第4話 自爆の意図は
始まりの街の北側大門に開かれた転移ゲートを抜けた先、蒼の視界に広がったのは、先ほどの『断崖の荒野』とは打って変わって豊かな植生と穏やかな陽光に満ちた新エリア――『緑陰の緩丘』だった。
「――ふむ、空気が美味しいですね」
深く深呼吸をすると、現実世界では嗅ぐことのない、湿った土と木々の葉が発する爽やかな芳香が鼻腔を満たした。脳波誘導による完全なダイブ空間である『アストラル・クロニクル』は、五感の再現度が異常なまでに高い。
先ほどまで死闘を繰り広げ緩急の激しい荒野にいた身としては、この穏やかな景観だけでも十分に癒やし効果があった。
新しいエリアへと降り立った蒼は、手に入れたばかりの補強革ジャケットと鉄製短剣の感触を確かめつつ、周辺の様子を観察した。
先ほどの不人気エリアである荒野とは異なり、ここは適度に整備された安全な小道や緩やかな丘陵地帯が続いており、アクティブモンスターの数も控えめだ。そのため、相応の資源を安全に手に入れられる初心者~中堅向けの採取・レベリングスポットとして機能していた。
周辺には、目当ての素材や植物を探して歩く他のプレイヤーたちの姿が点在しており、ゲーム本来の緩やかな賑わいを見せている。
(……情報通り、この辺りには質の良い薬草や、木工・錬金で必要になる『白樹の枝』が多く自生しているようですね。まずは当面の生産用素材を集めるとしましょう)
蒼はステータス画面から採取用のサブウィンドウを小さく展開し、周囲の草木に目を凝らしながら歩を進めた。
周辺のプレイヤーたちも、それぞれ自分の目的に合わせて黙々と作業や探索を行っており、特段トラブルが起きる気配はない。平穏なスローライフの基盤を作るには絶好の環境だと思いながら、蒼は足元の花壇の陰に見慣れない薬草の群生地を見つけ、しゃがみ込んだ。
「これは……『清涼のミント草』ですね。後々のポーションの香り付けや、特殊な調味料のベースとして使えそうです」
手際よく採取コマンドを入力し、インベントリへ素材を収めていく。
そうして静かに採取を続けていた、その時だった。
突如として、背後の茂みからガサガサとただならぬ草擦れの音が響いた。振り返ると、本来はこのエリアののんびりとした草食系であるはずの『ウッディ・シープ』の群れが、何かに激しく逆上したように赤目を光らせ、猛烈な勢いでこちらへ突進してきていた。
(――おや、モンスターの群れですか?)
ウッディ・シープは本来、プレイヤーから攻撃を仕掛けない限りは無害な非アクティブモンスターのはずだ。しかし、見れば背後に大量の敵対心を一身に背負ったような不自然な偏り方をしている。
(おそらく、どこかの誰かが遠くから範囲スキルか何かを誤って叩き込み、モンスターの群れを怒らせて暴走させてしまったのでしょう……)
突如として目の前に迫った暴走する群れに対し、蒼はゲーム内で鍛えられたステータスと、これまでの実戦で培った判断力で素早く反応した。
襲いかかるシープの体当たりを最小限のステップで鮮やかにかわす。
シュンッ、と微かな風切り音を残し、シープの群れがそのまま通り過ぎていく。
蒼は素早く暴走したシープたちの動きを見極め、新調したばかりの鉄製短剣を抜いて群れの隙間を縫うようにステップを踏み、ヘイトの焦点を巧みに誘導しながら安全圏へと身をかわした。
群れの猛獣たちは、蒼を取り逃がすと周囲を少し駆け回った末に、やがてターゲットを失って元の生息エリアへと散らばっていった。
騒ぎが完全に収まった後、周囲の木陰や草むらには何の人影もなく、ただ穏やかな風が吹いているだけだった。蒼は特に深く疑うこともなく、服に付着したわずかな埃を払い落とした。
「まったく、どこの不注意なプレイヤーでしょうか。実害はありませんでしたが、周囲の安全確認にはもう少し気を配るべきです」
蒼はそれ以上深く追及することもなく、何事もなかったかのように再びしゃがみ込み、薬草の採取作業へと戻っていった。
◇
それからしばらくの間、蒼は平穏に採取を続けていた。
しかし、穏やかな時間は長く続かなかった。
「おい、そこのお前」
唐突にかけられた声に、蒼は作業の手を止めてゆっくりと立ち上がった。
声の主は、いかにも戦士や狂戦士といった大柄な装備を身にまとった数名のプレイヤーグループだった。先頭に立つ男――グループのリーダー格と見受けられる大男が、腕を組んで不敵な笑みを浮かべながら蒼を見下ろしている。その背後には、黒ずんだ軽装防具に身を包んだアサシン職を含む、数名のプレイヤーが控えていた。
ただ、その立ち振る舞いや声のトーン、装備のちぐはぐさから、蒼の危機管理能力は瞬時に相手の正体を看破していた。
(――なるほど。上位陣のような洗練されたプレイヤースキルもなければ、高額な課金装備でステータスを誤魔化す財力もない。高レベル帯についていけず、こういった低レベル・初心者向けのエリアでしか威張ることができない、いわゆる子供の集まりですね)
現実の社会や職場でも、実力が伴わない人間ほど肩書や理不尽なマイルールを振りかざして周囲を威圧したがるものだ。蒼は長年の社会人経験から、こうしたタイプの人間が持つ歪んだ承認欲求と、大人の落ち着いた対応を向けられた際に急速に思考をフリーズさせる稚拙さを正確に見抜いていた。
グループのリーダー格――容姿的にも実年齢が低いことがありありと分かる少年は、顔を真っ赤にして大声でまくし立てた。
「ここはな、俺たち『ブラッド・ファング』の管理エリアなんだよ! 新参の野郎が勝手にうろついて、いい素材を根こそぎ持って行くのはルール違反なんだからな! さっさと持ってる薬草を全部置いて消えろよ!」
周囲のプレイヤーたちは、大声をあげるプレイヤーの顔ぶれを見るなり、どこか呆れたような、あるいは関わり合いになりたくないといった視線を向け、そそくさとその場から離れていく。
現実の世界であれば、こんな子供たちの面倒な絡みは適当にやり過ごすところだが、ここは明確なシステムと利用規約が存在する仮想空間だ。そして何より、不穏な気配を察知した瞬間に、蒼の脳内にある危機管理レーダーが稼働していた。
彼らが近づいてきたまさにその瞬間、蒼はすでに死角を利用してシステムメニューを開き、運営の「不正行為・ハラスメント通報窓口」へと該当プレイヤーたちの名前と位置情報を送信し、ログの記録を開始させていたのだ。
蒼は微塵も動揺せず、死んだ目のように静まり返った瞳で少年たちを見据えた。その顔には、完璧なまでのビジネス営業スマイルを思わせる、落ち着き払えた微小な笑みが貼り付いていた。
「おや、それは奇妙な話ですね。『ブラッド・ファング』様のお名前は今のところ、街の冒険者ギルドや公式のクラン登録名簿には記載されていないようですが。もしよろしければ、その独占権の根拠となるゲーム運営側の公式規約の条文番号を教えていただけますか?」
「はっ? なんだと……?」
唐突に法律や規約の話を持ち出され、さらに大人の余裕を漂わせた丁寧語で淡々と返された少年は、想定外の切り返しに面食らったように一瞬で言葉を詰まらせた。
「それに、公共のオープンフィールドにおける採取権は、システム上すべてのプレイヤーに平等に開放されているはずです。特定の個人やクランが特定の空間を法的な根拠なく占有し、他者のアクセスを物理的・精神的に阻害する行為は、運営規約の第12条『ハラスメントおよびゲームバランスの不当阻害行為』に明確に抵触する恐れがありますよ」
蒼は極めて穏やかな、コールセンターのオペレーターを彷彿とさせる淀みない丁寧語で、淡々と事実と正論を積み上げていく。
「もし仮に、貴方方が『俺たちのルールに従え』という私的なローカルルールを他者に強制し、業務や採取を妨害し続けるのであれば、それは立派な規約違反の構成要件を満たします。私としては、これ以上の無用なトラブルを避けるためにも、お互いに規約の範囲内で穏便に採取活動を行うことを強く推奨いたしますが……いかがでしょうか?」
理路整然と、かつ一言の感情も交えずに繰り出される大人の正論の連撃。
「もっと怯えて謝るか、怒鳴り返してくる」という子供じみた展開しか想定していなかった少年たちは、目の前の大人が微動だにせず理詰めで語りかけてくる圧倒的な大人の対応の前に、完全にペースを狂わされてしまった。
「な、なんだこいつ……? なんか、全然話が通じねえぞ……!」
「お、おい、こいつ何言ってんだよ……親父みたいなこと言ってんじゃねえよ!」
背後のプレイヤーたちが動揺し、お互いに顔を見合わせて気まずそうにモゾモゾと身体を揺らす。自分たちの子供騙しの威圧がまったく通用しないどころか、自分たちが圧倒的に幼稚な立場に立たされていることに気づき、少年たちの顔にみるみるうちに焦りと恥じらいの色が浮かんでいった。
◇
自分たちのペースが完全に崩され、周囲のプレイヤーたちからも冷ややかな視線を向けられていることに気づいたリーダー格の少年は、プライドを傷つけられた怒りと気恥ずかしさから、ついに顔を真っ赤に染めて感情を爆発させた。
「ふざけやがって……! ごちゃごちゃと小賢しい屁理屈を並べやがってよ!! 大人ぶってんじゃねえよ!」
理論で言い返せないと悟った少年は、思考を放棄し、最も愚劣な暴力へと走った。
「規約がどうとか抜かすなら、おめえをここで半殺しにして、二度とこのエリアに来られなくしてやるからな!!」
少年の咆哮とともに、背後に控えていたプレイヤー全員が武器を抜き放ち、明確な殺意と悪意を込めた強力な攻撃スキルを、一斉に蒼へと叩き込みにかかった。
「――おっと」
しかし、蒼は慌てない。
プレイヤーとしてのステータスと戦闘経験によって研ぎ澄まされた視覚により、子供たちの荒削りな大振りの攻撃などスローモーションのように見えていた。
蒼は軽やかなステップで一歩身を引き、彼らの同時攻撃を紙一重ですべて華麗にかわしていく。
ガァァンッ! と、彼らの武器が空を切って虚しく地面の岩を叩き割った。
「だから、暴力に訴えるのは知的ではありませんよ。それに――」
蒼が静かに言葉を続けた、その瞬間だった。
世界が、一瞬だけピタリと静止した。
上空、あるいは周囲の空間全体に張り巡らされている運営の自動監視AIが、この空間で発生した明確な利用規約違反を瞬時に検知し、判定を下したのだ。
それもそのはず、蒼が接触直後に送信した詳細な通報データとログが、彼らの暴行未遂の瞬間と完全にリンクし、AIのリアルタイム監査システムへダイレクトに突き刺さっていたからだった。
「被害者側からの明確な証拠付きの通報」と「現場で実行された悪質なハラスメント・暴力行為」が完璧に突合されたことで、AIの判定アルゴリズムは迷うことなく最高度のペナルティを発令したのである。
『警告:利用規約違反(ハラスメントおよび暴力行為)を検知しました』
『被害ユーザーからの即時通報データとの照合を確認。対象ユーザーに対するペナルティを実行します』
「なっ……んだ、これ……!?」
暴力を振ろうと武器を振り上げていたリーダー格の少年や、その背後で待ち構えていたプレイヤー全員の身体が、突如として眩い真紅の光の檻に包まれた。
システムエラー音すら鳴り響かない、あまりにも冷徹で迅速な自動処罰の執行だった。
『対象アカウントは、システム規約に基づき強制ログアウト処分となります』
『および、悪質なハラスメント常習犯と判定されたため、当該アカウントの永久凍結が確定しました』
「う、嘘だろ!? 待て、待てよ、おい――っ!! 親に言いつけてやるからな、これ解除しろよ――っ!!」
少年が必死に子供じみた捨て台詞を叫び声を上げようとしたそのコンマ数秒後、彼らの躯体は音もなく四散し、無数の光の粒子となって完全に消え去った。
組織的な連携による悪質なハラスメント行為と即座に判定されたため、リーダー格だけでなく、他のメンバー全員が、悲鳴を上げる間もなく次々と強制ログアウトさせられ、文字通り永遠に追放処分となったのだった。
ほんの数秒の出来事だった。
さっきまで威勢よく暴力を振ろうとしていたグループは、誰一人として痕跡を残さず、このゲームの世界から綺麗に消え去った。
静まり返った丘陵の小道。
周囲で息を潜めて成り行きを見守っていた他のプレイヤーたちは、迅速すぎる通報からの自爆劇と、運営の神速の処罰を目の当たりにし、一様に絶句してその場に凍りついていた。
蒼は、風に揺れる前髪を軽く整えながら、綺麗に消え去った空間をぽかんと見つめた。
「……おや。急にいなくなりましたね」
そんな周囲の冷え切った反応を察してか、和ますために蒼がおどけて呟く。
そもそも、常日頃から不条理な迷惑行為に晒されている蒼にとって、この出来事はイレギュラーではなく日常だ。本人としては迷惑や面倒だと思うよりも、ただ、「急に現れてログアウトしていった」くらいの感覚でしか捉えていない。
「まあ、大声を上げて暴れていた人たちですし、きっと急な回線不良か、あるいはゲーム側から強制退出させられるような重大な規約違反でも犯していたのでしょう。……他山の石としなければいけませんね」
全く動揺した様子もなく、むしろビジネス上の合理的な教訓として静かに納得した蒼は、何事もなかったかのように再びしゃがみ込み、中断していた『清涼のミント草』の採取作業へと平然と戻っていった。
木漏れ日が優しく降り注ぐ緩やかな丘の上で、蒼のスローライフは、周囲の驚愕の視線を背中に受けながら、今日も淡々と、そして確実に進んでいくのだった。




