第1章 こぼれたスープ
いつもと同じような寒い夜だった。
夕食を買い、落ち着いて家に帰っている途中だった。
「ふぅ……やっと夕食だ。夕食にはやっぱりうまいインスタントスープだよな! しかも最高なのは、セールだったことだ!」
俺はスープをぎゅっと、愛情を込めて抱きしめた。
「やっとまともなものが食える! もうパンの耳には飽き飽きしてたんだ……ん? なんだあれ?」
ふと前方を見ると、四つの光が俺に向かって突進してくるのが見えた。
次の瞬間、それらはあまりにも近くをものすごい速さで通り過ぎ、巻き起こった風で俺の服は泥だらけになった。
「ああもう、くそ、どうしよう。クリーニングなんて出せない……」
俺はその場にしゃがみ込み、絶望した。
「スープを買うために、パンの耳を水で流し込んで食ってたんだぞ! シャンプーだって水で薄めてたんだ!」
しばらく文句を言っていると、小さな犬が近づいてくるのが見えた。
(犬は昔から欲しかったな……)
そう思い、撫でようと手を伸ばした。
しかし、その瞬間、頭に強い衝撃が走った。
体が地面に倒れ込む。何が起きたのか理解できないまま、俺は一センチも動けなくなった。
「俺……ハルに告白するつもりだったのに……」
何かに殴られたような衝撃が、頭の中で何度も響いていた。
頭から液体が流れ落ち、視界が徐々にぼやけていく。必死に体を動かそうとしたが、指一本すら思うように動かせなかった。
そのとき、視界の端に小さな犬が映った。
犬は俺のスープの袋をくわえ、逃げていくところだった。
(く……そ……俺……犬……みたいに……死ぬ……)
それが、俺の最後の記憶だった。
「ようこそ、アダムの子よ! 私は幸運の女神ケブラ!」
意識が戻ると、目の前には見知らぬ女性が立っていた。
オレンジ色の髪に、ギリシャの女神を思わせる衣装。小柄で華奢な体つきの彼女は、まるで何事もなかったかのように笑っていた。
周囲には壁も天井もなく、ただ不思議な空間が広がっていた。
「……俺、死んだのか?」
俺は自分の両手を見つめた。
「そんな風に死んだのか? いや、待てよ。そもそも、なんで俺はここにいるんだ?」
頭の中は混乱していた。あまりにも突然の出来事に、何が現実なのかさえ分からなかった。
「実は違う。君が死んだのは、病院へ運ばれる途中、救急車が政治家の息子の車と衝突事故を起こしたからだ」
女神は元気な声でそう言うと、空中にスクリーンを出現させた。
そこには、俺の身に起きた出来事が映し出されていた。
「いいかい? 同じ日に乗客機がハイジャックされてね。犯人がパラシュートで飛び降りようとしたとき、携帯電話が落ちて、最終的に君の頭に当たったんだ」
「……は?」
「幸運なことに、店長がすべて見ていて救急車を呼んでくれた。救急車が到着するまでには十分かかったけどね。それで、ようやく君は病院へ運ばれることになった」
女神は楽しそうに説明を続けた。
「ところが、救急車に乗っていたとき、スポーツカーが横からぶつかってきた。それは市長の息子で、口封じのために金を払ったんだ。君がようやく病院に着いたときには、残念ながらもう亡くなっていた」
彼女はスクリーンを消し、俺に向き直った。
「はっきり言っておくよ。君は自分の不運のせいで失血死したんだ」
「くそ! 一生貧乏で、貧乏のまま死んだ! 補償してくれるのか? これはお前のせいだ!」
俺は女神を指さして叫んだ。
「私のせい? なぜ? 君こそ、神殿に行かずに無駄な学校生活に熱中していた愚か者でしょ」
彼女は怒って俺を指さした。
「当然お前のせいだ! お前は幸運の女神だろ!」
俺は一歩も引かず、決意を込めて彼女の前に立った。
「いい加減にしなさい! もう君にはうんざりだ! 別の誰かを連れてくる!」
女神は両腕を広げると、目の前にポータルを開いた。
ポータルは猛烈な勢いで空気を吸い込み、俺の体を少しずつ引き寄せていった。
「おい、待て! まだ話は終わってないぞ!」
足を踏ん張り、何とかその場にとどまろうとした。
「女! 今言っておく、もし……補償しないなら、必ずお前を困らせる方法を見つけてやる。俺のチートを寄越せ!」
しかし、抵抗すればするほど体が引きずられていった。
「アダムの子よ、あなたは間違いなく私が見た中で最も無礼で恩知らずな人間よ……」
女神は冷たい目で俺を見つめた。
「だから、あなたがそうでないものに見えるよう呪ってやる。さらに今言っておくわ。あなたと同じ年頃で、あなたを知らない人間は皆、あなたを憎むでしょう」
彼女は俺の前に一歩踏み出した。
「じゃあ……消えなさい!」
傲慢な笑みを浮かべた女神は、俺の顔を殴った。
「いっ……!」
最後まで文句を言う暇もなく、俺の体はポータルの中へ吸い込まれていった。
最後に見えたのは、満足そうに笑う女神の顔だった。
(くそ……絶対に……いつか……)
その先の言葉は、闇に飲み込まれた。
°°°°°° ヴァイカン界 °°°°°°
……何かがおかしい。
目を開けたつもりだったが、体がまったく動かなかった。
手も足も動かない。声を出そうとしても、喉からは意味のない音しか出てこない。
目の前に見えるのは、木製の天井だけだった。
(……なんだ、ここ?)
状況を理解しようとしていると、誰かの声が聞こえてきた。
「ご主人様、どう思いますか? この子に才能はありますか?」
中年の男が近づいてきた。
だが……何かがおかしい。
男はまるで巨人のように見えた。それだけではない。なぜか、横向きになっているようにも見えた。
(なんだ……あの大きさは?)
大きな手が俺の体に触れた。
その瞬間、初めて理解した。
彼らが大きいのではない。
俺が小さいのだ。
男の手が俺の体に触れたまま、淡い光を放った。
~バブ……。
(……は?)
~バブ……。
(言葉にならない。同じ声しか出ない……)
俺は必死に声を出そうとしたが、結果は変わらなかった。
(俺……赤ん坊なのか?)
「どうやら彼には目覚ましい才能があるが、大魔導師になるには足りない……」
男は俺の体から手を離した。
「残念だが、上の息子にすべてを賭けるしかないな……」
そう言い残し、男は歩き去った。
その後ろ姿を見送りながら、俺はもう一人の男に目を向けた。
おそらく父親であろう人物だった。
紫色の髪をした男は、俺を軽蔑するような目で見下ろしていた。
「また外れか……せめてコネ作りくらいには役立ってくれよ……」
父親らしき男も、そのまま去っていった。
(……なんだ、あいつ?)
あまりにも突然の出来事に、頭が追いつかなかった。
しかし、一つだけ頭に残っていることがあった。
あの光だ。
(選択肢は二つ……超能力か、それとも魔法か?)
俺は手を動かそうとした。
……動かない。
もう一度、声を出そうとした。
~バブ……。
(……駄目だ、こりゃ)
何もできないと悟った俺は、諦めて目を閉じた。
今は考えるよりも、休むほうがよさそうだった。
日が経つにつれ、少しずつ状況が分かってきた。
どうやら俺は、本当に赤ん坊として生まれ変わったらしい。
毎日、寝て、食べて、ズボンを汚す。その繰り返しだった。
屈辱的な生活だった……自分の意思で体を動かすことすらできないのだから、どうしようもない。
もっとも、兄が嫌々ながら俺の世話をさせられている姿を見るのは、少しだけ面白かった。
「おい、うんち製造機。いつまでそこにいるつもりだ?」
それは兄のジロだった。
「さあ、赤ん坊。いつになったら歩けるんだ? お前の歳には、俺はもう自分で歩いてたぞ!」
そのバカは毎日のように俺の前で得意げに話していた。
(自分の意思で体を動かせないんだぞ……どうやって歩けっていうんだ?)
「こら、エリーゼに構わないで!」
母親らしき女性が俺を抱き上げ、授乳させた。
(屈辱じゃない。生理現象だ……)
そう自分に言い聞かせようとしたが、簡単には割り切れなかった。
数か月が過ぎた。
俺はようやく寝返りを打ち、うつ伏せになり、這うことも覚えた。
しかし、言葉だけは相変わらず話せなかった。
あの忌々しい「~バブ……」という音が止まらない。
(いつになったら普通に話せるんだよ……)
そんなある日、父親が再び姿を現した。
あの日以来、一度も顔を見せなかった男だ。
今回は、一人の十代の少年を連れていた。
「この子で合ってるんだよな?」
少年は俺を抱き上げた。
「ああ。そいつはお前の弟だ。今からリタのところへ連れて行け。五歳になるまで、リタに預けておく」
(……は? 五歳になるまで?)
あまりにも突然の話に、俺は言葉を失った。
いや、そもそも言葉を話せないのだが。
少年の目が俺を見つめていた。
まるで、初めて会ったばかりの相手とは思えないほどの憎しみが、その目には宿っていた。
(……なんだ、こいつ?)
その瞬間、女神の言葉が脳裏をよぎった。
『あなたと同じ年頃で、あなたを知らない人間は皆、あなたを憎むでしょう』
(ああ、くそ……これが呪いか!)
だから俺は必死に体を動かし、泣き声を上げた。
どうにかして、この少年から引き離してもらおうとしたのだ。
~バブー! ~バブー!
「くそ、もう泣かせたじゃないか」
父親はため息をつくと、空中に円を描いた。
すると、その中から小さな鳥が現れた。
「ジロを呼べ!」
鳥は羽ばたき、どこかへ飛んでいった。
「赤ん坊に構うな。この子がお前を嫌がってるのは明らかだ!」
父親は少年を叱った。
しかし、少年は何も言わず、ただ俺を見つめ続けていた。
(……なんなんだよ、こいつは!)
~バブ!
しばらくすると、ジロが現れた。
「父さん、何の用?!」
よだれを垂らし、眠そうな顔をしている。どうやら寝ていたらしい。
「ジロ、エリーゼをリタのところへ連れて行け! これからはリタが面倒を見る」
父親はそれだけ言うと、俺たちに背を向けた。
(……本当に、それだけかよ)
ジロは不満そうな顔をしながらも、俺を抱き上げた。
そして、そのまま家を出た。
俺にとって、外の世界を目にするのはこれが初めてだった。
世界はどこか中世風で、まるでファンタジーの物語に出てくるような景色が広がっていた。
目の前には大きな城がそびえ立ち、そのそばには俺たちが暮らしていた質素な家があった。
歩いていると、何人もの使用人が忙しそうに行き来していた。ローブをまとった人々の姿もあり、どうやら魔法使いのようだった。
(……本当に異世界なんだな)
そんなことを考えているうちに、俺たちは城の外へと向かっていた。
やがて、大きな門の前にたどり着いた。
門のそばには騎士たちが立っていた。彼らの鎧は銀のように輝いていた。
「こんなに早くどこへ行くんだ、ジロ?」
騎士の一人が俺たちに近づいてきた。
~バブ! ~バブ! ~バブ!
(くそ……またこれか!)
「父さんが、今日からリタのところに預けるって言ったんだ……だから連れて行くんだ」
ジロが答えた。
「うわ……お前の父さんは本当に酷いな……ジロ、お前も同じ目に遭わないように頑張れよ……」
騎士は同情するような目でジロを見た。
それから持ち場に戻り、もう一人の騎士と一緒に大きな門を開けた。
ゆっくりと門が開き、その向こう側の景色が見えてきた。
城の外には、城と町を隔てる大きな水域が広がっていた。
その先にある町はとても賑やかだった。
大勢の人々が買い物をしながら行き交い、ときおり人間のような姿をした獣人たちも見かけた。
(へえ……本当にいろんな種族がいるんだな)
初めて見る光景に興味を引かれながら、俺はジロに抱かれて町を進んでいった。
しばらく歩くと、ようやく酒場のような建物にたどり着いた。
ジロは入口の前で立ち止まり、扉を見上げた。
それから、扉を開けて中へ声をかけた。
「おはようございます! リタはいますか?」




