第2話 てんとう虫はずるい ~ 私もつい…そして一緒に ~
てんとう虫は、時々ずるい。
かわいい嫉妬。
気づけば、それは恋のはじまりなのかもしれない。
「……また、こんなに傷をつくって」
クレアがそっとヒカルの腕を取った。
「今日も、頑張ったんだね?」
ヒカルは一瞬だけ目をそらし、すぐに笑ってみせた。
「無茶しないでね」
遠くを見るように呟きながら、
クレアはそっと包帯を巻き直していく。
その指先は、
どこか頼りなく震えていた。
包帯を巻き直すたび、ヒカルの腕に残る細かな傷が目に入った。
狩りの特訓。
木登り。
崖越え。
村の子どもたちには当たり前の訓練でも、ヒカルにとっては毎日が傷だらけだった。
「でも、やらなきゃ強くなれないから」とヒカルは小さく笑った。
その笑顔が少し無理をしているように見えて、クレアはそっと眉を寄せる。
「……痛くないの?」
「痛いよ」
ヒカルは素直に答えた。
「腕も痛いし、足も痛いし……お尻も、かなり痛い」
「そんなに……?」
クレアは思わず肩を揺らした。
「いたた……」
「あ……ご、ごめんね」
そう言いながら、結びかけていた包帯が、
するりとほどけ落ちた。
「あっ……」
クレアは小さく息をのみ、
慌てて包帯を握り直す。
「僕こそ、ごめん」
「何で、ヒカルが謝るの?」
「……だって、クレアが、僕のこと心配そうにしていたから」
「何か言わなきゃって」
「ヒカルって、ずるいわ」
「え?」
「そんな顔をして、ちゃんと見てるんだもの」
自然に出た言葉に、クレアの指先がぴたりと止まった。
頬が、ふわりと赤く染まる。
ヒカルは何も気づいていない顔で笑っていた。
(……ヒカルが私を見てる……、自分で言うなんて)
クレアは視線をそらし、小さく息を吐いた。
「……そういうところ、ずるい!」
「え? なにが?」
「なんでもない」
少しだけ唇を尖らせるクレアを見て、
ヒカルはほっとしたように笑った。
「よかった。クレア、少し元気になったみたい」
その言葉に、
クレアの顔がさらに赤くなる。
ヒカルは不思議そうに笑うだけだった。
木漏れ日が揺れ、二人の間を柔らかな風が通り抜けていった。
クレアはそっと横目でヒカルを見た。
さっきまで笑っていた表情が、少しずつ緩んでいく。
「ヒカル……?」
返事はない。
呼吸だけがゆっくりと上下している。
その瞬間。
コトン。
ヒカルの頭が、クレアの肩へそっと寄りかかった。
「えっ……」
クレアの肩が小さく震える。
けれどヒカルは、完全に力を抜いていた。
疲れが限界だったのだろう。
クレアは周囲を見回したあと、そっと体勢を整える。
するとヒカルの頭は、そのまま自然にクレアの膝へ滑り落ちた。
「……もう」
顔が熱い。
心臓の音が、自分でも分かるほど大きい。
それでも――
起こそうとした手が止まった。
膝の上のヒカルは、驚くほど安心した顔で眠っていた。
「ほんとに……子どもみたい」
そう呟きながらも、クレアの声はどこか嬉しそうだった。
風が吹き、ヒカルの髪がふわりと揺れる。
クレアはそっと指先を伸ばした。
傷だらけなのに。
こんなに頑張っているのに。
髪は驚くほど柔らかかった。
胸が、きゅっと締めつけられる。
(……ずるいよ)
こんな顔を見せられたら、
もっと大切にしたくなってしまう。
クレアはそっとヒカルの髪を撫でた。
「……こんな気持ち、はじめて」
小さく漏れた声は、風の中へ静かに溶けていく。
クレアは膝の上の寝顔を見つめながら、そっと微笑んだ。
「ねえ、ヒカル。覚えてる?」
「私と、初めて話した日のこと」
木漏れ日が揺れる。
クレアの視線は、静かに“あの日”へと戻っていった――
あのときも、木漏れ日が揺れる穏やかな日だった。
ヒカルは木陰に腰を下ろし、片ひざを立てたまま目を閉じていた。
風の音を聞くように、
静かに空を見上げている。
その横顔が、なぜだか少し楽しそうで――
クレアは、そっと木陰から覗き込んだ。
(……私、そっとあなたを見ていたのよ)
そのとき、ヒカルが小さく呟いた。
「今日は、小鳥の鳴き声がよく聞こえる」
「……あれ、喧嘩してるのかな」
少し考えてから、ふっと笑う。
「いや、親鳥に怒られてるんだな。嵐みたいだ」
その言い方が可笑しくて、
クレアは思わず肩を震わせた。
(ヒカル、楽しそう……)
だから、もう少し近づいてみたくなったわ。
足音を忍ばせ、
そっとヒカルのそばへ寄ったの。
けれどヒカルは、まるで気づかない。
(……気づいてくれない)
少しがっかりしたのよ。
そのときだった。
てんとう虫が、ふわりとヒカルの鼻先へ止まった。
クレアは口に両手をあてて笑った。
それでもヒカルは動かない。
てんとう虫が鼻から額へ歩いても、
じっとしたままだった。
(……ほんとうに優しいのね)
けれど次の瞬間、
てんとう虫が額の真ん中へ近づいていく。
(あっ……だめ)
そんなところ歩かれたら、
くすぐったくて絶対に目を開けちゃう。
クレアは思わず息を呑んだ。
(そっちへ行っちゃだめ……!)
だが、てんとう虫は気ままに歩き回り、
やがてつまらなそうに羽を広げて飛んでいった。
その小さな背中を見送りながら、
クレアは胸の奥で小さく笑った。
(……やっと、私の番)
そっと身をかがめ、
ヒカルの顔を覗き込む。
その瞬間――
ヒカルが、ぱちりと目を開けた。
真正面で視線がぶつかる。
「……っ!?」
驚いたヒカルは、
勢いよく後ろの木へ頭をぶつけた。
ゴンッ。
「うっ……!」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
クレアが慌てて身を引く。
ヒカルは頭を押さえながら、
まだ驚いた顔のままクレアを見ていた。
「き、君……誰?」
その言葉に、
クレアは少しだけ頬をふくらませた。
「……私、邪魔しないようにそっと近づいたのよ?」
クレアは少し拗ねたように言う。
「それなのに全然気づいてくれないんだもの」
「てんとう虫には、あんなに優しかったのに」
そう言いながらも、
クレアの声はどこか楽しそうだった。
ヒカルは慌てて姿勢を正す。
「ご、ごめんなさい。気づけなくて……」
「ううん。私のほうこそ、急に覗き込んだから」
ヒカルの優しい言葉に、
クレアの胸の奥が小さく揺れた。
そしてクレアは、
小さく微笑んだ。
「自己紹介するね。私はクレア。
よろしくね」
「僕はヒカル」
「こちらこそ、よろしく」
「とても風が気持ちよかったね」
「ヒカルの隣で、いろんな話をしたわ」
「……あんなに楽しく笑ったの、久しぶりだった」
ねぇ、ヒカル。
そうそう、
しばらくしてから――
「……クスっ」
あの、賑やかな声が山へ響いたの。
「ヒカーール! 何してるんだよ!」
「うわっ!?」
ヒカルが肩を跳ねさせる。
木々の間から、嵐と弁が駆け寄ってきた。
「こんなところにいたのか!」
「……って、その子だれ?」
嵐はクレアを見るなり目を丸くする。
その隣で、弁は呆れたようにため息をついた。
「ヒカル。足は遅いのに、こういうのは早いんだな」
「ち、違うよ!」
ヒカルが慌てる。
その様子が可笑しくて、クレアは思わず小さく笑った。
弁が嵐の肩を軽く小突く。
「またすぐ茶化す」
「だって気になるだろ!」
「……ヒカルに彼女ができたなんて、嬉しいんだよ」
嵐は言い返したあと、
照れ隠しのように胸を張った。
一方で、ヒカルは顔が真っ赤。
「申し遅れました。僕は嵐!」
びしっとヒカルを指さす。
「ヒカルの大親友です!」
「……俺は弁」
弁は一歩前へ出ると、落ち着いた様子で軽く頭を下げた。
「ヒカルの相棒だ」
「私はクレア。よろしくね、弁」
クレアが自然に手を差し出す。
弁は少し驚いた顔をしたあと、丁寧にその手を取った。
──その瞬間。
嵐の表情がぴたりと止まった。
(……なんで弁が先なんだよ)
顔にそう書いてある。
「弁、ずるいぞ!」
嵐は慌ててクレアの前へ割り込んだ。
「ぼ、僕とも握手してよ!」
その必死さに、クレアはくすりと笑う。
「もちろん。よろしくね、嵐」
クレアがその手を握ると、
嵐はぱっと顔を明るくした。
「……へへっ」
その笑顔があまりにも分かりやすくて、
ヒカルが吹き出す。
「嵐ってほんと素直だよね」
「うるさい!ヒカルには言われたくない!」
弁まで小さく笑い、
クレアも肩を震わせた。
四人の笑い声が、
静かな山の中へやさしく広がっていった。
最初は、小さな出来事かもしれない。
けれど、それが誰かの心をそっと動かしていく。
そんな時間を書いてみたくなりました。




