第33話 王宮は、今度は屋敷の中から折りに来る
ヴァルモン公爵家の朝は、いつもきちんとしている。
廊下は磨かれ、使用人たちの足音は必要以上に響かず、朝食の香りすら上品に漂う。
だからこそ、少しの乱れでもよく分かる。
その日、屋敷の空気は明らかにおかしかった。
「……何かあったな」
客間を出た瞬間、俺は小さく呟いた。
廊下を行き交う使用人たちの動きが、いつもより一拍だけ硬い。
視線が合うとすぐ逸れる者。
逆に、妙に自然を装って頭を下げる者。
表面上は完璧に整っているのに、その下で何かが走っている感じがある。
ノックもなしに、すっと扉が開いた。
「気づくのは早いですわね」
リリアーヌだった。
今日の彼女は、朝の時点ですでにきっちり整った外出用の装いではなく、屋敷内での執務に向く簡素なドレス姿だ。
だが顔つきは完全に戦闘態勢だった。
「空気が違う」
「ええ」
「何があった」
「執務室へ」
短くそう言って踵を返す。
俺もすぐに後を追った。
小執務室には、もうバルトロとマルグリットがいた。
この二人が同じ部屋で同時に本気顔をしていると、大抵ろくでもない。
しかも今日は、それに加えて机の上にいくつもの封書と、使用人名簿らしき紙束まで広がっていた。
「おはよう」
俺が言うと、マルグリットはきっちり一礼したあと、開口一番で言った。
「王宮側が、屋敷の中へ手を入れてきました」
思っていたより、さらに早かった。
「……どの程度だ」
椅子へ座りながら俺が聞くと、バルトロが答える。
「露骨な脅しではございません」
「だろうな」
「ええ。露骨であれば、まだ扱いやすい」
その言い方が嫌すぎる。
「古参の使用人二名へ、遠回しな打診がございました」
マルグリットが続ける。
「“お嬢様の最近のご様子はいかがか”“外から来た補佐役はどのような人物か”“学園の件で、何か無理をなさっていないか”――そういった、いかにも心配する顔をした探りです」
「……完全にエレノア式だな」
俺が言うと、リリアーヌが冷たく頷いた。
「ええ。こちらを悪く扱うのではなく、“心配して差し上げている”顔で切り込んでくる」
「相手は誰だ」
バルトロが名簿へ視線を落とす。
「厨房方の古参女中と、外回り馬車担当の老使用人です」
「どっちも口が軽いタイプじゃなさそうだな」
「ええ。ですので、向こうもあえて“軽く揺らせる程度”から入ったのでしょう」
「反応は」
「厨房方はかわしました。馬車担当の方は、表面上は平静を装っておりますが」
そこでマルグリットが言葉を継ぐ。
「少し揺れています」
つまり、王宮側は最初から全部を崩しに来たのではない。
屋敷の中で、どこが揺れるかを見るために、まずは軽く指を入れてきたのだ。
「……趣味悪いな」
俺が低く言うと、リリアーヌが短く返す。
「今さらですわね」
「でも今回は、学園じゃない。あんたの家だ」
「ええ」
その一言だけで、彼女の感情の奥にある怒りが少しだけ強くなる。
「だからなおさら、好きにさせるつもりはありません」
そこで、バルトロが一通の封書を俺の方へ滑らせた。
「それと、こちら」
「何だ」
「今朝、お嬢様宛ての書簡に紛れていたものです」
封はすでに切られている。
中の紙を取り出す。
短い文だった。
“聖女を見捨てなさい”
それだけ。
ぞっとするほど簡潔だった。
「……これはまた」
俺が紙を見つめると、リリアーヌが言う。
「前回の“それ以上、聖女に近づくな”より、少しだけ変わりましたでしょう?」
「“近づくな”じゃなく、“見捨てろ”か」
「ええ」
「つまり向こうは、こっちがセシルを単なる敵として切れなくなってるって読んでる」
「そういうことですわね」
気味が悪い。
こちらの心の動きまで、ある程度読まれている。
「紙は」
俺が聞くと、バルトロが答える。
「王宮女官筋のものと同質。筆致は崩してありますが、前回と同系統です」
「同じルートだな」
「ええ」
マルグリットが低く言う。
「そして文面が変わったということは、向こうもこちらの動きをかなり細かく追っている」
「屋敷の中へ探りを入れたのも、その補強か」
「はい」
静かな怒りが、じわじわ広がる。
学園で証人を揺らし、下働きの家族を使い、今度は屋敷の古参使用人へまで手を伸ばす。
やっていることは上品でも何でもない。
ただ、上品な顔をしているだけだ。
「……で」
俺は紙を机へ置いた。
「どうする」
リリアーヌは即答した。
「守りを固めます」
「具体的には」
「まず、古参使用人たちへは、こちらから先に話します」
「口止めじゃなく?」
「ええ。口止めではありません」
彼女の目が細くなる。
「“もし王宮側から探りが入ったなら、即座にこちらへ報告しなさい”と正面から伝える」
それは強い。
「隠させないのか」
「隠すから揺れますの」
リリアーヌは言う。
「変に口止めをすれば、“言ってはいけないことがある”と皆が意識する。でも最初から、“探りは来るもの”“来たら報告するもの”と線を引けば、揺らぎは減ります」
なるほど。
それはリリアーヌらしいやり方だ。
ごまかしで守るのではなく、先に真正面から言語化してしまう。
「マルグリット」
「はい」
「古参の方々を中心に、昼までに小部屋へ順番に」
「承知しました」
「バルトロは文の出所と、接触してきた女官筋の顔ぶれを洗って」
「すでに手を入れております」
さすが早い。
だが、そこまで話したところで、俺はふと気づいた。
「……待て」
「何ですの」
「古参使用人だけじゃなく、もっと揺らしやすいところ狙ってこないか」
リリアーヌとバルトロの視線が同時に来る。
「若い使用人とか、臨時で入ってる庭師補助とか」
「ええ」
マルグリットが先に頷いた。
「当然、その線もあります」
「なら」
俺は少し考えてから言う。
「屋敷の中で、“このあたりは揺れやすい”って場所、把握しておいた方がいい」
リリアーヌが少しだけ目を細める。
「どういう意味ですの」
「向こうは、弱いとこから触るだろ」
「ええ」
「だったら、こっちも先に弱いとこ知っとく」
「……」
「誰が悪いとかじゃなく、立場が弱いとか、家族事情があるとか、金で揺れやすいとか、そういう線」
しばらく沈黙。
先に口を開いたのはバルトロだった。
「理にかなっておりますな」
「ええ」
マルグリットも珍しくすぐ同意した。
「屋敷は強い者だけで出来ているわけではありません」
リリアーヌもゆっくり頷く。
「……分かりましたわ。なら、そこも先に押さえます」
その判断の速さは本当に助かる。
だが同時に、これでもうはっきりした。
戦場は学園だけではない。
王宮側は、ヴァルモン家そのものへ“静かに”圧をかけ始めている。
「で」
俺はもう一度、短い脅迫文を見る。
「“聖女を見捨てなさい”ね」
「ええ」
「これ、誰向けだと思う」
リリアーヌは少しだけ眉を動かした。
「どういう意味かしら」
「いや、文面としてさ」
俺は紙を指で軽く叩く。
「リリアーヌ宛てに見せてる。でも中身は、どっちかっていうと俺たち全体に向けてる気がする」
「……」
「“セシルを助ける線を切れ”って意味だろ、これ」
「ええ」
「つまり向こうは、セシルが弱点だと分かってる」
そこはかなり大きい。
エレノア側から見ても、セシルはただ便利な白い駒じゃなく、今や不安定な要素になりつつある。
「リリアーヌ」
俺が呼ぶと、彼女は静かにこちらを見る。
「セシル、見捨てる気あるか」
一瞬だけ、空気が止まった。
かなり直球だ。
でも今は、そこを曖昧にしない方がいいと思った。
リリアーヌは、短く息を吸ってから答える。
「ありません」
迷いはなかった。
「腹は立ちます」
「うん」
「許してもいません」
「うん」
「ですが、ここで“では切り捨てましょう”とやれば、それこそエレノアの思う壺ですわ」
その声には、静かな決意がある。
「白い檻へ入れられたあの子を、そのまま“都合のよい白い駒”として使わせ続けることになる」
「……」
「そして同時に、わたくしの冤罪を晴らす筋も、半分は途切れる」
「だよな」
「ええ」
その返答に、俺は少しだけ安心した。
こっちももう、セシルを雑に切る段階には戻れない。
でもそれをちゃんと言葉にするのは、やっぱりリリアーヌの方がうまい。
「なら、これも答えは簡単だな」
俺が言う。
「何ですの」
「見捨てない」
「ええ」
「その代わり、守りながら進む」
「ええ」
「屋敷も、学園も、セシルも」
そこまで言うと、リリアーヌはほんの少しだけ口元を緩めた。
「……欲張りですわね」
「だって仕方ないだろ。敵が全部まとめて来てるんだから」
「それはそうですわね」
そのとき、控えめなノックが入った。
若い侍女が一礼し、小さな封を盆に載せて持ってくる。
「失礼いたします。外門詰めより、こちらを」
バルトロが受け取り、すぐに開く。
目を走らせたあとで、静かに顔を上げた。
「何かしら」
リリアーヌが問う。
「外回りの古参使用人が、先ほど王宮女官を名乗る者に接触されたそうです」
早い。
「内容は」
「“最近、お嬢様のもとへ不穏な手紙が届いていないか”と」
「……」
「それから、“もし外部の男が屋敷へ妙な考えを吹き込んでいるなら、ヴァルモン家のためにも早めに見極めた方がよろしい”とも」
部屋の空気が、ぴり、と張る。
それ、完全に俺のことだ。
「へえ」
思わず低い声が出た。
「外部の男、ね」
リリアーヌの感情が一気に冷える。
「随分と露骨ですわね」
「ええ」
マルグリットも珍しく声に棘を乗せた。
「公爵家の判断力を疑うような言い回しです」
「……王宮は」
俺が言う。
「今度は屋敷の中で俺を切り離したいのか」
「その可能性は高いでしょう」
バルトロが答える。
「おそらく、拓真様が“外から来た不穏因子”として最も扱いやすい」
なるほど。
婚約破棄や白い檻の構造を暴く中で、俺は最初からこの世界の正式な人間ではない。
だから“変な影響を与える男”として切るのは、たしかに向こうにとってやりやすい。
「……むかつくな」
ぽつりと漏らすと、リリアーヌがすぐに言った。
「当然ですわね」
その声音は、驚くほど迷いがなかった。
「あなたは確かに外から来た人間ですわ」
「……うん」
「ですが」
彼女はまっすぐ俺を見る。
「少なくとも、今この屋敷の中で、わたくしが必要としている人間です」
一瞬、言葉を失った。
そこまで真っ直ぐ来るとは思わなかったからだ。
「外から来た不穏因子、結構」
リリアーヌは静かに言う。
「わたくしが置いているのですもの。王宮に文句を言われる筋合いはありませんわ」
その一言で、胸の奥がじわりと熱くなった。
マルグリットが小さく咳払いした。
たぶん、空気を整えるためだろう。
「それでは」
侍女長が実務へ戻す。
「まずは本日中に、屋敷内の要所へ先回りいたします」
「ええ、お願い」
「若い使用人たちへも、“探りが来たら隠さず報告すること”を徹底します」
「頼みますわ」
バルトロも頷く。
「外回りへの接触については、こちらからも逆に痕跡を追ってみましょう」
「ええ」
守りの段取りが、一気に固まっていく。
その流れの中で、俺は改めて短い脅迫文へ目を落とした。
聖女を見捨てなさい。
白い檻に閉じ込めたまま、都合よく使い続けたい。
その本音が透けて見える。
だったらなおさら、見捨てるわけにはいかない。
「……第33話、かなり反撃食らってるな」
思わず漏らすと、リリアーヌが怪訝そうにこちらを見る。
「何ですの?」
「何でもない」
危ない。
また変なところが出た。
だが、本当にそうだった。
戦場が学園から屋敷へ広がった。
エレノアの手は、今度はヴァルモン家そのものの“静かな秩序”へ触れ始めている。
でも――
「折れるか?」
俺が聞くと、リリアーヌは少しだけ笑った。
「まさか」
「だよな」
「ええ。まったく」
その目には、怒りと、それ以上の覚悟があった。
王宮は、今度は屋敷の中から折りに来る。
だったらこちらも、屋敷の中から折れない形を作るだけだ。




