第8話 テルとチビ丸 ~谷間に落ちた光~
ヒカルの幼少期は、穏やかで幸せな日々だった。
その中心には、四つ年下の弟――テルがいる。
小鳥が巣から落とした羽をそっと拾い上げ、
「羽根さん、痛くないように返してあげるね」
そうつぶやく横顔を見るたび、
ヒカルの胸の奥では、小さな光が静かに揺れていた。
―――――
それは、若葉の香りが山を包む初夏のことだった。
当時、ヒカルは十一歳。
テルは七歳だった。
村の向こう。
深い谷を隔てた大木の上に、
親鳥の姿が見えない巣があった。
そこには、一羽の小さなヒナだけが残されていた。
テルは三日間、ずっとそのヒナを見守り続けた。
だが三日目の朝。
ヒナの姿も、鳴き声も消えていた。
(どうしよう……)
(兄ちゃんを呼ばなきゃ……)
でも――。
(早くしないと、ヒナがいなくなっちゃう……!)
テルは唇をぎゅっと噛んだ。
「行かなきゃ。
ぼくが行かなきゃ」
恐怖で足は震えていた。
それでも。
助けを求めるヒナの姿を思い浮かべると、
自然と前へ踏み出していた。
「待ってて……!
鳥さん……!」
テルは谷へ向かって駆け出した。
向こう岸へ飛び移ろうとした、その瞬間――。
谷底から吹き上がった風が、小さな体を押し戻す。
「あれ……!?
とどかない……!」
必死に手を伸ばす。
指先は、あと少し届かない。
「兄ちゃん……」
テルの声が震えた。
「兄ちゃん……助けて……」
そのときだった。
突然、風を裂く鋭い音が谷へ響く。
次の瞬間――。
強い衝撃が、テルの背中を押し上げた。
小さな体がふわりと浮き、
向こう岸へ指先が引っかかる。
何が起きたのか、テルにはわからなかった。
だが安堵した次の瞬間。
恐怖が一気に押し寄せてくる。
「……怖いよ……」
足は宙をかき、何も届かない。
指先が少しずつ滑っていく。
ぽたり、と涙が谷底へ落ちた。
(兄ちゃん……助けて……)
意識が薄れ、指が離れかけた、その瞬間――。
頭上から、温かい手が伸びた。
「テル!」
ヒカルだった。
崖の縁へ身を投げ出すようにして、
弟の手を強く掴む。
その腕は震えていた。
それでも、決して離さなかった。
(テルを守れなかったら……)
(僕は、自分を一生許せない)
ヒカルの胸には、そんな想いが渦巻いていた。
「もう少しだ!」
「うん……!」
「兄ちゃんの手を、両手で掴め!」
「……手が……動かないよ……」
「がんばれ、テル!」
ヒカルは声にならない叫びをあげながら、必死に弟を引き上げる。
そして――。
テルの体が、ようやく崖の上へ転がり込んだ。
二人の顔へ、同時に安堵の笑みが浮かぶ。
救い上げられたテルは、その場で気を失った。
―――――
目を覚ましたとき。
テルはヒカルの膝の上にいた。
「兄ちゃん……?」
「大丈夫か。立てるか?」
「うん……」
だが次の瞬間。
テルは、もっと大切なことを思い出した。
「ヒナ……!
ヒナが……!」
ヒカルは大木を見上げ、
それからテルを見て小さくうなずいた。
「二人で、木に登ろうか」
「うん!」
巣を覗くと、
ぐったりしたヒナがかすかに鳴いていた。
「まだ……生きてる……!」
テルはそっとヒナを抱き上げる。
ヒカルは弟とヒナを背負い、ゆっくり木を降りた。
やがて。
テルも、ヒナも元気を取り戻した。
テルは嬉しそうに飛び回る。
「小さいから……チビ丸だ!」
それが、ヒナの名前になった。
―――――
後にヒカルは語る。
あの瞬間。
僕は、谷底へ消えた“影”を見た――と。
風を裂く音とともに、
何かがテルの背中を強く押し上げた。
その影は、谷底へ落ちていった。
しばらくして。
ヒカルは深い茂みの中で、一羽の鷹を見つけた。
翼は折れ、体は血に濡れていた。
ヒカルは黙って手当てを続けた。
「あの時、守ってくれたのは……君だったんだね」
「……ごめんね」
山の雪が溶け、新しい命が芽吹くころ。
鷹は、大空へ消えていった。
その鷹こそ――。
チビ丸の親、雷丸だった。
―――――
チビ丸は、なぜかテルのそばを離れなかった。
まるで風が、そっと二人を結びつけたように。
羽はまだ小さく柔らかい。
けれど風を読む感覚は鋭く、
ひとたび羽ばたけば、テルの“閃き”と同じ速さで空を駆けた。
テルの弱きものを守ろうとする優しさは、
きっと誰かの胸を照らしていく。
チビ丸の翼が向かう先には、
いつもテルの歩幅があった。
静けさも。
優しさも。
未来へ踏み出す小さな勇気も――。
すべてが寄り添うように、同じ速さで育っていく。
テルにとってチビ丸は、飼い鳥ではない。
“魂を分け合った、無二の相棒”だった。
こうして――。
テルとチビ丸の物語は、静かに動き始めた。
谷間に吹いたあの日の風は、
今もテルの中に生き続けている。
そして、時は流れ――。
テルは十三歳になっていた。
―――――
■ テル 13歳(ヒカルの弟)
―― 静けさの奥に、閃光を宿す少年
ヒカルの四つ下の弟。
湖面のように穏やかで、
触れれば壊れてしまいそうなほど優しい少年。
小さな命にも自然と手を差し伸べるその姿は、
村の大人たちからも静かな愛情を向けられていた。
だが、その静けさの奥には――。
いずれ弁や嵐すら息をのむほどの強さが、
誰にも気づかれぬまま眠っている。
ひとたび守るべきものを見つけた時、
テルは誰よりも深く、まっすぐ前へ踏み出す。
やがて“静かなる閃光”と呼ばれることになる少年。
ヒカルにとってテルは、
“いつか自分の手で守り抜きたい”と願わせる、小さな灯火だった。
※掲載しているイラストはAIを用いて制作しています。
キャラクターや情景のイメージは作者が考案し、描画はAIによるものです。




