プロローグ 第一章:表札とエントランス
『プロローグ:油性ペンのインターホン、あるいは奇妙な扉の開け方』
春、私の日常は完全に行き詰まっていた。
「そろそろ、彼女が欲しい」胸の内でそう願うものの、女性経験のない私には、何から手を付け、どこへ向かえばいいのか、その道標さえ全く見当たらなかった。焦燥と孤独だけが、夕暮れの静かな自室の床に、埃のように音もなく積もっていく。そんな停滞の泥の中にいた。
ある日のことである。住んでいるマンションの郵便受けの表札に気づく。そこには手書きの、ひどく小さく油性ペンの歪な文字で、『おとこ教室』とだけ書かれていた。
おとこ教室。一体、何をする場所なのだろう。文字を目にした瞬間、喉の奥が急激に干からび、心臓が肋骨の内側を激しく叩き始めた。ここで引き返したら、私の人生は一生、この薄暗い部屋の地続きのまま終わるのではないか。その恐怖に背中を押されるようにして、私はエントランスのインターホンを押し込んだ。
冷たい金属の感触が、指先から脳へと直接伝わる。スピーカーから響いたのは、驚くほど柔らかく、しかしどこか底の知れない大人の女性の声だった。私は乾いた声を絞り出し、「おとこ教室ってどんなものか、興味があるんです」と伝えた。一拍の沈黙の後、受話器の向こうの声は静かに、波紋のように広がった。「どうぞ、見学していってください」自動ドアの解錠される重い音が響き、私は新しい世界の敷居を跨いだ。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、私は自分が犯した過ちの大きさに気づき、硬直した。そこには、若い女性が三人ほど座っていた。そしてその中心には、仕立ての良いスーツを隙なく着こなした、三十歳前後とおぼしき大人の女性が立っていた。
そこは男性が男を磨く場所ではなく、「女性向けに男性との付き合い方をレクチャーする、大人のための教室」だったのだ。
場違い極まりない空間。いたたまれない気まずさに押し潰されそうになりながらも、私は講習が終わるまで、存在を消した石のようになって座り続けることしかできなかった。やがて講習が終わり、生徒の女性たちがそれぞれの日常へと帰路につく。
静まり返った部屋で、スーツの女性講師がゆっくりと私に近づいてきた。その端正な顔立ちから放たれる視線に、再び身体が強張る。
「どうだった?」どうもこうも、自分にはあまりに関係のない、遠い世界過ぎて言葉が出ない。とりあえず居心地の悪さから逃れるようにお礼を言い、その場を去ろうとした。しかし、背後から放たれた彼女の声が、目に見えない糸のように私の身体を引き止めた。
「お願いしたいことがあるの」彼女の話を要約すると、それはあまりに意外な、しかし断る理由のない提案だった。教室に通う若い女性たちのために、会話の練習相手になってほしい。そして、率直な若い男性の意見や、剥き出しの本音を話してほしい、というもの。つまり、生徒ではなく「アルバイト」としてのスカウトだった。「何をしていいか分からない」と立ち尽くしていた私に、突然飛び込んできた奇妙な役割。
私は戸惑いながらも、その奇妙な運命に身を委ねてみることにした。
聞けば、この教室には三つの階梯があるという。交際や結婚の本質を教える「恋愛コース」。部下や後輩との間合いを教える「ビジネスコース」。そして、サークルや様々なコミュニティでの付き合い方を教える「フレンドリーコース」。
私の初めての仕事は、ハードルの低そうな「フレンドリーコース」の参加に決まった。五人までの少人数で受けるそのコース。最初の生徒は同じ大学の同級生グループ、彼女たちの悩みは切実だった。大学の男性比率が高く、なかなか友達ができないのだという。
生徒側はその日が五回目の講習で、今回は「一人三分間で、私と一対一で話す」という実践メニューだった。もちろん、私にとってはこれが人生で初めての「対・女性」の実戦である。
お互いに簡単な自己紹介を交わし、新生活や大学の様子を恐る恐る聞いてみる。
生徒の女の子たちは目に見えて緊張していた。けれど、私が静かに相槌を打つうちに、彼女たちは堰を切ったように話し始めた。地元との環境の違い、慣れない一人暮らしの大変さ。彼女たちは時間いっぱいまで、一生懸命に言葉を紡いでくれた。
「……なんとか、できそうかもしれない」初めての三分間を終えたとき、私の胸には確かな手応えが、静かな灯火のように残っていた。女性も自分と同じように緊張する、一人の同じ人間に過ぎないのだ。私はこの仕事を、続けてみることにした。




