第77話 俺は最後まで、ただの水夫だった(最終話)
それから、さらに数年の歳月が流れた。
世界海洋連邦は、新たに生まれた島々を含め、着実に、その均衡を広げ続けていた。かつて対立していた五大海洋勢力は、今や、互いの違いを尊重し合いながら、協力する関係を築き上げていた。
蓮は、相変わらず、七つの海を巡り続けていた。時に、新たな均衡の綻びを正すために。時に、まだ見ぬ土地の道具や技術を、理解するために。
「蓮、また旅立つのか」
ある日、カラベラの港で、老いてなお矍鑠としたイザベラが、蓮に声をかけた。彼女は、今も白鯨号の船長として、そして、蓮の伴侶として、共に長い航海を歩み続けていた。
「はい。まだ、俺の理解が及んでいない場所が、たくさんありますから」
蓮は、静かに、しかし穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「相変わらずだな、お前は」
イザベラは、呆れたように、それでいて、深い愛情を込めて笑った。
「ですが、今回は、皆で一緒に行きましょう。ゼロ号も、桂雲田さんの噺も、タケルとジロウの実況も、久しぶりに聞きたい気分です」
「ふふ、いいだろう」
***
港には、これまでの旅路を共にしてきた、多くの仲間たちの姿があった。
ガイウスは、今や、多くの弟子を抱える、名高い剣術の師範となっていた。それでも、蓮の航海には、必ず駆けつけてくれる。
ドルシスは、ゴンザと共に、世界中の船大工たちに、失われた文明の技術と、蓮から学んだ理解の在り方を伝え続けていた。
鬼灯は、かつての過ちを胸に、今では、白鯨号の副長として、誰よりも誠実に、蓮とイザベラを支え続けている。
紅蓮は、島嶼連合の長として、そして、シズカは、海洋教団の巫女長として、それぞれの立場から、世界の均衡を、静かに、しかし確かに見守り続けていた。
獅堂グレンは、今も、気の向くままに世界を旅しながら、時折、蓮たちのもとを訪れては、豪快に笑い合っている。
タケルとジロウは、相変わらず、賑やかな掛け合いで、蓮の功績を、面白おかしく語り継いでいた。
桂雲田は、この世界における、噺家という芸の、確かな第一人者として、多くの弟子を育てていた。
そして、ゼロ号は、蓮の肩に、いつも変わらず止まっている。
『準備、完了しました、蓮殿』
「よし、行こう」
蓮の号令のもと、白鯨号は、再び、大海原へと、その舳先を向けた。
***
この物語――最弱の水夫と呼ばれた男が、七つの海を制するに至るまでの物語は、後の世に、様々な形で語り継がれることとなった。
ある者は、彼を、偉大な英雄として讃えた。
ある者は、彼を、この世界の均衡を守った、賢明な統治者として崇めた。
だが、蓮自身は、生涯を通じて、決して変わることのない、ひとつの言葉を、語り続けた。
「俺は何もしてません。強かったのは、こいつです」
その言葉を聞いた誰もが、初めは、彼の謙遜だと思っただろう。
しかし、蓮の傍らに、いつも寄り添っていた者たちだけは、知っていた。
その言葉が、決して、単なる謙遜ではなかったことを。
蓮は、生涯、自らの剣術も、操船の腕も、人並み以上には、決して上達することはなかった。彼が持ち得たのは、ただ、道具というものを、そして、この世界というものを、深く、深く理解しようとする、飽くなき探究心だけだった。
そして、その理解こそが、彼が出会った、すべての仲間たちの想いと結びつき、七つの海の均衡を支える、確かな力となっていったのだ。
晩年、白鯨号の甲板で、静かに海を見つめながら、蓮は、集まった若い水夫たちに向けて、こう語ったという。
「俺は最後まで、ただの水夫だった」
蓮は、穏やかな笑みを浮かべながら、続けた。
「強かったのは、俺が信じ続けた道具たちだけだ。そして――俺と共に、この海を歩んでくれた、すべての仲間たちだ」
海図には、まだ、多くの余白が残されている。
けれど、その余白を、誰かと共に埋めていくことこそが、航海というものの、本当の意味なのかもしれない。
錨を上げた、あの日から始まった、長い長い物語は、こうして、静かに、しかし確かな余韻を残しながら、幕を閉じた。
風は、今日も、穏やかに吹いている。
(完)




