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6月1日 マイナス26日その5

 聖良きよらと名乗ったその方は、『産屋』の職員……研究以外の、主に受胎予定者のサポートや『産屋』の生活棟の管理を担当していらっしゃる方なのだそうです。

『産屋』は大きく分けて二つの区域が存在します。

 受胎者の住む生活棟と、研究者がいる研究棟。

 私達受胎予定者、そして受胎者は生活棟で受胎生活を送り、そして生まれた子供たちは研究棟に迎えられ、丁寧に育てられるということです。

「この『産屋』で過ごす上で、困ったことがあったら何でも言ってくださいね」

 シャワーを浴びてずぶ濡れの服から新しい服に着替えやっと人心地ついた私に、手早く足の治療をしながら聖良さんは教えてくれました。

 聖良さんは厳格そうな言動とそれに反してどこか影のある雰囲気を背負ってはいるものの、そのお仕事っぷりはとても丁寧で、普段からとても真面目な方なんだろうなあと容易に想像できます。

 ちなみに年齢は、私よりひとつ上の16歳。

 私の見立て、当たりです。

「今日はもう遅いから休んで、明日、説明を受けなさい」

「あ、あのー」

 手当てが終わるとそのまま部屋に案内してくれようとする聖良さん。

 ですが、可能ならば、もう一つお願いしたいことがあったのです。

「できれば、その……お庭に生っている果物をいただきたいのですが……」

「果物?」

「その……」

 くうう。

 言いよどんだ言葉を私のお腹が補足してくれました。

「……あぁ。何から何まで気が回らなくってごめんなさい」

 聖良さんはほんの少し頬を緩めました。

 ああ、この人も笑顔を見せるんですね。

 最初の印象が少し怖かったのでほっとしている間に、聖良さんはどこかに消えたかと思うと部屋の外からトレイを持って来てくださいました。

「もう他の職員は眠っているから、食堂にあったものだけ……お茶とパン、夕食の残りの果物でいいかしら」

「十二分ですー」

「それから、庭に生っている実は食べられないわ。あれは毒があるから生食には向かない……」

 そこまで言うと、聖良さんはふと気が付いた様子でまじまじと私の顔を見ました。

「どうして、庭に実が生っていると分かったの? この暗さで」

「だって、いい香りがしていましたよ」

「香り?」

 驚いた様子の聖良さんを見て、そういえばちゃんと説明していなかった事に気が付きました。

「あの、私、旧感覚者オルダスタジアなのです」

 旧感覚者オルダスタジア

 かつて、ほぼすべての人間には外界を感知するため余多の感覚器官が備わっていました。

 しかし、人という種が成長を止めた時、その中のいくつかの能力は不必要だとばかりに失われていってしまったのです。

 それら失われた感覚を所持している人間は、旧感覚者オルダスタジアと呼ばれるようになりました。

 もっとも、そう名付けられたのはごく最近なのですが。

 そして、そのなかのひとつ、嗅覚。

 物質が発する『匂い』という化学物質を感じ取る力。

 今はもう絶えてしまったその感覚を、どういうわけか私は幼少の頃からはっきり持っていたのです。

 もっとも、匂いというものに無頓着な人々の中で、それは苦痛となることが少なくありませんでした。

 無遠慮に撒き散らされたあらゆる化学変化を起こした恐ろしい匂いを感知してしまうことは少なくありません。

 そしてそれが周囲に理解されることもなく一人苦しんだこともあります。

 そういった経験は、私の心のヴェールを厚くするのに十分なものでした。

 ですが、こうしてふと素敵な香りに出会えた時は、自分にこの感覚が残っていて幸せだったなあと実感するのです。

 それに、この能力のおかげで『産屋』の受胎予定者に、ほぼフリーパスで合格することができました。

 受胎――妊娠力もまた、かつて人類の約半分が持っていた、そして今は失われてしまった能力。

 その任に就くには、過去の感覚を持った旧感覚者オルダスタジアの方が相性がいい……そんな、理由らしいです。

「それで、嗅覚が残っているので……だから分かります。さすが、世界で唯一の受胎施設ですね。庭の木の実の香りに至るまで、こんな良いものを用意しているなんて」

「そ、れは、私が植えたものなの」

 感嘆の気持ちを伝えた私に、聖良さんはやや口ごもりながら教えてくれました。

「え?」

「私も、旧感覚者オルダスタジアだから」

「わ」

 この方も!

 いっきに親近感のようなものが湧いてきました。

「それで所長にスカウトされてここで働かせて貰ってるの。といっても、施設内にどう香りをコーディネートしたところでこの施設内の職員に旧感覚持ちはいないから、香りの良しあしについてはあまり理解されていないけど……」

「分かります分かります」

 ああ、この方も周囲の無理解に苦しんできたのですね。

「それでも昨年、梅という植物を取り寄せて植えてみてね。花も実も、それぞれの時期に得も言われぬ芳香を放つという」

「梅! 聞いたことが……読んだことがあります!」

「そうでしょそうでしょう」

「『東風吹かば、匂ひおこせよ 梅の花……』の!」

昔から歌などに詠まれ親しまれていた梅の花。その、実際の実の香りを感じることができるなんて思いませんでした。

「花の香りも実の豊潤な香りとは違って、なんと言うかとても……素朴な花の姿に対して驚くほど鮮烈で印象的なのよ。春になったら是非実感して欲しいわ。ここであなたが受胎したら、子供が生まれるまでにはきっと、新たな花が咲くでしょう」

「楽しみですー」

 急に饒舌に説明する聖良さんの口元が、僅かに上がっているのが見えました。

 もしかして、喜んでいるのでしょうか。

 最初に感じた聖良さんの厳しさや影は、今やどこにも見当たりません。

 たしかに私も、自分が推している本を褒められるととても嬉しいのでお気持ちはよおく分かります。

 なんだか不思議な親近感を覚えました。

 同じ旧感覚者というところだけではなく、そんな部分も。

「……まだ認められてはいないけど、『産屋』内の、たとえ嗅覚を持たない受胎者でも、周囲を爽やかな香りで満たせば悪阻などが軽減するのではないかという仮説も立てていて……あ、いえ」

 そこまで言うと聖良さんは、慌てて口を押えました。

 おしゃべりが過ぎた、とでもいうように。

 そして申し訳なさそうに、私の方を見て提案してくださいました。

「個人的に作った、梅の蜜漬けならあるから。よかったら、味見を……」

「是非、いただきます」


 寝坊のおかげで、梅のおかげで、いえ……聖良さんのおかげで。

 『産屋』での初めての一日は、直面する筈だった不安から完全に目を逸らして過ごすことができたのでした。


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