097.ギネスバイエルンの黒い夜
ギネスバイエルンでは月が隠れようとも、街灯が一帯に光をもたらす。全ては冒険者が貢献し、魔法大学と提携しているからこそ遂げた発展とも謂えよう。
だが急速な成長は闇を生み、現に街灯が照らせない道や路地裏の明暗がはっきり分かれている。
誰もが無意識に避ける場所ゆえに、悪の苗床も人知れず育つ。
「――…や、やめてください!」
「いいじゃないのさぁ、可愛い子ちゃん?こんな時間に出歩いてちゃぁ、危ないでしょぉよ?」
「俺たちが宿まで付き添ってやるって言ってんのに、な~に無視してくれちゃってんだ。あ゛んっ?」
表通りへの道を塞いだ2人の男が、1人の女を追い詰めるように囲っていた。
どちらも冒険者の風貌をしているが、たとえ武器を所持していようと2対1。挙句に相手が男ともなれば、物理的な脱出も厳しい。
一方で女の腕には紙袋が抱えられ、恐らく買い物帰りだったのだろう。不規則な生活を余儀なくされる冒険者のために、夜中も開いている店は多い。
ゆえに夜間の外出は日常になり、光に誘われた羊を狙う狼も増えてくる。
「なんだなんだ?そんな隠さなくたって盗ったりしねえよ。むしろ持ってやっから、オラよこせや!」
「ひ、ひひ引っ張らないでっ!!大声出しますよ?」
「そんな暇があると思ってんのぉ、可愛い子ちゃん?…めんどくせ、ほいっと」
「きゃ…っ!?あ…」
すべては一撃で事足りた。
ゴトンっ――と。
紙袋が地面に落とされ、食料が無慈悲に路地を転がっていく。
崩れた女は男が担ぎ上げ、直後に相方を睨みつけた。
「折角活きの良い女見つけたってのに、あんな話し方する奴があるかってんだ。袋小路だから逃げられずに済んだっつうのに、そのまま衛兵でも呼ばれたら…」
「んなもんビビるこたぁねえよ。ってか陰気臭い面してるくせに、こうでもしなきゃ寄って来る女もいねえだろ」
「ほっとけ!…うしっ。さっさと引き上げて連れ帰んぞ。ついでに食いもん拾ってこいや」
「何でそんな事せにゃならないんだよ」
「女担いで屈めるかっての。ほれ、タダでつまみが手に入るんだぜ。あくしろよ!」
偉そうに指示されるのが気に食わないのか。舌打ちして反抗心を示すが、確かにつまみは欲しい。
宿に戻れば酒もあり、そして女も手に入った。あとは手早く食料を回収すれば、サッサと寝床にも帰れる。
幸い女冒険者の荷も殆ど袋に入ったままで、転がった物を順次蹴り込んでいく。それから程なく作業を終えれば、最後に路地の奥へ視線を向けた。
袋が落ちた時、リンゴが転がっていくのを視界の端で捉え。放っておいても良いが、野良猫の餌にするのも忍びない。
街灯の明かりも届かず、暗闇で見通せずともその先は行き止まり。獲物が遠くへ転がっていくはずもないだろう。
相方は表通りを監視しながら、路地を出る準備をしている。隙あらば置いていくだろう彼に注意しつつ、急いで闇の中へ飛び込んだ。
「――…おい、いつまで時間かけて…あん?」
女を担ぎ直し、最後にもう1度表通りを確認したが誰もいない。出るなら今が好機だと言うのに、背後から足音が近付く気配はなかった。
苛立ちながら振り返れば、見る場所も殆どない路地を見回す。
視界に入らない仲間を置いていくべきか。瞬時に浮かんだ判断も、空腹が男の足をその場に留めた。
渋々女を地面に降ろすや、奥の暗がりへズンズン近付いていく。
「おい、ふざけんのも大概にしろっ。便所なら便所って言えや!いまさら恥じらい何て持ってんじゃ…」
自身の声が反響するだけで、相方の返事は一向に無い。唾を吐いてさらに奥へ踏み込めば、ベシャリ――っと。
足裏に伝わる不快な感触に、猫の死骸を想像してしまう。
直後に身体の自由が利かなくなり、暗闇の奥で影がうねる様相に鳥肌が立つや否や。冒険者の経験が衝動的に男を突き動かした。
咄嗟に靴や防具を脱ぎ捨て、纏わりつく影から首尾よく脱出。真っ先に表通りを目指したものの、途中で足を硬い物にぶつけた。
無意識に悲鳴を押し殺せば、落ちていたのは女の装備。担ぐのに邪魔なため、脱ぎ散らかしたのが仇になったらしい。
打ち付けたつま先が嫌な音を立て、片足で走れば女の下へ辿り着く。
もちろん助けるはずもなければ、もはや彼女は男の獲物でもない。時間稼ぎに背後へ乱暴に放るが、ふと思い立てば少し離れた場所で足を止めた。
暗闇に潜む怪物の正体を。何より女が捕食される瞬間を収めるべく、嗜虐心溢れる想いで様子を窺ったが、地を這う影は獲物を避けるように回り込んだ。
敵意は真っすぐ表通りへ向かい、予期せぬ事態にすぐさま男も踵を返す。
もしも振り返らずに走り続ければ、まだ脱出できたかもしれない。片足が負傷していなければ、宿まで戻る事も出来たろう。
それでも現実は残酷なまでに男へ追いすがり、瞬く間に肉体を包み込んだ。
光に伸ばされた腕は引き戻され、悲鳴ともども路地の暗闇へ飲み込まれていく。
「ったく、いつまで掛かってやがんだ、あいつらは!!?」
ギネスバイエルンの街に佇む、とある宿屋の一角。
酒の臭いが強烈に立ち込める部屋で、強面の男たちが自堕落に時間を過ごしていた。
ある者はソファにもたれ掛かり。ある者は椅子にだらしなく座り。
そして小棚に浅く腰かける者もいたが、部屋の広さや高価そうな調度品は、男たちの冒険者としての実力を誇示するようで。
しかし能力の高さが精神の気高さを表すとも限らない。
「ほーんと、何処までほっつき歩いてんかねー」
「女1人連れて来いっつってからどんだけ経った!?夜に出歩いてる女を探すなんざ、難しい話じゃねぇだろうがよっ!」
「まだ1時間も経ってねえだろ?それにあいつらがリーダー命令無視して、のんびり出来るタマじゃねぇのは分かってんだから、ひとまず落ち着けっての」
「俺は今っ、女が欲しいんだよ。グズグズしてっと朝になっちまう」
乱暴に酒瓶を呷れば、喉を景気よく鳴らして半分以上を飲み干していく。酒にも限りがあり、これから来る“つまみ”を考えれば幾分か残しておきたい。
それでも酔いは荒れた心に潤いを与え、少しは落ち着いたのだろう。リーダーが鎮まった事にホッとした一同も、適宜酒を呷っていく。
その内1人が身体の熱を逃すべく、窓へ近付くとガラス板を外へ押し出した。
「……暗っ」
夜だからそれは当たり前。
そのはずだが、最初に覚えたのは違和感だった。月が隠れたとしても、通りに面した街灯から光が見えたはず。
それが今やペンキで塗り潰された黒い景色だけが映り、疑問は尽きないが酔いも手伝ってか。本来の目的を優先すれば、夜の涼しい風を浴びるべく身体を乗り出した。
「…ありゃ?」
先程まで棚に腰かけていた仲間がいない。気怠そうに目を配れば、3人掛けの長椅子を独占するリーダーに心中で毒吐く。
それでも見当たる事はなく、腰を上げると開いている窓に近付いた。
酒で身体は温まっても、開けっ放しは流石に冷える。窓の両端を掴み、早々に閉めようとした時。
ふいに手を止めれば身を乗り出し、夜の街をザッと一望する。7階の眺めはそれなりに良く、通りを歩く有象無象を見下ろすにも最適。
格の違いが肌で感じられる景観は、冒険者冥利にも尽きるだろう。
宿に泊まってから何度目とも分からない悦に浸っていたものの、やがて視線は街灯から真下の地面に移る。
「…流石に落ちるほど間抜けじゃねえわな」
一瞬よぎった予想も杞憂に終わり、ホッと胸を撫で下ろす。
そうとなれば彼は部屋の中にいるか。あるいは痺れを切らし、知らぬ間に抜け出した可能性がある。
彼を探すべく室内へ振り返った刹那。
突如背後から顔を鷲掴みにされ、勢いよく窓の外へ引きずり出された。
咄嗟に窓枠へ掴まるが、圧倒的な力に首が千切られそうで。否応なく指先が離れた途端、絞るように上げた悲鳴がリーダー格を覚醒させた。
開け放たれた窓を睨むや、足蹴にしていた机からレイピアを引っ掴み。そのまま即座に抜刀するが、男が不用意に走り出す事はない。
冷静に見回せば瞬く間に2人消え、最後に声を聞いた方角を警戒すれば、開かれた窓は夜風に揺られて不気味な音を立てている。
外に潜むモノが何であれ、不用意に近付けば彼らの二の舞。
部屋を出るべきか。
それとも応戦すべきか。
銀等級の矜持を感じさせる立ち振る舞いに、“脅威”も痺れを切らしたらしい。ふいに暗闇が揺らげば、窓から人の形をした“夜”が滑り込んだ。
黒いフード。
黒いケープ。
どこまでも黒く覆われ、顔は全く見えない。
一瞬魔物の侵入を警戒したが、人の形をしたソレにいくらか緊張も緩む。
正体が何であれ、人間であるなら殺せる。心臓に狙いを定め、レイピアを構え直すとおもむろに腰を屈めた。
「…もらったぁぁああーー!」
一気に踏み出せば、切っ先はあっという間に侵入者の胸まで届く。
だが刺さる寸前に紙一重で躱し、背後へ飛び退くにも重心は前に傾いている。
その隙を相手は見逃さず、男の首と手を掴めば武器を落とされ、潰された気道に呼吸もままならない。
それでも化けの皮を剥ごうと手を伸ばすが、腕は虚しく宙を掻くばかり。
血走った目で睨む間もケープは揺らめき、意思を持つように男へ迫れば、意識はゆっくり暗闇に包まれていった。
――…ジャーーーーっ
「ふぅ~スッキリしたぁ……あっ?」
用を足し終え、ベルトを締め直しながら出てきた男がいた。
飲みすぎた酒を排出し、スッキリした様相を浮かべた彼は突如真顔に。そして青くなるや、慌ててその場から逃げ出した。
落ちたズボンで無様に転倒するが、履き直す手間も惜しい。出口まで這えばドアノブを乱暴に揺するが、ふいにチェーンを。
そして二重に掛けられた鍵の存在を思い出し、外そうにも腰が抜けて開けられない。
“見た”のはほんの一瞬だけ。
だが逃げる理由はそれだけで十分だった。
仲間の姿はなく、リーダーの武器が転がる傍で佇む影法師。
まるで悪夢から這い出たような。過去の罪が追い縋ったような化身に、本能が警鐘を打ち鳴らす。
指が震えて鍵もチェーンも外せず、振り返る勇気もない。
しかしようやく1つ目の鍵が開いた時――部屋の明かりは遮られ、扉も男も完全に暗闇で覆われていた。