表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十重奏(デシメット)の止まり木  作者: 海内裏


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/17

エピローグ 第五章:遠い街の夜風と、バッファローを噛み締める夜

『エピローグ:ガラス扉の向こう側の世界、あるいは次のノックを待つ夜に』

社長のいない、初めての一人きりでの出張研修。大人同士の形ばかりの挨拶、見よう見まねの名刺交換。いくつかのハプニングに見舞われながらも、現地の派遣スタッフの女性の献身的なサポートによって、私は何とか講義をやり遂げた。

「初めてなら、こんなもんか」胸を撫で下ろし、片付けをしながら彼女にこの街の美味い店を聞く。「素敵なスペインレストランがありますよ」「ありがとう、明日一人で行ってみるね」その瞬間、彼女の唇から「え……」と、かすかな落とし穴のような音が漏れた。その微かな心の揺れに、思いきって手を伸ばした「もし都合が空いてたら、一緒に来てくれない?」彼女の顔に、不意に鮮やかな薔薇が咲いたように笑みが溢れた。その笑顔を見た瞬間、私は決意した。

本来なら、私は翌日の最終便で帰る予定だった。予定通りに帰ることだって、もちろんできたはずだ。けれど私は、携帯電話を取り出し、社長に「もう一泊していいか」と確認を入れた。自費なら構わないという返信を得る。さらに、社長から授かった交渉術を使い、フロントで「現場でちょっとしたトラブルがあった」と言い訳を添えて、二万円の高級ホテルの部屋を、会社と同じわずか五千円のコーポレートレートで延泊する手配を済ませた。すべては、明日彼女と過ごすため。退路を断ち、完璧な拠点を自らの手で作り出す。手元に握りしめたもう一晩分のカードキーは、私の確かな意志の重みだった。

スペインレストランの夜、お酒は進み、彼女の笑顔は何度も引き出せたが、やはり元々の性格なのか、彼女の口数は少なかった。店を出て、タクシーで彼女の実家へと向かう。実家の玄関の前で車が止まったとき、私は彼女が降りて、振り返ったら手を振ろうと考えていた。だが、彼女は下を向いたまま、頑なにシートから動かない。静寂が車内を支配する。私は彼女の伏せられた横顔に、静かに告げた。「……ホテルに帰るけど、来る?」彼女は下を向いた顔を、さらに深く胸のほうへと落とした。拒絶の言葉はない。タクシーは方向を変え、五千円で勝ち取ったあの部屋へと走り出した。

帰る予定を変更してまで用意した、あの部屋のドアが閉まる。言葉の少なさは、彼女の覚悟の重さだった。床を見つめて立ち尽くす彼女の緊張を、私はただ優しく、時間をかけて紐解いていった。仕事中の一人立ちのプレッシャーが、彼女の冷たい肌を通じて、濃密な大人の夜へと昇華されていく。

出張から戻り、また日常が始まる。来月からは二ヶ月に一回、地方への旅路が予定されている。「楽しみなような……本当に、楽しみだ」そんな日常の合間ヤンから、ネパールの卒業生から誘われたがいっしょに行かないかとメッセージ。彼らの暦における新年の、ささやかな祝宴。

教えられた片田舎の駅を2人で降りる、地上に上がった瞬間、鼻腔をくすぐるエキゾチックなスパイスの香りがした。駅前に佇む小さなカレー専門の弁当屋。インド国旗の隣に揺れる、あの独特な二つの三角形を重ねたネパールの国旗。その建物の二階が目的地だった。

トントンと階段を上がり、扉が2つあり手前の扉をノックする。迎え入れてくれたのは、額に「ティカ」と呼ばれる祝福の赤い印をつけた女性の、完璧な笑顔だった。一歩入ると、そこは手作りの「モモ」をこしらえる活気ある厨房だった。床で小麦粉を練る者、テーブルで生地をちぎり丸める者。包み方ひとつで中身の具材が分かるようになっているという本場の知恵を教わりながら、私はネットオーダーであらかじめ手配しておいた地元の日本酒の一升瓶が届いているか確認した、彼女らの日本語は流暢で無事、朝イチに届いていたようだ。

蒸し器から上がる白い湯気とともに、出来立てのモモを日本酒で流し込む。ネパールの風習だという、温めたラム酒を薬代わりに一杯いただく。カッと喉が熱くなり、世界の境界線が融解していく。

日が更に傾くと、夜のバイトがある者たちは飲まずに離脱していった。彼らの生活はいつだってギリギリの労働と隣り合わせだ。代わりに昼の仕事を終えたメンバーが合流し、外が暗くなった頃、私たちは残った六人ほどでUNOをすることに昼過ぎから飲んでいた2人はいつの間にか寝てしまい私たちは彼女らを抱え、隣の二段ベッドが並ぶ部屋へと運び込んだ。

残されたのは、私と三人の女性たち。一気に静まり返った卓で、私はその場のノリをさらに加速させるために、ある賭けを持ちかけた。負けた二人は、特製の「ワサビモモ」を食べる。スパイスのプロである彼女たちも、日本のワサビの存在は知っていても、本物を口にしたことはなかった。

熾烈な心理戦の果て、結局、ネパール人女性の一人と私が負け犬となった。名誉のために言っておくが、私が最下位だ。負けた二人で夜風の吹く中コンビニへ、ワサビチューブを買いに出かけた。酔い冷ましに何か飲まないかと聞くと、彼女は「はい」と小さく頷いた。私はワサビチューブと一緒に、温かいはちみつレモンを二つ買った。自販機の灯りに照らされた帰り道、私は彼女に、ずっと胸の奥にあった純粋な疑問をぶつけた。なぜ、日本に来たのか。

「中国も、韓国も、オーストラリアも考えた。でも、日本が一番安全だから」と彼女は言った。はちみつレモンのペットボトルを両手で包みながら、彼女は静かに言葉を続けた。「本当は、アメリカに行きたかった。でも、ネパールのパスポートでは、アメリカに留学することさえできない。」私は言葉を失った。私たちが生まれながらに手にしている、世界中どこへでも行ける最強のパスポート。それがどれほど恵まれた特権であるか、日本の安全な日常にいる私は考えたこともなかった。彼女は少しだけ寂しそうに、でも羨むような目で私を見て笑った。「日本のパスポートは最強。」世界には、個人の努力だけではどうにもならない厚い壁がある。その不条理の重さを少しだけ分かち合った私たちは、手にしたワサビチューブを盾のように握り締め、あの温かい明かりの灯る部屋へと戻った。

仕込まれたワサビモモを口に入れた瞬間、鼻をツーンと突き抜けるシャープな辛さに、私と彼女は同時に涙目を浮かべた。それを見た残りの女性たちが大爆笑をあげる。その涙目は、ただの罰ゲームの辛さではなく、夜風の中で結ばれた異国の友人との戦友のような絆の証だった。ギリギリの終電に滑り込み、ガタゴトと揺れる窓に映る自分の顔を見つめながら、私は自分の人間の器が、また少しだけ押し広げられたような気がした。

数日後、講習の合間に、あの夜のネパールの卒業生が事務所を訪ねてきた。彼女ははにかみながら、タッパーに詰めた料理を私に手渡してくれた。「バッファローの肉を使った料理です」日本でバッファローの肉を食べられるなんて思いもしなかった。お昼休みに無造作に平らげるのはもったいなくて、私はそれを大切に家に持ち帰り、夜の静けさの中でウイスキーともに晩酌の友とした。黒糖のように深い色をしたその肉を噛み締める。黒毛和牛のような軟弱な霜降りの脂は一切なく、どこまでも頑なで、力強い、野生の肉肉しい味わい。「……大好物が、またひとつ増えてしまったな」ウイスキーのグラスを傾けながら、その野生の味を咀嚼する。

マンションの郵便受けにあった、あの小さな一枚の表札。あの日、震える手でインターホンを押した私の純粋な好奇心は、大人の女の切ない陰影を知り、オンラインで何百人の心を動かす術を学び、ベトナムの「明日」を抱きしめ、ネパールの不条理なパスポートの現実と交わりながら、私という人間の血肉を、境界線のない巨大な世界へと変えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ