第2ー1話 まばたき、ほうこうする あさおと
世界がそっと息を吐くような静かな音色と、すべてを優しく包み込むあたたかい光。
4月の下旬。
八重桜の薄紅が残る翠松町の朝は、いつも通りの穏やかな静寂に満ちていた。
けれど、グループホーム『れかんの家』の敷地内だけは、どこかいつもと違う、心地いい緊張感の微粒子が弾けている。
6月からスタートする、この街の新名物『エストリア・スパイス・テリーヌ』。
そのパッケージロゴを決めるライブコンペティションが、本日、エメラルド・パイン・パークで開催されるのだ。
「みんな、お出かけの準備はいい? 忘れ物はないかな?」
サービス管理責任者、佐野朝音の声が、男性棟『ピエール』のリビングに優しく響く。
今回のコンペは、利用者5人と朝音で結成した『チーム・ピエール』での参戦。
実を言えば、全棟へ参加を提案されたとき、女性棟の『クレール』『ルージュ』『ビジュー』の面々は、少し気恥ずかしさに俯いていた。
けれど、ピエールの5人は違った。満場一致で参加の意思を示したのだ。
参加しないと決めた女性陣15名も、すぐに心強い「応援団」へと形を変え、今日この日を全員で迎えている。
玄関前に集まったのは、総勢20名の利用者。
その傍らには、同数の、20名のガイドヘルパーたちが静かに控えている。
敷地内の広い駐車場には、この日のためにチャーターしたピカピカの大型観光バスが、ハザードランプを優しく点滅させながら力強く佇んでいた。
普段の静かなホームに現れた「非日常」の象徴に、みんなの目が一気に輝く。
「わあ……! おっきい……バス、おっきいねぇ!」
ルージュの利用者が両手を叩いて声を弾ませると、ピエールの甲斐健吾が「俺たちのバスだ!」と太い声をあげて胸を張る。
「あ、みんな、こっちだよ。足元に気をつけて、ゆっくり歩いてね」
1人の利用者に1人のヘルパーがピタリと付き添い、大きな荷物――絵の具やキャンバス、女性棟の応援グッズなど――をバスのトランクへと手際よく積み込んでいく。
大勢の人が集まるフェス会場や、いつもと違う移動の景色は、感覚過敏を持つ彼らにとって、悪意なきノイズの暴風雨になりかねない。
だからこそ、朝音たちは移動支援サービスを総動員し、「20人の静かな盾」を稼働させていた。
「瞬さん、一番落ち着く後ろの席を確保してあるからね。隣にはいつものヘルパーさんが座るよ」
朝音が優しく声をかけると、深くフードを被った戌亥瞬は、視線を床に落としたまま「……ん、ありがと」と小さく呟いてステップを上がった。
車内では、遮光眼鏡をかける者、お気に入りのノイズキャンセリングイヤホンで好きな音楽を聴き始める者、静かに窓の外の流れる景色を見つめる者――それぞれの「安心できる防具」を身につけながら、バスは静かにエンジンを響かせ、エメラルド・パイン・パークへと滑り出した。
本人の「行きたい」という気持ちを最優先に尊重しながら、利用者の体調不良や「疲れたサイン」を敏感に察知し、何かあればすぐに個別でホームへ戻るなどの休憩対応ができるようにするための、プロとしての調律。
この大型バスの車内は、すでに彼らの大切な「聖域」の一部だった。
バスの大きな窓から差し込む朝の光に包まれながら、みんなの瞳は外の世界に向かってキラキラと輝いている。
彼らは守られるためではなく、自分たちの意思で、青空の下へ一歩を踏み出そうとしていた。
だが、チームの中心となる戌亥瞬だけは、愛用のリュックの紐を白くなるほど強く握りしめたまま、小さく奥歯を噛み締めていた。
瞬の脳内には、いつも言葉にならない色彩と生命の激しい奔流が渦巻いている。
それをキャンバスに叩きつけるときだけ、彼は本当の呼吸ができる。
けれど、事前にピエールのリビングで行われた下書きの段階で、瞬は激しい葛藤を起こしていた。
『制限時間3時間』
『四角いパッケージに収まるロゴデザイン』
その「ルール」や「枠」という名の檻が、動かない左手ともどかしい右手を縛る。
職人のような正確な輪郭を描く、一 朔。
大地の力強い色彩を操る、甲斐 健吾。
緻密な線をどこまでも引ける、小鳥遊 拓海。
気の遠くなるような集中力で点描を打つ、織田 徹。
仲間の才能は信じている。けれど、俺のこの咆哮のような衝動は、外の世界の『コンペ』なんて綺麗な枠に、一体どうやって収めればいいんだ――。
「――瞬さん、大丈夫。ピエールのみんなの手があれば、どんな枠だって飛び越えられるよ」
横に並んだ朝音が、すべてを見透かしたような凪いだ声で微笑む。
その瞬間、瞬の胸のなかの嵐が、少しだけ静まった気がした。
*
新緑の芽吹くエメラルド・パイン・パーク、芝生の中央広場。
そこにはすでに、60の白いテントがひしめき、プロやアマチュアのクリエイターたちが放つ、独特のピリついた空気が満ちていた。
チーム・ピエールのテントの、すぐ隣。
そこに陣取ったのは、冷たい光を放つ最新のタブレット端末と、折り畳み式の高性能モニターを整然と並べた、若いデジタルクリエイターの三人組だった。
彼らの身のこなしには、一切の無駄が削ぎ落とされていた。
足元を這うケーブルの位置、机上の資料の規則正しい並べ方、画面のなかに整然と美しく整列したカラーパレット。
その張り詰めた均整を見つめるだけで、彼らがこの日のために、どれほど途方もない準備を重ねてきたかが静かに伝わってくる。
その中心に立つ痩せた青年が、チーム・ピエールの持ち込んだ、使い古されて毛先の開いた筆やアクリル絵の具のチューブを見つめ、ほんのわずかに、訝しむように眉を動かした。
「……手描きか」
零れ落ちたその声には、明確な悪意というよりは、未知の古いものに対する困惑に近い硬さが混じっていた。
隣のメンバーが、画面から目を離さずに小声で言葉を返す。
「今回の案件、商業ロゴだろ。のちのパッケージ展開まで見据えるなら、最初からデータ化前提の設計じゃないと厳しいんじゃないか」
「まあな。こっちはただの思い出作りに来たわけじゃない、仕事を取りに来てるんだ」
彼らは決して、嘲笑っているわけではなかった。
ただ、みずからの未来を懸けて、極限まで張り詰めていただけだった。
ここで何が何でも勝たなければならない、そんな飢えた人間の顔をしていた。
その張り詰めた空間から漏れ出す、小さな刺のような空気を敏感に察知し、感覚過敏を抱える徹が「あ、あ、う、う」と喉を鳴らしながら耳元を両手で押さえかけ、瞬の右手が拒絶するようにかすかに震えた。
その異変を察してすかさずガイドヘルパーたちが動き、彼らの視線を遮るようにして、自然な形でその身体を間に入れた。
朝音は、その一連の張り詰めた空気の揺らぎを、傍らから静かに見つめていた。
それは、悪意ではない。
けれど、悪意のない純粋な無理解こそが、時に、剥き出しの悪意と同じくらい鋭利な刃となって人を深く傷つけることを、彼女は痛いほど知っていた。




