6月1日 マイナス26日その4
ぽつん。
「え?」
何時の間に、空が曇っていたのでしょう。
気が付けば周囲は真っ暗。
そして今頭に当たったのは、雨粒……?
ぽつん。
ぱら。
ざぁあああ――
「わ」
ほとんど前触れもなしに、唐突に雨が降り出しました。
「や、ぁ、あ……」
それを防ぐものも隠れる場所も持たない私は、ただただ雨に降られるがまま、前に前に歩を進めることしかできませんでした。
そうして歩くこと約半日。
「……あ、あけてくださ~い」
ばんばんばん。
その夜やや遅くに、私は鉄の門を叩いていました。
「あけてくださ~い」
ばんばかばんばんばん。
ご迷惑だとは思いましたが、このままずっと中に入れなければ、私も困ってしまいます。
全身びしょ濡れで体力は空っぽ寸前。
体中が栄養を求めています。
それに加え、途中ぬかるみに足を滑らせ何度か転んだので腕と膝が擦りむけ、右膝から流れる血はまだ止まっていません。
幸か不幸か既に痛みは感じないのですが、それはそれでまずい事態のような気もします。
「夜分遅くに大変申し訳ありませーん。私は、こちらの受胎者となる予定の夢と申しますー」
何度目かの呼びかけに、扉がぎいと答えてくれました。
「受胎予定者?」
涼しげな声と共にゆっくりと開いた扉から現れたのは1人の少女と――爽やかな、芳香でした。
「……わ、いい、香り」
「え……?」
扉の先にあったのは、細い廊下とそこにくっついた受付のような小さな部屋。
その部屋の向こうは庭なのでしょうか。
開け放った窓から、得も言われぬ香りが漂ってきたのです。
さすがは『産屋』。
話に聞いていた設備の他にも、ほとんどの人が既に所持していない嗅覚への刺激に至るまでこんな配慮がなされているなんて。
すうとそれを吸い込んだ時、先程から扉から覗く……私より少しだけ年上でしょうか? 艶やかに長い黒髪をひとつに束ねた少女の姿が、目に入りました。
意志の強そうな整った顔立ちで、その上美少女と呼んで間違いない容姿です。
真っ直ぐ私に向けられている鋭い切れ長の目。
そして、服。
この色を何と呼ぶのでしょう。
落ち着いた水色に近い青い色の動きやすそうな服。ワンポイントで産屋のマークが入っているので、多分ここの制服……ということは、この方は職員さんなのでしょうか。
……ですが、どこか違和感がありました。
それが何なのかは、窓から吹き抜ける風が教えてくれました。
匂いです。
この方からは、何故か匂いが感じられないのです。
人には、それぞれどこか個性的な匂いがするものなのに。
「……あなたは?」
「ど、どうも遅くにすみません。遅れてしまいました受胎予定者の、夢です」
「あ……え、ええ」
しばしぼーっとしていましたところ、相手さんも何故か同様に考え事をしていたらしく、はっと気づいた様子で私の方を見直しました。
「どうしたの? あなた、ずぶ濡れじゃないっ!」
「ちょっと、途中で雨に降られまして……」
「そういえば今日、予定人数に1名足りなかったと聞いたけど……まさか、歩いてここへ?」
「はいー」
「全く……」
職員さんは小さくため息をつくと、厳しい表情で私に詰め寄りました。
「今のあなたの状態は、規則の範囲外じゃない!」
「ふあ」
「集合場所にいない、連絡も来ない……一体何していたの!」
「すみません!」
「遅れた時点でまず連絡。そして指示を仰ぎなさい。どれだけ心配をかけたか分かってるの?」
「す……すみません!」
少しでも早く行こうと必死で、連絡を入れるということに思い至りませんでした。
厳しい声に、本を読んでいて遅れましたとは言えず反射的に謝ります。
下を向きながら、心の中のヴェールを広げていきます。
現実から、目を逸らすように逸らすように。
足の怪我も、目の前の叱責も、他人事であるかのように……
目の前の視線が、私の上から下へと移動するのを感じました。
そして、足まで来た時に息を飲むのも。
「……怪我」
「え」
「怪我してる!」
「あ、その、途中何度か転倒してしまったので……」
「……なんてこと。早く気付いてあげられなくてごめんなさい! それに服も早くなんとかしなくちゃ! ああ、それ以上にきっとすごく疲れてるわよね。とにかく中へ。体を拭いて、手当てをさせてもらうから! ……だから、ごめんなさい」
そっと、職員さんの手が私の手に触れました。
職員さんは、先程怒鳴ったのとは別人のように丁寧に、私を『産屋』内部へと導いてくれました。
どうして遅刻したのか、詳しい説明をすることなく中に入れたのは僥倖です。
そう考えると、この怪我にも感謝しないといけないのかもしれません。




