第2話 嵐の夜
出港から七日目の夜、空模様が急変した。
「風向き、変わったぞ! 総帆縮帆!」
甲板長の怒声が響き渡ったのは、夕刻を過ぎたばかりの頃だった。それまで穏やかだった空が、みるみるうちに鉛色の雲に覆われていく。艦隊はアウレリア王国を出て順調に西進を続けていたが、この海域は古くから「嵐の墓場」と呼ばれる難所でもあった。
蓮は甲板の隅で、命じられるままに帆綱を引いていた。もっとも、力が足りずにろくな役に立てていない。
「蓮! そっちの綱、しっかり持て! 手を離したら帆が裂けるぞ!」
「は、はい!」
風が唸りを上げて吹きつけ、波が船縁を洗う。エスペランサ号は艦隊旗艦として最も大きな船体を持つが、それでも荒れ始めた海の前では木の葉のように翻弄された。
蓮の目に映る周囲の光景は、次第に色を失っていった。降りしきる雨、飛び散る飛沫、悲鳴に似た号令の声。何もかもが渾然一体となって、蓮の意識を押し流していく。
「――どこ、ここ」
いや、そんなことを考えている余裕はなかった。とにかく綱にしがみつくことだけで精一杯だった。
「大波来るぞ! 掴まれ!」
誰かの叫び声とほぼ同時に、蓮の視界が一瞬にして白く染まった。巨大な波が船を丸ごと呑み込んだのだと理解したのは、体が宙に投げ出された、その一瞬の後だった。
冷たい水の中で、蓮は必死にもがいた。何が上で何が下かもわからない。肺の中の空気が尽きかけたころ、ふいに顔が水面に出た。
「――っ、ゲホッ! ゲホッ!」
咳き込みながら周囲を見渡すが、そこにあるのは荒れ狂う黒い波と、雨の幕だけだった。エスペランサ号の姿はどこにもない。艦隊の他の船の灯りも見当たらない。
「誰か……! 誰か、いませんか……!」
叫んでも、答える声はなかった。ただ風の唸りと、波のうねりだけが、蓮を包み込んでいく。
どれほどの時間、波間を漂っていただろうか。意識が朦朧とし始めたころ、蓮の体は何か固いものにぶつかった。それが折れた帆桁の一部だと気づいたのは、無我夢中でしがみついてからしばらく経ってのことだった。
――生きなければ。
漁村育ちの体に染みついた本能が、蓮を突き動かした。折れた帆桁にしがみつき、ただひたすら流されるままに、蓮は嵐の夜を耐え抜いた。
***
目を覚ましたとき、蓮を照らしていたのは、穏やかな朝日だった。
「――ここは」
体を起こそうとして、全身に走る痛みに顔をしかめる。見渡せば、そこは白い砂浜だった。打ち上げられた蓮の周囲には、難破船の残骸らしき木片や布切れが散らばっている。海の向こうには、艦隊の船影も、故郷の陸地も見当たらない。
「……無人島、か」
ぽつりと呟いた声は、寄せては返す波音にかき消された。
蓮は震える足で立ち上がり、島の様子を確かめて回った。それほど大きな島ではない。砂浜の奥には小さな森が広がり、その先に緩やかな丘が見える。人の気配はまるでなかった。
――どうすればいい。
膝から力が抜けそうになったが、蓮は歯を食いしばった。ここで座り込んでいても何も変わらない。まずは水と食料を探さなければ。そして、身を守る何かを。
そう考えたとき、ふと思い出した。
嵐の前、船倉で見た、あの錆びついた小刀のことを。
「……いや、まさか、こんなところに流れ着いているはずが」
そう思いながらも、蓮の足は自然と、打ち上げられた漂流物の山へと向かっていた。難破の際に船倉の荷が海に投げ出されていたとしても、不思議ではない。もしかしたら、道具の一つや二つ、使えるものが紛れ込んでいるかもしれない。
その淡い期待が、蓮をその後の運命へと導いていくことになる。
このときの蓮は、まだ知らない。
自分がこれから拾い上げる一本の小刀が、最弱の水夫の人生を、根底から覆すことになるとは。
波の音だけが響く無人島の朝に、蓮はひとり、漂流物の山をかき分け始めた。




