第6話 山の悲鳴
この作品は完結まで7日間で1日5〜6話投稿します。
2日目(7/21) は5話投稿で 1話目です。
坑道用の魔石灯を作ってから、二年が過ぎた。
十二歳になったレオンハルトは、ベルクシュタイン伯爵家が所有する主力鉱山の入口に立っていた。
山肌へ大きく口を開けた坑道から、冷たく湿った空気が流れ出している。
入口の周囲では、鉱夫たちが荷車を押し、掘り出された鉱石を選別場へ運んでいた。
つるはしが岩を打つ音。
車輪が地面を削る音。
監督役が指示を飛ばす声。
それらに混じって、山の奥から低い振動が絶え間なく伝わってくる。
「ぼんやりするな、レオンハルト」
父ゲルハルトの声に、レオンハルトは顔を上げた。
「申し訳ありません」
「今日は遊びに来たのではない。採掘量が増えた新鉱脈を確認し、いずれ鉱山を管理する者として現場を学びなさい」
「はい、父上」
今回の視察は、レオンハルトの跡取り教育だけを目的としたものではない。
弟ディートリヒが開発した爆破石の導入によって、主力鉱脈の採掘量は大きく増えていた。
王国軍へ提出する増産報告をまとめる前に、ゲルハルト自身が採掘現場と新しい運搬路を確認することになったのだ。
同行者は、父ゲルハルト、鉱山長ブルクハルト、数人の騎士、現場監督、そして老鉱夫オットー・ヴェーバー。
老錬金術師アルノルトは屋敷へ残っている。
今回は錬金術の実習ではなく、鉱山経営と採掘現場を学ぶための視察だと、ゲルハルトが判断したためだった。
レオンハルトは腰に下げた魔石灯へ触れた。
二年前に作った坑道用魔石灯は、正式な設備として全面採用されなかった。
それでも改良を続け、現在は十数個が一部の鉱夫へ貸し出されている。
油灯より初期費用は高いが、二年間で結晶が壊れた例はなく、火災や暗所での転倒を減らす効果も確認されていた。
しかし、ブルクハルトは今も全面導入を認めていない。
量産にはレオンハルトの加工が必要であり、紛失や修理の費用も読めないというのが理由だった。
「若様」
オットーが近づいてくる。
腰には、使い込まれた魔石灯が下げられていた。
「今日は深部まで入られるそうですな」
「はい。新しい運搬路と、主力鉱脈の採掘状況を見るように言われています」
「浅い区画とは違い、深部は道も狭く、天井も不安定です。足元にはお気をつけください」
「ありがとうございます」
オットーの魔石灯を見ると、金属枠には無数の傷がついていた。
革の固定帯も、何度か交換されている。
それでも結晶部分は丁寧に磨かれ、白く澄んでいた。
「その灯りは、まだ使えていますか?」
「もちろんです。外側は何度も直しましたが、中の石は一度も替えておりません」
「光が弱くなっていませんか?」
「最初より僅かに落ちましたが、油灯よりよほど見やすいですな」
オットーは目尻へ皺を寄せた。
「何より、火を気にせず壁や支柱へ近づけられるのがありがたい」
「オットー」
ブルクハルトが低い声で呼んだ。
「視察前の無駄話はそのくらいにしろ」
「失礼いたしました」
オットーは頭を下げ、一歩退く。
ブルクハルトはレオンハルトへ向き直った。
「坑道内では、私と現場監督の指示に従っていただきます。許可なく壁へ触れたり、作業区域へ入ったりなさいませんよう」
「分かっています」
「二年前の照明試験とは違います。深部では爆破石を用いた掘削も行っております」
レオンハルトは坑道の奥へ目を向けた。
二年前、魔石灯の試験中に見つけた表面の亀裂。
あれ以来、内部を詳しく調べたいと何度も申し出た。
だが、ブルクハルトは子供が作業を乱すだけだと反対した。
父も、表面の小さな亀裂だけでは採掘を止める理由にならないと判断した。
今日ようやく、跡取り教育という形で深部まで入れる。
ただし、《結晶創造》を使った岩盤調査の許可は出ていない。
命じられているのは、採掘方法、選別、運搬、作業員の配置を学ぶことだけだった。
「行くぞ」
ゲルハルトの言葉を合図に、一行は坑道へ入った。
◇
入口から離れるにつれ、外の光は急速に薄れていった。
壁へ掛けられた油灯と、鉱夫たちが持つ魔石灯だけが道を照らしている。
レオンハルトも自分の灯りを点けた。
白い光が足元から前方へ伸びる。
床には鉱石の欠片や木くずが散らばり、荷車の車輪が通った二本の溝が奥まで続いていた。
坑道の天井は、大人が立って歩ける程度の高さがある。
一定の間隔で太い木製支柱が組まれ、岩盤を支えていた。
「ここは最初に掘られた主坑道です」
ブルクハルトが説明する。
「左右へ伸びる枝道から鉱石を集め、この道を通して地上へ出します」
「一日に、どれほど運び出すのですか?」
「鉱石を含む岩で、およそ百二十台分。質のよい鉱石だけなら、その四分の一ほどです」
「二年前より増えていますね」
「ディートリヒ様の爆破石を導入しましたので」
ブルクハルトの声には誇りがあった。
「硬い岩盤を人力だけで崩すより、はるかに早い。以前なら三日かかった箇所を、一日で掘り進められる場合もあります」
レオンハルトは壁へ魔石灯を向けた。
爆破によって砕かれた岩肌には、鋭い割れ目が残っている。
掘削面から離れた場所にも、細い線が何本か伸びていた。
「爆破後は、周囲の壁も調べていますか?」
「当然です」
ブルクハルトが答える。
「監督役が浮いた岩を落とし、目立つ亀裂には印をつけます。必要なら支柱も追加しております」
「表面だけでなく、内部も?」
「岩の中まで、どうやって見るのです?」
「僕なら、触れた場所の近くは調べられます」
「またその話ですか」
ブルクハルトは小さく息を吐いた。
「若様の力が魔石へ使えることは認めます。しかし、山全体を宝石のように見通せるわけではないでしょう」
「山全体を一度には見られません。でも、周囲数歩ほどなら――」
「今日は採掘の視察です」
ブルクハルトが言葉を遮る。
「旦那様からも、勝手な調査は認められておりません」
レオンハルトは父を見る。
ゲルハルトは足を止めず、前方を見たまま答えた。
「まずは現場を学べ」
「ですが、爆破で亀裂が広がっているかもしれません」
「危険のない鉱山など存在しない」
「分かっています。それでも、避けられる危険なら――」
「お前はまだ、鉱山経営の一部しか知らぬ」
ゲルハルトの声は冷静だった。
「作業を止めれば納品が遅れる。納品が遅れれば王国軍との契約に影響し、鉱夫の賃金にも響く」
「事故が起きれば、もっと長く止まります」
「だから、ブルクハルトと監督役が支柱と作業順を管理している」
父はそれ以上話すつもりがないらしい。
レオンハルトは唇を引き結び、後へ続いた。
今ここで許可を求め続けても、視察そのものを邪魔していると思われるだけだ。
まずは目で見える異常を記録し、調べる必要性を示さなければならない。
◇
一行は、さらに深い区画へ進んだ。
道は少しずつ狭くなり、湿気も増していく。
壁の一部から水が染み出し、床へ細い流れを作っていた。
支柱の根元には黒い染みが広がっている。
「この水は、いつからですか?」
レオンハルトが尋ねる。
「以前からございます」
現場監督が答えた。
「雨の多い時期には増えますが、今は少ない方です」
「排水は?」
「低い場所へ集め、手押しポンプで外へ出しております」
レオンハルトはしゃがみ、流れる水を観察した。
触れようとしたところで、父の声が飛ぶ。
「勝手なことをするな」
レオンハルトは手を止めた。
「水の温度と流れを確認しようとしただけです」
「今日は調査ではない」
「……申し訳ありません」
立ち上がりながら、壁へ目を向ける。
水は表面全体から染み出しているのではない。
細い亀裂を伝い、同じ場所へ集まっていた。
地下水が岩盤内部へ入り込み、弱い部分を通っている可能性がある。
「若様」
後ろを歩いていたオットーが、小さな声で呼んだ。
レオンハルトが振り返ると、オットーは古い支柱の陰を指差した。
周囲の岩肌より色が濃く、湿った縦の亀裂がある。
「最近、あの割れ目が伸びております」
「いつ頃からですか?」
「ひと月ほど前からです。監督役へは伝えましたが、表面の傷だろうと言われました」
「ほかに変化は?」
「夜番の者が、ときどき岩の鳴る音を聞いております」
レオンハルトの表情が変わる。
「どんな音ですか?」
「乾いた木を、ゆっくり折るような音です。小さく、長く続きます」
岩盤が内部で変形している音かもしれない。
前世で学んだ岩石や結晶の知識が、危険を告げていた。
「父上」
レオンハルトは一行を呼び止めた。
「何だ」
「この壁だけでも調べさせてください」
「またか」
「亀裂がひと月で伸びています。岩が鳴る音も報告されています」
ゲルハルトがブルクハルトを見る。
「報告は受けていたのか」
ブルクハルトはオットーへ鋭い視線を向けた。
「現場監督から、古い坑道に見られる表面亀裂だと聞いております。支柱も追加済みです」
「内部まで続いている可能性があります」
レオンハルトが言う。
「証拠は?」
「触れれば確かめられます」
「若様が危険だと騒げば、鉱夫たちが不安になる」
ブルクハルトの声が低くなった。
「作業を止めろという話になれば、今日の採掘計画が崩れます」
「危険なら止めるべきです」
「危険かもしれない、というだけでは止められません」
「だから確かめたいのです」
二人の視線がぶつかる。
ゲルハルトが深く息を吐いた。
「どの程度の範囲が分かる」
「触れた場所から周囲数歩ほどです。岩の亀裂、空洞、水の通り道、力の偏りを感じ取れると思います」
「時間は?」
「数分です」
「旦那様」
ブルクハルトが口を挟む。
「子供の感覚で視察を中断する必要はございません」
「数分で済むなら確認させる」
「しかし――」
「異常がなければ、そのまま進めばよい」
父の許可が出た。
レオンハルトは壁へ近づく。
「ありがとうございます」
「ただし、岩盤へ力を加えるな。見るだけだ」
「はい」
魔石灯をオットーへ預け、右手の手袋を外した。
冷たい岩肌へ掌を当てる。
目を閉じた。
表面のざらつき。
硬い鉱物と柔らかい鉱物。
水分を含んだ細い亀裂。
それらをたどるように、意識を岩の奥へ伸ばしていく。
《結晶創造》は魔石だけに使える力ではない。
鉱物の構造。
性質の異なる層の境界。
内部を流れる魔力や水。
それらを結晶構造として捉えることで、目では見えない部分を感じ取れる。
「これは……」
背中へ冷たい汗が流れた。
表面から見える一本の亀裂だけではない。
壁の内側には、髪の毛ほど細い割れ目が無数に走っていた。
それらは奥で枝分かれし、別の亀裂とつながっている。
さらに先には、自然に生まれた空洞があった。
地下水が長い時間をかけ、柔らかい岩の層を削ったのだろう。
空洞の底には水が溜まり、その一部が別の割れ目へ流れている。
上からの重さは均等に支えられていない。
支柱の横にある岩へ、力が集中していた。
「レオンハルト」
父の声が聞こえる。
レオンハルトは亀裂の広がりを最後まで確かめ、手を離した。
「危険です」
「何が分かった」
「壁の奥に空洞があります。周囲の亀裂がそこへつながり、上からの重さが支柱の右側へ偏っています」
位置を指し示す。
「地下水も入り込んでいます。直ちに崩れるとまでは言えませんが、爆破や強い振動が加われば、空洞の上部が落ちる危険があります」
ブルクハルトが険しい顔になった。
「壁へ触れただけで、そこまで分かるはずがない」
「僕には分かります」
「ほかの者へ確かめられない以上、若様の感覚にすぎません」
「亀裂が伸び、岩の音も増えています」
「古い坑道では珍しくない」
ブルクハルトはゲルハルトへ向き直った。
「この区画は主力鉱脈への運搬路です。閉鎖すれば、別の道へ荷車を回す必要があり、採掘量が二割は落ちます」
「二割か」
「はい。しかも、空洞があるという客観的な確証はございません」
「父上」
レオンハルトは一歩前へ出た。
「少なくとも、この周辺で爆破石を使うのは止めてください。空洞が潰れれば、支柱だけでは支えられません」
「補強と確認には、どれほどかかる」
ゲルハルトが尋ねる。
「岩盤を調べ直すなら数日です」
ブルクハルトが答えた。
「数日も主力運搬路を止めることはできません」
「それでは、支柱を増やすだけでは足りません」
レオンハルトが言う。
「空洞の形と水の流れを確かめる必要があります」
ゲルハルトはしばらく壁を見た。
「今日の作業終了後、この区画へ支柱を二本追加する」
「父上」
「補強が終わるまで、周辺で爆破石を使うことは禁止する」
全く聞き入れなかったわけではない。
それでも、区画を閉鎖して調査する決断には至らなかった。
「視察は予定を短縮する」
ゲルハルトは続けた。
「この先は、構造上この空洞とは別の岩盤にある新鉱脈だけを確認し、地上へ戻る」
現場監督が頷く。
「途中の分岐から迂回路を使えば、問題の区画を通らず到達できます」
「では、そこまでだ」
ゲルハルトはレオンハルトへ目を向けた。
「さらに根拠が必要なら、今後の調査で集めなさい。お前にしか分からない感覚だけで、主力鉱山を止めることはできぬ」
「……分かりました」
レオンハルトは手袋をつけ直した。
父の言葉にも理屈はある。
組織を動かすには、誰にでも確認できる記録が必要だ。
だからこそ、一か所だけでは足りない。
空洞の位置。
地下水の流れ。
亀裂の広がり。
爆破の回数。
岩が鳴った日時。
父が無視できない形へまとめなければならない。
◇
一行は危険を指摘した運搬路を戻り、手前の分岐から迂回路へ入った。
現場監督によれば、こちらは異なる岩盤の層を通っており、先ほどの空洞からも十分に離れているという。
視察の予定を短縮し、新鉱脈の入口だけを確認して地上へ戻ることになった。
だが、その区画でもレオンハルトは異常を見つけた。
数十人の鉱夫が、岩壁へ爆破石を埋め込むための穴を開けている。
爆破予定地点から十歩ほど離れた壁へも、細い亀裂が走っていた。
「この辺りでは、今月に何度爆破しましたか?」
「四度です」
現場監督が答える。
「問題は?」
ゲルハルトが尋ねる。
「細かな落石はありましたが、負傷者は出ておりません」
細かな落石を、問題なしとして扱っている。
レオンハルトは壁を見つめた。
「父上。あの亀裂だけ、調べてもよいですか?」
「また視察を止めるつもりか」
「先ほどとは別の岩盤だと確認するためです。異常がなければ、すぐに手を離します」
ゲルハルトは短く息を吐いた。
「一か所だけだ」
「ありがとうございます」
レオンハルトは、掘削面から離れた壁へ手を当てた。
目を閉じ、内部へ意識を伸ばす。
今度は空洞も、大量の地下水もない。
だが、硬い岩の層の間へ、薄く脆い層が挟まれていた。
爆破の振動が硬い層を伝い、その柔らかい部分へ集まっている。
微細な亀裂が、脆い層に沿って横へ伸びていた。
「爆破の力が、掘っている方向だけでなく横へ逃げています」
「何?」
「振動がこの薄い層を伝い、亀裂を広げています。まだ小さいですが、同じ周辺で爆破を繰り返せば、つながる可能性があります」
ブルクハルトが眉をひそめる。
「また作業を止めろと言われるのですか?」
「同じ場所で続けて爆破せず、間隔を空けて壁の変化を確認するべきです」
「採掘が遅れます」
「崩れれば、もっと遅れます」
「亀裂があることと、今すぐ落盤することは別です」
ブルクハルトは冷静に返した。
「若様には亀裂が見えるのでしょう。しかし、どの程度なら安全で、どこから危険なのか、その基準はまだ示されておりません」
レオンハルトは言葉を止めた。
悔しいが、その指摘は正しい。
異常を感じ取れても、危険度を数値や段階として示す方法はまだない。
その時だった。
レオンハルトが手を当てていた場所から、十歩ほど奥で低い音が響いた。
誰も起爆の合図を出していない。
爆破石の破裂音ではない。
岩の内部で何かが割れた音だった。
「何だ?」
ブルクハルトが振り返る。
続いて、小石がぱらぱらと天井から落ちる。
鉱夫たちがざわめいた。
レオンハルトは再び壁へ掌を押し当てる。
先ほどまで細かった亀裂が、奥で急速につながり始めていた。
脆い層の一部がずれ、天井へかかる力が変わっている。
大きく崩れるまで、長くはない。
「全員、壁から離れてください!」
レオンハルトは叫んだ。
「右側の天井が落ちます! 広い場所へ!」
「退避!」
現場監督が声を張り上げる。
鉱夫たちはつるはしを捨て、分岐の広い場所へ走った。
騎士たちがゲルハルトを囲み、レオンハルトの腕も掴む。
直後、右手の壁面が大きく鳴った。
硬い岩が擦れ合う低い音。
天井から拳ほどの石がいくつも落下した。
「オットーさん!」
レオンハルトの視線の先で、オットーが若い鉱夫を支えていた。
落ちた岩が若者の片足を挟み、動けなくなっている。
「若様、来てはなりません!」
「そこにいてください!」
レオンハルトは壁へ触れたまま、崩れ方を確かめた。
大きな岩盤全体が落ちる状態ではない。
今崩れているのは、脆い層から剥がれた表面部分だけだ。
ただし、次の石が落ちるまで、おそらく数十秒しかない。
「騎士の方は、上を見てください! 大きな石が動いたら知らせてください!」
レオンハルトは腕を掴んでいた騎士へ叫んだ。
「十数える間だけです。その間に助けます!」
「危険です!」
「このままでは、次の石に潰されます!」
騎士は一瞬迷った後、剣を抜かずに頭上を確認しながらレオンハルトへ続いた。
レオンハルトはオットーたちのもとへ駆け寄る。
若い鉱夫の足には、抱え上げられないほど大きな岩が乗っていた。
「若様、足が抜けません!」
「岩だけを割ります。身体を動かさないでください」
レオンハルトは岩へ両手を当てた。
内部には、落下した衝撃で生まれた細かな亀裂がある。
鉱夫の足へ近い部分を避け、外側の弱い箇所だけを分離する。
人の身体には力を向けない。
岩だけを対象にする。
《結晶創造》を流し込んだ瞬間、指先へ強い痺れが走った。
手のひらより大きな魔石とは違う。
岩は重く、内部の構造も複雑だ。
「くっ……」
視界が僅かに揺れる。
それでも、力を止めるわけにはいかない。
岩の表面へ六角形の薄い模様が浮かんだ。
内部の亀裂が広がり、重い岩が三つの塊へ割れる。
「今です!」
オットーと騎士が岩を押し退け、若い鉱夫を引き出した。
「立てますか?」
「足が痛い……でも、動きます」
「肩を貸します」
オットーと騎士が若者を支える。
レオンハルトも立ち上がろうとしたが、膝へ力が入らなかった。
大きな岩を分離した負担で、腕が震えている。
「若様!」
オットーが反対側の肩を支えた。
「大丈夫です。早く離れてください」
全員が広い場所へ移動した直後、先ほどまでいた位置へ新たな石が落ちた。
鈍い音が坑道へ響く。
「全員いるか!」
現場監督が人数を数える。
取り残された者はいなかった。
落盤は短時間で収まった。
崩れたのは、壁と天井の表面に近い一部だけ。
坑道全体が塞がるほどではない。
若い鉱夫も意識はあり、足を動かせていた。
「負傷者は一人です」
監督役が報告する。
「打撲と捻挫と思われます」
「作業を中止しろ」
ゲルハルトが即座に命じた。
「この区画は閉鎖する。支柱と岩盤の確認が終わるまで、誰も入れるな」
ブルクハルトは青ざめた顔で頷いた。
「承知しました」
レオンハルトは荒い呼吸を整えながら、崩れた壁を見つめた。
先ほど感じた脆い層が、亀裂に沿って剥がれ落ちている。
岩盤の弱さが原因の一つであることは間違いない。
爆破の振動が亀裂を広げた可能性も高い。
だが、地下の荷重変化や水分など、ほかの要因が重なっているかもしれない。
今の時点で、爆破だけが原因だと断定することはできなかった。
「父上」
「話は地上へ戻ってからだ」
「ですが――」
「今は負傷者を治療所へ運ぶのが先だ」
父の言葉は正しかった。
「……はい」
レオンハルトは口を閉じ、震える手を握り締めた。
◇
地上へ戻ると、負傷した鉱夫はすぐに治療所へ運ばれた。
足首を強く捻っていたが、骨には異常がなく、数週間休めば仕事へ戻れるという。
レオンハルトも医師から腕と手を診てもらった。
魔力を急激に使ったことで指先の感覚が鈍っているが、一晩休めば戻るだろうと言われた。
死者も重傷者も出なかった。
そのことには安堵した。
だが、今回は運がよかっただけだ。
鉱山事務所では、ゲルハルト、ブルクハルト、現場監督が落盤について話し合っていた。
レオンハルトとオットーも同席している。
「直前に爆破はしていないのだな?」
ゲルハルトが尋ねる。
「はい」
監督役が答えた。
「最後の爆破は二日前です」
「ならば、爆破だけが原因とは断定できません」
ブルクハルトが言う。
「古い岩が、自然な荷重によって剥がれた可能性もございます」
「爆破だけが原因だとは言っていません」
レオンハルトは答えた。
「岩盤の弱い層へ振動が伝わり、亀裂を広げた可能性があります。地下水や上からの重さも調べる必要があります」
「可能性の話でしょう」
「ですが、落盤前に亀裂が広がっていることは伝えました」
「亀裂があることと、今日あの場所が崩れると予測できたことは別です」
ブルクハルトは言葉を選びながら続けた。
「若様は危険を感じたと申されましたが、どれほど危険なのか、いつ崩れるのかまでは示しておられません。すべての亀裂を理由に作業を止めていては、鉱山は動かせません」
レオンハルトは拳を握った。
責任を逃れるような言い方ではある。
だが、予測の精度を示せていないことも事実だった。
「ブルクハルト」
ゲルハルトが低い声で制する。
「レオンハルトは、落盤前に異常を指摘した。それも事実だ」
鉱山長は口を閉じた。
父はレオンハルトへ向き直る。
「ほかの場所も、同じ方法で調べられるか」
「はい。ただし、一度に広い範囲は無理です。壁へ触れながら、少しずつ進む必要があります」
「どれほど時間がかかる」
「主坑道すべてなら、数日は必要です」
「数日……」
ブルクハルトが眉をひそめる。
「旦那様。主坑道を止めて調査すれば、採掘量は大幅に落ちます」
「全面停止をしなくても調べられます」
レオンハルトは言った。
「作業の終わった区画から順番に確認します。危険度の高い場所だけ閉鎖し、支柱を増やすか、迂回路を使います」
「若様だけに見える亀裂を基準に区画を閉鎖していては、採掘計画が立ちません」
「今日、人が下敷きになりかけました」
「軽い落盤自体は、鉱山では珍しくありません」
「助かったからよかった、ではありません!」
レオンハルトは机へ手をついた。
部屋が静まり返る。
普段、穏やかなレオンハルトが声を荒らげることは少ない。
「今回は足を挟まれただけで済みました。でも、次は坑道が塞がるかもしれない。逃げ遅れた人の人数さえ確認できなくなるかもしれません」
ブルクハルトを真っ直ぐ見る。
「今日見つかった危険を、いつもの落盤として片づけてはいけません」
「座りなさい」
ゲルハルトが告げた。
レオンハルトは荒い息を整え、椅子へ戻る。
父は机の坑道図をしばらく見つめた。
「主坑道全体の停止はしない」
「父上」
「だが、今日落盤した区画と、お前が最初に空洞を感じた区画は閉鎖する」
ブルクハルトが顔を上げる。
「旦那様、それでは運搬に遅れが――」
「二か所だけだ」
ゲルハルトは言い切った。
「今日、実際に落盤が起きた。何の確認もせず再開することは許さぬ」
そしてレオンハルトを見る。
「その二か所を調べろ。空洞の形、水の流れ、亀裂の範囲を図にしなさい」
「よいのですか?」
「お前の感覚を、記録へ変えられるか確かめる」
初めて父が、自分の力を鉱山の安全へ使える可能性として扱った。
胸の奥に僅かな喜びが生まれかける。
だが、それ以上に強かったのは安堵だった。
これで、次の事故を防ぐための調査ができる。
「ありがとうございます」
「勘違いするな」
ゲルハルトの声は厳しい。
「許可するのは、その二か所だけだ。主力鉱脈全体の採掘を止めるつもりはない」
「はい」
「結果は、誰が見ても分かる図と記録にしろ。お前にしか見えないでは、経営判断には使えぬ」
「分かりました」
「オットーと現場監督を同行させる。鉱夫が聞いた音や、水の増減も集めなさい」
「はい、父上」
「ブルクハルト。必要な人員を出せ」
鉱山長は不満そうに唇を引き結んだ。
「承知しました」
今回認められたのは、落盤した区画と、空洞を感じた運搬路だけ。
主力坑道全体の調査でも、採掘停止でもない。
それでも最初の一歩だった。
◇
会議が終わると、ブルクハルトと現場監督が先に部屋を出ていった。
オットーも一礼し、後へ続こうとする。
「オットーさん」
レオンハルトが呼び止めた。
「先ほどは、ありがとうございました」
「礼を申し上げるのはこちらです」
オットーは穏やかに答えた。
「若様が岩を割らなければ、あの若い者を助け出せませんでした」
「僕一人でも無理でした。オットーさんと騎士の方が岩を退けてくれたからです」
「ならば、皆で助けたということにいたしましょう」
オットーは窓の外にある山へ目を向けた。
「若様。山は急に崩れるように見えて、その前から何度も知らせております」
「知らせる?」
「小石が落ちる。水が増える。支柱が軋む。岩が鳴る」
その言葉は、レオンハルトが感じた構造の変化と重なった。
「儂ら鉱夫は、それを山の声と呼びます」
「山の声……」
「毎日聞いていると、慣れてしまう者もおります。今日も同じ音だと思い、耳を塞いでしまう」
オットーはレオンハルトを見る。
「若様には、儂らに聞こえない声まで分かるのかもしれませんな」
レオンハルトは山を見つめた。
表面からは、何も変わっていないように見える。
長い間ベルクシュタイン家へ富を与えてきた山。
だが、その内部では空洞が生まれ、水が流れ、亀裂が少しずつ広がっている。
爆破のたびに岩盤は揺れ、削られた重さの変化に耐えている。
今日の落盤は、大崩落ではなかった。
けれど、偶然として片づけてよいものでもない。
「次の調査では、鉱夫の皆さんが聞いた音や、水が増えた場所も教えてください」
「もちろんです」
「僕の力だけでは足りません。皆さんの経験が必要です」
オットーは少し驚いた後、深く頷いた。
「承知しました、若様」
◇
その夜。
レオンハルトは専用工房で、白紙の坑道図を広げていた。
視察中に記録した表面亀裂。
水の染み出していた場所。
空洞を感じた区画。
落盤が起きた場所。
爆破石を使用している区域。
それぞれを異なる色の線で書き込んでいく。
坑道の位置だけでは足りない。
岩盤の層。
水の流れ。
空洞の大きさ。
爆破の回数と日時。
落石や異音の報告。
必要な情報は多かった。
「まだ、分からないことばかりだ」
今日の落盤を完全に予測することはできなかった。
危険を感じても、崩れる時刻や範囲までは分からない。
爆破、地下水、岩盤の弱さ。
何がどの程度影響したのかも、まだ証明できない。
だからこそ調べなければならない。
レオンハルトは指先を見た。
痺れはだいぶ弱まっている。
小さな岩一つを割っただけでも、急いで力を使えばこれほど負担がかかる。
大きな落盤が起きた時、自分一人ですべてを支えられるとは思えなかった。
崩れてから力を使うのでは遅い。
崩れる前に見つけ、避難させる仕組みが必要だった。
机の端へ置いた魔石灯を点ける。
白い光が坑道図を照らした。
二年前、この光は暗闇の中で足元を見るために作った。
今は、山の内部へ隠れた危険を見つけるための光になろうとしている。
父から認められたのは、二つの区画だけだ。
だが、そこで具体的な記録を作れれば、次はもっと広い範囲を調べられるかもしれない。
もし、主力鉱脈全体へ亀裂や地下水の影響が広がっていたなら。
その時は、採掘を止めるよう父へ求めなければならない。
王国軍との契約に影響するとしても。
レオンハルトは空洞を感じた位置へ、濃い印をつけた。
「もっと大きな崩落が起きる前に、見つけなければ」
窓の外には、夜の山が黒い影となってそびえている。
風の音に混じり、遠くから低い響きが届いたような気がした。
岩が軋む音。
水が流れる音。
積み重なった重みに、山が耐えている音。
鉱夫たちが山の声と呼ぶその響きは、レオンハルトには助けを求める悲鳴のように聞こえた。
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