ーー 日常 ーー
記憶喪失というテーマで考えたとき、“繰り返す”というのをつけ加えればどうなのかな、と考えて今回の話にしてみました。よろしくお願いします。
想いは流れる。
砂時計が時を刻むように
さらさらと、さらさらと
落ちていく
忘れてはいけない。忘れたくない。そのはずだった。
彼女は微笑む。悲哀に満ちた悲痛な笑みで。
「ーー君は誰?」
笑みを浮かべる彼女に影が覆い、彼女の顔は消えてしまう。
この問いかけを残したまま……
序章
ーー 日常 ーー
柔らかな日差しが窓ガラスを通り抜け、部屋全体を照らしていた。白いカーテンの隙間からこぼれる光に、彼は目を覚ます。
ゆっくりと開いた視界の先に、飛び込んできたのは白い天井。灯りを消した長方形型の蛍光灯と、素っ気ない景色。
視線を落とすと、窓から差し込む朝日が「早く起きろ」と促していた。
彼はだるさの漂う上体を起こし、首を振り脳裏にはびこむ睡魔を退けた。
ベッドがギシギシと悲鳴を上げていた。
まだ睡魔は脳裏の隅に留まっており、薄暗い霧が意識に滲んでいる。
そのまま体の向きを変え、ベッドに座ると、呆然とする額を右手で押さえながら、部屋を見渡す。
白い壁に囲まれた六畳ほどの小さな空間。
ベッドの上部に面した壁には窓があり、先ほどから白いカーテンの隙間から太陽が覗いている。
ベッドのそばには、引き出しを備えられたテレビラック。その上には小型のテレビ。
体の正面には、一見して安物と判断できる固そうな革製の黒いソファーが壁に面して設置され、その壁の左角には灰色の索漠とした縦長のロッカーがある。
家具と呼ばれる物はそれだけの閑散とした部屋。彼は座りながら部屋全体を呆然と見渡した。
気にすることはない。昨日とたいして変わりはないよ ーー
部屋に存在する物をすべて確認したうえで、大きくため息をこぼすと、うなだれた。
変哲もない空間。それに対しての安堵と、戸惑いの入り交じった気持ちが、スゥッと息を吐かしていた。
変わりようのない日々。
一日の始まりに、彼は重たい体起こし、部屋に設置された洗面台に進むと、無言のまま歯磨きを済まし、顔を洗う。
まるで、そうするよう誰かに指示を受けたアンドロイドみたいに無機質な動きのまま。
蛇口から勢いよく出る水を掌で受け、顔を洗うと、水の冷たさが睡魔を払い除けてくれ、意識が鮮明になっていく。
濡れた顔をそばにあったタオルで拭くと、洗面台に設置された鏡に映る自分と目が合った。
タオルを下ろすと、生気を失った無表情の自分がさらされた。
捉えどころのない眼差しをした小さな目に、頬が丸まった顔だが、耳にかかる黒髪が、寝癖のせいで無様に何本も立った情けない顔をしていた。
瞬きをしてじっと鏡を睨んだ。
「……僕は誰?」
真剣な眼差しで問いかけ、数秒の間じっと見つめたあと、彼は苦笑いをして目線を逸らした。
返ってくる答えなどない。
せれを一番理解しているのは彼自身であった。
無駄なのは痛いほど分かっている。けれど、止められない毎日の習慣である。
漠然とした空しさに襲われると、彼は寝癖を手ぐしで直し、ベッドに戻って座り込み、テレビラックからリモコンを取ってテレビの電源を入れた。
数秒の沈黙のあと、賑やかな笑い声とともに、画面に明かりが灯され、部屋中に声が充満していく。
灯されたテレビには、朝の情報番組が放映されていた。
人気の女子アナが可笑しなことを言ってスタジオを賑やかし、主婦の間で絶大な人気を誇る中年男性の司会者が、巧みな話術を織り交ぜて話題を広げて、番組を進行させていた。
画面からもれてくる笑い声。しかし、その声に誘われて彼が笑おうとはせず、ただ無表情にじっと画面を眺めていた。
テレビ画面に映る有名人。きっと彼らの名前を問われれば、ほとんどの者が即座に名前を言えるだろう。それは彼もそうであった。
だが、彼はほかの者と少し違う部分があった。
彼も画面に映る芸能人を知っているが、彼らを知ったのは五日前の出来事である。数日前、今朝と同じようにテレビを見たとき、画面の字幕を見て、彼らの名前を知った。
番組は朝の人気番組であり、数年前から放映されている。出演者もこの番組だけでなく、様々な番組に出演している。なのに、彼は五日前に出演者の名前を初めてしったのだ。
無論、彼はまったくテレビに関心を持っていなかったのではない。彼にとっては重大な理由が存在していた。
彼には記憶がなかった。
彼には五日以前の記憶がなかった。
五日前、この部屋で目覚めた彼は、名前も知らない人物と面会し、その人物からの説明に唖然となった。
記憶障害。
医師だと名乗る男性と、もう一人そばにいた看護師の女性とともに一方的に告げられ、この部屋は病室だと知らされた。
驚きや恐怖はなかった。ただ、急に告げられたため、状況を理解できなかった。
時間を空けることで落ち着きを取り戻すと、初めて恐怖に襲われた。
信じ難かったが、彼自身のそはに存在する人物。両親、兄弟、友人。知り合いであろう人物の姿と名前が浮かんでくれなかった。
なぜか、思い出せない。
しかも、それだけにならず、テレビなどで見る芸能人の名前すら分からなかった。
何より、一番の衝撃で辛かったのは、自分の名前すら思い出せないでいた。
辛うじて覚えていたのは、日常生活における動作。普段の生活に対する問題はなかった。朝、目覚めれば顔を洗って歯を磨く。
ご飯もちゃんと箸を持って食べれば、トイレにだって普通に通える。
説明のあと、部屋にある物、テレビやベッドなどに自ら指差して、名前と用途を自問自答した。
もちろん、彼は使い方を間違ってはいなった。
学ぶべきものは覚えているのに、人物に対しての記憶をすべて忘れてしまっていた。
ただの記憶喪失ならば、まだ救いがあったかもしれない。「いつか思い出せる」と自分に言い聞かせて励みにすればよかったのだから。
だが、彼にはさらなる残酷な現実が待ち受けていた。いつか思い出せる。
そんな言葉は彼にとって嫌味でしかなかった。
部屋を見渡したときに痛感してしまう。入院目的が分からない彼にとって、この部屋は初めて訪れる場所だと思っていた。だが、部屋にあるすべての物に微かな見覚えがあり、奇妙な既視感に苦しんでしまっていた。
不安を積もらせながら、医師に恐る恐る相談してみた。すると、医師は躊躇しつつも口を割ったのだ。
「……君はすでに何度か記憶を失っている」
言葉を詰まらせる医師の返事。
いつか記憶が戻るであろう期待を打ち砕く厳しい指摘。「いつか、記憶が消えてしまうだろう」という、悲痛な答えが突き渡された。
どこかデジャヴ的な感情に襲われる答えでもあり、現実は入院を繰り返しているという事実であった。
医師の説明では、彼はすでに五回、記憶を失っていた。そのたびにこの病院の、この病室に入院していた、と。
衝撃的な事実を突き付けられてから五日。彼は目の前に現れる人物を覚えながらも、いつか記憶が消えてしまう恐怖に怯える空虚な日々を暮らしていた。
きっと覚える。いや、思い出さなければいけないのは、親や兄弟、自分の名前であった。医師もそう訴えた。
医師は家族構成を告げようとしたが、彼は断った。
「正直、怖いんです」
見ず知らずの人物を突然「家族」だと紹介されるのが怖かったのだ。
率直な気持ちをぶつけ、医師の顔を直視できずに顔を背けていた。すると、医師は何も反論せず、「……そうか」と、残念がりながらも彼の要求を受け入れた。
あっさりと受け入れた医師に拍子抜けし、逆に「なぜ?」と訪ねると、以前にも同じ要求をしたらしい。そのために、医師は半ば諦めつつも、尋ねたらしい。
呆然と見詰める医師の表情はどこか寂しげで、酷いことをしてしまったと、彼は後悔したが、意志に揺るぎはなく、説明を詳しく聞く気持ちはなかった。だからこそ、自分の名前と年齢のみ尋ね、あとは聞かないでいた。 それから誰かに会うわけでも、会話をするわけでもなく、彼はこの小さな空間に逃げ込むようにして、あまりに遅い時間をすごしていた。
第一章
ーー 求めるもの ーー
1
慌ただしい足音が人々の間を駆け抜けていく。
受付ロビー、売店、非常階段、思い当たる場所を霧下麗奈は息を荒らし、今にも前屈みに倒れそうになりながら、懸命に走っていた。
どこに行ったのよ…… ーー
胸に込み上げ、誰かを罵倒したい気持ちを必死に堪えながら、自分の勤務場所である五階へ、エレベーターではなく階段を使って戻っていた。
不安と疲労が顔を歪ませてしまう。額にも汗が滲み、すぐにでも化粧室の鏡の前に向かいたい。
だが、その余裕さえ奪われていく。
「霧下さんっ」
病棟の手前で、声を荒げ霧下を呼ぶ声がした。
振り返ると、霧下と同じ病棟で働く先輩の看護師、倉田明美が霧下と同じように息を上げ、疲労困憊の表情で追ってくる。
「ーーいた?」
「いえ。どこにも……」
互いに収穫した情報を確かめ合い、苦渋に頬を歪める。
「ひとまず、病室にもう一度行ってみよう」
廊下で合流し、二人揃って病棟への入口に向かったとき、病棟の奥に見える人の動きに、足を止めてしまう。
まるで、木の幹にある蜜に集まるカブトムシのように、入院患者が、一カ所に向かっていく。霧下はそこがどこなのかを即座に判断する。
ナースステーションの前にある休憩所。さらにその先に向かって人が向かっている。
「……まさかっ」
霧下の予感と同時に、倉田も同じことを脳裏に巡らせ、二人は顔を見合わすと一斉に走り出し、自分たちの勤務場所の病棟へと駆けていく。
休憩所には、入院患者たちが集まり、興味津々に目を輝かせて眺めている。二人はそんな患者を避けつつ先に向かう。ガラス張りの壁の奥ひある屋上へと。
屋上に飛び出すと、霧下は心臓を鷲摑みにされた痛みに息を呑む。
急に足が竦んでしまう。
屋上の淵に、一人の女性がこちらに背中を向けて立っていた。
赤いパジャマの女性。この病棟の入院患者であり、霧下たちが懸命に捜していた人物でもあった。
五階建ての病院。その最上階である屋上は、身に受ける風が強かった。
「ーー止めなさいっ」
あまりに突然の状況に混乱して、その場に立ち竦む霧下とは対照的に、一緒に飛び出した倉田が声を荒げる。
倉田の声に気付いた女性はゆっくりと振り返り、険しい表情で霧下たちを睨んできた。
彼女の目差しは恐怖や怯えで強張っているのではなく、怒りに満ちた鬼のような形相であった。
刃物みたいな険しい目差しに、霧下はさらに体を硬直させる。
「来ないでっ」
「止めなさいっ、今すぐ戻ってっ」
恐怖で動けない霧下をよそに、倉田は必死に呼びかけ、ジリジリと歩み寄り、女性との距離を縮めていく。
惨めな自分と違い、懸命に話しかける倉田の姿に、霧下もようやく一歩を踏み出す。
「ーーーーーーーーーーーーっ」
空気を切り裂く叫喚が響いた瞬間だった。
屋上の淵に立っていた女性の姿が忽然と消えた。
驚愕する霧下だったが、何もできなかった。瞬きすらできない。まるで、時間が止まってしまった錯覚に陥ってしまう。
待って、と呼び止める隙もなかった。
悲鳴や雑音は何一つなかった。ただ、静寂した屋上に風の音が舞っていた。
2
目覚めた日から毎日、カウンセリングを含む診察を繰り返す毎日を、流れるように漠然と暮らしていた。きっと、今日もそんな日になるだろうと、半ば諦めた気持ちになりながらも。
テレビでCMが流れると、彼はザッピングしてニュース番組に切り替えた。
最近、世間で話題となっている事情。新たな刑罰について議論を述べている議会の光景が流れ、頭皮の髪が寂しげになった中年男性の政治家が額に汗を浮かべながら、必死に声を荒げて法案の必要性を訴えている姿があった。
これまでの情報番組とは打って変わって、緊張感が画面から漂っていた。
何気に画面を眺めていると、病室の扉がノックされた。彼は扉のほうを眺め、「はい」と答えると、扉がゆっくりと開かれる。
「おはよう」
「おはようございます」
このとき、今朝目覚めてから初めて、彼の強張った表情から力が抜け、頬が緩んだ。
横開きの扉が開かれた先には、一人の白衣姿の女性が立っており、胸に抱えるように右手にトレイを持ちながら部屋に入ってきた。
失われた記憶のなか、彼が初めて知った人物の一人である。この病棟に勤務している看護師であり、数少ない彼が心を許せる人物であった。
彼女は病室に入ると、無駄な動きなく、ベッドに設置されたテーブルにトレイを置いた。
その際、彼女の胸につけられたネームプレートが彼の目に飛び込んできた。「霧下 麗奈」と。
「調子はどう? 相葉くん」
霧下は気さくに彼に話しかけてくる。
鼻筋が高く、少し鋭い目尻を下げ、霧下は口元を緩めて微笑んできた。
霧下と初めて会ったとき、彼女自身緊張していたのか、彼の前で険しい表情をしていた。元々、スッキリしとした顔立ちで、長くしなやかな黒髪のせいか、相手に緊張感を与えたが、今はそのような様子はなく、普段長い髪をピンでいたが、今日は留めずに背中に流していた。
「まぁまぁです」彼は笑みを返す。
霧下が放つ「相葉」という名字。
相葉 薫
それが彼の名前であった。いや、彼にとっては“らしい”が最後に足される。
当然、当人もそれを知ったのは五日前の出来事。前も後ろも分からない彼にとって、最初に与えられた情報。それが名前であった。
それが本当に自分の名前なのか? ーー
当初は疑念も抱いた。疑いに駆られそうにもなった。だが、その名前を否定してしまっては、先が不安な道なりに成りかねないのを、心の奥で察知し、名前を受け入れた。
何より、「相葉」と呼ばれたとき、素直に受け入れられる気持ちよさがあった。耳に響くと言葉に表せられない安堵感に包まれ、だからこそ彼は受け入れた。
互いに挨拶を交わしたあと、テーブルの上に置かれたトレイに薫は視線を落とした。トレイには朝食が乗せられていた。
「別にわざわざ持ってこなくてもいいのに。それぐらい、取りに行きますよ」
申しわけなく答えると、霧下は気にしていないと首を振ると、薫から視線を外し、テレビを見た。つられて薫もテレビに視線を移す。
画面では先ほどのニュースが続いていた。画面は切り替わり、この議題について異論を訴える国民のデモ映像が流れていた。
「気になるんですか? このニュース」
真剣な目差しで食い入る霧下に訊いてみた。すると、霧下は唇を軽く噛みながら頷いた。
「まぁ、ちょっとはね。あなたは気にならない?」
「さぁ。別に」
どこか距離感を抱いてしまう薫は笑いながら答えた。
「軽いわねぇ」
「そうかな?」
薫の無関心さに霧下は呆れ、顎を左手で抑えて、嘆くようにうなだれた。
そのままかぶりを振ると、霧下は体を反転させた。
「それじゃ、ゆっくり食べてて」
言いながら霧下は入口へと進んだ。遠ざかる背中に、薫は「あっ」と引き留めてしまう。
「あとは自分で返しに行きますから」
薫はトレイを右手で指差しなから伝える。
「そう? 別にいいのに」
霧下は屈託ない笑みで頷くと、そのまま病室をあとにした。
一人残された病室にまた重たい空気が充満し、静寂した時間が流れ始めた。
テレビから流れる音声が空しく響くなか、薫は静かに朝食を食べ始めた。
薫が病室を出たのはそれから三十分も経たなかった。右手には空になった食器を乗せたトレイを持っている。気分が滅入る日々だが、食欲だけはある体が薫には不思議であった。
廊下に出て扉の横を眺めると、自分が入院している病室のプレートが目に入った。
病室は「502」病室。
名前の書かれたプレートから目を逸らし、体の支えにと手すりが設置された
廊下を進んだ。病室と統一された白い壁が続く。
どこからともなく消毒液の臭いが病棟内に充満していた。
両脇を病室に挟まれた細い廊下を進むと、眩しい光と賑わいが薫に飛び込み、視界が一気に広がった。
廊下を抜けた先は左側にナースステーション。その向かい側には広い休憩所となっており、そこには数脚のテーブルと椅子が置かれていた。先ほどの賑わいはここから聞こえていた。
薫はナースステーションと休憩所の前を横切る。ふと、視線を右に傾けると、休憩所の様子が飛び込んでくる。
休憩所では、パジャマ姿の数人が椅子に腰かけていた。薫のように病室での食事するのではなく、ここでの朝食になっていた。
だが、少し様子が違う。
患者一人のそばに、一人のエプロン姿のヘルパーが付き添っていた。そして、患者のサポートをしていたが、ある者は奇声を上げ、ある者はヘルパーが口元に運ぶ食事を頑なに拒絶して唇を閉ざす者。じっと天井を眺め、無表情のまま虚ろな目差しを送っている者。様々な姿が点在していた。
老人福祉施設での老人と、ヘルパーとの関係とはかけ離れていた。患者は老人ではなく、二十代から年配、男女と様々。
異様に見える光景を、薫は平静に受け流して休憩所の前を通りすぎ、トレイの返却ワゴンが置かれた場所に進んだ。
返却ワゴンは病棟入口付近に置かれていた。
病棟入口。それはエレベーターや、階段ではなく、固く閉ざされたガラス製の観音開きの扉となっていた。まるで防犯用扉みたいに頑丈で、厚みのある扉で閉ざされていた。
病棟は五階建ての最上階に位置している。だが、病棟内に下に降りる手段が一つも存在していなかった。
エレベーターや階段。そうした設備はすべて、扉を隔てた先の廊下の奥に存在していた。だが、この病棟に入院している患者がその階段を利用するのは滅多にない。なぜなら、この扉には頑丈に施錠されていたからである。
閉ざされた病棟。
背中で賑わう異質な休憩所。その光景がこの病棟の特徴なのかもしれない。ここは特別精神病棟。「特別」がつき、一般的な精神病棟とも違うらしい。
なぜ、下の階から切り離し、監禁しているような造りになっているのか、憤りや懸念に薫は幾度となく襲われた。しかし、懸念を誰かにぶつけることはなく、感情を押し殺してすごしていた。
施錠された扉が、トレイの返却時に自然と薫の視界飛び込んでくる。
本音を言えば、そのたびに胸のなかを土足で掻き荒らされたみたいな痛みと苦しみに苛まれていた。
なぜ、自分はここに閉じ込められているのだ、と。怒りにも似た思いで。
漠然とした空虚感に襲われ、早くこの場を去ろうとしたとき、ワゴンの異変に動きを止めた。
普段、トレイを返却するのは薫が最初であった。しかし、今日はすでに、一枚のトレイが返却されていた。
不思議に思い、体を反転させて休憩所を見渡しテーブルの患者の数を数えた。
病棟の患者の数は少ない。たわからこそ記憶が残っている間ではたるが、今、休憩所にいる患者ですべてだと直感する。
それなのに、トレイが返却されていた。食事には一切手をつけていない、そのままの状態で。
誰のなんだろう? ーー
素朴な疑問から、トレイを覗いた。すると、「506」号室と書かれていた。ちょうど、薫の病室から三部屋離れた先の病室の患者らしい。
「……506?」
薫は眉をひそめてしまう。胸の奥に微かに現れた奇妙な違和感が拭えないでいた。
スッキリとしない気持ちから、目尻を指で擦りながらも、自分の病室に戻った。
病室に向かう途中、スリッパと床が当たるヒタヒタと鳴る音を止め、薫は顔を傾けると、一つの病室の前のプレートが目に入る。
506号室だった。
先ほどの違和感を拭えないでい。
やっぱり、変だ ーー
薫の疑問は目の前に現れた。
506号室のプレートには名前が書かれていない。入院患者がいる病室には名前があるのが当然であるのに、それがなかった。
それは病室が空室である証拠。それなのに、病室のトレイが返却されている。それが胸に竦む小さな違和感になっている。
誰かがいるんだろうか ーー
湧き上がる好奇心に、薫は右手をギュッと握っていた。
このまま扉をノックすれば疑問は晴れる。誰かがいるのならば、返事などの反応があり、無人ならば何もない。と。だが、薫はノックをできない。
自分から積極的に行動に出る勇気はなかった。
胸に渦巻く好奇心より、誰かと面識を持つことに対しての恐怖心が勝ってしまった。
薫はそのまま自分の病室に戻った。
そのあと、薫は506号室の見えない患者を意識していた。
午前中、退屈をもてあそんでいる間ずっと。昼食を終え、トレイを返しに行ったときも、506号室の前で立ち止まったが、その際も声をかけずに自分の病室へと戻った。
空気が漂う音さえ閉ざしてしまいそうな静寂した病室。それでも時間は確実に流れていき、病室にある小さな四角い目覚まし時計が
午後二時をすぎようとしていた。
「それじゃ、いつものように君の名前と、年齢を教えてくれるかな?」
「ゆっくりとした口調だが、風格のある低い声が響いた。
「相葉薫。二十一です」
ベッドに腰かけた薫は、向かいのソファーに腰かけ、真剣な表情でこちらを見据える者に対して答えた。
「よし。ありがとう」
薫の反応にその者は頷き、頬を緩めるのと同時に、そばに立っていた霧下が手にしたカルテに記入する。
周りから見れば、奇妙な対話に見えるが、この質問が、薫にとっての診察の始まり方である。
ソファーに座っていたのは、主治医である中年男性。黒い短髪の髪には微かに白髪が混じっているが、堀が深く、四角い顔が風格を醸し出して年配の雰囲気を紛らわしていた。
また、無精ひげを生やした顎の辺りが医師としての威厳を和らげ、親近感を漂わせている。
男性は親身になって対応してくれ、薫も霧下のように心を許していた。彼が羽織っている白衣の胸のプレートには「渡部 恭介」と記されていた。
渡部は通常の診察がない昼間の時間帯を見計らっては病室に訪れ、薫の状態を診る診察を行っていた。
渡部が投げかけた質問は、毎日繰り返されている。それは、薫の記憶が健在であり、異常がないかを調べるために、単純かつ、重要な質問であった。
だからこそ毎回、薫も真剣に答えていた。
正確に答えた薫の反応に、渡部は安堵から静かに息を吐いた。
「どうだい、調子は?」
「まぁまぁです。相変わらず昔のことは思い出しそうにないんですけど」
薫は悔しさに眉を歪めて答えると、渡部は胸の前で腕を組み、苦笑した。
「焦る必要はないさ。じっくり、ゆっくりと思い出していけばいい」
渡部の受け答えは毎回、形は変わっても、似たような返事であった。
決して、渡部も薫に対して記憶を引き戻そうと強要はしない。それは薫が目覚めた際に自分の名前を教えたときの反応から、治療方針を決めたらしい。
そのため、軽く数回の質問を終えたあとは、世間話を加えた会話が主な内容となっていた。
渡部が病室に訪れてから十分ほどがすぎたころ、
「さて、それじゃ俺はそろそろ行くよ」
頃合を見計らって渡部は腰を上げた。今日の診察はこれで終了となった。渡部の診察は普段から長居する機会は滅多になく、いつもこれくらいの滞在であった。
渡部は部屋を横切り、扉に手を当てた。
「あ、あの、先生」思わず声を上げたのは薫。
薫の呼びかけに渡部は動きを止め「ーーん?」と振り返る。
どうした? と言いたげに渡部の視線が薫へと注がれる。だが、その視線に薫は逡巡して唇を噛んでしまう。
短い沈黙のあと、ようやく薫は口を開いた。
「あの、506号室って、誰か入院しているんですか?」
その質問が口から放たれると、喉の奥に詰まっていた何かが取れたみたいな爽快感に包まれた。
今朝の違和感は今も残っている。確かめようにも勇気がなく、病室を通りすぎていたのだが、やはり気になってしまい、意を決して尋ねた。
それでも薫の勇気は、すぐさま不安に姿を変えて体中を蝕んでいった。
突拍子のない質問に対し、渡部と霧下は無言で顔を見合わせ、目で意見を交わしていた。
何かに戸惑うような、何かを隠すような、返事に躊躇する二人の表情は薫にはどこか奇妙で、不快に見えてしまった。
「どうしたの? 急に?」
短い沈黙のあと、口を開いたのは霧下。不思議そうに薫をじっと見てきた。
今朝の出来事を薫は隠さずに伝えた。病室に名前が記されていない疑問も含めて。
事情を聞いた二人は、「なるほど」と頷くと、それまでの奇妙な表情が、普段の何気ない穏やかな表情へと戻っていた。
「入院している患者は確かにいるよ」渡部が答える。
「じゃぁ、なんで名前を隠しているんですか?」
「あぁ、それは本人の希望でね。どうしても伏せてほしいらしいんだ。あ、でも、その理由は聞かないでくれよ。プライバシーに関わる部分なんだ」
薫は二人の様子に懸念を隠せない。しかし、すぐに杞憂では、とも疑ってしまう。
頑なに画そうとするのならば、今の渡部の言葉はなかった。隠したければ患者はいないとだまっていればいいのだから。
薫は胸に竦む不安に言い聞かせた。
「でも、悪い子じゃないわよ。ちょっと人見知りなだけ」
霧下が補足する。霧下の穏やかな目差しは、薫を否応にも納得させた。
「すいません。変なことを訊いてしまって
」
「納得したかい?」
頬は引きつっているだろうと自覚しつつ謝ると、渡部は怪訝な顔を一切せず、「そうか」と言い残して、霧下と病室をあとにした。
人見知り、か ーー
少なからず共感できた。名前も分からない人と会話を交わすのには勇気がなく、臆して自分の殻に閉じ籠もってしまう今の自分がと似ている気がしてしたい。
不意に薫はテレビラックの引き出しに手を伸ばし、なかからある物を取り出すと、視線の先に持ってきた。
取り出すのはスマホ。スカイブルーの物。どこかにぶつけたのか、色が剥げてしまっている品物は、薫の所持品であると教えられていた。手にしたデスクトップは暗くなっていた。
今は故意に電源を切っている。病院内にいる理由のほかに、登録者の名前と番号を見るのが怖かった。
電源を入れれば、誰かから連絡があるかもしれない。それに対応するのが怖く、電源を切っていた。
相手は自分を知っているかもしれない。それなのに、自分は相手を知らない。そんな人たちにどう接すればいいのか困惑してしまうから。 この気持ちは506号室の患者が名前を伏せたい思いと似ていたのかもしれない。
だが、その不安のなかに違う興味が生まれていた。
一体、どんな人が入院しているんだろう? ーー
漠然とした疑問を、見上げた白い天井に投げかけた。
人との距離を心の底で望んでいる薫にとって、好奇心は珍しいと実感していた。それでも、不思議と好奇心は絶えなかった。
3
閉鎖された監獄 ーー
霧下にとって、自分が勤務している病棟はそんな場所なんだと、皮肉ってしまうことが時折あった。
三度の食事。ここでは入院患者の食事を休憩所、もしくは病室に運ぶ際、不意に飛び込んでくるガラス張りの扉が、霧下をより皮肉らせる。
固く閉ざされた扉が、ここの病棟を現実から切り離し、世間から差別をしているのだと、卑屈になった。
霧下をそこまで屈曲させる思いには事情があった。
忘れられない光景が扉を通して目蓋に蘇るある日の出来事。
その日も霧下は入院患者の待つ病室に食事のトレイを持っていこうとしていたとき。
元々、患者の元に食事をもっていくのは看護師とヘルパーが行っていた。
休憩所ではヘルパーに付き添われた患者が集まっていた。霧下は患者にトレイを渡そうと、ワゴンののそばに来ると、そばの扉の向こうに、一人、四、五歳ぐらいの女の子の姿を見つけた。
イチゴ柄を模したパジャマ姿から、入院患者だろうと直感する。
女の子は今にも泣きそうに目を腫らして立ち、霧下を眺めていた。
どうやら迷子になったらしく、偶然にもこの病棟に迷い込んだらしい。
霧下は手にしたトレイをワゴンに戻し、女の子に話しかけようと扉を開こうとしたときだ。女の子の後ろから、疲労の色をあらわにした女性が現れた。
扉越しに名前を叫んだ声が聞こえた。すると女の子は振り返り、現れた女性に一目散に走り寄って行った。
どうやら女の子の母親らしく、女性の胸に飛び込むと、大粒の涙を流して泣き出した。安心して堪えられなかったのだろう。
それまで必死に捜していた疲労から表情を曇らせていた母親も、安堵の笑みを浮かべ、女の子を抱きしめていた。その姿をガラス越しに見ていた霧下も、胸を撫で下ろし、二人の様子を見守っていた。
しかし、次の瞬間、霧下は腹の奥底を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
泣き続ける女の子を抱えた母親がエレベーターのある方向に体を向けようとした瞬間、霧下に対して、それまでとは打って変わって、冷ややかな表情を見せたのだ。
彼女の目差しに、それまで女の子に見せていた温もりはなく、蔑んだ冷たさに、唇の両端を吊り上げ、嘲笑っているようにさえ見えた。
人を見下す胸苦しい目差し。
母親は霧下に気付いたのか、すぐさま顔を逸らし、逃げるようにエレベーターへと走って行った。その間、霧下の時間は止まって呆然と立ち尽くし、誰もいなくなった廊下を眺めていた。
背中で食事を楽しみにしている賑わいが、霧下を現実に引き戻らせ、何事もなかったように体を反転させ、普段の作業に戻ろうと休憩所を見渡したとき、母親の不快な笑みの意味を理解した。
母親はこの病棟に対して、蔑んだ視線を送っていたのだ。まるで、自分が上位に立つような白い視線。偏見の視線だったのだ。
霧下は嘔吐を催すような気味悪さを否めないでいた。
そのとき以来、無意識のうちにガラス越しに視線が向かう回数が増えていた。そこで心ない者の白い視線を感じることも。
ときには、入院患者と思える若い者が、友人と思える同年代の者を数人引き連れ、ガラス越しにこの病棟を伺っては、患者を指差してヒソヒソと話している姿を目撃してしまった。
怒りを覚えた霧下が扉のほうへ向かうと、逃げるように去ってしまう。しかも、大声で笑いながら。そんな光景に何度も出くわすと、そのたびに心を痛めた。 ここに入院する患者と、あのような患者。霧下にとっては同じ患者であったが、二者を隔てるこの扉こそが偏見や差別の象徴であるように佇んでいた。
だが、同じような白い視線を何度も目にしてしまうと、考えが変わっていく。いや、そう懸命に励んだのだ。
この扉は、ここに入院している患者を守るための扉なんだと。
きっと扉がなければ、患者同士の行き来は多くなるだろう。その際、見下した態度や、避けられたりと、様々な問題が引き起こってしまいだろう。学校におけるイジメのように。
扉はそれを防ぎ、患者を守っているのだと言い聞かせた。
施錠されているのも、そのためなんだと、自分の胸に無理矢理納得させた。
だが、ふとした瞬間、迷いが生じてしまうのも事実であった。今日も、502号室に食事を持っていこうとしたとき、ガラスの扉を見てしまうと、考えてしまう。
502号室の患者、「相葉薫」はどう思っているのかと。
4
翌日、薫は霧下に連れられ、一般病棟の廊下を歩いていた。検査のために、ある場所にむかって。
すれ違う医師や患者の姿は、診察時間の重なった午前中であったので多かった。そうした人たちとすれ違うたびに、薫は緊張に襲われていた。
なんの変哲もない人々だが、自分が精神病棟の患者だと、どこか見えない壁に閉じ込められた感覚に襲われ、心臓が激しく脈打っていた。
「お願いします」
辿り着いた検査室の前で、霧下が担当の医師に薫のカルテを渡すと、医師はそのまま薫を検査室に促した。検査室への入り際、壁を見上げると、そこには「脳波検査室」と書かれていた。
このような場所は、普通の者にしたって滅多に来る場所ではない。薫の緊張は必然的に強まる。
「そんなに緊張しなくたって平気よ」
薫の心境を察したのか、霧下が声をかけてきた。薫は笑ってみせるが、ぎこちなく頬が強張っていた。
記憶障害において、脳波に異常がないかを検査するのだと、前日の診察中に渡部から説明を受けていた。それでも、やはり緊張から薫は身構えていまう。
検査室は病室よりもさらに小さな部屋になっており、検査用の機材と、簡易ベッドが密集した部屋になっていた。薫は医師にベッドに座るように指示され、素直に従った。
「これを飲んでいただけますか?」
霧下と同年代と思える二十代後半の男性の医師が優しく微笑むと、薫にオレンジ色の液体が入った小さなボトルを渡してきた。
「これからの検査は、睡眠中の脳波を調べるものですので、そのための睡眠薬ですよ」
飲むのを躊躇している薫に、丁寧に付け加えた。
薫は睡眠薬を一気に飲み干した。液体は異様な甘さをしていた。まるで、スプーンに大盛りにした砂糖を飲んだ感触で、喉を通るざらつきが気持ち悪かった。
甘いっ…… ーー
声に出そうになると、医師が空になったボトルを引き取った。味はあとを引く甘さに反して、薫は唇をすぼめてしまう。
薫を見ていた医師は思わず苦笑した。
下を口内で転がし、薫が睡眠薬の味と格闘している間、着々と準備が進められていく。
部屋に設置された機材から、薫の頭皮に何本ものコードが付けられていく。アニメなどに出てくるロボットが目覚める瞬間の場面を彷彿とさせる形になった。
準備が整うと、薫はベッドに横になり、目蓋を閉じた。
「それじゃ相葉さん、これから検査を始めます。途中、眠たくなってくると思いますが、そのまま眠っていただいて構いませんので。それじゃ、始めます」
医師の合図とともに、部屋の電気が消されたのが目蓋の奥で分かった。暗闇に呑まれていると、ジリジリと機械音が小さな部屋に充満していった。
しばらくは目を瞑っていても、意識はハッキリとしていたのだが、それも次第に朦朧としていった。
真っ暗な空間に薫は漂うように浮かんでいた。静かで一切の音も聞こえてこない。しかし、胸の辺りがどこか寂しく、なぜか痛かった。
忘れてしまった人はどこに行ってしまったのだろう? ーー
遥か彼方に旅立ってしまったのだろうか? ーー
漠然と浮かぶ疑問の先に、誰かが薫の前に現れると、薫はこう尋ねてしまう。
君は誰ですか? ーー
無神経かもしれないが、薫には精一杯の言葉になってしまう。本当にその人を知らないのだから。
……バカ ーー
その人物の返事が突き刺さる。それなのに、言葉が持つ意味でさえ、薫は忘れてしまっている。本当に情けないが。
じゃぁ、あなたは一体、誰? ーー
僕? 僕は…… ーー
バカッ ーー
誰かが薫を一括する。その瞬間、真っ暗だったはずの目の前で何かが弾け、血のような雫で真っ赤に染まった。
真っ赤な世界に波が走り、波に揺られるように、薫は左肩を叩かれる感触があった。
「相葉さん、終わりましたよ」
誰かの声が薫を真っ赤な世界から引き上げてくれた。目蓋を開くと、医師が薫の肩を叩いて起こしてくれた。
「お疲れさまでした。検査は終わりましたよ」
薫が目を覚ますと、屈託ない笑顔で検査の終了を告げた。
そのままベッドから身を起こしたが、視界の先がまだぼやけていた。
「まだ薬が効いていて眠いかもしれませんかが、すぐに治まりますので心配ありませんから」
医師は説明しつつ、丁寧に薫の頭に付けられていたコードを丁寧に外していった。
意識が朦朧としていると、ほどなくして部屋の扉をノックする音がした。視線を傾けると、時間を見計らって迎えに来てくれたのか、扉を開いた霧下の姿があった。
そのあとは、堪え切れないあくびを繰り返しながら、自分の病棟へと戻った。
「どうだった?」
あくびを繰り返す薫を可笑しそうに笑いながら、霧下は訊いてくる。
「どう、って寝ていたからなぁ。今はただ眠いだけかな」
簡単な返事をすると、初めての経験から解放された安堵感からか、気が緩んでしまい、廊下で大きく両手を上げて伸びをしてしまった。
見慣れた病棟に戻ると気分が幾分軽くなった。意識していなくても、緊張していたらしい。薫は病室へ続く廊下には進まず、休憩所を横切った先へと足を運んだ。
「どこへ行くの?」
薫と別れ、ナースステーションに戻った霧下が薫の行動に気付いて、カウンター越しに呼び止める。
「屋上です。ちょっと、風に当たりたくて」
薫は進もうとした先を指差した。
特別精神病棟には、特別な屋上があった。それは一般病棟とは切り離された場所にあり、建物の構造的に互いに屋上が死角になっていた。
特に、病棟の屋上は階段で上るのではなく、休憩所からガラス張りの扉を開いた先にあるベランダ状の屋上と特徴があった。
異質な造りになっているのは、予期せぬ事態に備えであり、ナースステーションから見渡せる造りになっている。看護師やヘルパーを同行させて、風に当たりに出る患者を薫も何度か目撃していた。
だが、やはり一般の病棟とは少し違っている部分もあった。
「屋上って言っても、鍵がかかっているわよ」
「あぁ、そうか……」
そのまま進もうとした薫に、霧下が付け加えた。薫は思い出したように頷き、ナースステーションに引き戻った。
「十五分だけよ」
「ーーはい」
薫はカウンター越しに霧下から鍵を渡された。屋上に続く扉の鍵である。
ここの屋上が一般の屋上と違っていたのは、この鍵であり、普段は屋上と休憩所を隔てる扉に入口同様に鍵がかけられていた。
それは行き来を自由にすることで予期せぬ事故を防ぐためであり、本来ならば屋上にでるのも、看護師やらの同行が条件となっていた。
薫は鍵を受け取ると、一人で屋上に向かった。
「いい? 十五分よ」
背中で念を押すように霧下が声を荒げるが、薫には同行せず、自分の仕事に戻った。
薫が一人で屋上に向かうのは特別に許されていた。薫には危険性がないと判断した主治医の渡部の計らいでもある。
しかし、時間の制限付きではあるが。
それでも薫は満足していた。密閉された空間。いつ閉ざされてもあかしくない、記憶に怯える日々。
屋上で触れる風は、緊張を解いてくれる手段でもあったから。
扉の鍵を開くと、コンクリート張りの床をヒタヒタと進み、屋上の淵に設置されたフェンスへと向かった。
薫の身長は百七十以上あったが、薫の背丈を遥かに超える高さのフェンスが設置されていた。これもまた、安全を期したもねであった。
薫はフェンスに右手を当て、目を瞑ると深呼吸をした。
僕はどうしすればいいのだろう? ーー
肺を冷たい空気を充満させながら、心のなかで問いかける。
返ってくる答えなどなく、薫は目蓋を開いた。すると、街の光景が一望できた。
冷たい風が薫の頬に触れ、髪をなびかせた。薫は無言のまま街を眺めてしまう。
街はすぐそばに存在する。それでも薫にとってみれば遠い存在てもある。決して病院から外に出られないのだから。
風が渦を巻くように舞い、薫の背中に当たると、フェンスを握った右手に力を込めて握りしめ、また目蓋を閉じた。
あのときの感覚ななんだったんだろう? ーー
不意に脳波を検査していたときのことを考えてしまう。
呆然とする意識のなか、微かに誰かと会話していたみたいな感覚が胸をざわつかせる。
あれはただの夢だったをだろうか? それとも…… 記憶?」
どこか寂しげで、けれど懐かしさの漂った声。その声は薫の知り合いだったのか? 意識に刻まれた短い言葉に疑念は次々と浮かんでくる。
何より気がかりなのが、最後に見えた赤い世界。何かが目の前で弾けたように見えた。大切な物を奪われた、そんな切なくて苦しい気持ち。思い返しても、薫は喉に針が詰まる息苦しさに襲われてしまう。
意識を集中させ、何度も脳裏に問いかけてみるが、暗澹とした闇が渦巻くばかり。明確な答えを引き出せずにいた。屋上に舞う風が薫の背中に当たっているだけ。
「……飛び降りて楽になってみる?」
そのまま風に吸い込まれそうになったとき、どこからともなく声が飛んできた。驚いて薫は体をビクつかせて目蓋を開いた。
風の音が響くなか、背中に人の気配を感じ、振り返った。
感情のない無機質に聞こえた声に吸い込まれるように。
ゆっくりと薫の視線が右から左に動き、入口と向き合う形に振り返ったとき、薫は一人の女の子の姿を捉えた。
呆然と立ち尽くし、虚ろな眼差しを注ぐ女の子を。
ショートボブに整えられた髪は微かに赤みを帯びており、顔も背も小さかったが、薫と同年代の二十歳前後に見えた。
突然現れた女の子に、薫は困惑を隠せないでオドオドしてしまう。 薄い水色のパジャマ姿から、入院患者であるのは想像できた。薫はこの女の子を見たのは初めてであった。
彼女の瞳は大きく綺麗なのに無表情で、透き通るような白い肌のせいか、どこか生気の感じられない寂しさを漂わせていた。
薫は驚きもあったが、彼女の雰囲気に言葉を失い、呆然と吸い込まれそうに見惚れてしまった。
「どうしたの? 飛び降りてみたら。楽になるかもしれないわよ」
彼女は無表情に似合わない台詞を淡々と放ち、薫を戸惑わせる。
誰なんだろう? ーー
当然ではあるが薫に見覚えはない。けれど、彼女の無表情さがどこか薫の胸に突き刺さる。
目をじっと見詰めていると、彼女も眼差しを返してくる。
「……えっと、君は?」
無言の見つめ合いのあと、薫は息苦しさに下唇を噛み、息を呑み込むとようやく言葉が出た。
気持ちでは笑っているつもりでいたが、緊張から頬の辺りの筋肉が引きつっているのが伝わる。きっと笑えていないだろうと痛感した。
何より薫の問いかけに対し、無表情ながらも、訝しげで警戒を示す彼女の表情がそう語っていた。
気まずさに心臓を締め付けられながらも、彼女の返事を待った。
薫も重ねて何かを言おうとするのだが、喉の奥で言葉が詰まってしまい、何度も息を呑み込む。
「……バカ」
壊れそうな声が薫の耳に届く。彼女が口元を微かに動かして言った。
「ーーえっ?」聞き取れなくて目を丸くして問い返す。
数回、瞬きをしながら彼女を見詰めると、このとき、初めて怒りを瞳に宿して睨み返した彼女に、薫は臆してしまう。
そのまま罵倒が飛んできそうな勢いだったが、彼女はぞんざいに顔を背けると、何も言わずに体を反転させた。
間髪入れずに、そのまま建物へ駆けていった。
「あっ、ちょっとっ」
思いがけない反応に驚き、体をよろめかせながら、薫は呼び止めるも、彼女は聞く耳を持たずに足音を響かせて去ってしまった。
「ちょっと、待ってってっ」
自分でも戸惑ってしまう行動を取ってしまっていた。次の瞬間、走り去る彼女のあとを追っていた。
「ちょっと、なんなんだよっ」
彼女の左手がドアノブに触れるのと同時に、薫は彼女な右手の手首の辺りを掴んで引き留めると、ぞんざいに叫んだ。思いのほか、表情は険しくなっていた。
ガラスに反射する姿は、嫌がる彼女を薫が無理矢理押し止めて映り、横目で見た薫は咄嗟に腕を放した。
咄嗟的な動きに困惑して胸の辺りで掌を眺めると、奇妙な感触ご指先に残っていた。
震えてる ーー
彼女の腕の感触を実感していると、彼女に疑いの目を向けた。
振り返った彼女は、怯えた眼差しで薫の顔を伺っていた。今にも泣き出しそうに目を潤ませ、唇を振るわせていた。
ガラス細工みたいに儚く見えた姿に、薫は急に罪悪感に襲われ、視線を泳がせてしまう。
彼女を直視できなかった。
「ーーバカッ」
間髪入れずに罵声が轟く。これまでにない勢いで叫喚すると、目に映るすべてを拒絶するみたいに、右手を大きく弧を描くように振り払う。
腕を避けるのに薫が一歩後退すると、その隙をついて彼女は扉を開き、病棟の奥へと走り去ってしまった。
何やってんだろう? ーー
閉ざされた扉の音が激しく響き、今の自分が情けなくてため息がこぼれる。ガラスに反射する惨めな姿と虚ろな視線と睨み合う。
ガラスの奥では走り去る彼女の姿を捉えた。彼女はナースステーションの前を通りすぎ、病室へ続く廊下の角へと消えてしまう
「……まさか……」
呆然とする意識に抗い、思考が働き途切れていた糸が繋がっていく。その先にある疑問が浮き上がる。
初めて見る女の子。薫は入院患者のほぼ全員を覚えていた。それは、記憶がいつ消えてもおかしくない状況の反動で覚えようと意識が働いていたから。
しかし、彼女は知らなかった。
「……506号室の子?」
確信などはなかったが、薫は不思議と目を見開いた。
気になっていた存在の可能性がある彼女に対してのさっきの行動には自分を叱咤せずにはいられず、うなだれてしまう。
どれだけの間、立ち尽くしていたのかは薫には把握できなかった。気付けばガラス越しに霧下がこちらに向かってくる姿があった。どうやら約束の十五分が経ったらしい。
薫は自ら扉を開いて病棟内に戻った。
「どう? 少しは目が覚めた?」
屈託なく霧下は訊いてくる。しかし、薫は返事せず、霧下の肩越しに、先ほどの女の子が消えた廊下を眺めていた。
「どうしたの?」
薫の様子を不思議がった霧下は、誘われるように振り返り、薫と同じ方角を眺めながら首を傾げる。
「あの子、彼女の名前。教えてもらえませんか?」
「あの子?」霧下は首を傾げる。
「そう。506号室の女の子です。あ、いや、そうだって確証はないんですけど……」
そこまで言うと薫は口を噤み、不自然に頭を掻いて霧下から顔を背けた。あまりに唐突すぎたために。
あの子が506号室の子の確証はない。
怪訝に思われているかと、恐る恐る霧下を伺うと、突然の質問に驚いたように、霧下は目を点にしていた。
「あの子って、会ったの、あなた?」
「ーーはい。見かけない子だったから。多分、506号室の子だと思うんだけど。違いますか?」
素直に薫は頷き、彼女の容姿を簡単に伝えた。
「……そう」
まるで、独り言のように呟くと、霧下はじっと廊下を眺めていた。
「あの、霧下さん?」
時間が止まったみたいに立ち竦む霧下に、薫は眉をひそめて尋ねる。
「あ、あぁゴメン。普段、滅多に病室を出ようとしない子なのよ。だから、ちょっと驚いてしまって……」
今の台詞から、霧下は彼女が病室に戻る姿を見ていないらしい。
霧下の驚く様子からして、薫の推測は当たっていたらしい。先ほどの彼女は506号室の患者なのだと。
「あの、あの子の名前って」
彼女の名前が気になってさらに尋ねる。
「彼女に名前を教えてもらってないの?」
すると、先ほどとは打って変わって、霧下は真剣な眼差しで薫を見詰め、強い口調で問い返してきた。
冗談も通じなさそうな剣幕に気負けした薫は頬を強張らせ、黙ってこくりと頷いた。下手な抵抗を許しそうな隙さえなかった。
「そう。それじゃ、私からは教えられないわね」
思わぬ反応に薫は面喰らった。簡単に教えてもらえると楽観していたために。
「いい? 彼女が、名前を隠すのには彼女なりの理由を持っているの。それなのに、私たち看護師が安易に名前を教えられない。もし言ってしまえば、それは私たちが彼女を裏切ることになってしまいから。わかってもらえる?」
信頼関係ってこと? ーー
聞き逃せまいと、霧下は一言一句丁寧に、強く強調した。相変わらずじっと薫の目をじっと見つめながら。
目で返事を促される薫は、自分なりに解釈して、反抗せずに「はい」と答えた。
素直に納得はしていないが。
「そう。それじゃ、あなたも病室に戻りなさい」
すると、霧下は普段の優しい表情に戻った。そのときやっと、薫の体も奇妙な緊張が解けて軽くなった。
屋上への鍵を受け取った霧下がナースステーションへ帰る後ろから、薫も病室に戻ろうとしたが、ふと足を止めて顔を上げた。
休憩所の壁には丸い形の時計が設置されていた。薫は時間を確認する。
時刻は午後三時を回ろうとしていた。
明日も彼女は屋上に来るだろうか? ーー
病室に戻ると、ベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
彼女の無表情さが脳裏から離れないでいた。それにあの、「バカ」の真意を掴めない。
それを確かめようと、明日もう一度、屋上に行こうと薫は決心した。
決心を固めると、ベッドに倒れていたからか、それとも検査の睡眠薬が残っていたのか、睡魔が襲って薫はそのまま眠ってしまった。
5
会えるか会えないかは定かてはない。だが、翌日の午後二時四十分をすぎたころ、薫は屋上に向かっていた。
直接、病室の扉を叩けばよかったのだが、臆病さは拭えず、薫はできなかった。
いてくれ ーー
廊下を重たい足取りで歩きながらも、内心願っていた。ナースステーションの角に着いたとき、休憩所の奥を見渡し、奥の屋上の様子を伺った。
外の日差しが反射して眩しく、屋上の全体が見渡せず、眉間にシワを寄せ目を細めてみるが、やはり見難かった。
「開いているわよ。屋上」
すると、ナースステーションの奥から霧下の声が聞こえた。
それって…… ーー
言葉の意味を察したとき、薫は思わず足早に屋上に向かっていた。
扉の前で一度立ち止まり、外の様子を眺めた。今度はしっかり外が見え、フェンスなそばに人影が一つ見えた。
間違いようがない。彼女の姿だった。昨日とは違い、今日は白いパジャマを着ていたが間違いなかった。
勢いよく扉を開いてしまいそうになる衝動を堪え、息を整えてからゆっくりと扉を開き、一歩踏み出した。
あくまで平静を装うようにと、奇妙な意識が出てしまっていた。
ゆっくりと彼女に近づいていく。まだ彼女は薫に気付いていない様子で、街の風景を眺めていた。
足音が鳴ると薫に気付いたのか、彼女は振り返り薫を睨んできた。
昨日のように失敗はしたくない。
決意に似た思いから、薫は自然に笑ってみるが彼女の様子はそうではなく、相変わらず冷たさを漂わせた無表情のままでいた。
彼女の眼差しにまたしても薫は硬直してしまい、気まずい沈黙が二人に生まれていた。
気まずさに耐えかねたのか、それとも昨日の薫の態度が災いしたのか、彼女は身を縮めて走り去ろうとしていた。
「ーー空を飛んでみたらっ」
彼女が一歩踏み出そうとしたとき、咄嗟に薫は口走っていた。逃げようとしていた彼女も、突拍子のない言葉に驚き、足を止めると、薫の顔を眺めた。
それは昨日の彼女の言葉に対しての返事のつもりで考えていた。しかし、いきなり言おうとは考えていなかった。逃げ出そうとした彼女に勝手に出てしまった。
次に何を話すべきか、今にも逃げようとする彼女に、薫に焦りが積もる。
それだけではなく、反応の薄い彼女に対して急に恥ずかしくなり、薫は照れ隠しで首筋を掻いてしまう。
「……何それ? 冗談のつもり?」
すると、冷淡な返事をされてしまった。「……ダメ、かな?」
頬を紅潮させながらも、訊き直す。
「……バカみたい」
厳しい指摘が打ち出され、薫へと突き刺さる。薫は苦笑してしまう。
それでも彼女にも変化があった。それまでいつでも逃げようとしていたが、体勢を変え、また街の風景に体の正面を向けた。
その動作の途中、彼女の横顔を見たとき、微かではあったが、微笑んだみたいに見えた。
また突然逃げ出すのかと内心冷や冷やしているたと、薫は胸を撫で下ろし、彼女の横まで進むと、フェンスに背を凭れて座り込み、空を見上げた。
肌に触れる風はさほど強くなかったが、空に浮かぶ雲は意外と速く流れていた。
空と街。互いに眺めるものは違い、二人の間に会話は何もなかった。だが、不思議と薫に焦りや戸惑いはなく、彼女も逃げようとしなかった。
「あの…… 君の名前は?」
昨日と同じ質問をしてしまっていた。また逃げられるのでは、と不安もあったが、やはり本人から訊いてみたくて、薫は勇気を出して彼女の顔を見上げた。
彼女はじっと街を眺めたまま、返事をしない。
やっぱり、ダメか…… ーー
薫も諦め、視線を落として首を竦めた。
「なんで、名前なんて訊くの?」小さな声で彼女は言った。
「だって、気になってーー」
「私には必要ないのよ。名前なんて」
「どうして?」薫の問いかけに彼女は唇を噛んだ。
「私が何号室の患者か知ってる?」
「506号室?」
薫は迷わずあの名前の出されていない病室を答えた。すると、彼女は空虚な瞳を薫に向けた。
「じぁゃ、なんで名札が出されていないと思う?」
「それって、君が望んだって聞いたけど」
薫は渡部から聞いたことを伝える。
「半分は正解。けれど、半分は間違い」
「どうして?」
「私は病院に嫌われているから。だから、そんな勝手なお願いも通るのよ」
「あの病室に名札はない。あなたが病院に名前を訊いても教えてくれないのがその答えよ。私は死んでいるのも同じ。分かるのよ。看護師や医師の白い視線が。私は死んでいるなも同じ。私の名前なんて知る必要ないのよ」
ようやく話し出してくれた彼女に薫は嬉しかったが、淡々とした口調と態度にどう接すればいいのか迷い、声を失った。
すると、彼女は無言のまま座り込み、膝を抱えるようにうずくまってしまった。元々、小さな体がさらに小さく見えた。
そろそろ戻らなければいけない時間であったが、彼女を放ってはおけず、薫もその場に留まった。
「もう、帰ったら? 時間でしょ?」
「放っておけないよ」
「いいわよ、気をつかわなくたって」
顔に似合わず、頑固そうで薫の話は聞いてくれそうになく、その場から動こうとはしなかった。
これといった会話もなく、時間だけがすぎていく。
「怒られるよ。規則を守らないって」
人の話は聞いてはくれなくても、心配はしてくれるらしい。
「そらはお互いさまでしょ?」ここで薫はようやく目を細めた。
「言ったでしょ。私は嫌われているって。だから、無視されーー」
「僕も一緒だしいいよ」
返事はない。それでも何気ない一言が彼女の関心を引いたのか、顔を上げて、あどけない瞳を薫に向けた。
「僕もほとんど嫌われているのと同じなんだ」
不安を露わにしている彼女に、薫は微笑みながら頷いた。
薫にとって、自分の気持ちを打ち明けようと思えたのは初めて。無論、記憶を失っていた時期のことを除いてだが、“今”の薫にとっては初めてだった。
「僕だって嫌われているよ、きっと」
彼女は相づちすら打たなかったが、薫から目は背けていなかった。
「気楽に話せるのは、霧下さんだけだよ。ほかの人はどこか……」
薫は気にせず続けるが、ふと息が詰まった。
「苦手、とはまた違うかな。けど分かるんだ、僕も。どこか避けられているって感じが。ま、僕の症状のせいかもしれないんだけど」
彼女は首を微かに傾げ、大きな瞳での無言の問いかけに、薫はハッとして口を噤んだ。急に話すべきか逡巡してしまった。
自分の症状を彼女に話したとき、彼女がどんな反応を見せるのかが急に怖くなったのだ。それこそ、冷たい視線で見られそうだと不安になって。
ややあって薫は息を呑むと、切り出した。
「ほら、ここにいる人って、たまに突拍子のないことを起こすでしょ。けれど、それって、脳に傷を負っていたり、精神に傷を負っていたりと、何かしらの原因となる“形”がある。けれど、僕にはその“形”がないをだ。だからみんな、気持ち悪がってるんだよ。顔に出さなくたって普段の接し方で伝わってくるんだよ。それが」
薫は感じていた。看護師から注がれるそんな視線を。表向きには平静を装って接しているからこそ、より強く感じていた。居心地の悪い胸苦しさに襲われながら。
だからこそ、薫は病室から出るのを拒んでいた。白い視線を受けるのを怯えていたために。
この気持ちは誰にも打ち明けられず、自分の胸にしまい込んでいた。無論、霧下や渡部にも伝えていない。
今は不安を顔に出さず、薫は彼女に笑ってみせた。
彼女は無表情のままであったが、辛さを隠そうと唇を噛んでいるようにも見えた。
「症状って?」彼女が短く口を開く。
「う~ん。分からない」
捉えどころのない宙を見つめながら答える。
ハッキリとしない薫を非難する冷たい視線が刺さる。
「うまく説明できないんだよ。大まかに言えば、“記憶障害”なんだけどね」
「ーー記憶障害?」
「うん。僕は突然、記憶を失ってしまうみたいなんだ。それまで会っていた人の顔や名前を一瞬で消してしまう。しかも、それを何度も繰り返しているみたいなんだ」
不思議と他人事のように顔はすらすらと話せた。自分でも驚くほどに。
彼女はきっと呆然としていると予想していたが、彼女は平然としていた。
「な? 気持ち悪いだろ。だから、みんな僕のことを避けるんだ。まぁ、あの人たちは違うけどね。霧下さんと先生は」
思い出したように薫は二人の名前を加えた。あの二人だけは薫に分け隔てなく話してくれていたから。
「……そうでもない」
すると、彼女はか細い声で呟いた。聞き取れなかった薫は、「何?」と問い返すが聞き流された。
想像を超えてしまったのか、彼女はまた顔をうずくまらせてしまう。
「それじゃ、私の名前なんて知らなくてもいいじゃない」
「どうして?」
「いつ、記憶が消えるか分からないなら、名前を知ったって無駄なだけ」
膝に顔を接しながら首を捻り、薫の顔を見ながら彼女は言う。
「まぁ、そうなんだけど。けどやっぱり気になって」
彼女の言い分は正しい。けれど、不思議と薫もこれだけは譲れず、残念がり、眉をひそめながら鼻の頭を指でさする。
悔しがる薫をよそに、彼女は立ち上がり、そのまま入口へと進む。薫はその後ろ姿を目で追うが、引き留めたくても声が出てこない。
すると、彼女はふと足を止めた。
「明日から五日間。この時間帯にここに来られる?」
「ーーへ?」
突拍子もなく、意味不明な提案に困惑し、声を上げてしまう。
目を点にして呆然と彼女を眺めていると、彼女は左の掌を開いて薫に見せた。
「いつ記憶が消えるか分からないあなたにとって、五日間はながいんじゃない?」
「いや、まぁそうなんだけど。けど、なんで?」
まだ話の意図が掴めず、薫は眉をひそめる。
「もし、その五日間、あなたが記憶をなくさずにこの場所に来られたのなら、私の名前を教えてあげる。それが条件」
そのとき、彼女はそれまで無表情だった頬を緩ませ、一瞬ではあるが微笑んだように見えた。しかし、薫は言葉に意識が傾いていた。
「それってっ」
ようやく意図が掴めてきた。
確かに彼女の言う通りである。薫にとっての五日間は普通の人よりも遙かに長いかもしれない。
だが、その条件を満たせば彼女の名前を知れる。その気持ちの方が薫には大きくなっていた。
「ねぇ、あなたの名前は?」
期待と不安に苛まれ、考え込んでいると、彼女が問いかけてきた。それまでの淡々とした弱い声ではなく、はきはきとした明るい口調で、年相応の声だった。
しかし、薫はすぐには答えず、唇を尖らせた。彼女の変化に戸惑いながらも、内容に引っかかってしまう。
薫は何も答えず立ち上がると、ズカズカと大股になって彼女のそばに歩み寄った。
「それって、おかしくない?」
なぜ、僕は五日間もここに来なければ名前を教えてもらえないのに、名前を言わなければいけないんだ? ーー
最初の目的は彼女の名前を知ること。だが、話が脱線していることにさえ気付かないほど、薫は怪訝に思えた。
「だって、私は記憶がなくなったりしないから」
理不尽さをものともせず、彼女は平然と言ってみせた。
横暴な話に薫は文句の一つでもと思ったが、気持ちは急に静まっていた。そばに寄ることで、彼女の変化に気付いたから。
それまで能面みたいな彼女が、今は表情豊かに目を細め、えくぼを作って微笑んでいた。
なんだ、ちゃんと笑えるんだ ーー
感情を表に出さなかったのを気にしていたので、この笑顔にはいろんな意味で薫を安堵させ、不安を吹き飛ばせた。これまでの納得しない感情さえも。
「で、あなたの名前は?」
「僕は……」
彼女のペースに引き込まれ、そのまま名前を言いそうになったが、途中で唇を閉ざした。
「何? 名前は?」
彼女は先を急かしてくる。だが、薫は口を閉ざしてかぶりを振る。
「僕も名前を言うのは五日後にする。君が教えてくれたときに。それでおあいこだろ?」
彼女の鼻を明かすつもりで捻くれた言い方をしてみせた。当然、彼女は頬を膨らませる。昨日には考えられない幼い顔だった。
「……子供みたい」
「お互いさまに」
互いに一言吐き捨て、睨み合った。視線が交わる空間に見えない風船が勢いよく膨れていく。
空気が一杯に入った風船に視線の針が刺さると、パンッと破裂し、薫と彼女の笑い声が屋上に舞った。
「それでいいわ。でも、ちゃんと教えてよね」
「君もね」
彼女は照れ隠しで口元を手で覆い頷くと、薫に背を向けて、先に建物のなかに戻った。
小さくなっていく彼女の背中。昨日こは別人に見える。きっと、今の姿が本来の姿であるのだろうたと、薫は納得したかった。
原因が何であるかは知らない。が、彼女の笑みを見られたのは素直に嬉しかった。
病棟内に消えた彼女の代わりに、看護師が入れ替わりに近寄って来た。霧下だ。
入口に進み、先に扉を開いて病棟に戻ると、霧下は面喰らったように病棟を振り返ってから、薫に視線を戻した。
「ねぇ、さっきのって、まさか?」
「うん。506号室の子だよね」
「ーー嘘? なんだか、別人に見えたけど」
「本当だよ」
得意げに答えても、彼女の変貌が信じられないのか、疑いの目を霧下は薫にぶつけてくる。そんな霧下に、薫は自信ありげに笑ってみせた。
「じゃぁ、名前は?」
期待に溢れた目で、当然のように霧下は訊いてくる。だが、それを問われると薫は気まずそうに目尻を指で掻いた。
「そう上手くはいかないみたい」
約束のことは言わずに話を濁らせると、霧下は怪訝そうに片頬を歪ませるが、薫は病室に戻った。
それから毎日、薫は午後三時近くになると、屋上へと足を運んだ。目的は彼女の名前を知るため。彼女とたわいのない話をするため。
日数を重ねるごとに、彼女の様子は変わっていく。日に日に表情は豊かになっていき、笑う回数が増えていく。
今となっては、笑顔を見るために薫は足を運び、明日屋上に訪れれば、彼女から名前を教えてもらえる五日目を迎える四日目になっていた。
その日も前日と同じように屋上に向かった。彼女が笑って待っていると信じて。
しかし、屋上には誰もいなかった。
薫は一人、フェンスに凭れて座り、彼女が現れるのを待った。
それでも、三時をすぎても彼女は現れない。
どうしたんだろう? ーー
流れる雲を眺めながら、薫に不安が積もっていく。屋上にいられる時間も次第に迫っており、焦りが増していく。
病室に行ってみるか…… ーー
そうすれば、簡単に彼女に会えるのだが、妙に約束にこだわり向かわなかった。
しかし、今日ばかりは薫も悩んでしまう。
重い腰を上げるか躊躇していると、扉が開き、彼女が現れた。
気さくに呼びかけるつもりでいたが、薫は逡巡してしまう。彼女の眼差しは虚ろで、どこを捉えているのか分からないような暗い表情をしていたから。
彼女は薫に気付き、笑ってはみたがどこか無理をしているようで痛々しく、薫は素直に返事をできなかった。
これといった会話もなく、無言のまま薫のそばに来ると、同じように座り込み、黙り込んでしまった。
彼女の様子に様々な疑問がちらつく。しかし、直接訊き出そうとはさなかった。いや、できなかった。
彼女の雰囲気が初めて会ったころの姿に戻っていたからである。どこか近寄り難く、刺々しさを体中に漂わせており、痛々しく見えた。
何かを隠している。
それぐらいは薫も直感するが、無理に聞き出すことはできない。
誰にだって隠したいことがある。薫にとっては、自分の記憶がいつ消えていまうかという不安や、症状。彼女に告白したのは本当に自分でも信じられず、今でも自分の症状を隠したがっている。
そんな気持ちと同じように、彼女にも触れてほしくないのだと考えた。例えそれが隠したい過去。薫には過去があるだけでも羨ましくとも、口を噤んでしまう。
「今日で四日だよ。以外でしょ。僕がこんなに記憶を残していたなんて」
できるだけ気持ちを変えよう ーー
薫は無理矢理喋り始めた。強引な話し方に自分でも嫌気が差した。
「あと、一日。明日だ」
わざとらしいな、と内心毒づきたい。それでも話を逸らし、彼女の笑った顔を取り戻そうと必死になっていた。
「バカよね、私って……」
必死に話題を膨らまそうとしていると、彼女が突然呟き、薫の顔を壊れそうな表情で見つめていた。
風になびく彼女の髪が頬に触れる顔は、どこか泣いているように見え、薫は黙ってしまった。
「いいよ、無理しなくて」
努力して明るく振る舞っていたが、彼女にはすべて見透かされていたらしく、目を細めて笑う姿に、薫は情けなくなってしまう。
彼女はおもむろに視線を落とし、パジャマの右腕の袖を少し捲った。元々袖の長かったパジャマ。見える手首に薫は血の気が引き、言葉を失った。
華奢な手首から掌に向けて何重にも巻き付けられる痛々しい姿。
昨日までは気付かなかった。薫は目を点にして見詰めるしかできなかった。
「やっぱり、私だけ話さないのって卑怯だよね」
「ーー卑怯?」
悲しげな表情のまま、唐突に言い出した。
「これが私の入院している理由」
驚愕に陥っていると、彼女は明るい口調で話した。しかし、薫が顔を伺うと逸らしてしまう仕草は、逆に無理をしているにを物語っていた。
本当は話したくない、と、彼女から無言の悲鳴が聞こえそうになった。
「いいよ。無理しなくたって」
これ以上踏み込めば彼女を傷付けてしまう。薫は力ない声で訴える。
「笑えるでしょ。掌にカッターの刃を刺して、パックリ切り傷がついているのよ」
膝の上に掌を乗せながら彼女はつぶやく。
「ちょっと、感覚もないんだよね……」
彼女の嘲笑する横顔に、薫は胸騒ぎで苦しくなる。それが悲痛なものであることも。
「昔、リストカットってあったけど、それって遠い存在だって思ったけど、それよりバカだよね、刃を突き刺すなんて…… これも、昨日の夜中にやったの。意味分かんないんだけど、急に胸が苦しくなって」
かける言葉が見付からない。
「もう何度も、やっているの。傷だって一つや二つじゃない。止めないといけないって分かっているのに、止められない。リストカットと同じね。可笑しいよね、私って」
次第に彼女の声が詰まっていく。話すのが辛く、無理をしていたらしい。震えは声だけに留まらず、小さな体にも及んでいた。
顔をうつむかせ、薫から視線を逸らした。震えから泣き出していた。
なぜか彼女の震えは薫にも伝わってきた。話を聞いていると、薫も微かに体の奥底が震えているようで、息を呑んで堪えていた。
「……ありがと」
このような場合、どのように接するのが正解なのか薫には見当がつかない。それでも、自分の辛さを堪えて話してくれた彼女に、素直に礼を言いたかった。
薫の礼は、彼女の気を引き寄せた。それまで逸らしていた顔を薫に向けた。
彼女の頬は涙で濡れており、痛々しさが薫の胸を締め付ける。
「止めよう。こんなはなーー」
これ以上苦しませたくなくて、薫は話を終わらせようとしたとき、突然、強烈な耳鳴りが襲ってきた。
耳を押し潰されそうな圧迫感に、じっと見詰めていた彼女の姿が霞んでいく。体の自由が目に見えない何かに縛られ、聴覚も奪われていく。張り詰めていた空気が突き刺す。
彼女が悲痛に顔を歪め、何かを叫んでいる。
薫には届かない。
頭を鈍器で殴られたみたいな頭痛に襲われると、薫はその場に倒れ込んでしまう。弧を描くように動いた視界が、真っ白に染まっていく。
霞んでいく意識のなか、黒い斑点が一カ所に集まり、形を帯びていくと、一人の人影へと変貌していく。それは誰なのか分からないが、輪郭からして女性に見える。
影が次第に薄れ、女性の姿が見えそうになった途端、薫の意識は途切れた。
6
遠い場所で何かが響いているのを、薫の鼓膜は捉えていた。なんの音なのかは掴めず、確かめようにも体が自由に動かなかった。 どこか宙に浮いている浮遊感と、体の感覚のなさ。自分の体が人形にでもなったみたいな錯覚になっていた。目を開こうにも、目蓋が動かない。聴覚だけが微かに音を拾っている。
そこがどこなのか、懸命に意識を集中させる。体の自由が利かない薫にとって、頼れるのは聴覚しかなかった。
次第に拾えてくる音。何かの物音でなはく、誰かの話し声に思えた。
「放してっ。あなたには分からないっ。これは私の問題なのっ」
「放っておけるわけないだろっ」
「いいのっ、あなたには関係ないっ」
聞こえてくる誰かの口論。それは次第に鮮明になり、薫の鼓膜に届けられる。
なんなんだろう、これは? ーー
声が重なるたびに胸が騒いでいく。心臓が締め付けられる。何かを訴えようとしている胸騒ぎに、目蓋を開こうと集中させた。
薫が必死にもがくと、嘲笑うように耳鳴りがさらに酷くなっていく。
「ーーっ」
嘔吐さえ催してしまいそうになったとき、声にならない声が届く。それは聴覚を通して脳に届くのではなく、直接胸に。
遠ざかる声を引き留めたい思いで叫ぼうとする。されど声にならない。歯痒さだけが全身に残り、大切な何かを奪われた喪失感に覆われてしまう。
それでも聞こえてくる。
視界は漆黒の闇に覆われ、周りの状況が把握できないでいる。ただ、誰かが薫の肩を揺さぶっている感触は伝わってきた。
時折、薫の額に何かが滴り落ちてくる。水滴のような物が。
誰? ーー
心のなかで問いかける。声に出そうにも、喉の外に出ようとしなかった。
「早く目を覚ましてっ、もう、いいからっ」
誰だろう? 聞き覚えがあるような、ないような…… ーー
「お願い。帰ってきてっ。もう…… 苦しまなくていいから…… お願い……」
勢いよく話していた口調が途中から詰まり始めていた。嗚咽を漏らしているみたいに声が詰まっている。
「……バカ……」
「ーーっ」
この一言がキッカケだったのかは定かではない。だが一瞬ではあるが薫の体の自由が戻ってきた。
指先の感触を確かめると、右手を上げようとした。それなのに、すぐに感触が薄れていく。
すると、硬直していく右手を、誰かが握り返したような温もりに包まれた。誰かは分からない。ただ、自分の掌よりも小さく、細い指であるのは伝わり、温もりはどこか懐かしかった。
どれだけ体を拘束する力に抗ったか分からない。次第に漆黒の闇が薄れていくと、霞んだ色が視界に広がっていく。
まだハッキリと視界に映る物を判別するほど意識は回復していなかった。それでも聴覚か戻ってきて、意識が朦朧としなからも周りの光を捉えていく。
ジリジリとした機械音が耳元で鳴り、まだ記憶に残っている音に思えた。
脳波検査室? ーー
耳障りに聞こえる音は、最近受けた脳波の検査中に聞いた機械音に似ていた。
「ーーこの記録に間違いはないか?」
単調な機械音に混じり、人の声が聞こえる。
「えぇ。これといった問題はありません」
「……そうか」
「何か問題でも?」
「いや、当人にはこれといってないが…… 突然倒れてしまったからな」
声は籠もっていた。
「問題は“ウイルス”についてだな……」
「話は聞いています。されど、今のところ、“ウイルス”は関係ないのでは? 見てくださいよ。異常は見当たりません」
「だといいんだけどな」
「仕方ありませんよ。これが後々……」
「あぁ、そうだな……」
安堵の籠もった頷きのあと、何かを再び話し出していた。しかし、薫の意識はまたしても遠退いていき、声は途切れてしまった。
いつしか、頭を締め付けるような頭痛と耳鳴りはどこかへ飛び去っていた。痛みに解放され、薫は目を開くと、最初に映り込んできたのは青い空ではなく、白い殺風景な天井と、蛍光灯であった。
目を動かし、辺りの状況を確かめていく。次々と身に覚えのある物が入り込んでくる。
ここは薫自身の病室のベッドの上だった。
記憶は…… 消えていない…… ーー
天井に見覚えがあることから意識が把握する。
まずはそのことに安堵する薫だが、すぐさま不安に苛まれる。
あれは夢だったんだろうか? ーー
彼女の前で気を失ったところまでは覚えていた。だが、それ以降を思い出そうとしても、頭が重くなり、思考が上手く働いてくれなかった。
誰かの口論。呼ばれているみたいな錯覚。漠然とした形で覚えているが、すべてを思い出せないでいた。
朦朧とする頭とは裏腹に、体の感覚はあった。横たわる体にかけられた布団。腰の辺りが重たかった。
薫はその重みを確かめるために、上体を少し起き上がらせた。すると、薫は面喰らってしまう。
薫の腰の辺りに、彼女の姿を見つけた。彼女はどこから持ってきたのか、丸椅子に座り、そのまま布団に突っ伏す形で眠っていた。
彼女に驚き体をビクンッと動かすと、反動で彼女の眠りを覚ましてしまった。
何事かと彼女は頭を上げ、目を手で擦りながら周囲に視線を巡らせ、薫と目が合った。
身を起こそうとする薫を見つけると、彼女はあどけない安堵を浮かべて目を細めた。それに比べ、薫はいるはずのない彼女に戸惑い、オドオドしてしまっていた。
「よかったぁ。目が覚めたのね」
彼女は胸を撫で下ろし、一安心といった様子でため息をこぼした。まったく状況が掴めない薫は呆気に取られたままだ。
呆然とする薫に、彼女は首を捻り、顔を伺う。
「どうしたの? まだ気分悪い?」
「えっ、あ、大丈夫、大丈夫……」
不意に身を乗り出してきた動作に戸惑い、声を詰まらせるが、薫はようやく返事をする。
ただ、まだ彼女がここにいる理由を把握できない。頭が混乱しそうになっていた。
「……ゴメンね」
「ーー? 何が?」
丸椅子に座り直し、体の正面をこちらに向けると、彼女は突然意味もなく謝った。謝られる理由がない薫は、すぐさま問い返す。
「だって、私が変なことを言ったから、気分を悪くしたんでしょ」
申しわけなさげに目を閉じ、右手をかばうように両手を握りしめていた。その姿を薫は黙って眺めた。
軽く薫は息を吐いた。
「そんなことないよ。僕が勝手に気を失ったんだ」
偶然でしかない。突然気を失い、そこに君が遭遇していただけ。それだけだ ーー
自分にも言い聞かせるように、何度も心で繰り返した。
「じゃぁ、それからずっと?」
やっとの疑問に彼女は黙って頷く。
「うん。あのあと、看護師さんに手伝ってもらって。そのまま検査をするって言われて。それで病室に帰って来てからは、ずっと」
薫が病室に運ばれてくるまでの経緯を俯きながら聞き、彼女がいるのも忘れて、記憶を整理した。
なら、あの聞こえた“声”はなんだったんだろう? ーー
脳波検査室での会話は、彼女の言う検査中のことなのは察したが、それ以外に聞こえていた“声”に不安が積もっていく。
それを確かめるかどうかを躊躇して唇を噛み締めた。
「どうかした?」
突然黙ってしまった薫に彼女が問う。その不安そうな表情を見ると彼は決心した。この際、ちゃんと訊いてみようと、意識を集中させた。
「ねぇ、僕がここに運ばれる間に、何か話しかけていた?」
突拍子のない質問に彼女は面喰らっていた。拍子抜けして目を手をしているが、それも仕方がない。あまりに突然だから。
それでも薫は内心真剣であった。だからこそ、表情も険しくなっている。
「例えば、「帰ってきて」とかどうとか」
ただ、訊くだけではいけないと、今でも鼓膜に残っている台詞を持ち出してみた。仮に彼女が言ったのなら、あれは現実になる。
しかし、話は簡単に繋がらない。彼は困惑した様子で唇を尖らせ唸っている。身に覚えがないらしく、期待はできそうになかった。
「ううん。そんなの言ってないわよ」
かぶりを振って否定し、薫の期待は打ち砕かれた。
嘘を言っている気配はない。
「だって、あなたの周りのには駆けつけた看護師が一杯で、私が入り込む隙なんてなかったもん」
それもそうである。仮にも薫は「精神患者」そんな者が突然倒れ込んでしまっては、騒然としてしまい、否応なしに緊張が走る。そこにほかの患者を入れてくれるわけがない。
そもそも、それを彼女に尋ねたのが見当外れだと今さら気付くと、あからさまに残念がり、肩を落として唸った。
「ねぇ、その「帰ってきて」って、何か意味があるの?」
考え込むように拳を口元に当てていると、彼女が興味深そうに訊いてきた。
素直に話すべきか薫は逡巡した。これ以上迷惑をかけたくない一心で。けれど、彼女の期待に満ちた無垢な表情は、それを許してくれない。
薫は観念して、あの不思議な感覚を話した。
「それって、ただの夢じゃないの?」
短い沈黙のあと、真っ当な答えが返ってくる。
「だけど、それにしてはすごい現実っぽかったんだ。上手く言えないけど…… そう、“鮮明”っていうか。あれは夢じゃないように思えるんだ。それに不思議と、その間のことはちゃんと覚えているんだ、今でも」
気を失っていた間の出来事を、ジェスチャーを加えながらもベッドの上で必死に説明した。
すべてを話し終え、一服する意味で深呼吸すると、
「それじゃ、やっぱり夢じゃないのかな?」
彼女は意味深な口調で呟いた。
「だよね。何か気味悪いよ……」薫もうなだれた。
「あ、そうじゃないよ。そういう意味で言ったんじゃないの」
後味の悪さに薫が頭を掻きむしっていると、彼女が慌てて手を降った。
ふて腐れて唇をへの字に尖らせていると、彼女は右手の指先を突き立てて、薫の意識を引き寄せた。
「それって、もしかして、あなたの“記憶”なんじゃないの?」
「ーーはい?」
「き・お・くっ」
「ーーへっ?」
まったく予想にもしていなかった仮説を持ち出した彼女に、一瞬、それこそ思考が停止したみたいに、薫は変な返事をしてしまい、硬直してしまう。
毎日の生活のなかで、病棟にいることが日常なんだと、自分に半ば言い聞かせていると、自分の症状すら忘れてしまうとぐある。いや、入院理由を忘れたいとどこかで願っていた。そうすれば、肩の重みが軽くなる気がしていたから。
だからこそ、望んでいた仮説を薫はどこかで否定していたのかもしれない。
「確か、あなたって記憶喪失の一種だって言ってたよね?」
「えっと、うん」
ここ数日の記憶は薫にもあった。それこそ、彼女との出会いからは鮮明に。だからこそ、不意に訊かれると、自分でも迷いが出てしまう。
「じゃぁ、やっぱりそうよ。だってそうでしょ? 夢でもなくて現実でもない。けれど、鮮明に残ってるって、普通じゃあり得ないもん。それってやっぱり“記憶”なんじゃない? それが気を失ったのをキッカケに、フラッシュバックしたのよ。多分」
嬉しそうに目を細め、まるでクイズ番組の難問を解いたように興奮気味の彼女だが、そばで薫は返って冷静になっていた。
なんでそこまで悩んでくれるの? ーー
目を輝かせる彼女に、冷ややかな視線を送ってしまう。
心では素直に喜んでいる。しかし、心の奥では彼女の姿を怪訝に思える自分がいた。
それは記憶に触れるのを恐れているのと似ていたのかもしれない。
だからこそ、薫の心境は複雑になり、胃の辺りが圧迫されて息苦しさを否めないでいた。
仮に“記憶”なんだとしてみると、いくつかの疑問が生まれる。
あのとき、僕の手を握ったのは誰なんだ? ーー
あの口論は誰となんだ? ーー
誰か、僕の知り合いがそばにいたのか? ーー
あの一瞬、手を握ってくれた温もりは今も右手に残っている。右手の掌をじっと眺めながら、あらためてその人物を思い描いてみせた。
もし、あれが彼女の言う記憶ならば、それは記憶が戻る兆しなのだろうか? ーー
「ねぇ、記憶を取り戻してみたい?」
手を握ってくれた人物にあってみたい ーー
記憶が戻ってほしいか、と自分に投げかけると、声にならない願いを代弁するように、彼女が問いかけてきた。
すぐには答えられずじっと考えていた。考えを練るごとに、口内の唾を何度も飲み干し、乾燥してしまう。
「……微妙かな。今となっては戻ってほしいような、怖いような……」
曖昧な返事に薫は我ながら嫌になり、彼女の顔を直視できず、掌を眺めながら苦笑してしまう。
彼女の期待を裏切ってしまったかもしれないが、薫も嘘をつけなかった。
「……そう、だよね。急にそんなこと言われても怖いよね。私だって思い出したくない記憶もあるから…… ゴメン……」
今にもなきそうな、虚ろな眼差しを宙に彷徨わせて弱々しく呟き、手首を握る仕草に、寂しさが漂っていた。
「けどね、辛い過去ばかりじゃないってのは言えるよ。ありきたりな言葉だけど。必ず、嬉しい思い出だってあるはずよ。誰にだってそれは。私に絵があったように……」
「ーー?」
「それにね、本当は忘れたくない人だっているかもしれないわよ」
途中、彼女の声は曇り、途切れそうになったが、それに覆い被さるように付け加えた。その際、ふと目線が合ったが、彼女の目は薫を通り越えた遠くを見据えていた。
「私が言うのは勝手で無責任だって分かるけど、やっぱり大事だと思うよ。人それぞれ、大切な思い出だって必ずあるだろうし」
「僕にもあるかな?」
冗談じみた声で訊いた。
「うん。きっと」
無垢な彼女の微笑みは不意に薫の心を揺さぶらせた。
自分の記憶を思い出す、か…… ーー
しかし、いざとなると、手段を見つけるのに手間がかかりそうなのは明白であった。まったく、見当が付かない。
「けど、思い出すにも、そう上手くいかないよな……」
頬を歪ませながら、薫はさっそく壁にぶつかっている状況を説明した。
「記録とか残ってないの?」
「記録? 先生に訊けば、基本的なことは分かると思うよ。けど、それって、名前や生年月日とか、プロフィール的な物だからな…… まぁ、家族の名前ぐらいは分かると思うけど。それは意味ない気がするんだ」
確かな情報ではある。反面、なぜかそれは重要ではないように思え、深く求めようとはせず、頭を抱えた。そのそばでは彼女も肩を落として唸っている。
基本的な情報はすでに、目を覚ました日に聞かされていた。仮に以前の自分、記憶を失った自分の記憶を知っていても、詳しくは安易に教えてはくれそうにない。
今になって臆病になり、自分から目を逸らしていたのが裏目になってしまったのを、薫は心底呪い悔やんだ。
ベッドの上のテーブルを、無意識の内に執拗に指で何度も叩いていた。思考を巡らせていると、自然と指が動いている。
耳障りになりかねなかったが、彼女もベッドの脇に肘を付き、頬杖を突きながら思案していて気にしていなかった。
いや、待てよ ーー
指が止まり、薫は顔を上げた。
これまでは自分から求めようとしていなかった。だから誰も教えてくれなかっただけなんじゃないだろうか? ーー
渡部と霧下の顔が脳裏に浮かび、微かな憤慨さえ覚えた。だが、薫はかぶりを振って、その思いを掻き消した。
自分にも非はある。誰かを責める資格はない。
「ーーっ」
脳裏を何かが掠めた。とても重要な物が横切り、薫は衝動に駆られるまま、ベッドから身を乗り出して手を伸ばした。その先はテレビラックの引き出しであった。 荒々しく引き出しのなかを探し始める。突然の行動に彼女も驚き、薫のそばに、身を乗り出して引き出しに視線を落とした。
「どうかしたの? 何かあったの?」
「ーーあったっ」
戸惑う彼女をよそに、薫は目的の物を掴んで歓声を上げると、姿勢を直して膝の上に、見つけた物を握った。
「ーースマホ?」
落ち着きを取り戻した手元を覗き込み、彼女は呟き、薫も静かに頷いた。
記憶を敬遠していた薫は、簡単な方法を忘れてしまっていた。それがスマホである。
薫はスマホを恐れ、電源を切り、引き出しに仕舞い込んでいた。記憶を求める勇気とともに。
「このなかに何人もの人の名前が……」
「これがあなたの記憶に繋がる……」
この小さな塊に可能性は色々と詰まっていた。そう考えると、期待が高まるのと同時に、不安も生まれ、薫の胸は締め付けられてしまう。
知りたくもない記憶さえ、容赦なく襲いかかってくる。消極的な思考ばかりが脳裏を埋めていってしまい、気が付けば薫の手はスマホを握りながらも震えていた。
「……なんだか、怖いね」
手の震えを隠しきれず、心境を素直に話した。苦笑して怯えを隠そうとするのだが、薫の頬は引きつったままだ。
それでも勇気を振り絞り、漆黒のままのスマホと睨み合った。
暗いデスクトップに反射した薫の顔が映り込んでいる。今にも恐怖で潰れそうで、ちょっとした振動を与えると、その顔は歪み、見ず知らずの他人の顔に変わりそうな錯覚を抱いてしまった。
胸の辺りが無数の針に刺されたような痛み、苦痛から逃げ出そうと、スマホを膝の上に落とした。
そのまま気を紛らわすのに大きく深呼吸をする。
「……ゴメン。やっぱり、まだ見られないよ」
そばで親身になって真剣に考えてくれた彼女の顔を素直に見て話せず、うつむいたまま謝る。
心臓は興奮して激しく脈打っている。口内も焦燥感に覆われて息苦しい。それなのに、薫は氷に触れたみたいに寒気を全身に浴びる。
倒れそうになっていると、突然、掌が暖かくなっていく。不思議な感覚に目を開くと、彼女が薫の手をギュッと握ってくれた。
「無理しなくたっていいよ」
視線を上げると、彼女がどこか寂しい眼差しで薫をじっと見詰めていた。
「……ゴメンね。私、あなたのことを何も考えていなかった」
「ううん。そんなことない。感謝しているよ。君のお陰で探す気になれたんだし。ただ、僕が臆病なだけ」
自分を責めないで、と薫はかぶりを振る。彼女は正面から見詰めた薫に照れ臭そうに頬を染め、握っていた手を思い立ったように放すと、薫は思わず吹き出してしまう。
体裁が悪そうに彼女は上体を反らすと、丸椅子を回してわざと薫から背を向けて、こちらを伺うようにチラチラと振り返っていた。
その仕草が妙にあどけなく見え、薫は笑いを堪えられなかった。
こらまでの張り詰めていた空気が一気に解放された。
「な、何よ」眉をひそめ、彼女は反抗してくる。
「いや、なんか、雰囲気が変わったな、って思って」
「雰囲気?」
眉間のシワが緩くなり、今度は気の抜けた表情になった。
「だって、最初に会ったとき、メチャクチャなことを言ってたんだよ。人形みたいに無表情でさ。しかも、ちょっと怖いぐらいに。それなのに、今は真剣になって考えてくれるしさ。やっぱ、雰囲気変わったよ」
心で何度も頷いた。彼女は初めて会ったときに比べれば、本当に別人かと見違えるような変貌だった。あのころのような無表情さはない。それを、何より薫が一番驚いていた。
薫は素直にありのままを話したつもりでいた。だが、彼女は狐につままれたように目を点にしていた。
「あれ? 悪いこと言った?」
「あ、ううん。ただ、まさかそんなことを言われるなんて思ってもみなかったから。だからちょっと驚いているだけ。あのときはちょっと悩んでてね。周りが見えなかったのよ」
急に声に重みを持たすと、彼女は右手の手首を掴んだ。包帯が巻かれ始めた部分を。
悩んでいた。まさに、それが答えだったのかもしれない。
触れてはいけなかったものに触れた気がして、薫は自分を叱咤した。彼女の傷に触れたみたいだ。
「けど、本当の私って、こんなんだよ」
薫の心配をよそに、彼女は急に明るくなり、その変貌ぶりに、薫は呆気に取られてしまう。
しばらくそのままでいると、機嫌を損ねたのか、彼女は口を尖らせる。
「さ。じゃぁ、私、そろそろ病室に戻るね」
「あ、怒った?」
唐突に腰を上げる彼女に冗談混じりで薫は言うと、彼女は渋い顔で睨んでいたが、すぐに緩めてかぶりを振る。
「それぐらいで怒るほど子供じゃないわよ。そろそろ、御飯だから病室に戻るだけよ。ここの看護師って、そういうのには厳しいから」
病室にあった時計を顎で指した。釣られて確認すると、もう午後六時を回っていた。窓の外を眺めれば、日が沈みかけ、空が暗くなっている。
話に夢中になっていたのもあるが、薫自身、長い間意識を失っていたらしい。その間に記憶が失われなかったのを考えると、安堵を通り越して恐ろしくなった。
「けど、明日は無理みたいね」
丸椅子から腰を上げながら彼女は話すが、薫は首を傾げる。
「当然でしょ。突然、意識を失ったんだもん。明日もまた検査とかで、時間がないだろうし、医者だって許さないわよ。安静にしろってね」
可笑しそうに薫を見下ろす彼女に薫はハッとする。“約束”のことを指しているのだと。
「えっ、そんなっ。それじゃ、名前は」
「約束は約束。残念ね~」
さらに笑いを堪えながら言い放つ。
「ダメ、ダメ、ダメッ。絶対に行くっ。なんのために今日まで屋上に行っていたのか分からないよ。何を言われても僕は絶対に行くからっ」
これだけは薫も譲れなかった。強くかぶりを振って否定し、彼女を凝視した。
例え渡部や霧下に制止されようと、薫は屋上に行くつもりていた。それを視線で訴えると、彼女は呆れたようにため息を吐いた。
一歩も譲ろうとしない薫に、彼女は唇を噛み、困った様子でうなじの辺りを掻きながらしばらく思案して黙っていた。
「……分かったわよ……」
降参といった様子で、彼女はうなだれる。
「じゃぁ、こうしよう。私とジャンケンして、勝ったら教えてあげる」
「ーーえっ? そんなんでいいの?」
諦めるつもりはなかったが、意外にも簡単な条件に拍子抜けして、聞き直してしまう。
「だって、あなたが屋上に行ったら、私だって怒られるもん。そんなのって嫌だもん」
なるほど、それもそうか ーー
「じゃ、三回勝負で一回でも僕が勝ったら教えてよ」
「何よ、それって私がふりじゃない」
図々しくも、薫は右手の人差し指を立てて言った。彼女もその提案には渋るが、薫の不適な笑みに渋々承知した。
ややあって、最初のジャンケンが始まった。
薫はパーを出した。彼女はチョキを出し、薫は負ける。
続けて二回戦。
薫は何を出すべきか唇を噛み、軽く舌を舐めて、もう一度パーを出す。が、即座に薫は唇を尖らせて眉をひそめると、彼女は得意げに笑う。彼女はチョキを再び出していた。
まだ、まだあと一回 ーー
今度はチョキを出した。
「ーーよしっ」
思わず歓声を上げる。彼女はパーを出していた。薫が勝ったのだ。
「……嬉しい?」
呆れ顔の彼女に、薫は力強く首を縦に下ろした。
「もちろん」
「呆れた…… 本当、子供ね」
彼女は呆気に取られて額を左手で覆って首を振った。これ以上、薫にかける言葉が見つからないといった様子だ。
「気が済んだでしょ。じゃぁね」
もう一度ため息をすると、まるで幼い子供を宥めるような口調で言い、掌を小さく振りながら入口へと体を反転させて進む。
「ちょ、な、名前っ」
何事もなかった様子で歩く彼女の後ろ姿に、咄嗟に薫は右手を伸ばした。無惨にも、指先は宙を掴むだけだが。
扉に手が触れ開かれると、彼女は右足を廊下に出してしまう。薫はなおも引き留めようとするが、焦って声を詰まらせる。
「ーー今井 渚」
「ーーへ?」
「名前よ、名前。「今井渚」これで、納得した?」
あどけない笑顔とともに、薫の鼓膜に弾いた。求めていた名前がようやく聞けたのだ。
イマイ…… ナギサ…… ーー
「ちゃんと教えたわよ」
「うん。ありがと。今井さん」
「“渚”でいいわよ。私、名字で呼ばれるより、名前で呼ばれる方が慣れているから」
「ーーそう?」
一応問い返すが、内心は嬉しくて心臓が踊りそうになっていた。
「うん。じゃ」
そこで彼女、渚は廊下に出ると、扉を閉める間際、もう一度、薫に笑いかけて扉を閉めた。
ほんの小さな違いない。名前で呼ぶのと呼ばないのとは。ただ一言、「今井」と呼んだだけで、これまで以上に親近感を抱けたのは不思議に思えた。
ただ、さすがに“渚”と呼ぶのにはまだ照れ臭さが残り、すぐには呼べないでいた。
まぁ、当然だよ。そんなに親しい関係でも、恋人でもないんだし ーー
しかし、本人は“渚”でいいと言ってくれた。どこか得をした気分に薫は浮かれた。
「あ、そうだ。自分の名前を言い忘れた……」
渚の名前を知れただけで薫は嬉しくて頭が一杯になってしまい、うっかりしていた。
「まぁ、今度にでも言えばいいか」
どうせ、一生会えないわけではない。と、気に留めずにいた。
それほどまでに、薫は充分満足で自然と頬が緩んでいた。
7
渚が病室を出てからさほど時間は経っていないが、薫の表情はまた雲っていた。
病室は沈黙に支配されて静寂を保っていた。テレビを付ければ幾分、賑やかになるが、薫の目の前にはそれ以上に考えさせられる物が存在していた。
手に握られたスマホである。
楽しい時間が終えて一人になると、気を紛らわす物が極端に減ってしまい、否応なしにも自然と視界に入ったスマホに手が伸びてしまった。
電源の切れた黒いデスクトップを眺め問いかける。
電源を入れるべきなのか? ーー
頼ったり、甘えたりする者はいない。自分で決断下さなければいけない。
息苦しい沈黙のあと、薫は決断を下す。
大きく息を吸い込み、吐き出すのと同時に電源を入れた。デスクトップに光が灯され、本来の明るさを取り戻していく。
なぜ、こうも容易に決断を下せたのか?
それは渚の名前を知ったのが少なからず影響しているかもしれない。知ることが何も、すべてが怖いものでないと教えられ、知って気持ちが晴れる場合もあると実感したからかもしれない。
薫はひとまずアドレス帳を開き、登録者の一覧を眺めた。やはり、不思議と動作は理解していた。
動物が得体の知れない物に興味を抱いて触るような、ぎこちない素振りになるかと心配したが、指は勝手に動いていた。体が覚えている。
映し出される登録者の数々。何人もの名前と番号がスクロールする。ここに載っている人物が、自分の知り合いなんだと考えたとき、薫は感慨深くなる。
残念なのは、その誰もまったく覚えていない。名前を見ても、顔が浮かんでこない。自分のスマホであるのに、他人のスマホを覗き見しているような、違和感と罪悪感で気持ち悪くなっていた。
もしかすれば、映し出された誰かがこの病棟に訪れたかもしれないと考えると、せっかくの厚意を裏切り、面会を否定した自分が情けない。
手がかりのなさに肩を落としながら、切り替える。しばらく薫はスマホと睨み合い、次の方法に移るかを思案した。
登録者に直接連絡を入れる。それが一番の近道なのだが、行動に移そうとすると、薫は臆してしまう。
できれば直接会わずに解決したい。
薫の本音であった。身勝手な考えだと非難されても。
「……メールか」
デスクトップのグリーンの色をしたアプリを開くか逡巡する。登録者の名前を閲覧しただけで薫は胸が張り裂けそうな苦しみに陥っている。これ以上知らない情報が入り込んでくるのを、薫は恐れていた。
結局、電源を切ってしまった。
臆病者だと言われても構わなかった。やはり、それ以上先には進めず、スマホを引き出しの奥に戻した。
情けない自分に襲いかかってくる嫌悪感。それを掻き消したいだけのために、テレビの電源を入れると、故意に音量を上げて音量を充満させた。
別に見たい番組があるわけでもなかった。どれも夕方の六時台はニュース番組であり、今日も以前見ていた刑罰についての報道がされていた。
今日の場面は国会ではなかった。町中で発生するデモの光景が流れていた。長蛇の列を成した人々が横断幕を持ち合っている。横断幕には“反対”の文字。国民が国会に対して異議を唱えるべく集まっていた。
薫は自身の症状も相まってか、世論には疎い方であった。今の議題も長い間報道されていることから重要であっても、当事者でないとなると、どうしても冷めた目で見てしまい、傍観者になっていた。
無関心、勉強不足ではあるが当人は気にしていない。薫にとっては自分のことで精一杯というのが現状であった。
これ以上テレビを見ていても面白くないと、電源を切ろうとしたとき、扉を叩く音がした。看護師が食事を持って来てくれたらしい。
扉を開けて現れたのは霧下ではなく、彼女より少し年配の女性であった。霧下ではないと分かると、薫は緊張した。
「夕食、ここに置いておきますね」
「はい、すいません」
形式的な会話しかない。普段、霧下が食事をくれば、薫も緊張せず会話も弾むが、ほかの看護師には敬遠されているのを身に沁みて実感しているので、薫も必要以上に喋らないでいた。
こうなると、気分転換に少しでも喋ろうとしていた予定が崩れてしまった。
「あの、霧下さんはもう帰ったんですか?」
そそくさと戻ろうとする看護師に尋ねた。
「えぇ。夜勤続きだったから。明日一日お休みよ」
「そう、ですか」
看護師は簡単に頷いて、すぐに戻っていった。薫の返事を待たずに。
看護師の素っ気ない態度に苛立ちながらも、薫はまた病室に一人になってしまった。
奇妙な質問をしてしまった、と痛感していまう。何も霧下がずっと病院にいるわけではない。当然家に帰るのだ。
先ほどのニュースを見ながら夕食を食べ始めた。
「……家、か……」
口を動かしながら薫はふと呟いた。
病院は家じゃない。ここにいる人は医師、看護師、病院関係者。そして、僕を含めた入院患者。僕は毎日を病棟で暮らしていたから錯覚していたけど、ここは“家”じゃない ーー
薫は手を止め、ごく当たり前なことを考えてしまった。
そこで浮かんだのは自分の帰る場所。“自宅”だ。それがどこにあるのかが急に気になった。
スマホをよく調べるなを怖がっていた薫に、もう一つの自分を知る手段が生まれる。
「……やっぱ、誰かいるんだろうな……」
誰もが一人暮らしなわけがない。病院から住所を教えてもらっても、誰とも会わない保証などない。家族がいると考えるのが妥当だが、スマホであるみたいな不安がなかった。
少なくとも、薫の家族だという安心感が守ってくれているのかもしれない。家族の名前を知るのに臆していた自分と矛盾していたが、不思議と今回は逃げ出したい衝動には陥らなかった。
「明日、訊いてみよう」
まだ不安は拭いきれない。けれど、少しでもいいから自分を思い出したい気持ちは膨らむばかりで、この衝動が消えてしまわないうちに、行動に移ろうと思った。
だが、相談するには霧下か渡部の二人しかいなかった。ほかの人物を薫は信頼していない。
普段と何も変わらないと思っていた渡部は、薫の突然の相談に面喰らっていた。
「ーー家に行きたい?」
「はい。家に帰って調べたくなったんです。自分自身を」
これまで薫は自分の記憶に消極的になっていたので、渡部は心境の変化に感心してくれると思っていた。
しかし、気持ちに反して渡部は厳しい顔をしている。今日、霧下は休日でこの場におらず、誰かに相談するわけでもなく、じっと顎の無精ひげを擦りながら、宙を捉えて思案している。
結論が出るまでの間、薫はじっと我慢していた。自分の気持ちは揺るがないと訴えるべく、渡部の顔をじっと見詰めながら。
渡部は結論がまとまったらしい。ソファーに深く座って腕を組みながら、ベッドに座る薫を真剣な眼差しで捉えた。
「ーーそれはできない」
薫は耳を疑った。
信じられない返答に目を見開き、身を乗り出していた。
断られて動転して、視点が定まらなくなっていく。心臓の鼓動も破裂しそうに高まっていた。
「どうして…… どうしてダメなんですかっ」
鼓動が高まると、激しく抗ってしまう。薫は周囲が見えなくなって叫んでいた。
驚かすつもりはなかった。自然と口調まで荒々しくなっていく。それでも渡部は臆することなく、薫を凝視していた。
色黒で、彫りのある表情に威圧があったが、ここで負けてはいけないと、薫も睨み返した。
対峙する二人の視線。先に負けたのは渡部だった。
「じゃぁ、訊くが、どうして急に行きたいなんて考えたんだ? その理由を教えてくれないか?」
渡部はすぐに視線を戻して疑問を投げる。ここで負けてはいけないと焦る薫だが、明確な答えは浮かんでこない。
しばらく薫は沈黙を守った。上手く答えを導き出せない。
きちんとした理由を薫は持ち合わしていない。強いて言うなら、渚の会話でそうなった“流れ”である。
渚との会話で気を失ったときの状況が“記憶”ではないかと疑い、興味が湧き、そのあと、「家」に辿り着いた。
しかし、それは表向きの理由である。本音は渚に話したかったのだ。
薫は自分の記憶の糸をたぐり寄せ、答えを見付けると、「見つけた。思い出した」と渚に話したかったのだ。
何より、薫を親身になって考えてくれた渚の笑って喜んでくれる顔を見たかった。
返すべき本音はこうであったが、これで渡部が納得してくれるかは別問題で、薫は逡巡していた。
渚との会話があったからこそ、行動に出ようとしたのは事実なのだが、この気持ちは胸に仕舞い込んでおいた。
「勘違いしないでくれよ。意地悪なんかで言っているんじゃないからな」
黙っていた薫に気を遣い、渡部は笑った。それでも薫は顔を見ずに視線を逸らした。
渡部はまともに話を聞こうとしない薫に対して、お手上げの様子で頭を掻いているのを、薫は横目で見てしまう。 「実は昨日、君が倒れたあと、勝手だけどもう一度脳波の検査をさせてもらったよ。念のためにね。結果から言えば、脳に異常はなかった」
そのような感覚があったと、漠然と蘇る。
「これは、医者として止めているんだ。昨日、君は失っただろう。それがもし、外出時に襲ってきたらどうする? 昨日は病院だったからすぐに対処できたが、外じゃそれも難しいかもしれないんだぞ」
渡部の言い分は正論である。横目で聞きながらも、それを痛感していたために、薫は何も言い返せない。
無理なのは理解していても、納得がいかない。
「まぁ、俺も考えておくよ。そうやって、記憶をたぐり寄せようとするの傾向はいいことだからな。ま、いきなりさっきの頼みを聞くわけにはいかないけれど」
曖昧とも取れる言葉を残すと、一向に話そうとしない薫に半ば諦めた様子で立ち上がり、入口へと向かった。
「あ、それと、今日はできるだけ外出を控えるんだ。昨日に今日だ。何が起こるか分からないからね。いいね?」
渡部は念を押したあと、病室をあとにした。いつもなら、薫はきちんと挨拶をするのだが、今日は黙っていた。
一人になった薫はふと窓の外の空を眺めた。
窓の外には青い空が広がり、雲がゆっくりと流れていた。風に当たれば気持ちがよさそうだ。
急に外の世界と病室との距離を体が感じてしまい、虚ろな眼差しで眺めていた。
渡部の忠告かあったにせよ、今日一日、薫は気力が高ぶりそうになかった。渚と話をすれば少しは気が紛れていただろうが、その今日一日にはなれなかった。
まだ約束の日は今日一日残っている。あれだけ必死になっていたのに、その気になれず、ずっと病室に留まっていた。
次の日の朝。いつものように、渡部が診察に訪れた。
「……おはようこざいます」
昨日、挨拶をしないでいたのはあまりに大人げないと薫なりに反省し、今日はしっかりと交わした。だが、口調に覇気はない。
それに比べ、渡部はいつもの調子で挨拶した。前日の気まずさを微塵にも表さない態度は、薫も人格の差を見せ付けられ、情けなくなっていた。
今日は後ろに霧下の姿もあった。昨日の薫と渡部の出来事を聞かされているだろうと思っていたが、彼女はこれといって変化はなく、いつもと同じ雰囲気だった。
この先の三人の行動は決まっている。ソファーに座った渡部から、いつもの質問がされようとしていたが、薫はその顔をじっと見ずに視線を落とした。
子供のような薫の態度に、渡部は苦笑する。
「まだ機嫌は直ってないらしいな」
「まるで子供ね」
痛いところを霧下が指摘し、そのまま薫に突き刺さる。薫は霧下の顔を伺うと、呆れた様子で見据えられ、彼女の指摘が当たっているからこそ、薫はオドオドしてしまった。
二人のやり取りに気付いたのか、渡部が霧下を制止する。
「機嫌を直してもらうのにも大変だな」
「どうします? あの話。これじゃ、聞いてもらえそうにないですよ?」
霧下が何やら茶化す素振りで渡部に訊く。
「ーーだな。さて、相葉くん。少しでいいから俺たちの話を聞いてくれないか?」
間を置いてから、渡部は改まって言った。真剣な眼差しを前にしては薫も無視するわけにもいかず、向き直した。
これでまた怒られるのかと、渡部な顔は直視できない。
「今日の午後はどうかな?」
「ーー?」
唐突にそれだけ言われると、さすがに薫は困惑してしまう。それでも、視線は渡部の顔に動いた。
「急ではあるが、今日の昼すぎなら、君の外出を許可しよう」
「ーーえっ?」
「けれど、条件がある。行っていい場所は君の家だけ。しかも、こちらからの同行者と一緒にだ。本来ならば俺が同行するべきなんだが時間を作れそうにない。それで彼女に一緒に行ってもらうよ」
淡々と説明を続けると、最後に横を見て霧下の姿を示した。
どのような反応を見せるのかを楽しむように、二人の視線が薫に注がれるのを感じるが、薫は状況を掴めずに呆然となる。
「ーーはい?」
間の抜けた表情で薫は聞き直す。この態度に、二人は顔を見合わすと、可笑しさを堪えるように唇を震わせていた。
薫は真剣に聞いたので、その態度に軽い苛立ちを覚え、口を尖らせた。
「だから、家に行ってもいいって言ったんだよ。昨日、君が望んでいたね」
ハッキリとした口調の渡部に、薫はようやく話を掴め、今度は驚きで口を呆然と開いてしまった。
「私も一緒だけどね。また気を失ったら大変だからね」
念を押すように霧下は自分が同行するのを強調する。
家に行ける? 僕の家に? ーー
薫の脳裏に動揺の混じった疑問が渦巻き、気持ちが高まってくる。
本当は歓声を上げたい気分だったが、興奮しすぎて、首振り人形みたいに無言で薫は何度も頷いた。
霧下が同行者で薫は安堵した。それは願ってもないことで、彼女の方が見ず知らずの者より安心で心強かった。
薫は目を輝かせていた。自分でも分かるほどに。それほどまでに心臓は弾んでいた。
「ようやく、機嫌が直ったみたいだな」
「本当、子供みたいね」
「い、いいじゃないですか。本当に嬉しいんですなら」
思わず浮かれた態度を指摘され、急に恥ずかしくなり、薫は照れ臭くなりながらも反論した。
今日の診察とは、外出についての説明であったらしく、昼食後に迎えに来ると言い残したあと、二人は病室をあとにした。
二人が去ったあと、渚に伝えようかと考えたが、すぐに止めた。また霧下に「子供みたい」と茶化されそうだが、すべてを思い出したあとに、打ち明けて驚かしたくなっていた。
驚いた渚の顔を見たいと思い立ち、はやる気持ちを抑えて病室に閉じこもった。
8
どうか、悟られないで ーー
胸に渦巻く動揺を堪え、平静を保ちながら霧下は薫と対面していた。
渡部から薫が外出し、自分の家に行きたいと頼まれた、と休日明けの今朝教えられ、渡部はそれを承知して、自宅に向かわせると聞かされた。
突然の出来事に霧下は耳を疑った。
薫が自分の記憶を探している。それは霧下にもねがってもないこと。それでも同時に「記憶をうしなってしまっては」と不安に駆られてしまう。
期待と不安の入り混じった複雑な気持ちを、薫に悟られまいと、普段通りの態度で説明に挑んだ。が、霧下の不安は杞憂で終わってくれた。薫は子供みたいに本気で喜んでくれた。
しかし、説明を終え、病室から出て廊下を歩いていると、またしても不安が胸を蝕んでいく。
「本当にあれでよかったのでしょうか?」
数歩先を歩いている渡部に、口ごもった様子で霧下は不安をぶつける。
「何がだ?」渡部は振り返らずに問い返す。
「相葉くんのことです。もう少し、様子を見てからでもいいんじゃないですか?」
本人の前では見せられないが、霧下の本音は、薫の外出は反対に近い思いである。
「本人がそう願っているんだ。それは願ってもないことだろう、我々にとっても」
「確かにそうですが」
「それに面白そうではないか」
面白い? ーー
渡部の一言に、思わず霧下は足を止めてしまう。
霧下の動作に気付いていない渡部は、白衣のポケットに手を入れながら悠然とナースステーションに進む。
その後ろ姿を、霧下は訝しい眼差しを注がずにはいられなかった。
まるで楽しんでいるような軽率な言葉に聞こえてしまい、霧下は耳を疑ってしまう。
「それに」不意に渡部は立ち止まり振り返る。
「これから向かうのは彼の家だ。大丈夫だ。問題はない」
霧下の胸に込み上げた疑念を打ち砕くように渡部は笑って答えた。
「そう…… ですよね」
霧下も不安を打ち消すように頷き、歩き出した。
9
午前の時間の流れは、薫にとってはとてつもなく長く感じられたが、ようやく昼をすぎ、霧下が迎えに来てくれて、薫は事実上初めて病院をでることになった。
霧下は見慣れている白衣姿と違っていた。グレーのタートルの上には黒のダウンジャケットにジーンズ姿と、普段着を着ていた霧下は、普段の落ち着いた様子と違い、薫は別人かと見間違いそうな雰囲気に包まれていた。
外出の際、普段パジャマとして使用していたグレーのスウェットから、普段着に着替えると、どこか新鮮味があり、薫の気分は晴れていった。
薫は病室のロッカーかに仕舞っていたジーンズと、黒のパーカーと、ラフな格好で外に出た。
季節は春が近付いているとはいえ、まだ肌寒かった。
病院の正面玄関には、送迎用の小型のマイクロバスが一台止められていた。車体の側面には、病院のロゴが緑色の文字で記されていた。どうやらこのバスで目的地に行くらしい。
薫と霧下はバスに乗り込むと、すでに運転席には年配の男性が乗り込んでいた。二人が乗車したのを確認すると、エンジンをかけてバスは走り出した。
後部座席に座りながら窓の外を眺めると、見知らぬ街が横に流れていく。初めて見る光景なのか曖昧だが、新鮮に見えた。
しばらく流れる風景に、ふと場所の分からない目的地に向かう恐怖心から、息が詰まってしまう。
「あの、僕の家って遠いんですか?」
バスが信号待ちで止まると、移動に使うバスに対しての疑問も込めて訊いた。
「いいえ。それほど遠くないわ。そうね、歩いてなら十五分ぐらいかな」
隣で座る霧下は、首を傾げながら、手首に巻かれた丸い腕時計を見て言った。
「それなのにバスを?」
「先生があなたの体を気遣ってこうしてくれたのよ」
「あ、なるほど」
自分は崖の縁を歩いているような、危ない状況なんだと悟り、薫も口を噤んだ
しばらくバスは止まらずに街並みを走った。
途中、異様な集団みたいに人通りが多いところもあった。何かを叫んでいるようにも見えたが、バスは気にせず先に進む。
子供みたいに車窓から見える風景に胸を高まらせていたが、時間が経つにつれ、興奮は治まっていき、代わりに不思議と懐かしさが強まっていく。
細い道に入れば、そこに並ぶ街並み。この辺りの住民が買い物をするであろうスーパーや、夜中明かりを絶やすことのないコンビニの軒先。知らないはずなのに、この先、どこに何があるのか、漠然と薫の脳裏に影を覆いながら流れ込んでくる。
新鮮に浮かんでくるわけではない。シルエットとして見えていた物が、そこに存在している。そんな感覚が何度も繰り返された。
次の信号を右に曲がって、そして…… ーー
薫は頭に浮かんだ街並みを言葉に変えていく。本当にこのバスはそう進むのかを確かめるために。
曲がってその五軒先に…… ーー
バスは信号を右に曲がる。薫の予想が終えた直後、バスは止まった。
「ーー着いたわ」
霧下が外の様子を見て言う。
停車した場所は、当然なのか偶然なのか、薫が予想した住宅を五軒進んだところだった。
霧下が外を確認するとバスを降り、薫を先導した。辿り着いたのは嬉しかったが、途中から予想と一致していく様に、病院を出た直後よりも滅入っていた。
バスを降り、見上げると、三階建ての赤煉瓦を積み上げた外装の小さなアパート。学生が住んでいそうなアパートに見えた。
……やっぱり…… ーー
地面に足が着いた瞬間、薫は胸騒ぎに襲われてしまう。やはり、薫はこの場所を知っていた。胸の奥が騒いでいる。
「まずは管理人さんね。連絡を入れてあるから、鍵を借りてくるわ」
管理人室へと進路を取ろうとする霧下。本来ならば薫も一緒に行くべきなのだろうが、体が勝手に逆方向を向いていた。
アパートの正面には階段が設けられており、薫は自然とその階段を上っていた。
「あっ、ちょっと、勝手に行っちゃダメよっ」
背中で霧下の引き留める声が響いた。だが、霧下の声は薫の意識には届かず、止められない。
アパートは中央の階段から各階左右の各部屋の前へと廊下が伸びている構造となっている。
三階まで上ると、薫は右に進路を変えて走る。進行方向の右側に三件の玄関が並んでいた。薫はさの一番奥である角部屋まで進むと、玄関の前で止まった。
胸が爆発しそうに脈打っていて苦しい。足もガタガタと悲鳴を上げている。突発的に走ってしまっただけとは思えなかった。
前屈みになってむせる息を、肺一杯に空気を送り込んで落ち着かせ、最後に深呼吸をして顔を上げた。
視界に飛び込んでくる表札。「相葉」と掲げられている。間違いなさそうだ。
やっぱり、体が覚えてる…… ーー
まるで操り人形みたいに体が動き、勝手に目的地にまで辿り着いた奇妙さに全身が震えていた。
……鍵は…… ーー
視線が勝手に足元に落ち、玄関の脇にある長方形の鉢を捉える。花は植えられておらず、土だけが寂しく詰まっていた。
鍵はここ ーー
薫は確信する。それでも半信半疑のまましゃがみ込み、鉢をずらしてみた。するとやはり、鉢に隠れていた地面に鍵が現れる。
「ーーなんだ、これ?」
予想を超えた物が一緒に存在し、薫は思わず声をもらす。
そこには鍵とは別に、データ保存用のUSBメモリが丁寧にチャックの付いた透明のビニール袋に入れられて置かれていた。
スティック状の白いUSBメモリ。パソコン用なのは薫も即座に理解したが、体は反応しなかった。
普段から置かれていないなは予想できた。しかも、丁寧に袋に入れられているからには、故意に誰かの仕業なのは覗える。気味悪さに首をを捻りながらも、鍵と一緒に拾い上げた。
「相葉くんっ」
そのとき、血相を変えた声で叫ぶ霧下の声がした。
咄嗟に薫は鍵と一緒にメモリをパーカーの腹部にあるポケットに隠した。
階段の方角から慌ただしい足音が近付いてくる。
息を切らし、狼狽した様子の霧下。そばに来ると、肩を揺らしており、突拍子のない薫の行動に、訝しげに睨んでいた。
「勝手に動かないでっ。何かがあったらどうするのっ」
事情を聞く隙もなく、霧下は薫を激しく叱咤した。霧下も余裕がないのか、今にも手を振り上げてしまう勢いを、唇を噛んで必死に堪えていた。
しかし、薫はそんな霧下の叱咤も上の空でいた。
霧下は薫を一括して気持ちが落ち着いたのか、周りを見渡した。
「あ、あれ、ここって…… どうして?」
自分の居場所を理解した霧下は驚きで目を丸くして薫を一瞥する。案内もなしで辿り着いた薫に驚愕していた。
「あの、僕はここに一人暮らしをしていたんですか?」
「え、えぇ、そうよ。あなたはここで一人暮らしをしていたのよ」
まだ驚きを隠せない霧下。薫も納得しようとするのだが、なぜか奇妙な感覚が胸につかえてしまい、胸騒ぎが治まらなかった。
「それじゃ、開けるわよ」
すでに鍵を見つけたのを知らない霧下は、管理人から借りてきた鍵を鍵穴に差し込んだ。鍵は混乱を避けようと、鍵の存在を黙っておいた。
ガチッといい音と、ゆっくりと開かれていく扉に、長く暗いトンネルに迷い込んでしまった感覚に陥ってしまい、緊張から息を呑んで唇を舐めた。
薄暗いなか、小さな玄関先と奥に続く廊下。霧下のあとに続いて進む。
部屋はよくあるワンルームだった。 長い間、この部屋は主を失い、湿気の臭いが漂う。掃除もままならなず、家具の上にはホコリの絨毯が発生し、布団は引きっぱなしで、そばには読みかけの雑誌がページを開いたまま散りばめられた部屋。それが薫の想像していた、誰も踏み込もうとしない部屋のイメージであった。
我ながら入る意力を削られそうな想像を駆らせた。目頭と鼻先が痒くなってきている気がしてならない。けれど、部屋に踏み込んだ。
部屋の照明を霧下が点けると、数冊の雑誌は散らばっていた。ファッション誌が読みかけのページで開かれて置かれ、脱ぎっぱなしのジーンズや服も部屋の隅にあった。確かに予想に近かった。違っていたのは布団ではなく、シングルベッドが設置され、意外と湿気臭くなく、ホコリが溜まっていないところであった。
ベッドのそばにあるローテーブルの上にも、一台のノートパソコンとテレビのリモコンがあるだけで、綺麗に見えた。
最悪の事態を想像していたために、薫はホッと安堵して胸を撫で下ろす。
「やっぱり、散らかってるわねぇ……」
薫の気持ちを否定するように霧下が嘆いた。
「そう? まだマシな方だと思うけど」
先に部屋に入っていた霧下に感じたまま伝えると、嘆いてしまう。どうやら、捉え方は違うらしく、霧下は苦悶に頬を歪めていた。
「まぁ、人それぞれだけど、私はそこの脱いだ服はちょっとねぇ~」
しかめ面で霧下は脱ぎっぱなしになっているジーンズを指差した。
「悪かったね。ついこうしてしまうんーー」
薫は恥ずかしさから顔をひそめながら慌てて服を拾うと、手慣れた手つきで畳み出し、そばにあったタンスに仕舞おうと引き出しを引いた瞬間、手が止まる。
今、なんでここを開いたんだ? ーー
またしても、体が勝手に動いていた。不可解な行動に怯えて視線を泳がせながらも、この部屋は自分の部屋なのか、と認めざるを得なかった。
自分の行動に戸惑っていると、薫の背中でゴソゴソと動く音が響いていた。振り返れば、霧下が床に散らかった雑誌を整理していた。
「あ、いいよ。別にすぐに帰るんだからそのままでーー」
……片付けなさいよ。汚いんだから……
誰だ? ーー
突然、頭のなかで女性の声が木霊する。
膝を着いて座りながら雑誌を拾い集める霧下の姿に、誰かは分からない女性の姿が一瞬重なった。
「……ーーっ」
薫は不意に喉の奥から誰かを呼ぼうと、名前が飛び出しそうになった。けれど、それは喉に詰まり、声にはならない。
部屋に訪れてから、薫のなかで確実に何かが変わろうとしていた。
特に、今の声の主の名前を思い出さなければいけない気がして焦るのだが、思考を働かそうとすると、耳の辺りを押し潰されているような頭痛が襲って邪魔をする。
痛みに耐えきれずに薫は近くの壁に凭れ、額を右手で押さえながら苦悶に頬を歪め、痛みが治まるのをじっと待った。
壁に凭れた拍子に音が鳴り、その音に霧下が振り返ると、その先に苦悶に頬を歪める薫を見つけ、霧下の顔から一気に血の気が引いていく。
「どうしたのっ、また何かあったのっ」
手にした雑誌を放るように放して立ち上がると、血相を変えて薫に近寄った。
「だ、大丈夫。もう、そろそろ治まりそうだから」
咄嗟に薫は口走ったが、実際頭痛は長くなかった。かあったのっは霧下に掌を見せて、心配ないと告げた。それでも霧下は疑い深い顔で眺めていた。
そのあと、頭痛は治まっていった。何度かかぶりを振って、意識を集中させた。この短い時間で何か手がかりを探すために。
「やっぱり、早く切り上げて病院に戻ろう」
「大丈夫、大丈夫」
帰る素振りを見せた霧下を薫は制する。
「お願い、いさせてっ」
薫の制止を無視する霧下に、薫は右手を大きく横に振り払い、声を荒げて霧下を睨んだ。
突然の叫び声に霧下は体をビクッと縮めて息を呑む。薫はまだ霧下を睨んでいた。
「お願いです。大丈夫だから」
先ほどの威勢は失い、薫は静かに頭を下げる。霧下も渋々申し出を受け入れて、また雑誌を拾い出した。
「無理しないでよ。今度、何かあったらそのときはすぐに帰るからね」
半ば、怒りつつ、吐き捨てる霧下に、薫は素直に頷いた。
まずは部屋を軽く掃除しようと霧下は提案し、薫はそれに同意して掃除を進めるが、薫は頃合いを見計らっていた。
薫はすでに部屋で何をするかは考えていた。しなし、それを行うには、その前にしなければいけない行動があった。
「あの、ちょっと、頼んでもいいですか?」
薫は霧下に声をかけた。改まった薫に、振り返った霧下は戸惑っていた。
「ちょっと、お腹が減ってきたんだけど…… ほら、さっきこの近くでコンビニがあったでしょ。そこで、何か買ってきてほしいなぁって思って」
「ーーはぁ?」
薫は苦笑し、お腹の辺りを手でさすって、少々大げさな仕草をしてみせた。
突然の頼みに、霧下は突拍子のない声を上げて目を点にしていた。
すぐさま不快に眉間にシワを寄せる霧下に、無理を承知で薫は顔の前で手刀を切って重ねて頼み込んだ。
「お願い。ほら、こういうときしか、コンビニの食べ物って食べられないでしょ。病棟じゃ、規制も厳しいし」
薫の病院にはコンビニも出店していたが、病棟の規律を利用した。卑怯と思いながらも、薫は続けた。
霧下も痛い部分を突かれたといった様子で唇を噛んで眉間を掻いていた。
「……分かったわ。おにぎりか、サンドイッチぐらいでいい?」
「あ、もう、それで充分」
かぶりを振って呆れ顔でため息を吐き、受け入れた霧下に、薫は満面の笑みを献上した。
渋い顔を崩さないまま、霧下は自分の持って来ていた小さなバックを持つと、玄関に向かった。薫もあとに続いた。
「いい? 絶対にこの部屋から出たらダメよ。いい?
分かったっ?」
ブーツを履き、玄関を半分ほど開いても、なかなか出ようとはせず、逆に体を捻らせながら強い口調で薫に念を押してくる。
「うん。分かってるって。それにそんなに心配しなくても大丈夫だよ。どうせ外に出たって、僕は右も左も分からないんだし」
外に出るのを躊躇する霧下に言うと、どこか寂しそうに「そうね」と納得し、外へと出た。
外に出ても右も左も分からない。
今の薫とってはそれも嘘に成り兼ねない。仮に今、外を歩けば、様々な記憶が蘇ってきそうだと、扉が閉まる音を聞く薫に巡っていく。
仮にその方法も一理あったが、薫は大きく深呼吸すると、体を反転させて部屋へと体を戻す。
薫は一点を凝視する。テーブルの上にあるノートパソコンを。
視線をパソコンから逸らさずにテーブルのそばに来ると、ベッドに凭れて床に胡座を掻いた。
薫は迷わずにパソコンを起ち上げる。軌道準備をする機械音が静寂した部屋に充満すると、薫おもむろにパーカーから先ほどの見付けたUSBメモリの入った袋を取り出した。
霧下を強引に外に追いやった理由がこれである。この中身をできれば一人で確認したかった。
中身は無論薫も知らない。だが、USBメモリを眺めていると、薫の脳裏で、どこかからか「これを誰かに見せてはいけない」と訴えられていた。
パソコンのデスクトップにオーロラの風景画が映る。起動したらしい。薫はUSB端子にメモリを接続すると、慣れた手つきでデータを開いていく。
中身は一つのフォルダだけが存在し、フォルダ名は“砂時計”と記されていた。
「……砂時計?」
意味がまったく掴めないでいた。薫にとっても、自分が制作したデータなのか曖昧で、首を捻らずにはいられない。
恐る恐るフォルダを開くと、さこには文章制作ソフトのデータと、画像データがともに一つずつ入っていた。
ここであと一回キーを叩けば中身が開ける。だが、薫はスマホのときを考えてしまい、急に臆してマウスを握る手が止まってしまった。
「……この先に何があるのか? 開けていいのか……」
高まる不安が自問させる。内容の量にもよるのだが、急がなければ霧下が帰って来てしまう。それだけは避けたいと、焦りがさらに薫を悩ませた。
冷静になろうと薫は一度目を閉じるが、キーを叩こうとする指先が緊張からしびれている。
これはスマホじゃない。今しか見れない…… 今しか…… ーー
薫は目を開き、決心を決める。このパソコンを開く機会はもう二度とないかもしれない、と。焦りが背中を後押しし、薫はキーを叩いた。
開かれていく文章ファイル。横書きに書かれた内容の一番上の列を読み始めた。
「これって、日記?」
最上部に日付などは記されていないが、内容からして日記であるのは伝わってくる。
状況からして、僕の日記? ーー
ーー この話を聞かされたとき、自分のなかでこれしかないと思えた。 ーー
最初の一行はこれだけである。
ーー 自分でも不思議だ。これからやろうとしていることが現実にできるのか、と。けれど、内容を理解していくうちに、“砂時計”という名が、皮肉に思えた。 ーー
日記と思われる文章に、キーワードになりそうな言葉、“砂時計”が出てきた。
「砂時計…… どこかで見たような」
言葉が胸の奥をえぐるのだが、それがなんなのか思い当たらない。
かぶりを振って、まだ続く文章に目を移した。
ーー あの人がこの話を言ったとなれば、何か関わりを持っているというのだろうか?
もしそうなら、因果ってやつかもしれない。それに、場所が場所なだけに。 ーー
ーー 色々と書いてきたけど、明日からはもう書くことはないだろう。きっと、この内容を見る機会がないと思うから…… けれど、もし、もし、これを読み返しているのなら、一つだけ願いを聞いて。
砂時計をひっくり返してほしい。
バカだよ。無理に決まってるのに…… ーー
文章はそこで終わっていた。すべてを読み終えたのだが、薫はどこか後味が悪く、中途半端に感じて唸っていた。
「砂時計?」
文字通りの小さな砂時計を思い描いた。
部屋にあるかと、周りを見渡したが、あるのは普通の秒針の目覚まし時計ぐらいで、砂時計はなかった。
意味不明な言葉。けれど、それが頭のなかで渦巻いて消えてくれない。薫は掌に砂時計を握っている感覚で手首を何度か捻らせ、砂時計をひっくり返す動作をしてみせた。
「砂時計…… 砂時計…… ひっくり返す…… ひっくり?」
違和感を覚えたのは、掌とパソコンの画面を交互に眺めたときだった。
薫は何気にマウスを操作して下に動かすと、終わったはずの文章のさらにあとに、空白の間が続いていた。
ただの空白に見えなくはないが、薫ははその空白に引き込まれていた
「……まさか?」
薫は咄嗟に浮かんだ方法を試してみた。
この空白の末端から文章の末端まで下から上へ、スクロールさせた。
薫は驚愕してマウスから手を放してしまった。
偶然ではあるが、薫の方法は的中した。末端と思われた文章の下に、さらに文章が現れた。
「マジかよ」
閃きが当たった驚きと、本当にこのような手の込んだ手法を自分が行ったのかが不思議で、薫は息を呑んだ。
瞬きを数回繰り返し、神経を尖らせて文章に目を通す。
ーー こんなバカげたことをする必要はないと思う。けれど今、何も知らずにこの文章を読んでいるなら、よく読んでほしい。 ーー
まるで、薫がここへ訪れるのを予測していた書き始めで、どこか忠告をしているように見え、予言でもされているような気味悪さに襲われる。それでも残りの文章に吸い込まれていく。
周りの音がまったく聞こえないほど薫は集中していた。
ーー 協力をしようとしているのに、こんなことを書くのは卑怯だと言われるかもしれないが、このデータとともに、忘れたくないもの、自分にとって一番大切なものを写真に撮って残しておこうと思う……
今井 渚 ーー
「ーーなっ」
本当の最後に記された名前。これを目にしたとき、薫は心臓に大きな杭を刺されるほどの衝撃を受け、咄嗟に体を仰け反らした。
予測していたのは自分の名前。それなのに目の前にあるのは“今井 渚”の文字。
間違うわけがない。
屋上で会った彼女。渚の名前が記されていた。
動揺が嘲笑い、体が小刻みに震えていく。
「そんな…… 渚がここに? いや、違う。ここは僕の家だ。渚がいるわけがない。それに彼女はずっと入院していたって……」
頭が真っ白になっていく。何も考えられない。次第に視界が掠れていく。
戸惑いと動揺が思考を鈍らせると、突拍子もない行動にでてしまう。
薫は床に置いてあったファッション誌を力強く開いて読み始めた。
載せられている記事の内容はまったく頭に入ってこない。嘲笑うように胸の鼓動は破裂しそうに痛い。
左胸を手で押さえ、膨張する鼓動を落ち着かせる。ここで気を失うような事態を起こせば、元も子もないと、薫は気持ちを引き締める。
落ち着け、落ち着くをだ。大丈夫、まだ手がかりはあるんだ…… ーー
頭で何度も繰り返していると、ようやく胸の鼓動は落ち着きを取り戻していく。
ここでまた薫は深呼吸をして、再びパソコンと向き合った。
自分に言い聞かせていた残された手がかり。それはUSBメモリに入れられた画像データ。
日記の記し方からしておそらくは写真。薫は文章ファイルを閉じて、代わりに画像データを開こうとする。
心を惑わさない写真が出てくるのを望みながらマウスを操作しているときだった。
玄関が開かれる音がした。
もう帰って来たっ ーー
霧下が買い物を済ませ、戻ってきたらしい。玄関からこちらに来る足音がする。
これまでの作業を黙っていた後ろめたさから、薫は不意にパソコンの画面を自分の背中で隠す格好で後ろを振り返った。背中ではデータが開かれている。
不自然な格好で出迎えられ、怪訝な表情で睨まれていると薫は想像していた。だが、次の瞬間、薫は絶句する。
現れたのは今井渚であった。
霧下ではなく、渚の突然の出現に息を詰まらせるが、彼女の容姿に唖然とした。
アイボリーのワンピースに、薄地の白いカーディガンと、入院患者特有のパジャマ姿ではなく、普通の服装をしていた彼女がいた。
病院から来たの? けれど、なんで君が? ーー
声が喉に詰まり、疑問が出ない。けれど、薫は目の前にいるのが渚であるのは確信を持てた。渚が着る白いカーディガンの袖の隙から、掌にかけて包帯が巻かれていた。あれは紛れもなく渚が見せてくれた手であった。
でも、違和感も残る。目の前に薫がいるのに、渚は薫に見向きもせず、玄関を鋭い眼差しで睨んでいた。
「なんで、あんなことするのっ」
それどころか、玄関先に向かって怒りに満ちた声で叫んだ。
渚の声に反応するように、玄関先から音がもれてきた。霧下かとも思えたが、渚の口調からしてその可能性は低かった。
誰か来たのか? ーー
不安に紛れて興味が湧いて首を伸ばすが、部屋に入って来た人物を見て目を疑う。
どうして…… ーー
部屋に悠然と現れる一人の男の姿。
……僕? ーー
あろうことか、あとから部屋に入って来たのは薫自身の姿だった。
目の前に現れた自分自身。悠然としている姿に、薫は全身から血の気が引いていく。
幽霊にでもでくわしたような怯えた顔で、近寄ってくる自分から逃れようと、部屋の隅にまで、お尻を床にさすりながら情けない格好で後退りをした。
部屋の隅に背中を押し付けるように縮まっていると、目の前の“薫”は、それまで薫が座っていた場所に座り、ベッドに背中を凭れた。
依然、二人は薫に気付いていない。まるで二人しか部屋にいないような雰囲気で、渚は“薫”のそばに腰を下ろした。
「ちょっと、聞いてる?」
パソコンの前に座り、何やら書類を読み出した“薫”に、渚は横から顔を覗くように迫っていた。ちょうど、薫からは彼女の険しい表情が見えた。
……幻覚……? それとも、これは記憶? ーー
体は怯え、手足の先まで震えているのに、不思議なことに意識は鮮明で、薫は疑問を渦巻かせていた。
それは部屋に訪れたときから薫の体に起きていた奇妙な感覚が冷静な判断を邪魔していたのかもしれない。
そうだ、これは幻覚なんだ。仮に、以前から渚と知り合いであったにしろ、僕が二人もいるわけがないじゃないか。そうだ。これは幻覚なんだ ーー
必死に動揺する自分に投げかけ、緊張から涸れ果てた口内でさらに息を呑んだ。
息が詰まりそうで苦しくなりながらも、薫は二人の会話に耳を傾けた。
「どうしてっ? なんでそんな勝手なことをっ」
「大丈夫、大丈夫だって」
息を荒げて叱咤する渚に、“薫”は優しく笑っていた。
「別に心配することもないって。問題はないみたいだし」
「そんなことを言っているんじゃないのっ。なんで勝手に決めたのかって言ってるのっ」
「そんなの、決まってるじゃん……」
話は途中なのか、会話の内容が理解できなかった。
だが、目の前の二人には重要だったらしく、特に渚は“薫”の一言で、これまでの険しい表情が一転して曇り、顔を伏せて黙ってしまった。
「……本当に、そんなこと言っているの?」
渚はゆっくり顔を上げると、怯えた眼差しで“薫”を覗き込んで訊いた。
「うん。それが一番だと思うから。僕のことはいいよ」
「ーーふざけないでっ。私はそんなの望んでないっ。私は…… 私は……」
どこが気に障ったのかのかは渚にしか分からないが、急に逆上して一括したと思えば、急に声を詰まらせ、大きな瞳に涙を浮かばせていた。
渚の態度に“薫”も困惑していた。
「だ、大丈夫だって。どうせ、すぐに終わるんだし。な?」
渚の肩に手を回し、必死に怒った原因について弁解し、うつむく渚を宥めていた。
二人の間に気まずい空気が漂い、薫にまで届いていた。不思議と心臓を握られているみたいな痛みとともに。
「でも、それでも多少の危険はあるんでしょ?」
「いや、だから心配ないって。大丈夫だよ渚」
……ーーっ ーー
目の前の“薫”が渚の名前を口走ったときだ。かれまでに感じたことのない違和感が体を激しく締め付ける。
違和感に疑念を高ぶらせていると、次第に息が荒くなり、どこからともなく、眉間を締め付ける頭痛まで襲ってくる。痛みに目を歪め、額を手で押さえながらも二人をじっと見詰めた。
……違うっ…… ーー
「違うんだっ」
苦痛に片頬を歪めながら、届くはずもない二人に向かって薫は途切れそうな声で呟いた。その瞬間、薫の脳裏にそれまで見たことのない光景が頭痛とともにガラスの破片のような断片でうごめいていた。
これは…… 僕の記憶……? ーー
渦巻く断片に今の光景も含まれていた。“薫”と渚が会話している光景も。
「……違う…… 違う……君……」
「ーーダメッ」
胸の奥から芽生えてくる言葉。喉の奥で熱を帯びて薫が発しようとした瞬間、うつむいていた渚が唐突に顔を上げて、悲痛に震えながら叫んだ。
それは幻と思える“薫”にではなく、薫本人に。
今にも崩れてしまいそうな儚い目を腫らして渚は見詰めている。
ーダメッ、それ以上言わないでっ」
「……ーー」
面喰らった薫は唇を閉ざしたが、震えは止まらない。
「もう、繰り返さないでっ。これ以上、私を置いていかないでっ。お願いっ」
確実に渚は薫に向かって声を発していた。泣き崩れ、腰を大きく曲げて床にうつむきながら、必死に声を張り上げていた。
「……ーーっ」
そんな渚の姿を見ていると、また喉の奥から、胸の奥から叫ばなければいけないものが脈打っている。意志の断片がそれを食い止めようと阻んでいるのも、薫は肌で感じている。
だが、今はそれを食い止められなかった。
「……ーー ……い……」
喉を通り、発した薫の声は彼女、渚の頭を上げさせた。渚は頬を涙でぬらしながら、悲しみと嬉しさの入り混じった複雑な顔で薫をじっと見ていた。
強い風が背中を押し倒す。
大切なものをすべて奪い去っていく……
心のなかで、大切な何かが大きな音を立てて砕け散っていった……
ただ、その大切なものが何なのか分からない……
この一章ではできる限り、普段の日常を書こうと思いました。そのなかで、この話の全体のイメージが掴めるかなと思い、こうしました。何気ない入院生活のなかで、いつ記憶が消えるか分からない辛さみたいなのが伝わってもらえればと思っています。




