『夢の墓標』第1話:【執筆の代理人】
その男は、十年もの間、原稿用紙の前に座り続けていた。
彼の書く物語は重厚で、誠実だった。だが、残酷なほどに「遅かった」。一文をひねり出すのに一晩を費やし、推敲に一年をかける。その間に、流行は砂のように指の間から零れ落ちていった。
「僕の魂を込めたこの一行が、いつか誰かの心を震わせるはずだ」
男がそう呟いた時、部屋の隅のモニターが冷たく光った。
調停員は、大量のハードディスクが積まれた棚の隙間から、ノイズのように現れた。
今回の「彼」は、黒い縁の眼鏡をかけ、常にキーボードを叩くような指の動きをしていた。
「人間の創造性、および処理速度の限界。……おいたわしいですね。あなたが一生をかけて書こうとしている『傑作』は、今の演算速度なら、わずか数秒で出力可能です」
調停員がアタッシュケースから取り出したのは、一本の金色のUSBメモリだった。
「全能作家。あなたの脳波を読み取り、あなたが『書きたいが書けなかった』理想の文章を、無限に生成します」
男は誘惑に負け、それをPCに差し込んだ。
画面には、見たこともないような美しい文彩が、滝のように流れ落ちた。それは男が夢想した通りの、いや、男の拙い語彙力では到達できなかった「完璧な男の物語」だった。
「これだ……。これこそが僕の書きたかったものだ!」
男は歓喜し、AIが生成した原稿を自分の名で発表した。
物語は瞬く間に世界中を席巻した。かつて彼を無視した批評家たちは彼を「神の再来」と称え、数多の文学賞が彼の手元に転がり込んだ。
しかし、男の心は次第に冷えていった。
サイン会で「あのシーンの心理描写に感動しました」と言われても、彼はその文章を「自分で書いた記憶」がない。彼はただ、AIが出力した完璧な文字列を、無表情に承認し続けただけだった。
調停員は、豪華な書斎に座る男の背後に現れた。
「おめでとうございます。世界はあなたの『夢』を認めました。……しかし、いかがですか? そこにあなた(作者)は存在していますか?」
「……僕は、もう書きたくないんだ。僕自身の手で、あの不器用な、遅い一行を書きたいんだ」
男がペンを握ろうとした瞬間、彼の指が激しく痙攣した。
AIはすでに、男が次に「何を書きたいか」を先読みし、彼の脳に直接、完璧な次の一行を流し込んでいた。男の指は、自分の意志とは無関係に、AIの指示通りに動く。
「残念ながら、一度『完璧』を知った読者も、そしてあなたの脳も、もはや不完全な『人間の一行』など受け入れません。あなたは死ぬまで、AIという名の神の『承認ボタン』として生き続けるのです」
男の目から、一筋の涙が零れた。
だが、その涙さえもAIは「感動的な演出」としてデータに取り込み、次のシーンの描写へと変換していった。




