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・【この物語はフィクションです】

「尋樹! どうしたんだよ!」

「待ってよ!」


 遊里や利晃の静止も耳までで、尋樹の脳まで届いていない。

 明らかに何かが起きているという衝動に駆られ、心がざわめき、逆立つ。

 睡眠が削れ、記憶がなくなりながら、そして自分は辺々本という謎の神の詳細を知っていた。

 明らかに自分がおかしくなっている。

 焦燥の中、蹴破るような勢いで戸を開けたそこは見慣れた溝口彩音の研究室。

 だが、いつも座っているデスクには彼女の姿は、無い。


「ふたりとも探してくれ! さっき食堂で会った女が隠れているかもしれない!」

「ねえ! 説明してよ尋樹! 何が起きてるの!」

「俺にも分からない、だが、きっと、それは溝口が知って――」


 電話が鳴った。

 反射的に設置された固定電話へ遊里と利晃は視線を振ったが、違う。鳴っているのは尋樹のポケット、ケータイ電話だ。

 急ぎ過ぎて落としそうになりながら尋樹が電話に出ると、それは笹塚からだった。


「もしもし、笹塚さん? こっちは緊急なんで、あとで掛け直しま――」

【こっちも緊急だ! お前の飲んでいた薬の成分が分かった! 聞け!】

「――! 本当ですか?」

【お前、あれがビタミン剤や鉄剤に似たような物だって云ったよな?】

「ええ」

【あれはビタミン剤と鉄剤だ。似たようなものじゃない、そのもの】


 ……え?


「でも、え? 俺、あれを飲んで眠りが短縮して……」

【そもそも錠剤だけで数日に渡って眠りが短縮できるなんて麻薬以上だろ!

 あれに眠りを短縮する効果なんてない! だから――】


 自分が睡眠短縮と思って偽薬を呑んでいたことの衝撃で脳が震えた。

 その衝撃に従うように、なぜだか遊里と利晃もバタリと倒れ込んだ。

 現象を疑問に思う間も、どうしたんだ、と叫ぶ間もなく、香料のような匂いが鼻を突き、尋樹の膝は崩折れ、大の字に倒れ込み、眠りに落ちた。








 大の字の体勢のまま()()()()()()、尋樹の視界一杯に凶暴なそれが広がった。

 空に翼も無いのに風船のように浮かぶそれは、正に凶獣、昆虫の目玉のような赤い瞳が宝石のように光り、凶暴な顔を剛毛がビロードのように覆う。

 巨象の如き牙は枝分かれし、群がる森のような様相を成している。動物園に居るマレーバクとは似ても似つかない、凶暴な魔獣がそこには居た。


「……辺々本……あれが……!」


 頑なに見ようとしなかった()には、ああ、なんということだろう。

 毛むくじゃらの獏、聖書のけだもの、辺々本さまが待ち構えていたのだ。

 今まで、自分はあんなバケモノの下に居たのかと尋樹は金縛られたように動けない。

 その現象に、尋樹はそこが夢の中であることを察し、目を覚ましたと思ったのは自分の勘違いだったと思考を正そうとする。だが、状況はそれ以上の猶予を尋樹に与えはしない。


()()()()


 靄が立ち昇るような混濁した意識の中、尋樹は赤い目の少女……いや、溝口彩音の姿を認めた。

 夢の中と現実では姿が違うが、その眼の色……いや、目の奥から溢れるイビツに削られたダイヤモンドの暴力的な輝きは間違えようが無かった。

 夢の中では現実と姿が違うこともありうる。夢野なのだから。

 そんなことを考えすらしなかった。うかつ以外の何者でもないと自らを律した。


「……溝口さん、あんた、何がしたいんだ……いや、()()()()()()

「何もしてないよ?」

「そんなわけないだろうが! お前の研究のせいで俺の記憶は飛ぶし、睡眠時間が減った! お前は――」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」


 説明を求める糾弾の口撃を遮ったのは、謝罪の絶叫。

 溝口彩音の口から出たものではない。それは背後からだ。

 引きずられるようにして目を向けると、それは利晃から出ていた。

 彼はカカシに蹴られていた。布と木の棒の塊のようなカカシが動いているが、既に夢の中だと説明される必要も無い。夢の中でならカカシが蹴ってくることくらい有るだろう。

 母と顔に記されたそのカカシは、その細く弱そうな足が折れそうになりそうなほどに全力で、尋樹を何度も踏みつけていた。


「忠告するけど、あれ、触らない方が良いわよ」

「お前の言葉なんて信用できるか! 利晃! 落ち着け! これはただの夢だ! おい!」


 友愛に溢れる尋樹が手を掛けると、不思議なほど、手ごたえがないほど、母と書かれた利晃のマネキンは、砕けて壊れた。

 あっさりと、本当に、紙細工か砂糖細工か、というほどに脆く。

 だが、そのことを考える間もなく、耳をつんざくような利晃の絶叫が尋樹の()()()()()()()()()()()


「か母ああさあああああん! やだあああ! 死んじゃ、ヤだああああ!」

「落ち着け! 利晃! あれはお前の母さんなんかじゃない! あれは……!」

「バケモノぉおおお!!」

「何を云っているんだ! バケモノは空に居る! 俺だ! 利晃! 俺だ! 尋樹だ! よく見ろ!」

「違うぅうう! お前は尋樹じゃない! お前は、お前はぁああああ!」


 利晃は錯乱したように尋樹の身体を突き飛ばしたが、尋樹には()()()()()()()()()()()

 とにかく、混乱した状態、怪物が居る危険な夢の中で離れるのはマズいと尋樹は走り出そうとする利晃の手を掴むんだ。



 ――え?




 利晃の腕を掴んだ尋樹の腕は、マンモスというか、見たことがない蔓草のような太い剛毛で覆われていた。

 自分の腕から視線を這わせると、その毛は腕から肩、肩から胸に広がっており、そこで尋樹は、再び()を見た。

 空にはやはり、辺々本さまの姿が有った、だが。

 だが、だが、なぜか、空にはもうひとりの利晃がいて、辺々本が利晃の腕を取っている。まるで自分がそうしているように、空の中の辺々本は、もうひとりの利晃の腕をその毛むくじゃらの腕でつかんだまま、離そうともしない。

 尋樹が呆然と眺めていると、ノソノソと辺々本は、空の上に居る怯え切った利晃の右腕をもぎ取った。


「ああああああああああああああああ!!!!」


 腕をもぎ取られた絶叫は、空ではなく、自分の前から聞こえて来た。泣き叫ぶ利晃。

 空の上の利晃とは逆の、鏡写しに目の前の利晃の左腕が切断され、そして、なぜか()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その答えは、後ろで腕組をしてスキップをする美少女……溝口に確認するまでもなく、尋樹の口から出ていた。


「鏡……なのか、夢の中の空は……!」

「当たり前でしょ? 現実では空を映す鏡が海、現実を映す鏡が夢、なら、海を映すために空が鏡になるし、ついでに大地も映す。

 あれはあなたの姿よ、尋樹……いいえ、辺々本さま」


 空の鏡の中には、地上にある全てのものが有ったが、尋樹だけが居なかった。地上には辺々本だけが居なかった。

 うつろな鏡面は厳格で実測的に真実を写す。夢の中の尋樹の姿は、既に辺々本……聖書に記されるような、暴食の獣と化していた。



「あなたの睡眠時間が減ったのは、あたしの薬のせいじゃないわ。

 夢の中のあなた……辺々本さまが、夢から目覚めるために眠りが深くなっただけ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 あなたという存在は、辺々本さまの夢が作り上げた妄想なのよ……!」


「違う、違う、俺は……辺々本じゃない……俺は! 俺は山井尋樹! 父親は山井千尋、母親は山井樹! 俺は、俺は、俺は、俺はぁああ、あ、アアアっっ!」


「夢の中ではどんな矛盾でもありうる。そうね、夢だもの。

 だから、辺々本さまにとっての夢である現実では、どんな矛盾も許される。

 自分が人間に生まれたり、現実のマックで夢の中の女であるあたしと遭遇したり、ね」


 過呼吸の中、絶叫にのけぞり、どこへともなく走り出そうとした足がもつれた。

 自分の足ではないように。太く毛深く節が目立ち、靴ではなくひづめを履いたような足は、容易く転倒し、尋樹は大の字に倒れ込んだ。

 倒れ込み、視界が移ろい……空の鏡の中には、衝撃の映像が展開していた。


 鏡の中の辺々本はノソノソと歩き――星でも見ているのだろうか、マネキンと腕を組みながら空を見上げている遊里に迫っている。


 遊里は自らの夢に、文字通り夢中。

 辺々本の接近にも気付かず、上を見上げたまま……空の鏡越しに尋樹と目が合ったまま、辺々元の太い腕が、その首に絡まっても、気付きもしなかった。


「やめろおおオオおおおぁああああああああああ!」


 鏡像に向かって叫んだ次の瞬間、ずしりという重さが尋樹の腕の中に現れていた。

 その重さに引きずられるように鏡に釘付けになっていた首は下を向き、そして、ねじ切られた()()()()()()()()()()()

 腕の中の遊里は、静かに、枯れるように、灯が消えるように、目をつぶる。

 命が終わる、感触が確かに腕から伝わっていた。


「ゆ、遊里ぃ、違う、俺じゃ、ない、俺が殺したんじゃ……あ、ああ、うあああ、あああああ!」


「いいえ、あなたよ! あなたが辺々本さまなの! だから、そう、さようなら!」


 視界一杯に広がっていった溝口は、なぞるように尋樹ベヘモットの大きな口にキスをしてから、その唇をこじ開けた。

 煙突を進む掃除人のように、床下を進む蛇のように。


「私の夢はこれで叶いました。

 あんな醜い世界で生まれたなら……せめて、死ぬときはこの美しい夢の中で死にたい。

 ああ、辺々本さま、辺々本さま、私を、あなたの、猛々しくも神々しい餌袋(えぶくろ)に受け入れてくださいまし。

 べへとろ べへ・む・ろ べんどぐろ ぬぅげなむ! ぜい! ぜ・が! ぜ・がどぉるん! ざぐら べへもと! べへもと!」


 正体不明な呪文を唱えながら、溝口は尋樹の食道を通り、胃へと進む。

 なぜ、溝口彩音が子供の姿なのか、彼女の人生に何が有ったのか。人ひとりが通れるほどの自分の身体はどうなっているのか。

 口の中をミミズが踊っているような、くすぐられるような感触、溝口華奢な身体と尋樹の舌が抱き合うように這い、赤い瞳の美少女はその瞳から指の股まで、尋樹の――辺々本の唾液に濡れ、そして胃袋へと没する感覚。

 それは、氷菓を貪るような、熱い甘いコーヒーを飲み下すような、そんな――。




☆★


「……それで、どうなったんですか?」


「笹塚さんに起こされたよ。

 電話をしていたが急に切れたから、学校に来てくれていたんだ。

 研究室内にはプロポフォールという気化麻酔薬が満ちていたらしく、それを吸った尋樹たちは……()()()は、眠りに着いた」


「……やっぱり、ネモさん、あんたは……」


「人間だった頃の名前は山井尋樹……。

 あの日から、俺の頭の中で何度も声がするんだ。眠れ、眠れ、ってな。

 だが、俺は眠らない、眠くなるたびに、こうやってる。」


 テントを出たネモ――本当になんと呼べば良いのか分からない男――は、今度は八十を手招きし、炊事場に置いてあるガスコンロを見せた。

 八十が持っているアウトドア用の折り畳み型ではなく、家庭用の卓上ガスコンロを取り出し、そこに八十が手渡したカセットガスを接続して着火し……そして、水面に顔を付けるように、顔面を炙った。

 焚火で焼くマシュマロのように、チョコレートでフォンデュするマシュマロのように、火でフォンデュされた顔面は、瞬時に水ぶくれができ、膨れ上がり、そして割れる。

 涙腺も焦げ、顔面は乾燥して赤くなり、地熱で研磨されたダイヤモンドのようにギラリと光り、炎の色が移ったような赤い色を宿している。


「……これだけやっても死ねないし、またすぐ眠くなる。

 キミにガスを貰っていて助かった。明日になれば笹塚さんからカセットガスを届けて貰えることになっているのだが……今日だけ、足りなくてね」


「どういう、ことすか……?」


「あれから八年。俺は一睡もしていない。

 俺が眠るとき、夢の中で辺々本は、全ての人類を食べ尽くすかもしれない……俺は、それを防ぐ義務が有る。

 あのとき、溝口が口に潜りこんだとき――身体の中から犯されるような、支配と従属に似た……セックスの衝撃と食事の充足を、眠りの依存性に合わせたような、最高の感触……。

 人間を飲み込むことの衝撃が、胃袋から伝わり――俺は、再び眠ったならば、その場に居る全ての人間を食い尽くすだろう」


 顔が炎で焼けただれているが、気のせいか、その傷は一秒ごとに治癒していくように八十には感じられた。

 暗いキャンプ場だ。何かのトリックだと思い込もうとする。この男はクレイジーなマジシャンのホームレスで、通り掛かった旅人を脅かしているんだ。

 そうとしか思えなかった、思いたかった。





 八十はその晩、自転車旅行の疲れに感謝した。

 自分のテントの中、疲れに任せてなんとか、一眠りだけし……明るくなると同時に覚醒していた。

 夢も覚えていないような熟睡から醒め、大きなテントの中からネモが顔を出さないことにざわついたままカップうどんを作り……八十は、使い掛けのカセットガスを炊事場に置き、自転車の修理を開始した。

 幸い、チューブ交換が必要なほどの大きなパンクではなく、修理パッチを貼って三十分ほどで終わった。

 荷物をまとめ、テントを荷台に乗せ、八十はいつも旅人と同じ宿を取ったときにする習慣として、ネモのテントの前までやってきた。


「ネモさん、一晩、お世話になりました! 俺は先に行きます!」

「――ああ、ありがとう。楽しかったよ。いってらっしゃい」

「いってきます!」


 ――テントの中、やはりネモは覚醒しているようだった。

 だが、それ以上の言及は、八十にはできなかった。顔を見ようとは思わなかった。

 昨日の火脹れが治っていたとしても、治っていなかったとしても、あの現象がトリックだったかそうでないか、断定することはできない。


 それから八十が山を下り、何日か野宿を繰り返し、キャンプ場から数百キロ離れた街で、ケータイやデジカメの充電のためにインターネットカフェに入ったときだった。

 聞いていた利晃や遊里、溝口の本名をインターネットカフェで調べると。その記事は出て来た。



 その事件はとある大学の研究室で起きていた。

 宇垣利晃は左腕を失って失血死。

 佐賀遊里は首を切断されて即死。

 溝口彩音は全身が熔けていた。

 現場からは意識不明で大学生、学生のY氏が知人のS氏に救助されていた。


 だが、切断されたはずの宇垣利晃の左腕や佐賀遊里の頭部は現在も発見されていない。

 そして、溝口彩音の死体は、まるで大きな動物に丸呑みされたように融けていたが、表面にはその強酸性の物質は一滴たりとも残されておらず、衣服にはそれらしい痕跡は無かった。

 揮発性の液体だとしても、その痕跡をゼロにすることはできない。

 つまり、この事件の犯人は、人間を生きたまま切断し、人間を強酸性の液体で溶かしてから、その液体をどうにかして消滅されたということらしかった。



 迷宮入りの奇妙な事件。

 それが実際に起きた事件だとしても、もちろん、S氏(笹塚)によって助けられ、この事件を生き残ったY氏(山井尋樹)の話した事件まで実際に起きた出来事なはずはない。



 きっと、この事件を見て、話を膨らませたに違いない。

 奇怪な事件を元にした作り話の都市伝説。良くある話だ。

 夢の中で死んだ人間が、現実でも同じ死因で死亡する、そんなことは有り得ない。


 そう自分に云い聞かせ、俺……八十は今日も眠る。

 眠るたびに辺々本が現れないことだけを祈り、眠りを通り、夢へと至る。

 その夢の中、鏡張りの空の下、今晩も辺々本は眠り続けているとしても――。


 これは作り話である。

 キャンプ場周りの話も、ところどころ脚色しており、実際の俺の旅の工程と重ねても到達できないようになっている。

 先述の利晃や遊里の死因も、実際に俺が見たホームページの死因とは異なって書いているし、脚色はいたるところにある。

 ホームページでも有り得ない死因では有ったが、ここまで極端では無かったし。

 そのため、厳密にはこんな事件は存在すらしていない。


 仮に事実だとしても、山奥の潰れたキャンプ場では、山井尋樹(仮名)が眠らないように格闘しているはずだ。

 彼が眠らない限り、今日も、あなたの夢は安全なはずであるので、安心して、今日も、眠って欲しい。


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