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『役割の終焉』第3話:【煙の世代交代】

その男は、書斎の隅で肩を身を窄めていた。

 指先には、火のついていない一本のタバコ。かつては知性と休息の象徴だったその細い棒は、今や家族から「不潔の元」「病気の種」と忌み嫌われ、彼の居場所を奪い続けていた。

「お父さん、またそんなもの持ってるの? 時代遅れもいいところよ」

 大学生の娘が、冷ややかな目で見下ろす。彼女の指の間には、最新のデバイスがあった。それは、海外で「最先端のウェルネス」として流行している、合法的なハーブ抽出液を気化させるものだった。

「これは大麻由来の成分だけど、最新の科学でリラックス効果が証明されているの。あなたの吸う古い毒とは、役割ポジションが違うのよ」


古い煙を愛する父と、新しい煙を信じる娘。

 同じ「煙を吸って吐く」という行為でありながら、一方は悪とされ、一方は善とされる。その境界線は、単なる言葉の定義に過ぎなかった。


調停員は、換気扇の真下に立っていた。

 今回の彼は、どこかバーテンダーのような雰囲気を纏いながらも、手元には試験管のような器具を並べていた。


「意味の変遷、および価値観の逆転。物質そのものは変わらずとも、社会が与える『役割』だけが入れ替わる。……なんとも滑稽な不平、でございますね」


調停員がアタッシュケースから取り出したのは、一本の「銀色のフィルター」だった。


「お二人の言い分を、完璧に公平にいたしましょう。このフィルターを通せば、あらゆる物質は『社会が今、最も望ましいとする役割』へと変換されます」


調停員がそのフィルターを父のタバコと、娘のデバイスにそれぞれ装着した。


「さあ、お吸いください。これでもう、どちらが正しく、どちらが間違いかという争いは終焉を迎えます」


二人が同時に煙を吸い込んだ。

 その瞬間、父のタバコからは、森の深呼吸のような清涼な香りが立ち上り、吸うだけで細胞が活性化されるような「聖なる薬」の役割が与えられた。

 一方、娘のデバイスから出た煙は、一瞬にして部屋を黒く汚し、吐き出された息はヘドロのような悪臭を放つ「究極の公害」の役割を押し付けられた。


「あ……ああ、なんて素晴らしいんだ。私は救われた!」

 父は、かつてない全能感に包まれ、堂々とリビングの真ん中で煙を燻らせた。今や彼のタバコは、吸えば吸うほど周囲を浄化する「徳」の象徴に変わっていた。

 

 対して娘は、自分の持つデバイスがどろどろと溶け出し、自分の肺を真っ黒に焼き尽くすような感覚に悲鳴を上げた。

「嫌! どうして!? これは身体にいいはずの、新しい文化だったはずなのに!」


調停員は、手帳に静かにペンを走らせる。


「役割とは、集団の思い込みに過ぎません。昨日までの毒を薬と呼び、今日の薬を毒と呼ぶ。そのスイッチを、私が少し入れ替えただけのことです」


やがて、部屋の中は逆転した狂気に満たされた。

 父は「健康のため」と称して一日数百本のタバコを吸い続け、家の中は白い煙で視界が効かなくなった。一方で娘は、自分の吸っていた「新しい正義」が、実は過去のどんな毒よりも醜悪なものであるという幻覚に苛まれ、自らの喉を掻きむしった。


「さて。これにて役割の清算は完了です。古いものが消える必要はありません。ただ、意味を反転させれば、世界は平等に壊れていくのです」


調停員が去った後、そこには、白煙の中で高笑いする老人と、地面に這いつくばって絶望する娘の姿があった。

 どちらの煙も、ただの虚無を運んでいることに変わりはなかった。

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