ることなく、狭い《スラム街》を風のように駆け抜けた。
逃げ始めたときとは違い、なるべく人だかりの少ない廃ビルの並ぶほうへと向かう。
逃げるときには利用させてもらったが、本当はなるべく関係ない人間を巻き込みたくなかった。まあ、万が一にも、遥がここまでついてこられるとは思ってもいなかったが。
「……逃げ切ったか」
浅く息を吐きながらそう呟いたとき、後方から予期せぬ返答が来る。
「残念♪ 私ならここにいるわよ」
返ってくるとは思っていなかった言葉に、流斗は思わずその場から飛び退いた。
「なぜ、お前がここにいる!? まさか俺を一度も見失うことなく、ここまでついてきたというのか?」
動揺した声で発せられたその問いかけに、遥がなぜそんな当たり前なことを聞くのか、というような顔で無邪気にうなずく。
「クソッ」と毒づくと、流斗は側にある五階建ての廃ビルの屋上を目指し、その場から高く跳躍した。肉体を魔術で強化している流斗でも、廃ビルの三階辺りまでしかその体は届かない。
しかし、流斗はズボンからワイヤーアンカーを取り出すと、廃ビルの屋上の柵にフックのついたワイヤーを射出して器用に巻き付けた。さらに、手元にあるワイヤーアンカーを切り替えてワイヤーを収納させることにより、自らの体を廃ビルの屋上まで引き上げる。
屋上に着地して振り返ると、自分の後を追い、遥が一足飛びで屋上を飛び越えて緩やかに着地する姿が見えた。
「そんな……バカな……!?」
流斗は思わず目を見張る。自然と口の端が引きつった。
困惑する自身の感情を抑え、遥の魔術が起こす現象について必死に考える。
魔術の絡繰りがわかれば、どこか隙をつけるかもしれない。
だが逆に言えば、彼女の魔術を理解せずには、この場を凌ぐことはできない。
(……思考を止めるな。必ず隙はあるはずだ。考えろ。考えろ。考えるんだ)
流斗は、遥の今までの行動から自身の推測に基づき、遥には空力を操作する力があると踏んでいた。空力操作の魔術は、今のこの世界ではメジャーなものである。
それは、自然の力を操るものでありながら、あまり魔力を使用する必要がなく、魔力神経が細い者でもセンスがあれば、簡単に扱うことができる。
なぜなら、何もないところから火を出したりするのとは違い、空間に存在している空気を操作すればいい。つまり、魔術の発動に伴う対価を払う必要がないのだ。
だから、空力操作を使う魔術師のレベルの幅は広い。もちろん、魔力神経が細い者も鍛錬を積めばある程度はものにできる。だが、それを魔力神経が太い者が使えば、より強い力を発揮できる。
過去には、空力操作の魔術を用いて、意図的にハリケーンを発生させた事例もあった。
流斗は遥と対峙しながら、彼女の魔術の仕組みを解き出す。
まず、遥は自分に近づいた三人の男を地面に倒し、気を失わせた。これはおそらく人間にかかる大気圧を変化させ、体調を著しく悪化させたのだろう。
次に、遥は肉体を強化した流斗の超スピードについてきた。これは自身にかかる空気抵抗を最小限にすることで可能なはずだ。
そして今、遥は五階建てのビルを易々と越えてきた。視界には入らなかったが、風を操って空を飛んだというのだろうか? そもそも、遥の魔術は本当に空力操作なのか?
定まらない思考がぐるぐると頭を巡る。
そんな中、流斗に追いついた遥が声をかけてきた。
「もう逃げないでよ~。追いかけっこも、そろそろ飽きてきたからさ~」
流斗は遥から得も言われぬ恐怖を感じていた。この女は底が知れない。
だが、日向流斗には、すでに生きる理由がないのだ。
それなのになぜ、自分はこんなにも生き残ることを考えているのか、と思案を巡らす。
やがて、一つの答えが導かれた。
「まだ捕まるわけにはいかない。たぶん、俺は死んでしまった家族の分まで、生きなければならない。今……死に直面することで、そんな気がしたんだ」
それは自分の本心とは違うのかもしれない。でも、それでも今は――
流斗はズボンのベルトについているホルスターから、二挺の拳銃を取り出した。
「二挺拳銃か……かっこいいわね。でも両手に銃を持ってしまったら、どちらかの銃を離さないと再装填できないわよ。それに両手のどちらでも同じ命中率を発揮できる人なんて、ごく稀にしかいない。あまり実用的な戦術とは言えないんじゃない?」
「それはどうかな」
流斗は口の端を歪め、不敵な笑みを浮かべる。
戦闘態勢に入ったことにより、すでに幾分か落ち着きを取り戻していた。
流斗が左右の手に握っている、黒色のまったく同じ二挺の拳銃は、スチェッキン・マシンピストルという。この銃は他の拳銃と比較して、火力、装弾数、発射速度に優れている。
しかし、これらの利点にも拘らず、スチェッキンは拳銃としては余りに大型で重く扱いにくい。それに加えて、銃床をつけなければ命中精度が低くなるという欠点もあった。まして、この銃を二挺同時に扱うことは、常人には困難を通り越して不可能だと言える。
そして二挺の拳銃を扱う場合、通常は両手に同じ銃を扱うより、片手ずつ特性の違う銃を扱う方が現実的であるとされているが、流斗はある理由から同じ銃を二挺扱っていた。
「もう一度言う。俺はまだ死ぬわけにはいかない。これ以上、俺に関わるというのなら、神崎遥……お前を殺すことになる」
流斗の眼差しはすでに冷え切っており、すっかり本来の、暗殺者の顔をしていた。
「別に、私にあなたを殺すつもりなんて端からないのだけど、せっかくやる気になったというのなら、少し相手をしてあげるわ」
平淡な言葉とは裏腹に、遥は興奮を隠しきれず舌なめずりしていた。
彼女の返答を聞き、流斗は遥に向けた二挺の拳銃の引き金をひく。
鋭い反動が腕を跳ね上げ、黒い銃弾が発射された。黄金色の空薬莢が宙に舞い地に落ちる。
フルオートで射出された、総装弾数の約半数ほどの弾丸が遥に向けて迫った。
スチェッキンの装弾数は一挺に二十発なので、二挺で計四十発の弾丸を所有していることになる。しかし、遥が手のひらを下す動作一つで、すべての弾丸はその行方をくらませた。
流斗が唖然としている間に、遥は話し続ける。
「……なるほど。自身の肉体を強化することで、重過ぎる銃の質量をカバーし、撃ったときの反動も抑えているってわけね。でも、すべての銃弾がちゃんと私に向かって飛んできたのは、あなた自身の技量によるところが大きいのかな?」
(……こいつ、一体どうやって、あの弾幕を防いだんだ?)
流斗の頭にさらなる疑問が浮かぶ。だが、遥はその答えが出るのを待ってはくれない。
「じゃあ、次は私の番ね」
遥が両の手のひらを自分の体の前面に押し出す。そのまま流斗に向けて、遥がその両の手のひらからかろうじて見える、空気の塊のような弾を撃ち出した。
流斗は咄嗟に身をひねって片方の弾を避けたが、もう一つの弾が流斗の左腕を捉え、握っていた拳銃を弾き飛ばす。
「チッ、また新たなパターンか!」
遥の両の手のひらから空気の塊が次々に生まれ、流斗に向かって放たれ続ける。
流斗は、それを残った右手に握る拳銃で撃って相殺し、かろうじて防いでいた。
(どういう理屈かはわからないが、あいつに銃撃は効かないようだな……)
離れていても空気の弾を食らうだけだと考え、残った片方の拳銃をホルスターにしまう。
そして、空気の塊を紙一重で避けながら、流斗は徒手で遥に向かって一気に突っ込んだ。
そのままスピードを殺さず遥に接近。牽制で上段と中段に交互に突きを放ったあと、体をひねって《胴回し回転蹴り》を容赦なく遥の顔面に叩き込む。
しかし、流斗の蹴り足は、遥の顔の前でしっかりと掴まれていた。
遥がそのまま流斗の体重をまったく意に介さず、軽々と背負い投げる。
流斗はコンクリートでできた屋上の地面に、受け身も取れず背中から叩きつけられた。
「がぁ……はっ!」
体が軋み、肺から一気に空気が抜ける。
しかし、その痛みも去ることながら、流斗の脳裏にはある疑問が生じていた。
(今の感覚はなんだ?)
流斗は遥に投げられる前に、一瞬、体が重さを失ったあと、地面に叩きつけられる直前で、急に体が重みを増したように感じた。一度疑問を振り払って、流斗が地面から体を起こしたときには、すでに遥が目の前まで近づいていた。
「《浸透双掌波》」
遥の両の手のひらが流斗の腹部に打ち込まれ、その衝撃で勢いよく吹っ飛ばされる。
「うぐっ……ぉぉ!」
体内の臓器が派手に揺さぶられる。あばらにひびが入ったかもしれない。
その高度な打撃に、流斗は体の内側を直接破壊されたような痛みを感じた。
だが、それでもなお、流斗が膝を地につけることはない。
「今の攻撃をまともにくらって立っていられるなんて、一体どういう体の構造をしているのかしら?」
遥は珍しいものを見るように言う。
「生憎、俺は幼い頃から父に鍛えられていてね。その中には、わざと骨を折ることによって骨を太く、より強靭なものにするっていうのもあったんだよ」
流斗の顔が嫌なことを思い出してしまった、と苦虫を噛み潰したようになる。
「あなたは、父親のことを憎んでいるの?」
「ああ、憎んでいたさ。でも、今は心のどこかで生きていてほしいと思っている」
もう二度と見ることはないであろう父の顔を思い出す。昔は憎んでもいたが、今はそれよりも悲しみのほうが大きかった。大切なものは失ってから気づくというものか。
「今は……ね。あなたの父親の他にも、あなたの妹や一緒に住んでいた使用人も、もう死んでしまったみたいだけど、そこのところ、あなたはどう思っているのかしら?」
「……っ! ……そんなことまで知っているのか!?」
流斗の顔に驚きが浮かぶ。
その瞬間、流斗は遥がすべてを知った上で自分に接触してきたのだと理解した。
「私はすべてを失ったあなたが、何を考えて生きているのか、それが気になるのよ」
今まで考えないようにしてきた、あのときの記憶が、流斗の脳内で思い起こされる。
焼け落ちる家、自分一人が生き残り、みんな死んでしまった、あの光景が。
「俺が何を思い、何を考えて生きているか……そんなの俺にもわからねぇよ! 俺だって、もうどうしたらいいのか、わからないんだ!」
「そう……そうなのね」
と呟いた遥の表情からは、彼女が何を考えているのか読み取ることはできない。
流斗の脳内を、あのときの光景が埋め尽くしていく。苦痛に顔が歪み、狂気が加速する。もう自分でも何がなんだかわからなくなっていた。
(――俺は、俺は! 俺……は? あのとき、どうすればよかったんだ? 俺は……)
思考が混濁して頭が回らない。それでも今、たった一つだけ確かなことがある。
(神崎遥、こいつは俺の敵だ。敵は、速やかに――排除しなければならない)
流斗は考えることを放棄し、目の前の敵を殺すことのみに意識を向けた。
「――《神経二重加速》!」
そう唱え、遥に向かって全力で突っ込む。今の流斗は、通常の四十倍の運動能力を有している。いくら遥であろうと、そう簡単に流斗を倒すことはできないだろう。
「《打突貫破》ッ!」
流斗の右腕が放った四本貫手が一直線に遥の喉元に迫り、その首を抉ろうとする。
貫手とは、手の指を真っ直ぐ伸ばして指先で相手を突く技で、通常の突きよりも力を一点に集中させることができるため、急所を攻撃する場合、非常に大きなダメージを与えることが可能な、流斗の得意技であった。だが――
「――《小手返し》」
流斗の右手首を、遥がギリギリのところで捉え、逆に手首の関節を捻って流斗を地面に再び叩きつける。
「うっ……がぁぁあ!」
再び肺の空気がすべて抜け、呼吸もままならなくなる。
しかし、そのとき流斗は、自分が遥に向けて撃ったと思われる弾丸が、地面にめり込んでいるのを見つけた。
遥は地面に仰向けになっている流斗を見下ろしながら語る。
「あなたの魔術はおおよそ把握済みよ。あなたの強化魔術は、自分の肉体そのものを強くするわけではない。そうね、自身の体内活動を強化することによって、運動能力を底上げしているといったところかしら」
流斗の体は度重なるダメージによって、その場から身動きができなくなっていた。
「そんな……ことまで、知って……いるのか」
流斗の言葉は、上手く呼吸ができていないせいで、途切れ途切れに紡がれる。
「別に知っていたわけではないわ。これは一つの推測。多数ある強化系の魔術の中でも、こと自身の肉体強化となるとその種類は少ない。あとは戦いの中で自然とわかるわよ」
確かに、遥の推測はおおよそ当たっていた。
流斗の使う魔術――《神経加速》は、通常の二十倍を超える量の神経伝達物質を媒介し、脳や脊髄といった中枢神経系の活動を驚異的に亢進させるものだ。
それによって、思考力、判断力、動体視力、運動神経、反射神経が飛躍的に向上する。しかし、自身の肉体そのものが強化されるわけではないので、自らの身体にかかる負担は非常に大きい。
「……そうか。だが、俺も今、お前の魔術を把握したところだ。お前の魔術は《空力操作》」
「残念だけど惜しいわね、ハズレよ」
「――と、《重力操作》の併用で成り立っている」
流斗の言葉に、遥は一瞬驚きの表情を浮かべたが、それはすぐに元に戻る。
「どうして、そう思ったの?」
そう尋ねる遥の顔には、余裕の笑みが浮かんでいた。
「俺は最初、お前の魔術は一般的である《空力操作》だけだと思っていた。だが、お前の行動には、それだけでは説明のつかないものがいくつかあった。廃ビルを飛び越えたとき、銃弾を防いだ方法。そして、俺がお前に投げられたときに感じた違和感。だがそれも、重力を自在に操作できるとなれば、話は別だ」
「ふーん、それで?」
遥は流斗にとどめを刺すことなく、その言葉を興味深そうに聞いていた。
「最初に男たちを倒したとき、お前はあいつらにかかる重力を増やしたんだろ?」
「正解」
「五階建ての廃ビルを一足飛びで越えられたのは、自分にかかる重力を減らして飛び上がったからだ。そのとき、着地がやけに緩やかだったのが俺は気になった。だが、それも重力操作の影響だろう。そのあとの銃撃をどうやって防いだのか……もし、風を操って銃弾を吹き飛ばしたのなら、そのことに俺が気づかないはずがない。さっき、お前に地面に叩きつけられたときに見つけたよ。お前は俺が撃った銃弾を、重力で無理やり上から押し潰したんだ」
「それも正解」
あっさりと認めた遥の顔は、なぜか楽しげであった。構わずに流斗は続ける。
「お前が使う投げ技にも、すべて《重力操作》が使われていた。相手を掴んだ瞬間に相手にかかる重力を減らし、投げつけるときに相手にかかる重力を増やす。そうすることで、よりスムーズに、威力の高い投げ技が完成する」
流斗が最後まで言い終えると、わずかな静寂がその場を支配した。
「……よくわかったわね。今までも、私の魔術が《重力操作》だと考えた人はいたけれど、最後までそう結論づけたのは、あなたが初めてよ」
遥が喜色満面の笑みで言う。自分の魔術のネタが割れているというのに、先程から遥の笑みはどんどん広がっていた。
「そりゃそうだ。自然に干渉する魔術は、空間に満ちる大きな魔力なしに発動させることはできない。それを発動させるには、空間にある魔力を体内に取り込み、魔力神経を通して、自分自身の魔力に変換する必要がある。まさか、現代においてなお、未だに不可解な《重力》なんてものに干渉するやつがいるとは、考え難いのだろう」
「それもそうね。でも、私にはこの地球上に存在する、すべての質量を自在に操ることが確かにできる」
遥の顔は相変わらず楽しそうに笑っていた。
「まったく、一体どんな魔力神経をしているんだよ」
思わずそう毒づいた流斗に、もう一つの疑問が脳裏をよぎった。
「一つ、納得のいかない点がある」
「なぁに? この際だから、答えてあげるわ」
「あの戦闘中にどうやって、肉体強化した俺のスピードについてきたんだ?」
例え、ある程度、空気抵抗を減らして動きを良くしても、反射神経や動体視力が流斗の動きに追いつかなかったはずだ。その質問に遥は、今度は少しだけ恥ずかしそうに答える。
「それは、私も少しばかり肉体強化の魔術を使っていたからよ。本当はそんなものに頼らずに、普通に戦いたかったのだけどね」
流斗は、その答えにいっそう驚愕した。
(こいつ、肉体強化の魔術まで使えるのか!? それにあの動きで少しだと! 四十倍に跳ね上がった俺の運動能力に、多少の強化だけで対応できるなんて……こいつは魔術を使わない通常の状態でも、俺のスペックをはるかに上回っている!)
これ以上戦っても、絶対に勝ち目はない。それが今、はっきりとわかった。
だから、流斗はなんとかしてこの場から逃げ切らなくてはならない。
幸いにも流斗の作戦通り、遥との対話の間に、流斗の体は十分に動けるまで回復していた。
「ふん、つまらない時間稼ぎは終わりだ」
流斗は遥に向かって、小さな缶状の手榴弾を投げつける。
「――爆弾!? こんな至近距離で使えば、あなたも――」
流斗の挙動に対し、遥が少しながらも驚いた顔を見せた。
だが、もちろんそんなことは流斗も理解している。これは爆弾ではない。
手榴弾からは、黒色の非常に濃い煙が発せられてそれが辺りを満たし、遥から流斗の姿を隠した。流斗は手榴弾から煙が出ると同時に、先程使ったものとは違う、ベルトに仕込まれたフックのついたワイヤーを、現在いる屋上の反対側の柵に巻きつけていた。
そのままベルトの横に着いたボタンを押し、ワイヤーを収納することによって自身の体を屋上の縁にまで持っていく。その間にも、煙の奥から流斗を狙って、空気の塊が放たれる。
しかし、煙でよく見えないせいか、その狙いは定まっていなかった。
今の流斗にならわかる。あの弾は空力操作で空気の流れを調整し、それに重圧をかけて圧縮したものだ。名づけるなら《重力弾》とでも言えようか。
「今のうちに、できるだけ距離を取る」
流斗は屋上の縁に着くまでの勢いを利用して、そのまま二十メートルほど離れた二階建ての建物に向かって飛んだ。
しかし、流斗が廃ビルの屋上から隣の建物に飛び移る半分ほどのところで、何かに引き寄せられていくように、廃ビルと建物の間の何もない空中に体が引っ張られていく。
自身を引き寄せている方を振り向くと、そこには空中に目に見えるほど強力な重力場が発生しており、それが流斗の身体を引きずり込んでいた。
流斗が驚きに目を見開いていると、煙幕を空力操作の魔術を使って風で吹き飛ばした遥が、重力場に向かって自分自身を引き寄せ、空中で流斗に接触する。
「うふふふ、捕まえたぁ♪」
悪魔のような笑み。そして、流斗は遥に超至近距離から《重力弾》を撃ち込まれた。
流斗は、そのまま地に落ちていったが、遥が使う投げ技のときのように重力増加はされていなかったので、地面に激突する前に受け身を取ることで衝撃を軽減することができた。
受け身を取った流れのまま地面を転がり、流斗が遥から距離を取ったところで、遥が流斗から少し離れた地面に、重力操作を使って緩やかに着地する。
「私から逃げ切ることは不可能よ」
「そのようだな」
そう呟いた流斗の顔は、何かを悟ったようだった。
「やっぱり、俺はこの世に生きていてはいけないんだ。俺は暗殺者の息子で、人をこの手で殺したこともある。だから――」
(……俺には、もう生きる理由はない。だが、勝つにしろ負けるにしろ、己のすべてを出し切らなければ、今まで生きてきた意味がない!)
「――ここで決着をつけるッ!」
鋭い眼光に燃え上がる闘気。流斗の濁った目に、死力を尽くした強い意志が宿る。
流斗は膝を屈めて全神経を集中し、一度全身の筋肉を脱力させたのち、限界まで一気に爆発させて遥に向けて駆け出した。
(肉を切らせて骨を断つ――! そのくらいの覚悟がなければ、この女は倒せない! いや、それでもまだ及ばないだろう……ならば、ここは刺し違えてでも――こいつを殺す!)
膨れ上がった凶暴な殺意が、流斗の限界を超えて体を動かす。
「《加重力》」
遥は、流斗に手のひらを向けて振り下ろした。
そうするだけで、流斗のいる半径三メートルほどに、かかる重力が急激に増した。
強力な重力場に押し潰される寸前で、流斗は素早く斜めに走りながらそれを躱し、身を削るような擦過音を無視して、遥の元へ疾駆。
流斗が通った地面には凄まじい重力がかかり、次々とひび割れていった。
(……わかっているんだよ……。俺がこいつより劣っていることくらい……でも――)
遥まであと五メートルのところまで来ると、流斗は自分を押し潰そうとする高重力を避け、遥の側面に一気に回り込んで、彼女の斜め後方まで無理やり自分の体を持っていく。
(……力が足りないなら、限界まで絞り出せ! 己の命を削って、一点にかき集めろ!)
無理な運動に全身が軋み、筋肉が悲鳴を上げた。神経が焼き切れそうになる。
その際に、体がバラバラになりそうな激痛を伴う。目からどす黒い血涙が、鼻から激情の血潮が、口から赤い鮮血が零れ落ちる。それでも流斗は――遥の懐までたどり着いた。
「終わりだ! 《螺旋貫手》ッ!!」
流斗は体全身にひねりと回転を加え、左腕を引き手にして物凄い勢いでねじった右腕で強力な貫手を放つ。全身全霊をかけた、最高の一撃。
流斗の右腕が、竜巻のような螺旋を描いて、遥の胴体を突き破ろうと迫る。
「《重力壁》」
しかし、流斗の貫手が遥の体に届く寸前で、遥の目の前に幾重にも束ねられた強力な重力の壁が現れ、無情にも流斗の右腕を阻み、その体を強烈な重力で押し潰した。
遥へと伸ばした流斗の右腕が軋み、骨が悲鳴を上げる。流斗は声も出せず顔面から地面に叩きつけられた。最後の希望が淡く儚く消えていく。
「惜しかったわね。でも、あなたが私にとどめを刺しに来るとき、必ず私の懐に入ってくるのはわかっていたから。それでも、思ったより動きが機敏で少し焦ったわ」
遥は感心するように、ボロボロになった流斗を見下ろして言った。
「やっぱり、あなたはこんなところで燻っているには勿体ない逸材ね」
(……最後の一撃も届かなかった。俺の一生って、こんなものか……。俺が生まれてきた意味ってなんだったんだ? でも、もう生きる意味も理由も、ない……か)
流斗は痛む体を無理やり起こして、遥のことを地面から仰ぎ見る。
「――――頼む。俺を……殺してくれ」
「嫌よ。私は最初から、あなたを殺すつもりはないと言っているでしょう」
遥は流斗の頼みを間髪入れずに断った。いい笑顔を浮かべている。
「……そうか。なら悪いけど、俺の死体の処理を頼む」
そう言うと、流斗はホルスターにしまった拳銃を取り出し、自身の頭に銃口を定めた。
その拳銃には、弾丸があと一発だけ残っている。
「ちょ、あなた――」
そして、流斗は躊躇いなく引き金をひいた。
――銃声は聞こえなかった。
なぜなら、遥がとっさに重力弾で流斗から拳銃を弾いたからだ。
流斗は目を見開いたあと、顔を歪めて一気に遥に捲し立てた。
「なぜ邪魔をするんだ! 俺は家族を失い、居場所を失い、生きる意味さえ失った! 俺に残ったものは、親父に叩き込まれた《殺人術》だけだ! もう俺には何も残って――」
不意に、言葉の途中で遥に抱きしめられる。
流斗は頭の中が真っ白になった。遥の体温が全身に伝わってくる。
(……なんだ……これ? なんで、こんなにあったかいんだ? 引っつくなよ、暑いだろ。今は夏だぞ。……なんで……なんで、こんなに安心するんだよ……っ……!)
「あなたは私が救う。家族がいないのなら、私が姉になってあげる。居場所がないのなら、私の家に来ればいい。生きる理由がないのなら、私が必ず作ってみせる」
遥の言葉の一つ一つが、流斗の心に優しく染み込んだ。
流斗の体を縛る見えない鎖が、遥の言葉で次々に断ち切られていく。
目が自然と遥に吸い寄せられる。彼女は優しく微笑んでいた。
「あなたはこれから私のために生きなさい! 少なくとも、私が死ぬまでは、あなたが死ぬことは私が許さない!」
その言葉で、流斗は生まれたときから囚われていた運命という名の檻を、遥が壊してくれた音を確かに聞いた。視界に色鮮やかな世界が飛び込んでくる。
流斗の虚ろな目に光が差し込んだ。ずっと空っぽだった、心の隙間が埋まっていく。
「ああああああああああ! っああああああああああああああっああぁぁぁ!」
そして止めどもなく涙が溢れ、鼻が詰まり、流斗は声にならない叫びを上げた。
「多分、私はあなたのことを守るために生まれてきたんだわ」
流斗の体を、遥がただただ優しく包み込む。
「傷ついた鳥には、一度ゆっくりと翼を癒す時間が必要よ」
その優しい温もりに、凍てついた心がゆっくりと溶けていった。




