第40話 微笑みの下で、最初の綻びが音を立てる
王宮の夜会というものは、一つの流れが崩れても、すぐには崩壊しない。
そこが厄介だ。
誰かが少し予定外の言葉を口にした。
誰かが一瞬だけ、用意された役から外れた。
そんなことがあっても、楽の音は止まらないし、給仕の足取りも乱れない。
女官たちは滑らかに動き、貴婦人たちは上品に微笑み、何も起きなかったかのように次の会話へ流れていく。
だが、だからこそ分かる。
表面が保たれている時ほど、内側では修復が急がれている。
「……来るな」
俺は小さく呟いた。
セシルがエレノアへ向かって、はっきりと“今は少しだけ一人になりたい”と言った直後。
その一言は小さい。
けれど、白い聖女候補としては十分に“想定外”だった。
夜会の流れが再開されたように見えても、《乳眼》で見れば場の揺れは消えていない。
近くの女官たち。
困惑。
処理の準備。
何をどう自然へ戻すかの小さな計算。
令嬢たち。
“今の間は何だったのか”という曖昧な違和感。
でも、違和感の正体までは掴めない。
そしてエレノア。
遠目にも分かるほど整った微笑みのまま、少しだけ動線を変えている。
誰と誰を近づけ、誰を一歩下げ、どこでセシルへ再接触するか。
その計算が、今はっきり見えた。
「どうしましたの」
隣でリリアーヌが、視線だけこちらへ寄越す。
彼女もまた、今の綻びの意味を測っている顔だった。
「修復に入ってる」
「ええ」
「しかも、かなり早い」
「当然ですわね」
短いやり取り。
だが十分だった。
エレノアの手口は、もう分かっている。
崩れたからといって慌てて押さえつけたりはしない。
もっと静かに、“何も起きなかった形”へ戻そうとする。
「セシルを今すぐどこかへ引っ込めるかもな」
俺が言うと、リリアーヌはわずかに目を細めた。
「ええ。その可能性は高いですわ」
「理由は“少しお疲れだから”とか、そんな感じか」
「最も自然ですもの」
それがまさに白い檻だ。
揺らいでも、壊れかけても、“守るため”の名目で包み直される。
見ていて反吐が出るほど上品に。
「……ここで終わらせたくないな」
俺が低く言うと、リリアーヌの感情が少しだけ強く揺れた。
同じことを思っていたのだろう。
「ええ」
「今の一言、ただの“疲れた聖女候補”で消されたらきつい」
「ええ」
「だったら」
俺は少しだけ考え、それから言う。
「今夜もう一回、線を引きたい」
リリアーヌが怪訝そうに眉を動かす。
「どうやって」
「まだ分からない。でも、“さっきの一言は偶然じゃない”って形を残したい」
「……」
「じゃないと、エレノアが全部吸い込む」
その指摘に、リリアーヌは短く黙ったあと、静かに頷いた。
「正しいですわね」
「だろ」
「ええ。腹が立つほど」
そして、そのときだった。
遠くの人の流れの中で、アレクシスがこちらを見ていた。
いや、正確には違う。
リリアーヌと俺、その中間より少し向こう――セシルがさっきまでいた辺りを見ている。
顔は整っている。
王子として崩れない。
だが《乳眼》で見ると、内側はかなり騒がしかった。
緊張。
焦燥。
そして、“何かが予定と違っている”ことへの反応。
「王子も気づいたか」
俺が言うと、リリアーヌはちらりとその方角を見る。
「ええ」
「でも動かない」
「動けないのでしょうね」
その言い方に、少しだけ苦さが混じる。
アレクシスは、ここでセシルへ寄ればまた“守る王子”の役へ押し戻される。
だが寄らなければ、“異変を見ながら動けない男”のままだ。
どちらにせよ情けない。
「……あいつ、今も役に縛られてるな」
「ええ」
「王子って肩書きも、ある意味檻か」
そこまで言うと、リリアーヌは少しだけ驚いたようにこちらを見た。
「今、そこまで考えますの?」
「いや」
「?」
「何か、今日ここにいる人間、だいたい全員何かしらの役を着せられてんなって」
白い聖女候補。
悪役令嬢。
弱い王子。
秩序の筆頭女官。
守る側へ酔う令嬢たち。
誰もかれも、“そう見える役”の上に立っている。
王宮って、そういう場所なのだろう。
「……ええ」
リリアーヌが静かに答える。
「ですから、ここで崩せば意味があるのです」
その言葉のあと、彼女はふと顎を引いた。
「来ますわ」
視線の先。
王妃付き女官の一人が、こちらへ近づいてくる。
若くはないが、エレノアほど上位でもない。
つまり、使い走りではないが、伝達役にはちょうどいい位置だ。
「リリアーヌ様」
女官は丁寧に一礼した。
「少々、お時間を頂戴できますでしょうか」
来た。
「どのようなご用件かしら」
リリアーヌも笑顔で返す。
「王妃殿下が、後ほど少しだけお顔を見たいと」
なるほど。
露骨ではない。
でも十分に嫌な動きだ。
「今すぐ?」
「いえ、ほんの少し先です。その前に、控え間にてお待ちいただければと」
控え間。
つまり、人目の薄いところへ一度移したい。
リリアーヌの揺れがわずかに強くなる。
警戒だ。
だが同時に、“ここで拒む方が不自然”という計算も走っている。
「……行くか?」
小声で俺が問うと、彼女は唇だけで答えた。
「行きますわ」
そうなる。
王妃の名を使われたら、ここで完全には拒みにくい。
だが、そのとき横合いから別の声が割り込んだ。
「失礼」
アレクシスだった。
王子らしい、よく通るが抑えられた声。
「リリアーヌには、私から先に話しておきたいことがある」
場の空気が、目に見えないところでひきつる。
女官の揺れが一気に乱れた。
想定外。
だが反論はしづらい。相手は王子だからだ。
リリアーヌも一瞬だけ目を見開く。
俺も正直、驚いた。
「殿下」
女官が礼を崩さぬまま言う。
「王妃殿下のご意向が」
「後ほど伺う」
アレクシスはきっぱり言った。
「今は、婚約に関する過去の件で、私から先に言葉を尽くすべきだ」
それっぽい。
ものすごくそれっぽい理屈だ。
だが、《乳眼》で見れば分かる。
こいつ今、完全に即興で言っている。
怖い。
焦る。
でもそれ以上に、“今ここでリリアーヌを女官の手へ渡すとまずい”と感じて動いた揺れがある。
「……王子、珍しくやるじゃん」
思わず小さく漏れる。
リリアーヌが横でほんの少しだけ目を細めた。
たぶん同じことを思ったのだろう。
女官は返す言葉を探したが、ここで王子へ逆らえば今度は目立つ。
数秒の間のあと、結局一礼した。
「かしこまりました。では後ほど、改めて」
去っていく。
その背に、かなりはっきりした焦りが見えた。
つまりこれは大きい。
エレノア側の“自然な分断”が、一度外れた。
「……殿下」
リリアーヌが静かに言う。
「何のつもりですの」
アレクシスは一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、今の動きは偶然じゃない。
自分でも理由をつけるしかないだろう。
「……少なくとも」
王子が低く言う。
「今夜、これ以上“自然に運ばれる”ままでいいとは思わなかった」
その一言に、空気が変わった。
リリアーヌの感情が揺れる。
驚き。
警戒。
だが、前回までにはなかった評価の色も少し混じる。
「そう」
短く返す。
「珍しいこともあるものですわね」
「皮肉は受ける」
「ええ、そうなさい」
やり取りはいつも通り鋭い。
だが、今のはかなり大きい。
王子が初めて、公の場で“王宮側の自然な流れ”へ小さく逆らったのだ。
「……リリアーヌ」
俺が小さく言う。
「うん?」
「今の、かなりでかいぞ」
「ええ」
彼女も同意する。
「わたくしもそう思いますわ」
そして、そのとき。
視界の端で、セシルが立ち止まっていた。
王妃の近くから少し離れた柱の影。
こちらのやり取りを、全部ではないにせよ見ている。
その胸元の揺れが、今までより強く、熱を帯びていた。
驚き。
戸惑い。
そして――希望に近い、まだ名前のつかないもの。
「……来てるな」
俺が呟く。
「ええ」
リリアーヌもそれを見たのだろう。
「今夜、もう一歩あるかもしれませんわね」
その言葉が、次の引きだった。
王宮の夜会は、やさしい顔で息を詰まらせる。
でもその夜、初めていくつかの役が、ほんの少しずつずれ始めていた。




