第49話:「報告者:参謀補佐 カリナ・ヴォルツ」
今日は、あの人から見たアナ一行のお話です
【帝国近衛第一師団 定期偵察報告】
報告者:参謀補佐 カリナ・ヴォルツ
対象:元第一皇女アナスタシア一行
報告区分:定期報告
現在地:アルカナス南方街道(ヴァルハード方面)
***
帝国暦547年 霧降の月
木の幹に背を預けて、報告書を開く。
もう何度目の夜だろう。数えるのをやめたのは、いつからだったか。
私は今も、あの女を追っている。
背中を見せて逃げた日から——数えるのも馬鹿らしいほどの日数が過ぎた。
帝都からの伝令は一度も届いていない。
宰相バイパーが戦争準備を本格化させた影響だ。
各部隊が帝都に集結し、諜報員に割く余裕など、もうどこにもない。
つまり私は、忘れられた駒だ。
不満はない。
任務は任務。
帝国軍人が命令に私情を挟む理由はない。
ペンを取る。
インクの残りが少ない。
靴はもう二足目。
軍靴の底がすり減るのは、帝国の街道より遥かに早い。
報告書を書く前に、あのお方の日誌を読み返す。
いつからか、それが習慣になっていた。
***
——以下、前任者の記録より抜粋。
帝国暦547年 萌芽の月
『対象は三名。
対象A:アナスタシア(元第一皇女)
護衛B:ジークフリート(専属騎士)
対象C:ラピス・ジュエル(宝石国第三王子)
宝石国を出発。
馬車にて移動。
裏道を使用し、国境の検問を回避。
護衛Bの判断と推測される。
宝石国内部の情勢は安定。
対象Cの帰国を待つ声が国民の間に広がっている。
シュバルツ卿及びオスカー王子が代理統治を続けており、混乱はない』
あのお方の文体は几帳面で、正確で、余計な感情が一切ない。
報告書とはこうあるべきだと背筋が伸びるような筆跡。
だが——この次の記述に、私は毎回、目を止めてしまう。
「翠風の月。宝石国の城下町を通過した際、対象Cが足を止めた。
城壁の向こうに見える王宮の尖塔を、長いこと見上げていた。
隣にいた護衛Bではなく、対象Aが『行くわよ』と声をかけた。
対象Cは首を横に振り、こう答えた。
”まだ早い”
——報告書には関係のない情報である。記録の必要はない。だが、記す』
あのお方ですら、書かずにはいられなかったのだ。
些細な——報告書に載せるべきではない、些細な景色を。
私もあのお方を見習わないといけない。
***
帝国暦547年 花霞の月
前任者の記録、続き。
『翠風の月下旬、対象に新たな合流者を確認。
炎砂皇国アルザード出身。占い師。以後、対象Dとする。
対象は四名に増加。
なお、対象Dの合流経緯に帝国の関与はない。
対象Aが現地の利権構造を独力で壊した結果、
対象Dが自発的に同行を志願した模様。
対象Aの行動は一貫して私利的だが、
結果として周囲の人間が動く。
注意すべき、厄介な性質である』
あのお方の分析は正しい。
正しいが——次の記述がある。
『花霞の月。アルザードの孤児院の近くを通過した際、
対象Dが壁の向こうから聞こえる子どもの声に立ち止まった。
三十七秒。
対象Aが『行くわよ』と声をかけるまでの三十七秒間、対象Dは動かなかった。目
を押さえていた。
報告書には”対象D、アルザード通過時に心理的動揺を確認。
戦闘時の判断力低下に繋がる可能性あり”と記す。
——実態とは異なるかもしれない』
あのお方の日誌はここで終わっている。
帝都からの召還命令。
戦争準備のため、あのお方は帝都に戻った。
引き継ぎの際に、一言だけ言われた。
「あの一行が——私のペンを重くする」
意味が分からなかった。今は、分かる。
***
帝国暦547年 蒼穹の月
自由港クロッサード。
ここから私の任務が始まる。
引き継ぎ直後、
対象に五人目の合流を確認。
「新たな合流者を確認。元傭兵。元海賊ギルド《黒潮》船長。以後、対象Eとする。
対象は五名に増加。だが、仲間なのかどうなのかは不明。」
あのお方の文体を真似て書いた。
——この時はまだ、書けていた。
***
帝国暦547年 雷鳴の月 ——日
あの日のことは、正確に書ける。
日付だけが書けない。
思い出したくないからだ。
海賊ギルドの長バロッサが、
あの女に衝撃波を放った。
あの女は——喰った。
衝撃波を。丸ごと。
黒い蛇が広がり、光が飲み込まれ、空気が震えた。
私は任務を忘れた。
体が勝手に走っていた。
背中を向けて、全力で。
帝都への報告書にはこう書いた。
「捕獲は推奨しません」
ペンを持つ手が震えていた。
屈辱ではない。
恐怖だ。
——いや、屈辱だ。
帝国近衛第一師団の参謀補佐が、
十六歳の小娘に背中を見せた。
許せるわけがない。
あの女の隣には、いつもあのゴツい男がいた。
対象Eの名はガルド。元傭兵。
あの女の右側に立ち、常に後方を警戒している。
あの日、振り返る余裕があったなら見えていたはずだ。
あの男が、あの女の前に立っていたことを。
あの女を守る壁。
私の逃げ道を塞ぐ壁。
同じものだ。
憎い。
***
紅葉の月
魔導皇都アルカナスでの記録。
ここで私は脅威レベルを書き換えた。
あの女が暴食で傭兵の魔力を吸収し、影の蛇を増殖させ、防衛線を単独で制圧した。
私は城壁の外から見ていた。黒い蛇が空を覆い尽くすのを。
あのお方の日誌には「脅威レベルC」と書いてあった。
——C?
冗談じゃない。
「対象Aの戦闘能力は前回報告時より大幅に上昇。捕獲の非推奨を再度具申する。
なお、同行する研究員が対象Aの魔力データを採取・記録している形跡あり。
帝国への情報流出の可能性を示唆」
ここまでは任務だ。
帝国に必要な情報だ。
ただ、あのお方が脅威レベルCとした人間だ。
私がどう書こうが脅威レベルCから覆ることはないだろう。
「あの女、戦闘後に『不味い』と呟いていた。
人の魔力を喰っておいて味の感想を述べるな。苛立つ」
些細なことも書き記さなければならない。
***
霧降の月 19日
報告書を読み返す。
対象は五名。
だが正直に言えば、残りの三名は目に入らない。
金髪の騎士は居眠りばかりしている。
青髪の王子は道端で草を摘んでいる。
ドレッドの占い師は毎晩誰かの髪を梳いている。
脅威ではない。任務の対象外だ。
些細なことも書き記さなければならない。
これもいつか必要になる情報だ。
「B、移動中に三度の仮眠を確認。
ただし起床直後に必ず後方を確認する習性あり。注意」
これはなぜ書いた。
あの男が私に気づいているかもしれないという当時の不安が、報告書に滲み出ている。
「あのゴツい男の一日の食事摂取量は成人男性三名分を超過。
食えなくなれば弱る。これは弱点だ」
これはまさに弱点だ。
対象補給を絶ってしまえばやつは弱る。大手柄だ。
いや、弱点のわけがない。ただの大食いだ。
なぜ弱点ということにしたがる。
「あの女、就寝前に左腕を押さえる仕草あり。
負傷か体調不良。——大丈夫なのか」
最後の四文字を二重線で消した。
「あのゴツい男の足がテントから出ている。
毎晩だ。丸太のような足。」
任務中だぞ私は。
「あの女、行商人に物資を提供された際『契約よ』と主張。
恩を受けた側が礼を言っているのに受け取らない。あの態度が一番苛立つ
周囲は笑っていた。ゴツい男が鼻で笑い、ドレッドが肩を叩き、青がため息をつき、金が呆れ顔で——
ペンが止まった。
——金? ドレッド? 青?
報告書を読み返す。
あの女。あのゴツい男。金。青。ドレッド。
私は——いつから——
慌てて二重線で消した。
私は——いつから——誰とも
対象A。護衛B。対象C。対象D。対象E。
私は——いつから——誰とも話していない。
書き直した文字は、最初の頃よりずっと力が入っていた。
インクが——滲んでいる。
憎い。
報告書を閉じた。
閉じたはずの報告書から、あのお方の言葉がこぼれ落ちる。
「あの一行が——私のペンを重くする」
木陰から、焚き火の光が見える。
五人の影が揺れている。
声が聞こえる。何を言っているかまでは聞き取れない。
でも——笑っているのだけは、分かった。
憎たらしい。
あの女を追い始めてから、何足の靴を潰しただろう。
何本のペンを使い切っただろう。
憎たらしい。憎たらしい。
帝都からの伝令は、一度も届いていない。
憎たらしい。憎たらしい。憎たらしい。
***
焚き火のそば。
ナーガとラピスとジークは既に寝息を立てている。
テントの中から、ガルドの丸太みたいな足が突き出ていた。
アナだけが起きている。
火が爆ぜる音だけが、夜の空気を揺らす。
「……いいのか」
テントの中から、ガルドの声。寝ていなかった。
「何が」
「ずっといるだろ。」
アナは火を見たまま、まばたきもしない。
「いいのよ、別に」
左手で薪を一本、火に放り込んだ。
「そんな些細なこと」
ガルドが鼻で笑った。
「姫様が言うようになったな」
また、テントの布がかさりと揺れる。
火の粉が、夜空に舞い上がる。
木陰の向こうで、
報告書を抱えた影が忌々しくこちらを見ていることを
——アナは知っている。
知っていて、薪を足した。
それくらい、些細なことだ。
——たぶん。
今回はレアキャラ・カリナ目線で書いてみました。
帝国の仇が1人、また1人と仲間が増えていくのに、
カリナはずっと1人ぼっちです。
この孤独感が、さらなる恨みにつながりそうですね。
冒頭のあの方とは、いったい誰なんでしょう。
カリナの報告書、提出先に届くかどうかは——多分、些細な問題なはずです。
次回更新は4月16日を予定しています。




