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白い花が咲いているその場所で、アノンは今日もそれを眺めながらお茶を嗜む。
その花は、パプルスと呼ばれる、ハウケン伯爵領の茶畑の近くに必ず咲いている多年草で、お茶を摘む時期になるとその花も開花をやめてしまう不思議な花だった。恰もこのお茶の木に、その花が栄養を分け与えているのではないかと思い起こさせるようだった。
ラクルス公爵領に向かう前に、アノンはジュノンとハウケン伯爵家に立ち寄った。
先に到着していたルートと、ハウケン伯爵夫妻に出迎えられたアノンは、久しぶりに見るお二人に、感謝の意を込めたカーテシーを披露した。
記憶より年を重ねたように見えるのは、巻戻り前の記憶なのか、それとも今度の時の幼い頃の記憶なのか、アノンには判断できなかった。
だけど二人の笑顔は変わらずアノンに優しい瞳を向けてくれた。残念だったのは、数年前から体を弱くして前伯爵はベットに寝たきりだと聞かされた事だった。
だがアノンがお見舞いに行けば、隣国で穏やかに過ごせた事、そして無事に帰国できた事を喜んでくれた。
アノンはその時のお礼を改めて伝える。
表向き彼の方の事は伏せる事になっていたから、親方さんの行く末を知らないアノンに、前伯爵は元気でいる事を仄めかしてくれた。
その事をユナと二人で喜んだ。
ハウケン伯爵家に、立ち寄ったのはルートとの婚姻を認めてもらうためだった。
懸命に挨拶を考えていたのに、アノンの心配は杞憂に終わった。挨拶する前に二人の婚姻は認めてもらっていて、ルートの用意周到さにアノンは脱帽せざるを得なかった。
その時に株分けしてもらった花を、アノンは庭の花壇に植えた。
“私を忘れないで”
という花言葉を持つその花は、無事にそこに根付いてアノンの目を和ませてくれる。
ラクルス公爵領は、王都から南の方に二つ領地を挟んだ位置にある。
元は王領であるその土地は肥沃で、毎年沢山の作物を作り上げラクルス公爵家を潤してくれている。
ジュノンがアイジェットに任されたのは、ラクルス公爵家のカントリーハウスの執事だった。
ルートは、再会した時にアノンが聞かされたはずの、アイジェットの補佐ではなくジュノンの補佐になり、アントンも同じくジュノンの補佐だ。
実質、ラクルス公爵領の運営をアイジェットはジュノンに託した。
アイジェットは本当は、広い領の一部を代官貴族としてジュノンに叙爵するつもりだったようだが、ジュノンは貴族に戻るつもりがないと固辞したので、執事に落ち着いたのだが、アイジェットは諦めておらず、どうやらその叙爵はいつかルートに回りそうだと、アノンは懸念している。
ルートがその気ならば、アノンはその意を無碍にするつもりはなく、付いていくだけだと決めている。
本当はアノンも専修で学んだ事を活かして、ジュノンの補佐に就くつもりだったのだが、それはアノンの身に振りかかった事情が有り、取り止めになった。
それはアノンが直ぐに妊娠した事だった。
今アノン達が住む、カントリーハウスにほど近い家は、アイジェットの代わりに、ラクルス領を運営してくれた前の執事の物を、譲り受けた。彼らは今王都のタウンハウスに移っている。
アノン達はこの場所で生涯住むつもりでやって来た。
ルートはアノンと婚姻した時に、ハウケンからリステルに婿入りしてくれた。
リステル家には今、ジュノンを主人として、ルートとアノン夫婦、リステル家の家令としてロード、それからアノン達が強引に連れてきたリジッドが住んでいる。アントン達は説得して別に居を構えさせた。
昼間は、ラクルス家のカントリーハウスで働くジュノンとルートは職場に出かける。
アノンはロードとともに家の事をしていた。
新たにメイドを二人雇って、アノンは妊娠中健やかに過ごした。
その時から、白い花はアノンの瞳を慰めている。
“私を忘れないで”
アノンが絶対に忘れていない人がもう一人いる。
その花を見る度にその顔を思い出す。
妊娠しているから尚の事、その顔が思い浮かぶのかもしれない。
生まれたときの事
初めてアノンのお乳を口に含んだときの事
アノンの指をギュッと握ったときの事
抱き上げた時の体の重さ
どれも忘れたくても忘れられない
諦めなければならないのに諦められない
アノンはお腹が大きくなるたびに、心の中ではお腹の子にも記憶の中のアルトにも謝罪しながら過ごしていた。
その心を慰めるのはいつもパプルスだ。
慰めながら思い出させる。
相反するその花は風に揺れながら、アノンの心をも揺らしていた。
◇◇◇
「貴方行ってらっしゃい!」
「おとちゃま!いっちぇらっちゃい!」
今日も3歳の娘とルートを送り出すアノン。
最近おませな娘は、無理に早起きしてルートの送り出しに必ずやってくる。
ルートと同じ薄い茶色の髪は、光に当たると透けて金髪にも見える。
瞳はジュノンやアノンと同じ黒色なのに、顔立ちはハウケン伯爵夫人に似て、3歳にしてとても整って見える。
「おかちゃま、はい。きょおもありがちょう」
毎朝、ルートを送った後にナティアと名付けられた娘は、アノンにパプルスを一輪渡す。
何故お礼を言うのかアノンにはわからなかったが、娘のその言葉や仕草が可愛すぎて、アノンも「ありがとう」と言って、その白い花を受け取る。
元は草なので、一輪といっても茎は長くない。ましてやナティアの小さな手が摘んでいる為、尚更短くなる。
だから長い花瓶に入れてしまうとが花が見えなくなる為、小さなコップに活けている。
今日もアノンがそのコップにパプルスを活けてるのを見つめながら、ナティアはホッと胸を撫で下ろす。
(どうして生まれ変われたのだろう?)
生まれた瞬間から、アルトは驚いてそう思った。
自分の口から発せられるのは赤児の泣き声だと、頭で理解していた。
だから自分が生まれ変わった事にはすぐに気付いた。
しばらくは目が良く見えなかったから、耳だけの情報しかアルトは持てなかった。
だけど、その名が耳に入るたび、彼の期待が大きくなる。
『アノン、愛しの我が妻よ!こんなに可愛い子をありがとう』
『アノン!ありがとう。私は幸せ者だ。こんなに私を幸福にしてくれるなんて、親孝行の娘を持って嬉しいよ』
『アノンお嬢様、おめでとうございます』
必ず呼びかけに出てくる“アノン”という名前。
アルトは、まさかまさかと嬉しさが膨らんでくる。
そうして、ある日目を開けたら、今まで薄ぼんやりとしていた視界が、少しクリアになった。
自分を愛おしそうに見つめるその先には、アルトの期待した答えがあった。
「ナティア、生まれてきてくれてありがとう。あなたが生まれて来てくれて私はとっても幸せよ」
アルトに名付けられた今度の名前は、ナティアというらしいが、そんな事はどうでも良かった。
アルトは、アノンのその瞳から、ポロポロ溢れる涙を見て、感謝の気持ちを伝えるように、紅葉のような小さな手でその頬を触ろうと必死に手を伸ばしたが、その手は届かない。
だが、アルトの手を取り、その頬にルートが宛ててくれた。
「こうしたいのかな?」
父の手で介助されて、触る母の頬には涙が伝っている。
(お母様、私をまた産んでくれてありがとう)
アルトは、アノンの涙が伝う頬を小さなその手で撫でながら感謝の気持ちを伝えていた。
あれから3年
今アノンのお腹には、ナティアの弟妹が存在する。
「はい、おかちゃま。きょおもありがちょう」
ナティアは今日も、アノンに感謝の白い花を手渡す。
アノンの瞳から流れる涙が、これから先も、自分が生まれた時に流してくれた、嬉し涙だけであるようにと願いを込めて。
end
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