第1話 最下級の水夫
「おい、蓮。突っ立ってねえで水樽を運べ」
甲板長の怒声が飛んできて、天草蓮は慌てて頭を下げた。
「す、すみません、すぐに」
蓮は両手に木製の水樽を抱え、よろめきながら船倉への階段を下りていく。艦隊旗艦《エスペランサ号》の甲板は、出港前の慌ただしさで足の踏み場もない。帆を張る水夫、大砲を固定する砲手、荷を運び込む荷役たち――誰もが忙しく動き回る中、蓮だけがどこか場違いに見えた。
理由は単純だった。彼は、この艦隊で最も役に立たない乗組員だったからだ。
剣を持てば、素振りひとつでよろける。索具を登れと言われれば、三段も上がらぬうちに手が滑る。羅針盤の読み方も、海図の見方も、人並みに覚えるのに人の三倍かかった。齢十七にして、蓮は誰の目にも「使い物にならない男」と映っていた。
「よお、また樽運びかよ」
声をかけてきたのは、同じ歳頃の水夫だった。日に焼けた肌に、荒々しい笑み。名を鬼灯という。もとは同じ漁村の出で、蓮とは幼馴染に近い間柄だった。
「鬼灯さん。今日も忙しそうですね」
「お前がもっと働けりゃ、俺たちも楽になるんだがな」
鬼灯は蓮の肩を小突いて笑うと、足早に持ち場へ戻っていった。悪気のない言葉だとわかっていても、胸の奥にちくりと刺さる。蓮はそれを飲み込んで、また水樽を担ぎ直した。
この艦隊――アウレリア王国が総力を挙げて送り出す大遠征艦隊は、西の海の彼方にあるという未知の島々を目指していた。香辛料、金銀、そして新たな交易路。栄達を夢見る者たちが、我先にと乗り込んできた船団だった。
蓮がこの艦隊に加われたのは、実力ではない。漁村育ちで海に慣れているという、ただそれだけの理由で、雑用係として最下層の枠に押し込まれたにすぎなかった。
「天草。お前、本当に海の男か?」
甲板長にそう言われたのは、乗船初日のことだった。答えられずに俯いた蓮に、甲板長は呆れたようにため息をついただけだった。それ以来、蓮に与えられる仕事は、水樽運びや甲板掃除、糞尿の始末といった、誰もやりたがらない雑用ばかりだった。
けれど蓮には、誰にも話していない、ひとつの癖があった。
暇さえあれば、壊れた道具を眺めている、という癖だ。
折れた櫂、ひび割れた樽、錆びついた鎖――誰も見向きもしないそれらを、蓮は暇な時間にじっと観察していた。どういう仕組みで動いているのか。なぜここが壊れたのか。どうすればもっと長持ちしたのか。考え始めると時間を忘れるほどに、蓮はその「仕組み」というものに夢中になれた。
漁村にいた頃からそうだった。難破船の残骸が浜に流れ着くたびに、蓮は真っ先にそれを漁りに行った。金目のものが欲しかったわけではない。ただ、壊れた道具の中に隠された仕組みを覗き込むことが、たまらなく好きだったのだ。
もっとも、それが何かの役に立ったことは、これまで一度もなかった。
「――蓮、聞いてるのか」
甲板長の声に、蓮は我に返った。気づけば水樽を担いだまま、階段の途中で立ち止まっていた。
「す、すみません! すぐ運びます!」
「まったく、ぼんやりしやがって。出港は明日の朝だ。今日中に荷を積み終えなきゃ、艦隊全体の足を引っ張ることになるんだぞ」
「はい、はい、わかってます」
蓮は駆け足で船倉へと下りていった。薄暗い船倉には、これから積み込む荷が山のように積まれている。塩漬け肉の樽、乾パンの箱、火薬樽、そして――船の隅に無造作に転がされた、使い古しの道具の山。
蓮の目が、ふとその道具の山に吸い寄せられた。
錆びついた小刀が一本、他の廃品に混じって転がっている。刃こぼれし、柄も割れかけた、誰が見ても使い物にならない代物だった。
――あとで、見てみよう。
そんなことを思いながら、蓮はまた水樽を担ぎ上げ、階段を上っていった。
このときの蓮は、まだ知らない。
この錆びた小刀ひとつが、自分の運命どころか、七つの海の行く末までも変えることになるとは。
明日の朝、艦隊は出港する。目指すは西の海の彼方。誰も知らない航路の先へ。
蓮にとってその航海は、最下級の水夫としての、代わり映えのしない日々の延長でしかないはずだった。
――少なくとも、まだこのときは。




