第3話 母を救った結晶
この作品は完結まで7日間で1日5〜6話投稿します。
1日目(7/20)3話目です。
捨てられた魔石を初めて修復してから、半月ほどが過ぎた。
レオンハルトの机の上には、廃魔石の形や亀裂、魔力の減り方を記した紙が積み重なっていた。
五歳の手で書かれた文字はまだ不格好だ。
それでも、最初は半日かかっていた小さな廃魔石の修復を、今では一刻ほどで終えられるようになっていた。
「透明な石は整えやすい。黄色い石は、魔力が熱に変わりやすい……」
レオンハルトは三つの魔石を並べ、記録へ書き加えていく。
「その違いは、色そのものが原因とは限りませんぞ」
向かいに座っていた老錬金術師アルノルトが、白い髭を撫でながら言った。
「中に混じっている鉱物が、魔力の性質を変えている可能性もございます」
「では、同じ色でも中身が違うことがあるのですね」
「その通りです。見た目だけで判断してはなりません」
アルノルトは、レオンハルトが修復した白い魔石を窓の光へかざした。
「しかし、内部の亀裂まで感じ取れるとは……何度見ても信じがたい力ですな」
アルノルトにも《結晶創造》は使えない。
レオンハルトが魔石の内部へ直接触れているように見えるだけで、何を感じ、どのように構造を変えているのかまでは分からなかった。
それでも彼は、父ゲルハルトとは違い、レオンハルトの説明を子供の空想として扱わなかった。
魔石ごとの違いを記録するよう助言し、魔力を使いすぎない方法も一緒に考えてくれている。
「今日はここまでにいたしましょう」
「もう少しだけ――」
「なりません」
アルノルトは即座に遮った。
「指先が震えております。魔力を使い切ってから休むのでは遅いのです」
レオンハルトが自分の手を見ると、確かに羽根ペンを持つ指が僅かに震えている。
「……分かりました」
「よろしい」
アルノルトが満足そうに頷いた、その時だった。
扉が慌ただしく叩かれた。
「レオンハルト様」
外から聞こえたのは、侍女マルタの声だった。
普段の落ち着いた調子ではない。
「どうぞ」
レオンハルトが答えると、マルタが急いで入ってくる。
手には何も持っていない。
顔色も青ざめていた。
「どうしたの?」
「奥様が、お倒れになりました」
レオンハルトは椅子から立ち上がった。
「母上が?」
「朝から少し気分が優れないとおっしゃっていたのですが、先ほど寝室で急に……」
「医師は?」
「すでに診察しております」
レオンハルトは机の脇に置いていた上着を掴んだ。
焦りから指が袖へうまく入らない。
マルタが手を貸そうとしたが、レオンハルトは上着を抱えたまま部屋を飛び出した。
「レオンハルト様、廊下では――」
アルノルトの声が後ろから聞こえる。
だが、足を止めることはできなかった。
母ヘレーネは以前から病弱だった。
季節の変わり目には寝込むこともある。
それでも、倒れたと聞いたのは初めてだった。
前世の記憶を持っていても、今のレオンハルトにとってヘレーネは大切な母親だ。
自分が魔力測定の途中で倒れた時、真っ先に抱き止めてくれた。
父が水晶の反応を気にしている間も、ずっと自分のそばにいてくれた。
「母上……!」
寝室へ飛び込むと、ヘレーネは大きな寝台へ横たわっていた。
顔色は青白い。
額には汗が浮かび、呼吸も浅い。
寝台の脇には医師と侍女、それから父ゲルハルトが立っていた。
「レオンハルト。騒ぐな」
ゲルハルトが低い声で言う。
「母上はどうしたのですか?」
「今、診察中だ」
レオンハルトは寝台へ駆け寄りたかったが、医師がヘレーネの脈を取っている。
邪魔をしないよう、少し離れた場所で足を止めた。
その時、母の首元にある緑色の宝石が目に入った。
金の鎖へ取り付けられた、大粒の装飾魔石。
数日前、父が王都の商人から買い求め、母へ贈ったものだった。
健康を守り、魔力の巡りを整えると説明された高価な品だ。
その魔石には、王宮錬金術師の鑑定書まで付いていた。
「奥様は、疲労によって体力を落としておられるようです」
診察を終えた医師が立ち上がる。
「大きな病の兆候は見当たりません。薬湯を飲み、数日安静になされば、回復されるかと」
「本当に疲労だけなのですか?」
レオンハルトは思わず尋ねた。
医師がこちらを見る。
「レオンハルト様。ご心配なのは分かりますが、奥様は以前からお身体が弱くていらっしゃいます」
「でも、いつも寝込んだ時とは様子が違います」
「体調は、常に同じ形で崩れるとは限りません」
医師は穏やかに答えた。
ゲルハルトが眉をひそめる。
「診察の邪魔をするな」
「……申し訳ありません」
レオンハルトは一歩下がった。
だが、納得できない。
ヘレーネは体調を崩すことはあっても、これほど苦しそうに呼吸してはいなかった。
それに寝室へ入った時から、妙な感覚があった。
空気そのものが重い。
胸の中へ冷たいものが入り込み、体温を奪われるような不快感。
レオンハルトは部屋を見回した。
花瓶。
香油。
薬湯。
枕。
そして、母の首元で輝いている緑色の魔石。
意識を向けた瞬間、結晶の構造が頭の中へ浮かび上がった。
「……あれだ」
緑色の魔石内部には、美しい色の層へ隠れるように、黒紫色の不純物が広がっていた。
しかも、ただの鉱物ではない。
冷たく重い魔力が亀裂から漏れ出し、母の身体へまとわりついている。
健康を守る装飾品ではない。
長時間身につけた者の魔力と体力を削る、危険な魔石だった。
「母上。その首飾りを外してください」
レオンハルトは寝台へ駆け寄った。
侍女が驚いて制止しようとする。
「レオンハルト様、今は――」
「その魔石から、悪い魔力が出ています」
寝室の空気が止まった。
ゲルハルトの表情が険しくなる。
「何を言っている」
「緑の魔石です。中に毒のような魔力があります」
「その首飾りには王宮錬金術師の鑑定書が付いている」
「でも、僕には中が見えます」
「見える?」
医師が戸惑ったようにレオンハルトを見る。
「魔石鑑定を学んでおられるのですか?」
「正式には学んでいません。でも、亀裂と魔力の流れが分かります」
「また石遊びの話か」
ゲルハルトの一言に、レオンハルトの胸が熱くなる。
「遊びではありません!」
声が大きくなった。
ヘレーネが苦しそうに瞼を開ける。
「レオン……」
弱々しい声だった。
レオンハルトはすぐに寝台のそばへ寄る。
「母上。その首飾りを外してください。お願いします」
ヘレーネは浅い呼吸を繰り返しながら、息子の顔を見つめた。
「この石が……よくないのですね?」
「はい」
「分かりました」
ヘレーネは迷わず頷いた。
侍女が留め金を外し、首飾りを外す。
その瞬間、レオンハルトが感じていた空気の重さが僅かに薄れた。
医師もヘレーネの脈を確かめ直す。
「脈の乱れが、少し弱くなっています」
ゲルハルトが医師を見る。
「首飾りが原因なのか?」
「断定はできません。ただ、外した直後に変化があったことは事実です」
「首飾りを貸してください」
後ろからアルノルトの声がした。
レオンハルトを追って寝室へ来たらしい。
彼は布越しに緑色の魔石を受け取ると、表面を慎重に確認する。
「確かに魔力が不安定です。表面に施された偽装術式が、内部の乱れを隠しております」
「偽装だと?」
ゲルハルトの声が低くなる。
「鑑定書が正規のものなら、鑑定後に細工された可能性がございます。あるいは、鑑定そのものが不十分だったか」
「商人を呼び戻せ」
ゲルハルトがすぐに家令へ命じる。
「鑑定書の出所も確認しろ。首飾りを持ち込んだ者、仲介した者をすべて調べさせる」
「承知いたしました」
家令が足早に部屋を出ていった。
ゲルハルトは妻を害した可能性のある品を放置するつもりはないらしい。
それでも、レオンハルトへ向ける表情は厳しいままだった。
「原因らしきものは取り除いた。後は医師へ任せなさい」
「まだです」
レオンハルトは母の手を握った。
冷たい。
首飾りを外しただけでは、身体へ入り込んだ毒性魔力は消えていない。
薄い黒紫色の魔力が、母の周囲に残っている。
「身体の中に、まだ悪い魔力があります」
「子供に何ができる」
父の声が飛ぶ。
レオンハルトは答えなかった。
今は父を説得している時間が惜しい。
母の体内へ入り込んだ毒性魔力だけを、外へ引き出す必要がある。
だが、人の身体を直接《結晶創造》で変えることはできない。
いや、できるかもしれない。
けれど、してはいけない。
生命の構造は鉱石とは違う。
前世の知識があっても、人体のすべてを理解しているわけではない。
母の身体へ直接力を使えば、毒だけでなく、命そのものを傷つける危険がある。
「吸い取るための結晶を作れば……」
レオンハルトは呟いた。
人の身体へ作用するのではなく、外へ漏れ出してくる毒性魔力だけを引き寄せ、結晶へ封じる。
廃魔石を直した時は、不純物を外へ押し出した。
ならば逆に、特定の性質だけを内部へ集める構造も作れるはずだ。
「アルノルト先生。無属性の透明な魔石をください」
「毒性魔力だけを吸収するおつもりですか?」
「はい。母上の普通の魔力は通さず、悪い魔力だけを集めます」
アルノルトはレオンハルトの顔を見つめる。
「一度も作ったことのない結晶ですな」
「でも、ほかに方法がありません」
「危険すぎる」
ゲルハルトが止める。
だが、ヘレーネが弱い声で呼びかけた。
「あなた……レオンに、やらせてください」
「しかし」
「この子は、何かを感じ取っています」
「五歳の子供だぞ」
「それでも、首飾りの異常へ最初に気づいたのはレオンです」
ヘレーネの目は弱々しくも、真っ直ぐに夫を見ていた。
医師も慎重に口を開く。
「旦那様。奥様の状態は、首飾りを外してから僅かに改善しております。ただ、原因不明の魔力衰弱が残っています」
「子供の作る石へ妻を任せろというのか」
「私には、毒性魔力を除く技術がございません」
医師は正直に答えた。
「何もせず薬湯だけで様子を見るか、レオンハルト様の方法を試すか。少なくとも、私には前者が安全だと言い切れません」
ゲルハルトはしばらく黙っていた。
やがて、アルノルトへ視線を向ける。
「お前が監督しろ。少しでも危険だと判断したら中止させよ」
「承知いたしました」
アルノルトは急いで工房へ向かった。
しばらくして、親指の先ほどの透明な魔石を持って戻ってくる。
内部に僅かな濁りはあるが、属性の偏りはほとんどない。
レオンハルトはそれを両手で包んだ。
「毒だけを集める。ほかの魔力は通さない」
結晶内部へ、外側から中心へ伸びる細い通路を思い描く。
ただし、何でも吸い込む構造にはできない。
緑色の魔石から漏れていた、冷たく重い魔力だけを選ぶ。
母の生命力や本来の魔力を奪ってはいけない。
慎重に。
少しずつ。
胸の奥から魔力が流れ出す。
透明な魔石の表面に、細かな六角形の模様が浮かんだ。
「うっ……」
予想以上に負担が大きい。
ただ石を修復するのとは違う。
新しい機能を持たせるには、結晶構造を一から組み直す必要がある。
額から汗が流れる。
指先が痺れ、腕が鉛のように重くなる。
「レオン、無理をしてはいけません」
母の声が聞こえる。
「もう少しです」
本当は、今すぐ手を離して横になりたかった。
けれど、ここで止めれば母を助けられない。
アルノルトがレオンハルトの肩へ手を添える。
「呼吸を整えてください。一気に完成させようとなさらぬように」
レオンハルトは一度魔力を止めた。
深く息を吸う。
焦ってはいけない。
廃魔石の修復と同じだ。
一つずつ。
通路を作る。
毒性魔力だけを引き寄せる性質を刻む。
中心から外へ漏れないよう、結晶の外殻を閉じる。
再び魔力を流す。
透明だった魔石の中心に、小さな黒い点が生まれた。
「できました」
アルノルトが結晶を受け取り、寝台の脇へ置く。
最初は何も起こらなかった。
ゲルハルトが疑うように目を細める。
だが、しばらくすると、ヘレーネの身体から薄い黒紫色の霧が浮かび始めた。
普通の者にはほとんど見えないほど淡い魔力。
それがゆっくりと結晶へ吸い込まれていく。
透明だった石は、中心から少しずつ黒紫色へ染まっていった。
「これは……」
アルノルトが息を呑む。
「奥様の周囲にあった異質な魔力が、結晶へ移っております」
医師はすぐにヘレーネの脈と呼吸を確かめる。
「呼吸が深くなっています。脈の乱れも改善している」
「薬湯はまだ飲ませていないな?」
ゲルハルトが確認する。
「はい。まだ一口も」
医師の返答に、ゲルハルトは黒く染まっていく結晶を見つめた。
だが、レオンハルトには父の反応を確かめる余裕がなかった。
全身から力が抜ける。
視界が暗くなる。
「レオンハルト様!」
アルノルトの声が聞こえた。
床へ倒れる前に誰かの腕へ抱き止められ、そのまま意識を失った。
◇
次に目を覚ました時、レオンハルトは母の寝室に置かれた長椅子へ寝かされていた。
窓の外は暗い。
かなり長く眠っていたらしい。
「目を覚ましましたかな」
アルノルトが椅子に座り、こちらを見ていた。
「母上は?」
「ご安心ください。先ほど薬湯を召し上がり、今は静かに眠っておられます」
レオンハルトは身体を起こした。
少しふらついたが、意識ははっきりしている。
寝台の方を見ると、ヘレーネの顔色はまだ青白いものの、呼吸は穏やかになっていた。
枕元にあった吸毒結晶は見当たらない。
「結晶は?」
「こちらです」
アルノルトが部屋の隅を示した。
そこには金属製の小箱が置かれている。
箱の内側には、魔力を遮断する銀色の布が何重にも敷かれていた。
「毒性魔力が再び漏れぬよう、封魔布で包み、隔離箱へ収めました」
「ありがとうございます」
「半分以上が黒く染まっておりました。あのまま枕元へ置き続けるのは危険でしたな」
「満杯になったら、どうなるでしょう?」
「分かりません。割れるか、吸収した魔力が漏れ出す可能性がございます」
レオンハルトは小箱を見つめた。
吸い取るだけでは足りない。
容量を確認する仕組み。
満杯になる前に交換する方法。
吸収した毒性魔力を無害化する手段も必要になる。
「また研究することが増えました」
「まずは休むことを研究なされませ」
アルノルトの声は厳しかったが、目元には安堵が浮かんでいた。
「母上の普通の魔力は減っていませんか?」
「医師が確認しております。衰弱は残っていますが、毒性魔力が抜けた後は回復へ向かっているとのことです」
レオンハルトは胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「それにしても、無茶をなさいましたな」
「すみません」
「謝る相手は私ではありません。奥様が目を覚まされたら、きっと叱られますぞ」
その時、寝室の扉が開いた。
ゲルハルトと、見覚えのない男が入ってくる。
男は紫色の長衣をまとい、胸元に王宮錬金術師の紋章を付けていた。
四十歳ほどで、整えられた髭と自信に満ちた表情をしている。
「王宮錬金術師のバルタザール殿だ」
ゲルハルトが説明した。
「王国軍へ納める魔石の品質確認のため、昨日から屋敷へ滞在されている」
バルタザールは軽く頭を下げる。
彼は寝台のヘレーネを確認し、隔離箱へ視線を向けた。
「奥方様のご容体は落ち着いたようですな」
「首飾りから毒性魔力が漏れておりました」
アルノルトが言う。
「レオンハルト様の作られた結晶が、それを吸収したのです」
「ほう」
バルタザールは隔離箱を開けさせ、封魔布の隙間から黒紫色の結晶を確認した。
「確かに、異質な魔力を吸収しております」
レオンハルトは少し驚いた。
最初から否定するのではないらしい。
しかし、バルタザールはすぐに続けた。
「ただし、この結晶だけが奥方様を回復させたと断定するのは早計でしょう」
「薬湯を飲まれる前に、呼吸と脈は改善しました」
医師が事実を告げる。
バルタザールは落ち着いたまま頷いた。
「それは承知しております。ですが、首飾りを外したことによって、身体が毒性魔力を自然に排出し始めた可能性がある」
彼は黒紫色の結晶を指差す。
「この結晶は、身体から自然に排出された魔力を吸い取っただけかもしれません。毒を体外へ引き出したのではなく、外へ出たものを集めたにすぎない、ということです」
アルノルトが眉を寄せる。
「ですが、結晶を置いた直後から改善が早まりました」
「毒の原因を取り除いた直後なら、回復が始まるのは当然でしょう」
「それならば、結晶がなくとも同じ速度で改善したと?」
「比較しておりませんので、断定はできません」
バルタザールは穏やかな口調を崩さない。
全てを否定しているわけではない。
だが、レオンハルトの結晶が母を救ったという事実を、証明できない話へ変えようとしている。
「薬湯には、魔力の巡りを整え、異物の排出を促す効果がございます」
バルタザールは持参した薬瓶を机へ置いた。
「奥方様が順調に回復されるなら、首飾りを外したこと、結晶が周囲の毒性魔力を集めたこと、そして薬湯の作用。その全てが合わさった結果と考えるのが妥当でしょう」
医師は少し考えた後、慎重に答える。
「結晶を置いた時点で改善が始まったことは事実です。ただし、毒性魔力がどのように身体から抜けたのかは、私の専門ではありません」
「では、結晶だけの功績とは言えませんな」
バルタザールは微笑んだ。
嘘ではない。
だが、自分の薬の価値を最大限に残し、レオンハルトの功績を曖昧にする言い方だった。
「その結晶は、僕が母上を助けるために作りました」
レオンハルトが言うと、バルタザールは初めて正面から彼を見る。
「五歳で、特定の魔力を吸収する結晶を作ったと?」
「はい」
「大した才能です」
バルタザールは口では褒めたが、その目はレオンハルトではなく、隔離箱の結晶を見ていた。
「作り方を詳しく聞かせていただきたいものですな」
「これはレオンハルト様の固有能力によるものです」
アルノルトが間へ入る。
「通常の錬金術で再現できるかは分かりません」
「地方付きの錬金術師が、宮廷の研究判断へ異論を唱えるのですか?」
バルタザールの声は穏やかなままだった。
しかし、その言葉には明確な圧力があった。
アルノルトが口を閉じる。
「この件は、首飾りの調査が終わるまで外部へ出すな」
ゲルハルトが命じた。
「バルタザール殿の薬は引き続き使用する。レオンハルトの結晶も、危険性が分かるまでアルノルトが管理しろ」
「父上。僕の結晶が母上を――」
「効果を否定しているわけではない」
ゲルハルトはレオンハルトを見た。
「だが、専門家でも効果を断定できぬものを、子供の判断だけで功績とすることはできない」
言葉だけを聞けば、慎重な判断だった。
それでもレオンハルトには、父が自分よりも宮廷錬金術師の肩書を信じていることが分かった。
「首飾りを売った商人と、鑑定書の発行元は必ず調べる」
ゲルハルトは続ける。
「妻を害した者がいるなら、相応の責任を取らせる」
妻を心配していないわけではない。
領主としても必要な調査を命じている。
それでも、目の前で母を救った息子を認めることだけはしなかった。
「……はい、父上」
レオンハルトはそれ以上言えなかった。
バルタザールは薬の使用方法を説明した後、ゲルハルトとともに部屋を出ていく。
医師も別室で薬湯の準備を確認するため退室した。
アルノルトは隔離箱を持ち上げる。
「工房の封印棚へ移しておきます」
「お願いします」
「レオンハルト様」
アルノルトは扉の前で足を止めた。
「私は、あの結晶が奥様を救ったと考えております」
小さな声だった。
「ただ、それを証明する方法を持っておりません。申し訳ございません」
「先生が謝ることではありません」
「いつか、誰にも否定できぬ記録を残しましょう」
レオンハルトは少しだけ目を見開いた後、頷いた。
「はい」
アルノルトが部屋を出る。
寝室には、レオンハルトと眠るヘレーネだけが残った。
レオンハルトは長椅子から降り、寝台のそばへ歩く。
「僕がやったのに……」
小さな声が漏れた。
褒めてほしいわけではない。
そう思おうとした。
母が助かったのなら、それだけでいい。
けれど、倒れるまで魔力を使い、必死に作った結晶だった。
父に一言だけでも認めてほしかった。
五歳の心には、その悔しさを完全に隠すことはできない。
「知っていますよ」
か細い声が聞こえた。
レオンハルトは顔を上げる。
ヘレーネがゆっくりと目を開けていた。
「母上」
「全部は聞こえませんでしたが……あなたが助けてくれたのでしょう?」
「でも、バルタザール様は、首飾りを外したから自然に毒が抜けたのかもしれないと」
「私は分かっています」
ヘレーネは弱いながらも微笑んだ。
「首飾りを外した後も、身体の中には冷たいものが残っていました。けれど、あなたが作った石を置いてから、それが少しずつ引いていったのです」
レオンハルトは唇を噛む。
泣きそうになった。
前世では大人だった。
それでも、今は母に認めてもらえたことが嬉しかった。
「怖かったです」
「私もです」
「母上が、このまま目を覚まさなかったらと思って……」
ヘレーネは手を伸ばし、レオンハルトの頬へ触れた。
「ありがとう、レオン」
その一言で、我慢していた涙がこぼれた。
レオンハルトは母の手を握り、寝台へ額をつける。
「でも、もう無理をしてはいけません」
「母上を助けるためなら――」
「それでもです」
ヘレーネの声は優しかったが、はっきりしていた。
「あなたが倒れてしまえば、私はもっと苦しくなります」
「……はい」
「周囲に理解されないこともあるでしょう。あなたの力を、役に立たないと言う人もいるかもしれません」
ヘレーネは、吸毒結晶が置かれていた場所へ目を向ける。
「けれど、その力を必要とする人は必ずいます。今日の私のように」
レオンハルトは涙を拭い、小さく頷いた。
「自分の力を大切になさい。そして、誰かを助ける時は、自分のことも同じように大切にしてください」
「分かりました」
レオンハルトは母の手を握ったまま、寝台の脇の椅子へ座った。
吸毒結晶は美しい宝石ではない。
毒を吸い込み、黒く濁った危険な石だった。
けれど、その結晶が母を救ったことを、母自身が知っている。
それで十分だと思いたかった。
同時に、いつかは誰にも否定されない形で、自分の結晶が何をしたのか証明したいとも思った。
吸収した魔力の量。
使用前と使用後の脈や呼吸。
結晶が満たされるまでの時間。
薬を使う前後の変化。
記録すべきことは多い。
だが、今夜だけは研究を始める気にはなれなかった。
やがてヘレーネは安心したように目を閉じる。
その穏やかな呼吸を聞きながら、レオンハルトは静かに思う。
価値を決めるのは、立派な肩書でも、高価な鑑定書でもない。
たった一人でも、その力によって救われる人がいるのなら。
その結晶には、確かな価値があるのだ。
お読みいただきありがとうございます。
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