ーー 本当に大切なもの ーー
時間的には、一章のあとになります。彼はどうして彼女のためにと、記憶を失ってきましたが、それは間違っているのかどうかは分からないかもしれません。それでも、この二人の関係を読んでいただけると嬉しいです。
第三章
ーー 本当に大切なもの ーー
1
彼のジャンケンにおける癖を見付けたのは、彼女がアルバイトとしてレンタルDVDショップに勤めていたときだった。
その店のアルバイト仲間では、勤務時間を終えて休憩室でくつろいでいるときに、誰かと言うわけでもなく、ジャンケンが始まっていた。
それはジャンケンで負けた者が、勝った者に対して缶ジュースを奢るという勝負であった。彼女を含め、店員は六人。負ければ、五人分を奢ることになっていた。
「またお前かよ、弱いなぁ~」
店員のなかでも、一番の先輩に当たる人物が、ジャンケンに負けた、どこか情けなさそうだが、穏やかな表情で苦笑いをする者を指して茶化して言った。
それが彼だった。
ほぼ毎日行われる勝負において、彼が一番勝率が低かった。二、三回に一度は彼が負けていたのだ。
彼女が彼を意識し始めたのはそのころだった。
なぜそんなに弱いんだろう? と、最初は好奇心から。そして、数回の勝負を重ねていくうちに、その意味を掴んだ。
彼が何を出そうとしているのか、勝負の間際に決まった仕草を毎回していた。それを彼女は見付けたのだ。
彼女だけでなく、ほかの数人もその仕草に気付いていた。だから、彼は勝てなかった。最大の敗因は彼自身、自分の癖に気付いていなかった。
周りの定員の表情を伺うと、それを見越して勝負しているのだと彼女も悟った。だからこそ、彼が情けなくて、バカみたいに見えたのだ。
それでも彼は恥じることも、怒ることもなく、勝負に正直に喜んだり、悔しがったりと、子供のような表情を振る舞っていた。それがまた、彼女には単純に見えた。
この病棟に入院してからも、数回、彼に対してジャンケンを挑んだ。結果、彼の癖は直っていなかった。そんな彼を見るたびに、彼女は胸に鋭い刃物を刺された痛みに苦しんでしまう。
ときに彼女はわがままを言い、彼を振り回す結果になった。彼は悔しがりながらも、彼女の言う通りにしていた。彼女もその姿を見て笑った。
だが内心は悲しかった。
目の前に彼は存在している。手の届く場所に彼はいるのに、“本当”の彼はそこにはいなかった。
彼女は信じていた。彼が自分の前に戻ってくることを。だからこそ、あのとき、彼女の名前を知りたがった彼に対してジャンケンを挑んだ。
三回勝負して、一度でも彼が勝てば彼の勝利になる。彼女は彼の癖を浮かべた。
グーを出すときは利き手の右手を二度握る。パーならば、唇を何度か舐める。チョキなら、鼻先に右手の人差し指を当てて思案する格好を取る。それが彼の癖であった。
一回戦、彼は唇を舐めた。彼女はチョキを出す。すると当然、彼はパーを出した。彼女が勝利する。
二回戦、また同じ仕草をしたので、同じ行動を取った。やはり、彼女はチョキで勝利した。
そのとき、彼は本当に悔しがって眉をひそめた。そこで三回戦、彼女はわざと負けてみた。彼は子供のように喜んでいた。
「今井 渚」
彼女はあどけない表情で言いながらも、彼に対して訴えていた。
気付いて、と。しかし、彼は満面の笑みを献上してきた。気付いてくれなかった。
彼、相葉薫は。
また同じことの繰り返してなのだと、彼女、渚は悔やんだ。また深いトンネルに入り込み、彷徨い続ける道を選んでしまったのだと。
だが、薫の心境の変化は確実にあった。いつも怯えていたはずの薫が、自分の記憶を探そうと動き出し、自分の部屋に行きたいと言ったと渡部から伝えられた。
そして今、薫は自分の部屋に向かっていると知り、渚も彼に負けていられない、甘えていられないと、行動に出た。彼一人を苦しませたくなかった。
病室を出ると、包帯を巻いた右の掌を擦りながら、休憩所へ向かっていた。
渚は実家に連絡しようとしていた。薫に入院費について甘えているばかりでなく、自分から親に連絡をして、正面から向き合い、素直に話そうと決心した。
例え、どれだけの非難や罵倒、一方的に叱責されたとしても。
廊下をゆっくり歩いていると、ナースステーションのなかの騒がしさが渚の耳に届く。
渚は歩くペースを緩め、奥を伺った。数人の看護師が慌ただしく、狼狽した様子で何やら話していた。一人は電話の受話器に耳を当てている。
「はいっ、502の患者が? はいっ」
電話で驚愕を隠せない看護師の声に、渚は立ち止まる。すぐに薫に何かがあったのだと察した。
「はいっ、すぐに下に降りますっ」
電話を切った看護師がもう一人の看護師に指示を出して、ナースステーションを飛び出すと、そのまま厳重に鍵のかかった扉へ向かう。
渚の息遣いが次第に荒くなっていく。心臓の鼓動も連動するように高まる。胸を押さえていても、肩で息をしないと、窒息してしまいそうに苦しい。上手く空気を吸えない。
何度も乾燥した喉に空気を送ろうと息を呑み込む。そのとき、扉は開かれ、看護師が病棟を出た。
二人目の看護師が病棟を出ようとした瞬間、渚は廊下を蹴った。
「……薫っ」
渚は扉が閉まる直前に手で止め、無理矢理病棟を飛び出した。
「ちょ、あなたっ」
突然の行動力に、看護師が声を荒げる。
渚を止めようと腕を掴むが、渚は必死に抵抗した。
「ちょっ、誰かっ」
一人が応援を呼んだ。その一瞬の隙を突いて、看護師を押し倒すと、廊下を走り去った。
看護師に捕まってはいけないと、エレベーターを使わず
渚は階段を駆け下りた。
2
音が聞こえていた。荒々しく駆け抜ける音。小さな車輪が地面を走っている。その音に混じって、人の走る足音が聞こえた。
「……ーーっ」
「……ーー起きてっ」
誰かが叫んだ。彼には誰かに訴える悲痛な叫びに聞こえた。
耳元で人が騒いでいるのを薫は感じた。なぜか、背中に感じる振動も。その感触を受けながらも、閉じていた目蓋を開いた。
飛び込んできたのは一人の人影。ハッキリとは見えないが、ショートカットの髪型をした女性だと分かった。その女性の瞳は涙で潤んでいた。
悲壮感を漂わせる女性から視線を横に移すと、流れる天井の光景が飛び込んでくる。周りにはこの女性のほかに、白衣を着た者が何人か併走していた。
あぁ、またか…… ーー
咄嗟にそう思った。どうしてそう思ったのかは分からないが、ここが病院であり、その廊下をベッドに寝かされて走らされているのは、不思議と理解した。
どのような経緯でこうなったのかを巡らす。しかし、頭の中は真っ白で、何も掴めそうになかった。
「ねぇ、分かるっ、ねぇ、私よっ」
そばにいた女性が泣きながら呼びかけてくる。それは彼に向けての声であった。
全身が痺れ、体の自由を奪われていると、右手が暖かくなる。視線を下に向けると、この女性が彼の右手を握りしめていた。
どこか懐かしい気持ちが彼女の手の温もりから込み上げてくる。
「……」
彼は唇を動かした。それに気付いた彼女が、彼の口元に耳を近付けた。
呼ぼうとした。彼女の名前を。だが、声に出そうとした瞬間、二つの言葉がぶつかってしまった。
渚……? 薫……?
不意にこの二つ名前が脳裏に浮かび上がった。けれど、彼は両方に違和感を抱いてしまう。
どうしても声が出てくれず、歯痒さを覚えてしまう。今でも彼を見詰める女性の何かを求める眼差しに涙が込み上げ、目頭が熱くなる。
「何があったんだっ」
すると、ぞんざいに叫ぶ、男性の声が駆け寄って来た。
「それが、私がちょっと目を離した隙に気をうしなっていたんですっ。なんだか、パソコンを見ていたみたいて」
微かにだが声の震えた、さっきとは別の女性の声が伝える。
「ーーパソコン?」
「中身は日記みたいでした。もしかすれば、それを読んで気を失ったのかもしれませんっ」
「日記って、相葉くんの物か?」
「分かりませんっ」
彼を挟んで交わされる会話。それは、彼がこうなった経緯を話しているようだ。だが、彼には把握だきない。思い出せないでいた。
僕は誰? ーー
自分に問いかけたとき、強力な睡魔が襲う。痺れる意識に紛れ、泣いていた彼女が涙で顔をグチャグチャにしながら、必死に呼びかけていた。
「ダメッ、戻って来てっ、お願いっ」
3
ーー 深い、深い、森を歩き続け、出口のない道を進み続ける。この深い森のなかにある、たった一本の木。その木に実った「記憶」という果実を見付けるために。
私はそれを見付けるまで、この森を抜けられない ーー
最初のページには、抽象的な書き出しによって書かれていた。以前、倉田明美から受け取った「今井 渚」の日記には。
霧下はこれを読むだけで次のページに進むのを逡巡してしまう。いや、手帳を開くだけでも、受け取ってからかなりの時間がすぎてしまった。
自分にこれを読む資格はないのだと思い、距離を置いていた。しかし、今日の出来事に霧下は決心し、手帳を開いた。
霧下はナースステーションにおいて、休憩所に背を向ける形で椅子に座っていた。
今日は渡部の姿もあり、彼も空いた椅子に座り、自分の仕事に向かっていた。
ナースステーションは、どこか重苦しい空気が漂っていた。
それが先ほどの出来事。502号室の患者、相葉薫の記憶が消えてしまったために。
その場にいた霧下にも、状況は上手く把握できなかった。彼に頼まれてコンビニで買い物を終え、アパートの部屋に戻ると、彼は倒れていた。
そのまま病院に直行し、彼は目を覚ました。すでに記憶を失った彼が。
目を覚ました相葉薫に渡部は丁寧に記憶を失っている事情を説明した。彼は当然、困惑や動揺を隠せない様子だったが、幸い、パニックに陥ることはなく、霧下は安堵してナースステーションに戻った。
これで何度目の説明になるんだろう? ーー
正直、霧下は考えたくもなかった。それほどまでに、同じ説明を彼に行い、そのたび、霧下は無力な自分を責めていた。
説明を終えてから三十分ほどすぎていた。落ち着きを取り戻した彼が、予測不可能な行動を起こした場合、すぐに対処できるように渡部もここに待機していたのだ。
今、みんなが最悪の事態を想定して不安と緊張に苛まれ、緊迫していた。
そうしたなか、霧下は今井渚の日記を読もうと思い立った。理由はただ一つ。彼を助けたいと願ったから。
彼と彼女は同じ計画「砂時計計画」に関わっている。その前例である彼女の日記を読めば、彼を助けられる術が見付けられるかもしれないと、半ば願いを込めて、重たい日記を開いていく。
ーー 自分の名前を人から教えてもらうなんて思わなかった。ちょっと怖いし、正直信じられない。自分が記憶喪失だなんて。
でも、事実なんだよね。教えてもらうまで、自分の名前すら思い出せなかったんだから…… ーー
ーー 今日、脳波の検査をした。きっと、記憶を失う前の私も、このような体験をしたことなどないだろう。それぐらい不思議な感覚で、ロボットになったみたい。
けど、あの睡眠薬だけは……
正直、あの甘さは嫌だ。ケーキの甘さならいいけど。あの舌に触れる感触だけは絶対にない。この甘さを紛らわすのに、すぐにミルクティーが飲みたくなった。
検査のあと、それを倉田さんに話すと、わざわざミルクティーを買ってきてくれた。それも、「これしかなくてゴメン」と、クッキーまでも。
たまに文句も言ってみるもんだ。まぁ、子供扱いされた気もしたけど、嬉しかった。ありがと ーー
ーー 自分の記憶がないのは正直怖いけど、それも求めようと思うと、意外な感覚が鋭くなっていくのを最近感じていた。
最近になって、周囲(特に看護師)の姿がよく見えるようになってきた。
どうも、みんなが私を避けている。表面上は親切に接しているよう見せかけているけど、内心は私を避けて、裏で嫌がっているのはバレバレなんだって。
あいつら、私のことを白い目で見てるんだ。きっと、バカにしている。
けど、倉田さんだけは違うとも分かった。彼女だけが私に親身になって接してくれた。ちゃんと見てくれていたんだ。私にとって、信頼できるのは彼女だけ。
あ、でも、もう一人だけいた。霧下って人だ。あの人も、私を普通に接してくれている。倉田さんに比べて、話す機会は少ないけど、あの人もいい人だと思う ーー
霧下の手が止まった。まさか、自分のことが書かれているとは思わなかった。恥ずかしさもあったが、自然と頬も緩くなった。自分のことがいいように書かれていたから。
ーー 今日、倉田さんに旦那さんのことを聞いてみた。そうしたら、「そんなにカッコよくもないし、ただのわがままよ」と笑いながら否定した。けど、私は羨ましかった。倉田さんがそう言ったとき、子供のように明るかったから。
だからこそ、羨ましかった。それに、それまで、考えないでおこうとしていたけど、考えてしまった。私に恋人はいたのかなって ーー
ページを捲るうちに分かってくる事実。それは、倉田が今井渚と信頼関係にあったことを。
霧下も気付かなかった二人のやり取りが繰り返され、次のページを捲り、その内容に霧下は目を見開いた。
ーー 怖い。周りにいる人。自分。すべてが分からない。
日記を書けって言われたけど、これまでを読み返しても、意味分からない。本当にこれを書いたのは私なのって感じで。だから、今日はこれだけにしておく ーー
彼女の身に何が起きたのか、霧下はすぐさま悟り、そらを確認するのに、日記に書かれた日付と自分の記憶と重ねていく。
そして、霧下の推測と日付は合致した。
その日、彼女は記憶を失ったのだ。霧下に緊張が走り、唇が急激に乾燥したいく。思わず唇を噛んだ。
ーー 毎朝の質問が嫌だ。あの渡部とかいう奴の「君の名前は?」という質問が。
あの質問を聞くたびに吐き気がする。あいつの顔は見たくないっ ーー
やけに渡部に対する冷たい態度に首を傾げたが、次を読んで理解できそうな気がした。
ーー あいつは、私を完全に物扱いしている。
今日、脳波の検査と言われて検査室に行った。そのとき、私はちょっと早めに目が覚めた。すると、さこにあいつもいた。あいつは私が目覚めているとは気付いていなかった。
あいつは検査の担当と何かを話していたけど、私に対してなんだと分かった。
「ウイルス」とかなんとか。それに、「厄介」だとも言われた ーー
そのあと、このときの今井渚は、渡部に対しての不満が多く綴られていた。
ふと、霧下は視線を上げて渡部を何気なく伺った。きっと患者の何かだろう。席が離れているので霧下からは見えなかった。
今の霧下になら、この日記に書かれている今井渚の不安に、共感できる部分があった。少なくとも、霧下はここ最近、渡部に疑念を抱いていた。
遡れば、その小さな綻びとなった出来事が、この日記にも近付いていた。日記を読み続けていくと、彼女が自殺をした日に近付いていた。
ーー 最近、変な夢を見てしまう。
その夢は、ある深い森のなかに私一人、たたずんでいる。
そこへ行けばいいの?
誰かに大声で叫ぶんだけど、誰も返事をくれない。
なんなの、この夢?
怖い…… ーー
霧下はページを捲る手に力が入り、ページにシワができる。霧下の脳裏にも、昔の光景が漠然と見え始めていく。
気持ちを鎮めるのに深呼吸をしようと目を閉じた。肺に空気が吸い込まれていくと、自然と手の力も和らいでいく。
ページを捲る。
ーー 最近、眠るのが怖い。
今日、このまま眠ったとして、明日の私はどうなっているんだろう?
今日の続きの私?
記憶を戻した私?
それとも、またしても記憶を失ってしまった私が呆然と立ち尽くしているの?
最近、そんなことを考えてしまう。私が壊れてしまいそうな恐怖を。
倉田さんに相談したい。けれど、そう考えている私が、いつまで保てるのかさえ分からないから、怖くてたまらないよ…… ーー
霧下の知る今井渚が体を小刻みに震わせ、恐怖に耐えながら日記を書いている姿が漠然と浮かんだ。
「あ、あれ、いいんですか?」
そのとき、看護師の一人が不思議そうにカウンター越しの休憩所を指した。
霧下は誘われるように体を反転させた瞬間、咄嗟に立ち上がってしまい、目の前の光景に面喰らった。
休憩所の先の屋上、日差しで反射して見難くなったガラス越しの先に、彼、相葉薫の姿を見付けてしまったから。全員が屋上の異変に気付くと、その場は騒然となった。
「どうしてっ。誰っ、屋上の鍵を開けていたのっ」
普段、屋上へ繋がる扉には鍵がかかっている。それを管理しているのは、この場にいる病院関係者のみ。霧下は鬼のような形相で、誰とも言わず、咎める口調で全員を見渡した。
その場にいた看護師たちはみな、驚きで席を立ち、霧下の様子に困惑しながらも、誰もが否定した。
「ーー俺が開けておいた」
そんななか、悠然と一人椅子に座っていた渡部が平然と言った。
「……そんなっ。本気でそんなことをやったんですかっ。今の彼の状況をわかっているんですかっ。今の彼は、精神がとても敏感になっているんですよっ。もしかしたら、あのときのようにだって」
霧下は感情が高ぶり、唇を強く噛み締めた。彼女が指摘するのは、今井渚の自殺のことである。
「まぁ、それもあり得るだろうな。けれど、あり得ないかもしれない。すべては、実験の経過を見るためだよ。彼女のときの場合と、彼との場合との違いを」
責任をまったく感じようともせず、渡部は自分が目を通していたカルテに視線を落としながら、あたかも他人事のように話していた。
その横顔は、どこか嘲笑うようであり、この状況を楽しんでいるように霧下には見えた。
こいつの顔を殴りたいっ ーー
そんな怒りが高まっているのを、体の震えで実感していた。
この人はやっぱり、彼を“オモチャ”としてしか見ていない ーー
「結局、先生にとって彼らは実験の“オモチャ”にしかすぎないんですね」
嫌味を込めて、低い口調で言ってみせた。すると、さすがに気に触ったのか、渡部は動きを止め、霧下を上目遣いで睨んできた。
「勘違いしていないか? 俺は何もそんな。大体、実験もまだ終わってーー」
「どうだかっ」
渡部の弁解を、霧下はぞんざいに振り払った。
そのまま、渡部を軽蔑の眼差しで睨んだ。同じ場にいるのさえ、嫌悪感を抱いてしまう。
渡部は霧下に苛立ちを覚えたのか、何か言い出そうと席を立ち上がった。だが、霧下は渡部を全否定するように、体を反転させ、今井渚の日記を持つと、ナースステーションを出た。
相葉薫と話をするため、屋上に急いだ。
でもどうするの? 本当のことを話すの? すべてを? けど…… ーー
4
春の兆しが近付いているが、肌に触れる風は冷たかった。フェンスの向こうに見える街の光景。燦々と照らす太陽の日差しが薫には辛かった。
「すべてを失った……」
目が覚め、渡部という医師の説明では、記憶を失ってしまい、その記憶を取り戻す術はまだ見付かっていないと言われ、率直な思いがこぼれた。
病室に一人残され、右も左も分からないまま時間がすぎていたとき、薫は不意に病室を抜け出して、ふらつく体で屋上まで来た。何もかもから逃げ出したい恐怖心に苛まれながらも。
屋上の鍵は開いていた。感情に流されるままここまで来て、屋上の外の広大な街の景色を見た瞬間、薫は吸い込まれそうになる。
ーー 飛び降りて楽になってみる? ーー
頭のなかに不意にそんな言葉が浮かんできた。薫もその方が自分のためになるのでは、と気持ちが揺らいでしまう。不思議と背中に受ける風も、彼を押しているようにさえ感じた。
そのままフェンスに手を伸ばし、強く握り締めた瞬間、意識が朦朧としていく。
刹那、先ほど自分に呼びかけていた女性の姿が浮かんだ。
涙で目を真っ赤に腫らしながら、それでも必死に薫を呼び続けていた女性。
「誰なんだ、彼女は?」
目が霞んでいたので、顔まではハッキリと覚えていない。けれど、これだけは分かった。彼女は決して忘れてはいけない人物なんだと。
目を閉じ、フェンスを握りながら、無駄だと痛感しつつも、薫はその女性を思い出そうと、存在しない記憶を掘り起こす。しかし、結局は何も思い出せず、歯痒さだけが残ってしまった。
「こんなところにいたの、相葉くん」
薫が途方に暮れていると、背中に優しい声で誰かが呼びかけた。振り返ると、一人の白衣を着た女性が困った表情でこちらに歩いて来た。
この女性は薫も分かった。「霧下」という看護師で、渡部との説明時に同席していた。そして、彼女が言った「相葉」が自分を指しているのも理解していた。
「驚いたわよ、ここにいるなんて」
困った様子で、霧下は近寄る。
「……教えてください」
向かって来る霧下に薫は問う。唐突な質問に霧下は面喰らっていた。
かは覚えていた。彼女の声を。霧下は、薫が運ばれている間もそばにいた。だからこそ、泣いていた彼女のことを知っているかもしれない。しかも、薫の記憶が消える以前のことを知っているような素振りをしていたのも覚えていた。
だからこそ、二つの意味を込めて尋ねた。
「なんのことかしら?」
しかし、霧下は首を傾げる。今の薫にとっての記憶の量は微塵でしかなく、それだけ鮮明に残っている。ごまかそうとされ、怒りが込み上げる。
霧下の明らかな嘘に、薫は拳を握り締めた。
「ごまかさないでくださいっ。あなたが言っていたのは覚えているんです。パソコンがどうとか、日記がどうとかってっ」
それでも瞬きをして霧下は平然としていた。あくまでしらをきる彼女に、薫は思わず怒鳴っていた。心の焦りが言葉になって飛び出してしまう。
思い出したい焦りで霧下を強く睨んでしまう。それには霧下も目を逸らさず、真剣な眼差しで抵抗し、薫に近付く。
ジリジリと距離を縮める霧下に、薫に緊張が走り、口のなかが干されていく。強い圧迫感さえ、霧下を覆っていた。
薫なそばに来た霧下は足を止めて目を伏せると、何かを逡巡しているように見えた。
「じゃぁ、聞くけど、あなたにはそれだけの覚悟はあるの?」
霧下は薫を睨み付け、冷たい態度で訊いてきた。
身長は薫の方が少し高く、上目遣いで睨む霧下に気圧され、薫は息を呑んだ。
「意味が分からない?」
気迫に負けて声を詰まらせていると、霧下は質問を変えた。
それでも黙っていた薫に、霧下は呆れたようにため息をこぼし、体の向きを変え、フェンス付近に歩いた。
「これまでにあったことを聞いても、平気なのって、訊いているの」
振り返った霧下の強い口調に、薫の全身に電気が走って強張った。
心の奥底では、確かに怯えていた。だが、例え、どのようなことを言われても逃げないと、薫はもう一度拳を強く握り締め、不安を潰した。
「いいわ。どうせ、落ち着いたら、徐々に先生も説明するだろうし。これぐらい、荒治療の方がいいかもしれないし。
この際だから、ハッキリ言うわね。あなたは、これまでに、何度も記憶をうしなっている」
「……何度も?」
「えぇ、今のあなたみたいに、真新しい記憶の状態に何度もなっているのよ。さこに、新たな思い出を刻み、しばらく経てばまたそれを壊してきた。それがあなたよ」
「……………」
霧下の説明に薫は意味が分からなくなる。
それじゃ、僕は何度も記憶を失っている。それも無理矢理……? ーー
霧下はうろたえる薫をじっと見詰めている。
「でも、実際、それは本当のあなたじゃない。本当のあなたに戻るまでの仮の記憶だったの。私たちは待ったわ。いつか、本当の自分を思い出してくれるって。けれど、あなたは戻らなかった。何度も記憶を失うだけ。途方もない旅みたいね。
だからこそ、本当のあなたを待っている彼女を見ているのが辛かった。彼女は自分があなたを苦しめているをだと考えて。自分に責任を感じて…… 本当にあなたたちをみているのが辛かった」
「彼女? それって、あの子…… その子のことを教えてっ」
霧下が指すのは、あの泣いていた彼女だと直感した。薫は思い詰めている霧下に迫る。
薫の鼓動が高まっていく。その子をしるべきなんだと、全身が訴えている。
名前を迫る薫に、霧下は目を伏せ、唇を閉ざして逡巡すると、
「……今井渚さんよ」
「……いま……い、な……ぎさ……」
「ーーえぇ」頷く霧下だが、どこかぎこちない。目を薫とは合わそうとしない。
薫は何度も胸のなかでその名前を繰り返すうちに、胸の奥で膨らんでいく思いがあった。
「ーー違うっ」
何度も重ねていくいちに違和感が生まれ、薫はその違和感を振り払うべく、実際に腕を大きく振り払って強く否定した。
薫の動作に霧下は驚き、体をビクッとさせて目を見開いた。
「あなた……」
「それは違う。なぜだかは知らないけれど、それだけは分かるんだっ」
腹を強く殴られるほどの痛みに似た鼓動が体を震わせる。薫は鼓動を抑えられず、霧下の肩を掴み、今の言葉の裏に隠されたものを求めた。
自分でも興奮して腕に力が入っているのだと伝わる。それでも霧下は痛みを微塵にも表に出さず、薫から目を離さなかった。
「これ以上はダメ。この先は止めておきなさい」
「覚悟はできてます」
「そうじゃないのっ。それとこれとは話が別なの。後悔だけじゃ済まないのよっ」
必死で求める薫だが、霧下ま一向に引こうとせず強く反論すると、それ以上は唇を強く噛み、声を押し留めた。
言葉の裏に隠された真実が知りたくて、薫は霧下の目から視線を逸らそうとしなかった。彼女も負けておらず、怯まなかった。
「クソッ」
薫にとっては、衝動的だった。霧下から手を放し、薫は病棟に走った。
「待ちなさいっ。これ以上はダメなのっ。これ以上はあなたが傷付くだけっ。いえ、あなたたけじゃないっ。待ちなさいっ」
背中で薫を制止する霧下の声が響いていた。それでも、薫は耳を貸さずに病棟内に戻った。
休憩所の横を駆け抜け、ナースステーションの前で薫は一度足を止めた。血相を変えて急に飛び出してきた薫に、ナースステーション内の看護師や、休憩所で寛いでいた患者の白い視線が一気に彼に注がれた。
視線を右へ向ければガラス張りの大きな扉。左に動かせば病室へと続く廊下。薫はどちらに行くべきなのか、判断を鈍らせた。
薫は騒ぎを起こしてはいないが、ナースステーション内の看護師が薫を止めに向かってきそうな素振りを見せていた。
ここで捕まってはすべてが終わりだと、その場で深呼吸をして平静を装うと、病室に続く廊下へと進路を取った。
何か手がかりを探ろうと、自分の病室に向かっていた途中、
ーーーーーーーーっ ーー
どこかからか、声にならない呼び声が耳に飛び込んできた。空耳なんだと、そのまま無視して薫は進もうとしたが、体が意志に反して立ち止まってしまう。
誰かに呼ばれている気配を周囲に感じ、周りを見渡した。そこで目にしたのは、506号室だった。
偶然、この病室の前に止まっていた。
「ここ…… だ」
不思議と直感が働いた。確証はないが、そこにあの彼女がいるのだと。
名札は出されていなかった。一見して底は空室になる。なのに、薫は迷うことなく扉を開く。
病室を見渡せば、ベッドに座る彼女の姿があった。
彼女が泣いていた子なんだと不思議と直感してしまう。
日差しが正面の窓から射し、病室全体を明るく照らしており、ベッドに座っていた彼女が、突然現れた薫にも驚かず、薫に向かってリスのように丸い目を優しく細めて笑っていた。
屈託ない彼女の笑顔。ようやく会え、安堵した薫は疲れがどっと出てしまい、前かがみに膝に手を突いてしまう。
疲れていた。しかしその反面、嬉しくもあった。次第にその気持ちに体が包まれ、疲れを振り払っていくと、薫は顔を上げた。彼女に名前を聞こうと。
「君のーー」
頬を緩ませていた薫の表情は、一瞬にして血の気が引いていく。つい、今までいたはずの彼女の姿が忽然と消えていた。
悠然と暖かい日差しが照らしているが、病室に入ったときと違うのは、彼女がいない。
ベッドの上には折り畳まれたかけ布団が整頓されて置かれ、シワはない。
目の前には、閑散とした病室が広がっているだけの、誰もいない寂しい光景だった。
薫はまだ信じられない。一瞬の彼女が目に焼き付いている。薫は全身から力が抜け、呆然と部屋を見渡した。
空虚に視線を彷徨わせていると、薫はベッドのそばにあるテレビラックの引き出しが少し開かれているのに目が止まった。
気にかけるほどではなかったが、薫は引き出しのそばに近付いた。そして、不意に引き出しを引いた。
「なんだ、これ」
本来、空室ならば何もはいっていないはずの引き出しに、不可解な物を見付け、一応手にするものの、薫は首を捻る。
見付けたのはA4サイズの茶封筒。
誰の物なのか分からない以上、勝手に中身を見るのはいけないと自重するのだが、薫はこのとき、異常に興味をそそられた。いや、見なければいけないとさえ、動かされてしまう。
衝動に駆られ、薫は唇を舐めてから中身を取り出してしまった。そこには、数枚の紙がバインダークリップで束ねられていた。
一枚目の紙には、意味不明な題名が書かれていた。さらに、その最後には、1枚だけ一緒に止められていない紙もあった。少しずらしてみると、名前が記されていた。
紙には写真も貼られているが、薫は目を見開き、自分の目を疑わずにはいられなかった。
「なんだよ、これ……」
紙に張られていた写真は、固い表情の薫自身。そこには、薫の略歴も書かれていた。
記憶を失っている薫には、これ以上の情報はない。だが、彼を驚かせたのはその内容ではなく、名前であった。
驚愕から薫は声が出せなかった。なぜなら、紙には、「相葉 薫」ではなく、「今井 渚」と記されていたから。
この名前には聞き覚えがあった。ついさっき、霧下が言っていた、あの泣いていた彼女の名前。なのに、薫を指していた。
「……だから、言ったでしょ。覚悟はいいって」
戸惑う薫の背中に、淡々と注がれた。振り返れば、霧下が病室の扉に手をかけて立ち、薫に儚げな視線を送っていた。
動揺から薫は体が小刻みに震えていく。
「それはね、以前のあなた。前の前、かしらね。そのときのあなた自身が書いたのよ。記憶を消す原因となった実験を改めて行って、その過程でもしかすれば記憶が戻るかもと考えてね」
「実験…… それに、この名前」
「えぇ。それはあなたの名前じゃないわ。それは、あなたが別の名前を名乗り、本来の名前を別人が名乗ることで、違和感を植え付けて、それをキッカケに戻るかもと想定したからよ」
胸の前で腕を組み、霧下は淡々と説明していた。だが、彼女の悠然とした態度とは裏腹に、目は寂しそうに見えた。
その姿をじっと眺めていると、霧下は体裁悪そうに視線を逸らし、それ以降、薫とは目を合わそうとはしなかった。
薫は納得しなかった。突然、そのようなことを言われても、信じようがなかったのだ。そもそも、薫はそんなことを知りたくはなかった。
「そうじゃないっ。なんなんですか、「砂時計」って。それにかの名前は」
薫が知りたかったのはそれであった。この「今井 渚」が偽名どあるなら、それをなぜ、彼女の名前だと教えたのか、その真意が知りたかった。
霧下は薫の質問に答えず、黙ってうつむいてしまう。
「教えてっ」薫はぞんざいに叫んだ。
「計画に関しては知りたいのなら、その資料を読めばいいわ。それにすべてが書いてあるわ。名前に関しては…… いいえ。それは知らない方がいい」
霧下はまるで自分に言い聞かせるように話すと、それ以上は何も喋らずうつむく。真相は薫の意志に任せようとしているように。
仕方なく、薫は乾燥した唇を舐めてから資料に目を配った。
砂時計 ーー
簡約していえば、新たに発案された刑罰の下し方であり、世間でいう“極刑”、即ち、“死刑”に並ぶ刑罰として発案。
発案理由として挙げられたのは、いくら重い罪を犯したからとしても、死刑撤廃の声はなくならず、始まった。
さらには、被害者、被害者遺族にとって、罪人の命を奪うことで悲しみや怒りを相殺することに対しての体制に異論を生じたことも含まれていた。
そうした経緯から、この形の内容として挙げられたのは、「繰り返す罰」であった。
罰 ーー
この刑罰で指す罰とは、“記憶”であった。脳内における、記憶中枢に、特殊な小型チップを埋め込み、人為的に脳に直接ショックを与えて該当者の記憶を消す。
それがこの「砂時計」の全貌であった。しかも、それは一度だけに留まらない。
繰り返す ーー
新たに蓄積されていく記憶。その過程を見計らい、またショックを与えて消してしまう。
それがこの刑罰にとって一番恐ろしくもあり、中核であった。
この計画における実験。それは、実験者が脳に強力な刺激を与えられたとき、実際に記憶が消えるかを調べる。
それが、実験における主な趣旨であった。
そして、その実験者を一般公募する。
発案者の言い分では、極刑における罪の重さを一般の国民に理解してもらい、この実験期間の内容を世間に伝え、罪の重さを実感してもらったうえで、願わくば、この罰の重さの重大性から、犯罪を未然に防ごうとするのが目的である。
そのために、あえて一般者からの公募が政府に認められた。
意味不明の言葉が並び、薫は混乱しそうになっていた。「計画」、「砂時計」、「繰り返す罰」様々な単語が重ねられていくにつれ、それは大規模なものであるのは薫にも伝わってきた。
実験段階では本格的に「チップ」を埋めないと書かれていた。だが、チップと同等の刺激を脳に与えるとなれば、薫は身の危険を感じずにはいられなかった。例え他人事であっても。
しかし、文面を読み続けると、それが霧下から言われた薫の現状と内容が重なっていき、資料を持っていたてが小刻みに震えていく。
薫は青ざめた顔で救いを求めるように、霧下の顔を見た。すると、彼女は黙って小さく頷く。
信じられるはずがなかった。けれど、内容が頭に流れ込んでくるたびに、胸が締め付けられ、意志に反して反応する体に不快さを抱いてしまう。
「本当…… なんですか…… これ?」
まだ信じられず、薫は弱々しく訊く。
「そう。そして、その資料を見るのは三回目。今のあなた、初めてあなたがこの計画に加わろうとしたとき。そして、「今井 渚」と名乗っていたときと……」
「……「今井 渚」のとき?」
・ ・ ・
それは、いつかの日の出来事……
絶望に続く道 ーー
この計画を初めて聞いたとき、彼はその言葉を連想した。
渡部から持ち出された話。「砂時計計画」を読み終えたあと、彼の率直な考えはそうであり、実験開始日を明日に控えた前日の夜にも、その考えは変わらなかった。
彼にとってこの実験はある意味、死刑を上回る苦しみに思えて仕方がなかった。でも、実際にその実用化が近付いている。正直恐ろしかった。
僕なら一思いに殺してくれた方がいい ーー
加害者の立場となるのなら、彼はそう願った。が、気持ちとは裏腹に、実験においての役割は、地獄のような「加害者」側だった。
この計画を受けるに当たり、一つの懸念が生まれた。
本当に記憶は戻るのだろうか? ーー
彼の決断を鈍らせていた悩みである。実験とはいえ、もしも記憶が戻らなければと、今でも急に怯えてしまうときがあった。
だが、彼には迷う暇などなかった。恋人である「相葉 薫」の苦しみを考えてしまうと。
例え、そばの人から白い目で見られ、「お金のために人生を売った奴」と、後ろ指を指されても。
彼、今井渚に揺るぎない決意があった。
渚は蛍光灯の明かりが灯った自分の部屋で、ノートパソコンに向かって座っていた。
渚は計画に参加を決めた日から、近況をまとめておこうと決めていた。それは今日も続けていた。ただ、昨日までと違うのは、今日は自分の気持ちを素直に書き記しておこうと決めていた。
それはこの実験が最悪にも、“失敗”という形で終わってしまった場合の微かな望みとして。
ーー ……ーー何も知らずに読んでいるのなら、よく読んでほしい ーー
きっと、こんなことを書いていたのだと笑えるだろうけど ーー
キーを叩く自分を茶化しながらも、いざ書こうと思えば、浮かんでくるのは恋人の相葉薫のことばかり。いや、それが渚がかこうとしている一番大事なことであった。
自然と文章を書いている間は指が動くのが早かった。
ーー ただ、協力をしようとしているのに、こんなことを書くのは卑怯だと言われるかもしれないが、このデータとともに、忘れたくないもの、自分にとって一番大切なものを写真に撮って残しておこうと思う……
今井 渚 ーー
例え、最悪の事態に陥っても、これだけは自分以外に読まれたくないと渚は考えた。そのため、渚はこの部分の文字の色を白にして、マウスでスクロールしなければ読めない細工を施した。
もしものことを考え、「砂時計をひっくり返せ」とヒントを残して。
大丈夫だ。きっと笑って読み返せる。矛盾はしているけど ーー
記憶が戻らなくなるのを否定しているはずなのに、こんなヒントを残している自分が急に情けなく思えた。
渚はこのこのデータを自分以外の誰にも読まれないのを願いながら保存し、ファイルを閉じた。
続いて、画像データを収めたファイルを開き、そこからいらないと判断した写真を消去していく。
残ったのは薫の屈託ない笑顔の写真だけ。
あいつだけは絶対に思い出さなければいけないんだ ーー
胸にそう刻み込み、用意していたUSBメモリにフォルダを新たに作り、そこに文章ファイルとともに、二つのデータを入れると、渚はフォルダ名を「砂時計」として残した。
事前にしておかなければいけないと思えるものはすべて終えた。あとは、この実験を無事に終えることを信じるだけであった。
夜が明けると、窓のカーテンの隙間からの暖かい朝日に誘われ、渚は目を覚ました。が、実際は朝日と呼ぶにはほど遠い午前十時を回っていた。
予定を遥かに越えていて、渚は焦ったが、病院へ行くのに荷物の準備は終えている。渚は身支度を済ませると、すぐさま玄関に急いだ。
持ち出した荷物は三つ。一つは薫に頼まれていた写真。実験に必要になるかと、霧下から渡された資料。そして、USBメモリ。
写真は資料の入った茶封筒に入れ、USBメモリは密封性のある透明な袋に入れた。
玄関から外に飛び出し、玄関の鍵を閉めると、渚は足元に視線を落とした。そこには四角い鉢が置いてある。
今は何も植えておらず、土だけが寂しく入っている。これは薫が買ってここに置いていった物だ。彼女いわく、「玄関が寂しい」らしい。渚にはさほど気にならなかったが、薫は物足りなかったらしい。
薫が入院してからは手入れをしていなかった。そのため、気が付けば花は虚しく枯れてしまい、土だけを残していた。
それだけなら、種を植えるのを待っている土だけの鉢だが、渚には重要な役割を担っていた。
渚は鉢を持ち上げ、この下に部屋の鍵と、袋に入れたUSBメモリを置いて、その上に鉢を元通りに戻した。
「ちゃんと見付けろよ」
必要ないと信じながらも、渚は自分に言い聞かせ、階段の方へ歩き出した。
鍵を隠す場所には安易であったが、あえてそうしておいた。記憶を失った場合は、より分かりやすい場所の方が好都合であると考えて。
仮に記憶を失って帰って来ても、鍵を見付けなければ元も子もない。このとき、メモリを袋に入れたのは、雨などの不慮の事故の際、水に濡れても安全のためであった。
渚はこうして病院へ向かった。
・ ・ ・
それは、いつかの記憶。消えた日の出来事……
5
ここに書かれている以上、本当なのか? ーー
資料を持つ手を震わせながらも、今の自分の現状を踏まえて考えてみると、ここに記されたことを認めざるを得なかった。
改めて資料を読み、「砂時計計画」を知っていくと、薫は吐き気を催してしまいそうなほど、不快感に苛まれ、顔を歪めて露骨に眉を歪めた。
それでも、資料から目を離せなかった。吸い込まれていくように、薫は読み続ける。
「“ウイルスワード”について?」
資料を捲り、この項目が目に入ると、薫は急に胃の辺りを殴られた衝撃を受けた。
なんだ、この言葉…… 前にもこんな…… ーー
奇妙な感覚だった。この文章に薫はやけに動揺してしまっていた。ただの説明なんだと、胸に手を当てながら落ち着かせるのだが、気持ちは晴れようとしない。
気持ち悪さを堪えるのに口を一文字に閉ざしながら、さらに内容について読み続ける。
変化が見え始めたのは半分ほど読み終えたころ。薫はふと重力に負けて
肘を降ろした。
「……どうかしたの?」
奇妙な行動に霧下も気付き、不思議そうに薫を見ながら訊いてくる。だが、薫は返事をしない。
霧下の姿がハッキリと見えなかったのだ。
こめかみの辺りを抑えられるような感覚が襲う。不意に薫は頭痛が起こると察し、体を強張らせる。記憶がないはずなのに。
予想に反して頭痛は起こらなかった。が、頭痛の代わりに薫の視界が霞んでいく。目の前にいる霧下の姿が、渦を巻くように歪んでいく。
ウイルスワード…… ーー
言葉を胸で反芻したときだ。
長く、暗い出口の見えないトンネル。その漆黒の道を彷徨い続けるような感覚のなか、薫の前に突然扉が現れた。
厳重に施錠された高く、分厚い石の扉。扉に薫はそっと手を添えた。すると、鍵がかかっているにもかかわらず、扉はゆっくりと左右に開かれていく。
薫は扉の先を見据えた。その先にはまたしても空気が渦巻く光景が広がっている。その渦を目を凝らして見てみる。そこには、薫の姿が歪んで見えた。
薫だけではない。霧下の姿。渡部の姿。それ以外にも、彼の知らない人物が大勢存在している。そうした人物が笑ったり、自分に何かを話している光景が飛び込んでくる。
そして、その奥に儚く笑う誰かが見えた。残念だったが、薫にはその人物の顔まではハッキリと見えない。その歯痒さが針となり、薫の胃を刺すようで悔しかった。
これは僕の記憶…… ーー
渦に対して、薫はそっと右手を差し伸べた。すると、渦はゆっくりと、回る速度を緩め、薫に向かってくる。薫は目を閉じ、渦を素直に迎え入れる。
パズルのピースのように、バラバラになっていた記憶。それが一つ一つ繋がっていく。
この“ウイルスワード”という言葉が記憶を引き戻してくれた。ただ、すべてが戻ったわけではない。薫の記憶における、一部が砕けていた。何がそこにあるのかさえわからない、釈然としない気持ち悪さだが、薫にはそれでも大切な一歩だった。
あのとき、初めてこのシステムについて説明を受けたとき、薫は驚愕とともに恐怖が芽生えた。
実験の要ともいえる、“ウイルスワード”と決めた言葉を発した瞬間に記憶が消えてしまうスイッチになっていることに。
一言 ーー
一言がすべてを消してしまう。心が引き裂かれそうになるのは、当然の対応だったのかもしれない。
渡部からこの言葉を決めろと言われたとき、薫は迷わず言葉を選んだ。彼にとって大切な人の名前を。
誰であったのかは思い出せない。しかし、その人物が苦しんでいたのだけは思い出した。
心の痛みに苦しんでいるその人物の名前を薫はあえて選んだ。その言葉なら、いつか記憶が消えてしまう恐怖に打ち勝てそうな気がして。
何より、実験が終わったあと、気持ちよくその名前を呼べるように、と願いを込めて薫は決めた。
実験開始直前、薫はベッドに横たわっていると、準備を進める渡部から尋ねられた。
ーー ……ーーそうだ、“ウイルスワード”は考えてくれたか? ーー
このとき、薫は迷わず自信を持って言っていたのを今なら思い出せる。
ーー はい。やっぱり、あいつの名前にしておこうと思います ーー
そして、言った。
「ーーー……?」
目蓋を閉じたまま、資料を持たない左手で薫は額を押さえた。そこまで思い出せたのに、肝心な“ウイルスワード”が浮かんでこない。
その事実は薫には好都合なのかもしれないが、彼にとってはそれが辛かった。
暗い闇の脳裏に襲ってくる脱力感。全身から煙のように力が抜けて体がふらつき、手にした資料を茶封筒ごと床に落としてしまった。床に衝突した衝撃で、バインダークリップが外れ、資料は散乱した。
「相葉くんっ」
音を立てて落ちた資料に、驚いた霧下が血相を変えて薫に近寄る。薫は体をふらつかせながらも、彼女に左の掌を見せて制した。
「大丈夫、です」
息を静かに吐き捨て、瞬きを繰り返すと、薫は冷静さを取り戻していく。そこで、床に落ちた資料を拾おうとしゃがみ込む。
まだ微かに重たい頭を堪えながらも、散らばった資料を一枚ずつ拾い上げていく。すると、資料の下に一枚の写真が裏向けになって落ちていた。
「写真……」
どうやら、資料に混じって一緒に入れていたらしく、また、その写真は取り戻した薫の記憶にはまだ存在していなかった。
裏返しになっていた写真を拾い上げ、表を確認した。そこには一人の女性が屈託ない笑顔でカメラに微笑んでいた。
薫は咄嗟に悟った。あの泣いていた彼女だと。
「……渚……?」
写真を眺めていると、薫は自然と呟いてしまった。その名前が違うのは、彼自身、心で理解しているのに。
吸い込まれるように薫が写真を見ていると、霧下が近付いて来て薫の正面から写真を覗き込んできた。
「ーー彼女ね」
「………」
「君が撮った物らしいわ。今から二度前のあなたが彼女に頼まれてね。そして、あなたが記憶を失った場所に一緒に落ちていたの。倒れ込むあなたは、彼女を求めるように落ちている写真に手を伸ばしてね」
霧下は写真を見詰めながらもどこか儚く、遠い目をしていた。
説明を聞いた薫は息が詰まるほど苦しくて仕方がなかった。
これほどまでに明るい笑顔を見せている彼女を泣かせてしまった自分に後悔し、罪悪感に似た後ろめたさに襲われる。
写真を握る薫の手に力が入る。
「教えてください。今、彼女はどこにいるんですか?」
簡単に教えてくれるとは薫も思っていなかった。それでも、霧下を信じてじっと見詰めた。
何より、彼女に会いたかったのだ。
そう、そもそも、この病室に飛び込んだのも、不意に彼女がこの病室にいると、自分の体が訴えてきたからだ。薫にとって、一番の目的なのだから。
薫の視線はじっと霧下を見据えた。
「ーーダメよ」霧下は否定する。
視線を逸らそうとしない。彼女の意志も強いのだと薫も実感する。
「お願いしますっ」
それでも薫は引かなかった。必死に頭を下げて悲願する。
霧下からいい返事があるまでは薫は頭を上げる気はなかった。
「……分かったわ」
「ーーっ」
しばらくの間を置いて、霧下の苦渋のこもった返事をもらえる。それでも、低い口調からして彼女が納得していないのは、薫にも伝わっていた。
それでも、薫はすぐに反応して頭を上げた。安堵から自然とと頬が緩んだ。
それでも、薫に対して霧下の表情は重たかった。
「今はナースステーションにいるわ」
「ナースステー……ーー」
思いもよらぬ場所に、薫は困惑して霧下の顔を伺った。彼女が嘘を言っている素振りはない。
刹那、薫はすぐさま廊下に飛び出そうと体の向きを変え、床を蹴った。
「待ちなさいっ」
だが、一歩踏み出した薫の足は、二歩目を踏み出せずに止まってしまう。霧下が薫の腕を掴み、体を引き止めていた。
体を反らして振り返りながら、薫は霧下の細い腕を振り払い反抗したが、霧下も懸命に力を込めて放そうとしない。意外な力に薫も振り払えなかった。
「本当にいいのね。名前も知らない彼女と会っても」
「けど、この写真を僕が撮ったって言うのならーー」
「だからよっ」
居場所を教えながらも、さらに問い続ける霧下に、薫反論する。すると、それを上回る勢いで霧下は薫を凝視し、一括した。
霧下の気迫に負けて落ち着くと、霧下の方に体を向き直すと、霧下は薫から手を放した。
「後悔してほしくないの。あなたたちを見ていると、私まで辛くなってくるのよ。いつ記憶が消えるかもしれないのに……」
薫は何も言い返せず、黙ってしまう。
先ほどの威勢のある霧下からは裏腹に弱々しく、震えた声で呟いていた。焦点の定まらない彼女の眼差しは、どこか寂しさを漂わせていた。
悲しんでいる雰囲気の霧下に、薫も目を伏せる。
「ーーありがとうございます。けれど、僕はちゃんと会いたいんです、彼女に。この気持ちだけは譲れません」
心配してくれるのは本当に嬉しかった。だからこそ、薫は素直に伝えた。
お互いに睨み合った。お互いの覚悟を伝えるために。
「本当に後悔しないのね?」
念を押す霧下に、薫は力強く頷いた。
「これは僕が決めたことですから。あのときに決めた“ウイルスワード”はきっと彼女に関わっている。それを確かめなくちゃいけないんです。きっと。逃げちゃいけない。きっとここで逃げたら、その方が後悔してしまうたろうから」
これだけ彼女との接触を気にする霧下の態度に、懸念と疑問が深まっていく。彼女との間に“ウイルスワード”との繋がりがあるのだと言っているのも当然だった。
霧下の心配そうな顔を見ていると、先ほど、脳裏に浮かんできた渡部との会話を思い出していた。
その内容を思い出したからこそ、薫は逃げ出したくなくなっていた。あの会話が浮かぶほどに、決意が強くなっていく。
「あのときって…… あなた、もしかして記憶が?」
薫の話を聞いていた霧下の表情が次第に困惑に揺れていく、次第に期待のこもった複雑さを混じらせて。
それでも、薫は期待を裏切るようにかぶりを振る。
「すべてじゃないです。けれど、大体のことが今なら思い出せます。そのなかで見えたんです。自分の部屋で、誰かに怒られていたのを僕が「大丈夫」だって宥めていた光景が。多分、この“砂時計”で責められていたんだって。それに、きっとその怒っていた子が…… だから、確かめたいんです」
そう、彼女の存在を ーー
最後の気持ちは声に出さなかった。薫自身の決意として胸の奥に深く刻み込ませた。
「そう。じゃぁ、行ってあげて。きっと、彼女もあなたのことを待っているはずだから」
「ーーはい」
このあと、彼女と会ったとき、自分がどうなってしまうのかという、不安がまったくないと言えば、当然嘘であった。けれど、今の薫には関係なかった。
例え、どうなっても構わないさ。彼女と会えるなら ーー
薫を突き動かしているのはそれだけであった。
6
彼女が今いるのは、霧下がいる506号室ではなかった。彼女がナースステーションに移ったのは、彼、「相葉薫」が病院へ運ばれた直後であった。
相葉薫が彼の自宅から運ばれたとき、霧下も動転していた。
何が起きたの? ーー
記憶は消えてしまったの? ーー
彼は目を覚ますの? ーー
様々な不安と懸念に渦巻かれなからも、ストラクチャーに載せた彼を運んでいるとき、廊下の先から彼女が現れた。
精神病棟と、エレベーターホールを隔てる扉には施錠してあり、患者が自由に出入りできないのは把握していたので、彼女の突然の出現に霧下は困惑と動揺に揺れた。
どうしてここにいるのか、何をしているのか、と、普段なら彼女を引き止めていたのだが、そのときばかりは、その場にいた霧下を含めた看護師にそんな余裕がなかった。
全員が相葉薫に意識を集中していたから。
遅れて現れた渡部に霧下はそれまでの経緯を説明しながらも、霧下は彼女の悲痛な叫びに胸を痛めていた。
ーー ……起きてっ ーー
ーー ねぇ、分かるっ。ねぇ、私よっ ーー
意識が朦朧としている薫に必死に呼びかける彼女。その姿はあまりに脆く見えていた。その反面、彼女の混乱が霧下には不安であった。
そのあと、相葉薫は検査のため、脳波検査室へと運ばれようとしていた。霧下はストラクチャーで運ばれる薫から一歩引いて集団から離れた。
そのときが霧下にとって、とても辛い行動に移らなければいけなかった。
薫のそばから一歩も引こうとしない彼女の腕を背中から掴むと、霧下は彼女を集団から無理矢理離した。
彼女は薫の手を握っていた。本当は霧下もそのままにしておきたかったが、その手さえも離した。
「ダメッ、戻って来てっ。お願いっ」
離れていく薫に、彼女は必死に呼びかけていた。喉が張り裂けそうなほど、大きな声上げて。それでも、薫を乗せたストラクチャーは無残にも霧下たちから離れた。
「……薫。薫…… かお……」
遠退く薫に、涙をこぼしながら、彼女は何かに取り憑かれたように、儚い声で何度も呼んでいた。何度も、何度も。しかし、それも次第に弱まっていく。
その場に残った霧下は、彼女の肩をしっかりと後ろから支えていたが、今にも倒れそうなほど、彼女の体には力が残っておらず、掌からは彼女の脆さが伝わってきそうだった。
「大丈夫よ、きっと大丈夫。だから、病棟に帰りましょう」
霧下は優しく彼女を励ます。ありきたりな言葉だと分かっていても、これしか出なかった。それほどまでに、霧下も動転していた。
運ばれた薫も心配であったが、自分が支えている彼女も、気がかりである。
また自分を傷付けないで。お願い ーー
彼女の包帯が巻かれた右手を見下ろしながら、霧下は願った。
「さ、行きましょう。あなたがしっかりしてないと、相葉くんだってーー」
できる限り気を紛らわそうとしたとき、肩を支えていた霧下の腕に重力がのしかかる。
突如、彼女が倒れ込んでしまった。
「ちょ、どうしたの、ねぇ、大丈夫っ」
咄嗟に抱きかかえるように彼女を支え、声をかけるが、彼女は返事をしなかった。
涙で真っ赤に目を腫らした彼女は、混乱しすぎて気を失ったらしく、すぐに意識を回復させる気配はなかった。
不意を突かれた思いではあったが、霧下は正直安堵した。そのまま意識を保ち、自傷行為に移られるよりも、安心だった。
霧下は彼女を病棟のナースステーション内にある、処置室へと運んだ。
ナースステーション内の処置室は本来、命の危険性のある患者を、二十四時間体制で診察できる部屋であり、彼女に対しては、自傷行為を監視するためにも、そこに移された。
それから、霧下がナースステーションにいる間、彼女は安静に眠っていた。
そして今、彼女の元に薫を送り出していた。
看護師の立場から考えれば、彼女と薫を面会させるのは危険なのかもしれない。けれど、霧下は止めなかった。
薫の訴えが頭から離れなかったからである。
彼は、ところどころ欠落があるにせよ、記憶が戻ったと言っていた。それは、本来の彼でしか知らない事柄、“ウイルスワード”が彼女に関わりを持っていると、自分で話したときに、嘘を言っていないと判断したから。
以前の実験者「今井 渚」には見られなかった症状であった。それを聞いた瞬間、霧下驚愕しながらも、鼓動が高まっていくのを実感していた。
迷いや不安で締められるのではなく、期待に躍る感覚に似ていた。だからこそ、薫を信じてみたかった。
薫に賭けてみたかった。例え、それが分の悪い賭けであっても。
「がんばって、相葉くん」
霧下ベッドに腰かけると、開かれたままの扉の先を見据えながら、そっと微笑んで優しくこぼした。
7
ナースステーションの前まで勢いよく走ってきた薫であったが、カウンター越しに内部を見渡したとき、見知らぬ看護師ばかりの姿に臆してしまった。
ふと、見渡してみると、看護師らが作業を行うテーブルの奥に、もう一つ、小さな小部屋がありそうだった。
「どうかしましたか?」
カウンター越しにに薫が覗いていると、一人の若い看護師が怪訝に訊いてきた。
「あの、ここにあの子、今井さんって人がいるって」
いかにも面倒そうに対応する看護師に、薫は霧下から聞いた名前を述べた。内心、その名前に違和感を抱きながら。そう言わなければ、先に進めそうになかった。
薫の返事に、看護師は困惑に似た表情で口元を歪め、指示を煽るように振り返ると、ほかの看護師らを見渡した。
つられて薫も視線を移すと、渡部の姿を見付けた。彼もまた薫の存在に気付き、目が合った。
「先生」
渡部がこちらを見たのを知ると、看護師が指示を煽る。
すると、渡部は看護師に掌を見せて制して
席を立ち、こちらに向かった来た。
看護師は一歩引いて場所を譲ると、渡部と対面する。
「どうした?」
「あ、あの、彼女に会いたいんです。お、お願い、します」
医師と看護師との見えない雰囲気の違いに薫は緊張してしまい、しどろもどろに声を詰まらせた。
それでもちゃんと意図は伝わったらしく、その場で渡部は腕を組み、目を伏せながら何かを思案していた。
それは先ほどの霧下の態度に似ていた。やはり、彼女と自分とを避けさそうという思惑を感じずにはいられなかった。
だが、薫の懸念はすぐに晴れた。
「いいだろう。こっちに来るといい」
渡部はあっけなく薫を誘導した。その態度に逆に薫は面喰らってしまった。これでは、霧下の方が渋っていた。
薫は渡部に誘導されるまま、ナースステーションに入った。その間な渡部は悠然とした態度で、怪訝さをまったく見せず、彫りの深い表情の笑みは、紳士的に見えた。
薫は内心困惑していた。渡部の不思議な態度もさることながら、その場の看護師たちの白い視線が薫に注がれ、鋭く全身に刺さっていたために。
まるで、この場にいることを拒絶さらているような不快感にも似ていた。薫はできる限り看護師と目を合わそうとはしなかった。
薫はナースステーション内を横切り、窓ガラスで隔てられた先に連れて来られた。
その先に一歩踏み込むと、そこには先ほどの病室より少し広めの部屋があり、二組のベッドが並んで設置されていた。さらに、ベッドに接した壁には、何やら機械が埋め込まれている。
薫はそのベッドの様子に目を見開いた。一つのベッドに、あの泣いていた彼女が眠っていた。
「あの、ここは?」
普通の病室との違いは一目瞭然であり、戸惑いながらも、後から入ってきた渡部に薫は尋ねた。
「ここは、命の危険性のある患者をいつでも診られるようになっている治療室だ」
渡部の流れる説明に、薫は背中が凍りつく。
それじゃ、あの子は…… ーー
「心配することはない。彼女は平気さ。ただちょっと、さっき興奮してしまって気を失っただけだ」
脳裏に浮かぶ最悪の事態に薫は唾を呑んだが、彼の心配を悟った渡部が言う。
薫は安堵から大きくため息を吐く。吐かれる白い息とともに、気力まで出ていってしまいそうなほど、力が抜けた。
彼女はただ眠っているだけらしい。
呆然と薫は立ち尽くしていると、渡部が薫の背中を軽く叩いた。「何?」と訊き直す暇もなく、渡部がその場から遠ざかっていく気配を感じた。
振り返ると、渡部はすでに小部屋を出て、自分が座っていた席へと向かっていた。彼なりの気遣いだったらしい。
彼の気遣いに感謝し、薫は彼女の眠るベッドのそばにあった丸椅子に座った。
彼女はつい先ほどまで泣いていた様子で、目の辺りを真っ赤に腫らしている。それを見ると、改めて、あの泣いていた女性が彼女なんだと、薫は確信する。
渡部の説明では、起きている間興奮していたと言っていたが、今の寝顔は屈託ない無垢な寝顔であり、じっと見詰めていると、薫は罪悪感に襲われる。彼女の名前も知らない自分に。
何もできない無力ささえ、身に沁みてくる。そんな悔しさに唇を噛み締めながらも、彼女の目元が微かに動いたのを薫は見逃さなかった。
「……ーー」
名前を呼びたかった。
しかし、言葉は喉を通らず、無様に口を半開きにしてしまう。
目蓋がゆっくりと開かれていき、視線をこちらに動かした。
「……薫?」
とても懐かしい響きに胸の奥が揺さ振らせる。かのとき、薫は自分が本当に「相葉 薫」であるのだと、改めて気付かされた。
8
ーー 怖い。もう自分が壊れていきそうになってる。
今は、時計を見るのさえ怖かった。
時間が、時間が流れるたびに、私の姿が消えていきそうで ーー
相葉薫と今井渚との違いは何? ーー
薫を見送ったあと、霧下の脳裏に漠然とした疑問が浮かんでいた。
それを確かめようと、霧下は再び持ち出していた今井渚の日記を506号室のベッドに腰かけながら読んでいた。
ーー 眠るのが怖くなってどれぐらいが経ったんだろう?
最近は少し、気が楽になってきた。
もい諦めているからなのかな。
それもあるけど、倉田さんに相談したから気が落ち着いたんだと思う ーー
ーー 今日、久しぶりに屋上に出た。風がすごく気持ちよかった。
空を見上げれば、吸い込まれそうだった。
自由に広がる空。そんな空を見上げてたら、自分が情けなくなっていく。
だって、今でもやっぱり怖いから…… ーー
何気ない日常をすごしていく今井渚の記憶。それを読む限りでは、薫との違いを見付けることはなかった。
それだけでなく、次第にページを捲る霧下の手も重たくなっていく。今井渚が命を絶つ日が確実に近付いていた。
いつ、命を絶つのかを把握しているというのは、残酷極まりないものであった。霧下は胸苦しさに手を止め、視線を宙に彷徨わせた。
あの二人にとっての違い。それは何? ーー
思い当たる節を探る。
性別 ーー
年齢 ーー
外見的な違いを挙げる。
この実験に関わった動機? ーー
次に浮かんだのは動機である。霧下はすぐにかぶりを振る。それは合致しないからではなく、今井渚についての動機を知らなかったから。
当時、彼女の担当は倉田であった。霧下は間接的にしか彼女に接していなかったために、深く知ることもなかった。
彼女の死後も、倉田に追求することもなかった。互いにこな話を敬遠していたために。
じゃぁ、残される違いは何? ーー
霧下は今井渚に対してではなく、薫に対してもう一度深く考えてみた。すると……
「回数?」
不意に霧下は呟くと、もう一度日記を読み直す。
読み返した日記と、自分の記憶を重ねていく。そこに、確かな違いが一つ現れる。それが回数。記憶をなくした回数であった。
薫はすでに六回、記憶を失っていた。それは実験期間を含めた回数として。それに比べ、今井渚に関しては四回。実験期間を抜けば、一回であった。
繰り返して記憶を消していくうちに精神に負荷が? けど、それじゃ、相葉くんの回数の方が多いのに耐えている。それとも、今井さんの方が、負荷が強すぎて辛さに耐えられなかったの? ーー
考えるたびに混乱していく。何が正しく、何が間違っているのか。この違いに対する根拠を霧下は見付けられずにいた。
うなだれるように額に左の掌を当てながら、再び日記に意識を戻した。すでに今井渚が命を絶とうとする三日前だった。
ーー 昨日、珍しく眠れることができた。そこで、私は夢を見た。
深い森、木漏れ日の注ぐ森のなかを歩いて、そこで私は大きな木の場所に辿り着いた。
木のそばには、小さな女の子が一人いた。魔女みたいなとんがり帽子を被っていた。
その不思議な子は言っていた。この木の実はとても美味しいって。でも、普通には採れないって。この実を採ろうと思えば、“魔法の言葉が必要なんだって。
私はその子に聞いてみた。「その魔法の言葉は何?」って。そうしたら、その子、私には教えてくれないって言った。そのときの言葉は目が覚めてもハッキリと覚えている。
「あなたみたいな壊れたオモチャみたいな人に教えられない」って…… ーー
ーー 私は壊れたオモチャと同じ。本当にそうだと思う。何度も、何度も記憶を消して、前に進めない。壊れたブリキのオモチャが、同じ場所をクルクルと回っているみたい。
ホント、情けないし、イヤ……
私はオモチャじゃない。
このまま壊れたオモチャでいたくない。
お願い…… ーー
日記を読む手が震えていた。霧下の知らない場所で、彼女は苦しんでいたのだと、痛感していた。そして、これを読んだであろう倉田の苦しみも察すると、また胸が痛んだ。
そして、彼女が命を絶った前日に日記は迫った。
ーー また今日、あの夢を見た。
私がじっと女の子を見ていると、女の子が言った。
「あなたはオモチャのままでいいの?」って。
もちろん、イヤだった。そうしたら、女の子が黙って手を出してきた。
「あなたは何になりたいの?」
私がなりたいもの…… それは……
「それが“魔法の言葉”」
笑った女の子は、私に手を差し伸べた ーー
奇妙な終わり方に、霧下は首を傾げる。その日の日記はまだ続いていた。
ーー 私はオモチャのままでいたくない。そう強く願ったら、目が覚めた。
それは本当の目覚めになっていた。
きっと、あの女の子が教えてくれたんだ ーー
「本当の目覚め?」
ーー 倉田さんにも教えてあげたい。あの人には迷惑をかけちゃったから。けれど、このままじゃ、ダメなんだ。
確かに私はすべてを思い出した。けれど、そこで止まっちゃいけないんだ。
私にとっての“魔法の言葉”、“ウイルスワード”を言わないと。そうでないと、私は壊れたオモチャのまま。私が望むものにならない……
それを言って、その先に進まなきゃいけない。
そして、倉田さんに「ありがとう」って言おう。
それまで、記憶が戻ったことを黙っておこう ーー
前日の日記はそこで終わっていた。霧下は読み終えると、力なく日記を持った掌を膝の上に落とした。
「今井さんは、記憶が戻っていた……?」
日記を読み終えると、霧下はそう判断したが、それと同時に矛盾も生まれる。
なぜ、今井渚は命を絶たなければいけなかったのか? この日記に示されていることが事実であるならば、自殺に至る動機が見付からない。彼女は元の彼女に戻っていたのだから。
霧下は当時、屋上に立つ今井渚の姿を呼び起こしてみた。
彼女は記憶の消去を繰り返すうちに、精神に崩壊が訪れ、精神衰弱の末、命を絶った。
霧下はそう考えていた。
だが……
本来、薫との違いを見付けようとしていたのに、今さらになって今井渚の死の動機に混乱していく。
朦朧とする意識を懸命に保たせながら、霧下は日記を捲ってみる。彼女はかな記載の翌日に命を絶っている。本来ならば、記入されていない可能性の高いこの日を。
「………っ」
霧下は体中を強く縛られたような痛みに苛まれた。
ーー 私はあなたたちのオモチャじゃないっ ーー
あの日、今井渚が最後に叫喚した言葉が鼓膜に弾けた。
「倉田さんは知ったの、この事実を…… だから、だから責任を感じて……」
視線を宙に泳がせながら、霧下は震えた声で呟いた。自然と息が上がっていき、冷静さが次第に保てなくなっていく。
「ーー相葉くんっ」
刹那、日記を放り投げるように床に落としながらも、霧下は衝動的に立ち上がり、床を蹴って荒々しく廊下に飛び出した。
一目瞭然にナースステーションに向かう。
誰もいなくなった506号室に、今井渚の日記が霧下が目にしていたページが見開きとなった状態で落ちていた。
そこに震えた文字で一言、書かれていた。
ーー 私は誰? ーー
終章
ーー 砂時計 ーー
「おはよう」
本当の名前を思い出せず、目の前にいる彼女にどう切り出せばいいのか、しばらく悩んだ挙げ句、結局浮かばず、彼女の目覚めた顔を見て浮かんだ言葉をそのまま言った。
彼女はゆっくりと身を起こし、うずくまるように座ると、薫の顔を伺った。
薫はできる限り動揺を抑え、笑っているつもりだったが、彼女は薫の顔を見て一瞬困惑したみたいに呆然とし、すぐさま目を逸らした。
拒まれたのかと、薫は声を詰まらせ、戸惑いを隠せなかった。
何か言わなければ…… ーー
平静を保ちながら、内心破裂しそうな心臓を宥めて自分に言い聞かせる。
「記憶、戻ってきたよ」
全部、と言い足したかった。が、実際、まだ微かに欠落していたため、薫は逸る気持ちを唾とともに呑み込み、そこで止まらせた。
薫の告白に、彼女は戸惑いも困惑もせず、体に被せていたかけ布団を引き寄せ、顔をうずくまらせた。その態度に、薫は目を伏せ、何も言えなかった。
壁を隔てた向こうでは、看護師たちの世間話が遠くに聞こえる。それほどまでに二人に会話がなく、重たい沈黙が流れた。
「……あ、あの……」
薫は何を話すかなど考えていなかった。ただ、この沈黙を破りたかった。
「……ゴメンね。薫」
かけ布団に口元を隠していたせいで声はこもっていたが、微かに聞こえた彼女の呟きを薫は聞き逃さなかった。
伏せていた顔を上げると、彼女もこちらを見ており、その姿に薫は安堵する。
彼女は足を伸ばして座り直すと、腰辺りまでかけ布団を下ろし、その辺りをじっと眺めていた。
「……私ね、一つ決めていたことがあったの」
「ーー何?」
「あんたをひっぱたくこと」
咄嗟的に訊き直した薫は、返事に戸惑ってしまう。
薫が間の抜けた顔をしていると、彼女の表情から曇りが抜けていき、クスッとようやく頬を緩めた。
「だって、私の気持ちなんてお構いなしに勝手に自分で決めちゃうんだもん。私はこんなことを望んでいなかったのに。しかも、「心配ない」とか言って…… ホント、勝手よ。なのに、あんたは目が覚めたら私を忘れてしまっていた。そのあと、あんたを何度も待った。「今井 渚」としてあんたを見守ろうとしたり、あんたの名前を名乗れば、刺激になるかもしれないって言われて、そうしたこともあった。けれど、あんたは戻ってくれなかった」
ゆっくりとした口調ながらも、どこか刺のある言い方で彼女は一気にまくしたてた。
彼女は呆れながらも、薫を咎める目の奥に、どこか寂しさを漂わせていた。
「残された私はどうなるの? って感じ。だから、いつか薫が戻ってきたとき、絶対に顔を思いっきり叩いてやるんだって決めてた。それで、驚いているあんたに「おかえり」って言おうとしてた」
彼女は薫の顔を見据え、指差した。そのまま叩かれるのかと、薫が一瞬目蓋がを閉じてビクつくと、彼女は可笑しそうに笑った。
彼女が笑って頬を緩ませる姿に、薫は安心した。
「……けどね」
含みを込めた言い方で、彼女はまた目を伏せた。
「今日、それは私のワガママなのかなって思ったの」
「どうして?」
彼女は黙って頷く。
「薫がまた記憶を失って病院に戻って来たときにね、運ばれてるあんたに向かって呼びかけていたら、あんた、私の声に必死に応えようとしてくれてた……」
それなら薫も覚えている。
薫の顔を見ようとしない彼女だったが、彼女の言葉だけで嬉しかった。
「ううん。そう思えたのはもっと前かな。先生から聞いたの。あんた、自分から「家に行きたい」って頼んだのを。スマホを見るのも恐がっていたあんたが、そこまでして頑張ってるんだって」
「…………」
それは薫には思い出せなかった。きっと、入院していた薫であって、薫でない記憶。
高まっていた嬉しさも薄れていき、薫は彼女を直視できないでいた。
「何やってるんだろうね。私一人が被害者気分でいたなんて。私にも責任があるのに、あんた一人に責任を押し付けていた。謝らないといけないのは私よね」
腰の辺りでギュッと手を握りながら、彼女は天井を見上げ、瞬きを何度も繰り返していた。
動きが止まっていた彼女の目尻に、涙が光った。
涙が込み上げる横顔は、次第に小刻みに震え出していた。震えは全身に広がり、壊れそうな儚さに見えた。
「……ホント、情けないよね」
「ゴメンね。かおーー」
なみだを光らせた彼女の瞳を薫に向けられた瞬間、薫は衝動的に彼女の小さな体を引き寄せた。
小さな背中をギュッと包み込み、薫は彼女を抱きしめた。
「ーー薫?」
「…………」
戸惑う彼女に、薫は何も喋る気がなかった。
ただ、彼女を抱きしめたかった。
そのとき、薫の顔にどこからともなくそっと風が触れた。この部屋の窓は閉まっていたのに、確かに風は吹いていて、風は苦しさを溶かすように暖かかった。
ーー “ウイルスワード”はえっと、“唯”、あいつの名前でお願いします ーー
風は薫の心の、記憶の奥の奥に閉ざされていた一番大切なものを、彼のところへ運んでくれた。
「ーー相葉くん、ダメッ」
閉ざされていた扉を開こうとした瞬間、どこかからか霧下の叫び声が聞こえた気がした。
彼女の名前は…… ウザキ…… 宇崎…… ーー
「ーーゴメンな、唯」
「ーー薫」
薫の背中に彼女の細い腕が回り、ギュッと力がこもった。
想いは流れる
砂時計が時を刻むように
さらさらと、さらさらと
落ちていく
すべたが流れ落ちたとき、
砂時計はひっくり返された……
「…………バカ」
了
今回、この話を作ろうと思い、いくつかのポイントを考えていこうとしたあと、最初に思い浮かんだのは、実は最後のシーンでした。
渚(唯)が自分のために薫が記憶を失おうとするときの、「……バカ」という言葉が強く頭に残っていました。そこから、この二人の生活、あるいは苦しさを描ければと思いました。
最後の一言を読んでいただき、何かちょっとでも残るものがあれば嬉しいです。
この「きみの声と大切なもの」を読んでいただき、本当にありがとうございました。




