第31話:青く静かに燃える波
最も静かな怒りが、最も深く灼ける
夜明け前。
港の入り口に、帆船が三隻。
横並びで、出口を塞いでいる。
旗は——《黒潮》。
「ガルド、東の路地は?」
「昨夜のうちに塞がれた。西も同じだ」
「海から出るのは?」
「小船で行けないことはないが——バロッサの船は速い。追いつかれる」
詰められている。
じわじわと、逃げ場を潰す包囲網。
(やり方を知ってる人間が組んだ罠ね)
「迂回路は?」
「一つある」
ガルドが地図を広げた。
指が、市場の裏手を示す。
「古い水路。昔は街の外まで繋がってた。今は使われてないが——通れないことはない」
「通れないことはない、ってことは通れるってことよね」
「膝まで汚水に浸かれば」
「ジーク、聞いた?」
「聞きたくありませんでした」
ジークの顔が、かすかに歪んだ。
***
市場は朝から騒がしかった。
《黒潮》の連中が、あちこちで職人や商人を締め上げている。
情報を買っているのか。それとも——見せしめか。
「あの人たち、何してるの?」
ナーガが、路地の角から覗いた。
「私たちの居場所を吐かせてる」
でも——一般市民には関係ない話だ。
足を速めて、通り過ぎようとした。
そこで——
子供の声がした。
「放してよ!」
細い路地の奥。
《黒潮》の男が、十歳くらいの子供の腕を掴んでいた。
「お前、あの一行を見たか。どこに泊まってる」
「知らない!」
「嘘ついてんじゃねえ」
男の手が、子供の腕を締め上げた。
——次の瞬間。
轟音。
男が、路地の壁に叩きつけられた。
ガルドが、男の胸倉を掴んで壁に押しつけている。
「あァ?」
声の温度が、変わっていた。
いつもの軽口がない。
冗談がない。
笑いがない。
ただ——怒りだけがある。
「ガキに手ぇ上げるのか」
低い声。
地の底から這い上がるような、静かな怒り。
「お、お前——ガルド……」
「覚えてるか。何で俺が《黒潮》を辞めたか」
男の顔が青ざめた。
「女と子供を売る商売に加担するのは——俺の流儀に合わねえんだよ」
ガルドが、男を地面に落とした。
男は転がったまま、立ち上がれなかった。
***
子供が、ガルドを見上げていた。
怯えた目。
見知らぬ大男に、腕を掴んだ男と同じ目を向けている。
ガルドが膝をついた。
目線を合わせた。
「怪我したか」
「……ない」
「そうか」
それだけ言って、立ち上がった。
子供が、小走りで逃げていく。
ガルドはその背中を見ていた。
「……昔の話?」
ナーガが、静かに聞いた。
「どっかに昔の俺みたいな奴がいる限りは——今の話だ」
ガルドが歩き出す。
いつもの大股で。いつもの背中で。
でも——さっきまでとは、何かが違った。
(この男が一番怒るのは——弱い者が傷つく時なのね)
腹の底が、じわりと温かくなった。
これは毒で胸を灼いた熱さとは比べ物にならないほどぬるいが
それよりも深く身体を焦がした。
(……面倒なことに気づいてしまった)
私は、その感覚を黙って飲み込んだ。
***
市場を抜けた路地で——待ち伏せされた。
十二人。
昨日より多い。バロッサが本腰を入れた証拠だ。
先頭に、がっしりとした男が立っている。
全身が傷跡だらけ。左目に眼帯。
体格だけで、場の空気を変えている男だった。
「——バロッサだ」
ガルドが、低く呟いた。
「久しぶりだなガルド。まだ生きてたか」
バロッサの声は、深く太かった。
「死んだらお前に報告しねえよ」
「ま、そうだな」
バロッサが笑った。
笑い方が、ドレイクとは違う。
値踏みじゃない。
楽しんでいる。
「で、帝国の皇女を匿って——どうするつもりだ」
「どうもしねえ。ただついてくだけだ」
「お前、面倒を買いに行くのが昔から好きだよな」
ガルドが答えない。
答える代わりに——一歩、前に出た。
「——ナーガ」
私は後ろに声をかけた。
「うん」
ナーガが、静かに答えた。
「見えてる」と、続けた。
「左後ろから三人。五秒で来る」
二秒後——来た。
ジークが振り返る。抜剣。一閃。
三人が、呻いて地に伏した。
「……五秒って言ったのに」
ナーガが首を傾げた。
「誤差だ」
とジーク。
「誤差じゃないよ、二秒も早い」
「あなた、今それを言う?」と私。
バロッサが、笑いを堪えるような顔をした。
「面白えな、その一行」
笑みが消えた。
「——でも、ここで終わりだ」
***
バロッサが動いた。
速い。
ガルドと同格——いや、格が上かもしれない。
一合目で分かった。
鉄と鉄がぶつかる音。
ガルドが押されている。
後ろでは、部下たちが詰めてくる。
ジークが三人を捌きながら、二人目を斬る。
ラピスが魔法陣を展開して、地面に罠を仕込む。
そこで——
ナーガが声を上げた。
「ジーク!」
振り返った先に、一人の男がいた。
ジークの死角から来た、刃。
刃がジークの脇腹を掠めた。
浅い傷。でも、血が出た。
「ジーク——!」
ナーガが駆け寄った。
傷に——手を当てた。
その瞬間。
ナーガの手が、淡く光った。
白い光。
砂漠の太陽みたいな、暖かい色。
「……え」
ナーガ自身が、目を丸くしていた。
血が止まった。
傷が——塞がっていく。
「ナーガ、それ——」
「わかんない」
ナーガが、自分の手を見た。
震えている。
でも、目は澄んでいた。
「でも——できた」
***
バロッサが、その光景を見ていた。
「治癒師——か」
目が、細くなった。
「帝国はそっちを欲しがるかもな。皇女よりよっぽど希少だ」
ナーガの肩が、びくりと震えた。
私は——ナーガとバロッサの間に、一歩入った。
「残念ね」
冷たく、言った。
「この子は私のものよ」
バロッサが、片眉を上げた。
「お前のもの?」
「仲間を物みたいに言うな」
ジークが背後で言った。
「今それを言う話じゃないわ」と、私。
「でもアナが言ったじゃん」とナーガ。
「私は言っていい立場なの」
「どういう基準——」
「おめえら!集中しろ!」
ガルドが、全員の声を代弁するような怒号が響いた。
バロッサが——笑っていた。
今度は本物の笑い。
面白い、という顔。
「……いいだろ」
バロッサが、剣を下ろした。
「今日は引く」
「え?」
「引く——ってだけだ。次は帝国の依頼人と一緒に来る。その時は俺の仕事だ」
バロッサが、背を向けた。
「ガルド」
「あ?」
「お前が面倒を買った理由——少し分かった気がするよ」
——それだけ言って。
バロッサが振り返りざまに剣を一閃した。
音より先に、ガルドの左腕から血が飛んだ。
「っ——」
深い。
肩の付け根から、肘まで。
布が裂け、赤が路地に落ちる。
「餞別だ」
バロッサが、今度こそ背を向けた。
「明朝、依頼人が来る。港は既に封鎖した。ガルド。」
「今度は右腕か?」
「てめえには何度も助けられたことがある。昔の誼だ。
夜明けまでに出口を見つけろ——もし、できるならな。」
十二人が消えた。
潮が引くように。
跡形もなく。
***
「ガルド——!」
ナーガが駆け寄った。
ガルドが壁に手をついている。
立っている。
立っているが——膝が、微かに震えていた。
「浅い」
「浅くない」
「大げさだ」
「血が路地に広がってるよ」
ナーガがガルドの腕に両手を当てた。
「痛いか?」
「痛くねえ」
「嘘だよ」
白い光が、また灯った。
ナーガの手のひらから。
さっきより強く。さっきより確かに。
ガルドが、その光を見た。
目を細めた。
「……なんだそれ」
「わかんない。でも——止まれって思ったら、止まった」
血が、止まった。
傷が、塞がっていく。
完全にではない。でも、確かに。
ナーガの体が、ふらりと揺れた。
「ナーガ!」
ラピスが支える。
「大丈夫、ちょっとだけ眩暈がしただけ」
ナーガが笑った。
砂漠の熱を全部使い果たしたような、透き通った笑い。
「——使いすぎるな」
ガルドが、ぶっきらぼうに言った。
それだけだった。
ありがとう、は言わない。
でも——その目が、ほんの一瞬だけ柔らかかった。
***
「整理するわ」
私は、路地の壁を背にして全員を見た。
「港は封鎖。夜明けまでに出口を見つけなければ、帝国の依頼人と鉢合わせする」
「水路は?」とジーク。
「今から確認する」とガルド。腕を押さえながら立ち上がろうとする。
「あなたは動かないで」
「ここで動かなかったら、これまでやってきたことが水の泡だ。
おい、ジーク。水路を見てこい」
「分かった。」
ジークが路地を走る。
「ラピス、お前は索敵魔法が使えるだろ。」
ラピスがナーガを支えたまま、静かに魔法陣を足元に広げた。
索敵用だ。覚えが早い。
ガルドが、壁にもたれて夜空を見上げていた。
「……嬢ちゃん」
「何」
「俺のせいで厄介ごとが大きくなっちまったな」
「元から厄介な状況だったわ」
「それはそうだが」
ガルドが、包帯代わりに上着の端を引き裂いた。
傷口に巻く。乱暴に。
「俺を連れてなければ——」
「黙って」
短く、言った。
「役に立ちたいなら、水路の出口で戦える程度には回復しておきなさい。それだけでいい」
ガルドが、黙った。
黙って、私を見た。
(……何よ、その顔)
腹が、じわりと満たされるような感覚。
食後の余韻に似ている。
でも——食べたものじゃない。
これは何だろう、と思った。
考えるのは後でいい。
「夜明けまでに出る。俺もそろそろ碇を上げねーとな。」
ガルドの言葉と共に、空を見上げた。
星が薄い。
東の端が——わずかに、白み始めていた。
タイムリミットまで時間がない。
さあ、追い詰められたアナ一行。
逃げ切ることができるのか?それとも捕まってしまうのか?
本気のバロッサに勝つことが出来るのか?
32話が3月29日(日)19時更新予定です。




