第10話:「師の師と、届かぬ手紙」
ゼム先生。
二十年、子供らを見てきた男が——
今朝だけ、少し違う顔をしておった。
『老いた井戸ほど、深い』とも言うのう。
じゃが——深い井戸が、
今日は少し、揺れておった。
翌朝、授業が始まる前じゃった。
セルは相変わらず早く来ておって、
窓際でリオン先生のノートを開いておった。
わしも、その隣に座った。
「水の続きか」
「別のページです」
「どの問いじゃ」
「——『なぜ、魔力は体に溜まるのか』」
「ほう」
「昨日、ずっと考えていて」
「出たかのう」
「出ません」
「それでよいぞ」
セルが、少し笑いかけたところで——
扉が開いた。
ゼム先生じゃった。
いつもの時間。
いつもの歩き方。
じゃが——
ノートに、目が、行った。
一瞬。
わしは見逃さんかった。
ゼムは何も言わずに、自分の席に歩いていった。
授業が始まった。
授業中、ゼムの目が、時折セルの方へ走った。
セルは、気づいておらんかった。
わしは、気づいておった。
『気づかぬ者は幸せじゃ』——一万年前、ある賢者がそう言うた。
じゃが、気づいてしまう者には、気づいてしまう者の役目がある。
授業が終わっても、ゼムは何も言わなんだ。
昼にも、言わなんだ。
夕方、帰り支度の頃——
「セル」
ゼムが、初めて声をかけた。
「はい」
「少し、残れ」
セルが、わしを見た。
わしは頷いた。
「ヴィンも、いてよい」
ゼムが言うた。
珍しいのう。
わしは、荷物を置き直した。
エイナとガルが、先に帰った。
「何かあったら言ってね」
エイナが、小声で言うた。
「うむ」
ガルは不服そうじゃったが、
エイナに引っ張られていった。
二人きり——ではなく、三人じゃ。
夕陽が斜めに、机を染めておった。
ゼムは教卓の端に腰を下ろした。
腰が痛そうじゃな。
じゃが、今日は——言わん方がよかろう。
「そのノート」
ゼムが、セルに言うた。
「……はい」
「見せてくれんか」
セルが、一瞬、身を固くした。
リオン先生の形見じゃ。
知らん他人には、渡せん種類のものじゃろう。
セルが、わしを見た。
わしは、小さく頷いた。
ゼム先生は——信じてよい。
セルが、ノートを差し出した。
ゼムは受け取って、そっと開いた。
一ページ目。
「水は、なぜ流れる」
ゼムの手が、止まった。
長い沈黙じゃった。
『待てば海路の日和あり』と、古くから言うてな。
——じゃが、海路が日和になるまで、一万年も待ったのは、
わしくらいのもんかもしれん。
待つのは、得意じゃ。
ゼムがページをめくった。
もう一度、めくった。
戻した。
閉じた。
また、開いた。
セルは黙っておった。
わしも黙っておった。
ゼムが——ようやく、口を開いた。
「……この字を、わしは知っておる」
セルが、息を呑んだ。
「リオンは、わしの弟子じゃった」
風が、窓を撫でた。
セルが、すぐには言葉を返せなんだ。
「……先生、が」
「二十年前、王都魔法院に居った頃の話じゃ」
「……知っています。父から」
「あの頃、リオンは十歳でな。
魔力は並じゃった。
じゃが——問いが、違うた」
ゼムが、ノートを指で撫でた。
「『なぜ、この問いを解かなきゃいけないんですか』
——会議でそう言うた十歳を、わしは見たぞ」
セルの目が、見開いた。
「先生は——」
「わしは、リオンを庇うた。
皆は、追い出そうとしておったがな」
「……」
「二年だけじゃ。
わしが院を辞めるまで、二年だけ——わしが、教えた」
セルが、俯いた。
肩が、少し揺れた。
「……リオン先生は、よく、話してくれました。
『問いを立てる、ということを教えてくれた人がいる』と」
ゼムの目が、細くなった。
「名前は」
「言いませんでした。
『大事な人だから、名前は軽く出さない』と」
ゼムが、ゆっくり息を吐いた。
「……そうか」
『名は軽々に出すべからず』——というのは、
古い魔術師の流儀でもある。
リオンは、師の作法を、忘れておらんかったんじゃな。
わしは、ゼム先生の顔を見た。
泣くではない。
笑うでもない。
ただ——二十年分、息を止めておった男が、
ようやく少し、吐いた顔じゃった。
「わしは——」
ゼムが、ぽつりと言うた。
「辞めた後、一度だけ、手紙を書いた」
「はい」
「返事が、来なんだ。
忘れられたと、思うておった」
セルが、首を横に振った。
「……届いていなかったかもしれません」
「……」
「父が、止めていた可能性があります」
ゼムが、一瞬、目を閉じた。
「——そうか」
責めるでもなく、
嘆くでもなく。
ただ——事実を受け止める声じゃった。
『覆水盆に返らず』と言うがのう。
返らぬ水を、恨む者と、諦める者と、
——もう一度、別の器で汲む者がおる。
ゼムは、三つめじゃった。
「セル」
ゼムが、低く言うた。
「はい」
「リオンは、どうしておる」
セルが、一度、唇を噛んだ。
そして——
「……半年前、事故で、亡くなりました」
ゼムは、動かなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
「……事故、か」
「……書庫で、古い魔導書の封印が、解けて」
ゼムの目が、ゆっくりと、セルに向いた。
「——封印が、解けた、と言うたか」
「はい」
ゼムが、しばらく、机の木目を見ておった。
「……そうか」
声が、低かった。
「……ご存知、だったんですか」
セルが、おそるおそる聞いた。
「知っておる」
ゼムが、深く息を吐いた。
「あの棚は——わしが院を辞める直前に、
一緒に封を打った棚の、一つじゃ」
セルの目が、見開いた。
「わしと——リオンの、師筋の、もう一人でな」
「もう、一人——」
「名前は、言えん。
まだ、言う時では、ないぞ」
セルが、黙った。
わしも、黙った。
ゼムの声に、嘘はなかった。
じゃが——何かを、言いかけて、飲み込んだ。
『沈黙は、最も雄弁な言葉』じゃと、
遠い昔、ある詩人が書いておったのう。
今のゼム先生が、まさに、それじゃ。
問うのは、今ではない。
「セル」
ゼムが、言うた。
「はい」
「リオンは、何を調べておった」
セルが、少し考えた。
「……『唯一の静けさ』と、呼んでいたものを」
ゼムの指が、止まった。
机の上で——ぴたりと。
「……なん、と」
「『唯一の静けさが、どこかにある』——
亡くなる前日に、そう言って、笑っていました」
ゼムは、しばらく、動かなかった。
そして——長く、息を吐いた。
「……あの子は、辿り着いたのかもしれん」
「辿り着いた、とは——」
「わしが、辿り着けなんだ場所に、じゃ」
ゼムが、ゆっくりと立ち上がった。
杖の音が、床に響いた。
「セル」
「はい」
「そのノートは、大事にせい。
誰にも——見せるな」
「……父にも、ですか」
「父上にも、じゃ」
セルが、頷いた。
ゼムが、わしを見た。
「ヴィン」
「うん」
「——お前は、気づいておるか」
わしは、少し考えた。
全知が、静かに揺れた。
じゃが、わしは——今は、見ぬ選択をした。
「……少しだけ、かもしれん」
「そうか」
ゼムが、目を細めた。
「お前は、少しの気づきで、先まで見える子じゃ。
今は——その先を、言うな」
「うむ」
「言うと、軽くなるぞ」
「わかっておる」
『言葉は軽く、沈黙は重い』——と、
一万年前、誰かが書いた石碑があったのう。
読めた者は、少なかったが。
ゼムが、扉の方へ歩いた。
一度、振り向いた。
「リオンが、お前を、この村に引き寄せたのかもしれんな」
セルが、息を呑んだ。
「……わたし、を」
「お前か——お前の持つ、そのノートか、じゃ」
ゼムが、扉を開けた。
「先生——」
セルが、呼び止めた。
ゼムが、振り向いた。
セルが、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
ゼムが、少し、目の皺を動かした。
「リオンが、お前を、教えてくれたのじゃろう。
礼は、わしより、あの子に言うがよい」
扉が、閉まった。
わしとセルだけになった。
夕陽が、もう届かぬ時間になっておった。
セルが、ノートを抱えたまま、動かなかった。
「……ヴィンさん」
「うん」
「先生が、気づいていたなんて」
「気づいておったのう」
「——わたしが、リオン先生の弟子だと」
「字を、見た瞬間にじゃ」
セルが、わしを見た。
「字を」
「『筆跡は人を表す』と、古くから言うてな。
教えた師には、弟子の呼吸は、わかるもんじゃ」
セルが、少し、俯いた。
「……わたしの字は、まだ、先生の呼吸には、なっていません」
「いつか、なる——かもしれん」
「……『なる』じゃ、ないんですね」
「なる、と言うたら、軽くなるからのう」
セルが、わしを見た。
「……軽くなると、駄目ですか」
わしは、少し考えた。
「軽くなる時は、軽くなる。
——今日は、重いまま、置いておく方がよい」
『重い荷は、急いで下ろすな』——と、
旅商人が言うておったぞ。
急いで下ろすと、背中が、その重みを忘れる、と。
セルが、ゆっくり頷いた。
目の奥に、少し、温度が戻っておった。
帰り道、エイナとガルが、門のところで待っておった。
「遅いよー!」
「すまんのう」
「セル、大丈夫?」
「はい」
「先生、何だったの?」
セルが、少し間を置いた。
「……昔の、話を」
「昔って、ゼム先生の?」
「はい」
「珍しいね。ゼム先生、自分の話、あんまりしないのに」
「——はい」
ガルが首を傾げた。
「何があったんだよ」
「いろいろじゃ」
「また『いろいろ』かよ」
「『いろいろ』は便利な言葉ではないか」
「便利すぎんだよ」
エイナが、ふっと笑うた。
そして——セルの顔を、じっと見た。
「……セル」
「はい」
「少し、明るくなった」
セルが、目を上げた。
「……そう、ですか」
「うん。今日、ちょっとだけ」
セルが、わしを見た。
わしは、小さく頷いた。
「……お礼を、言っていない人が、いました」
セルが、ぽつりと言うた。
「誰に、じゃ」
「リオン先生に」
「ほう」
「『ありがとう』と、言わないまま、でした」
わしは、少し考えた。
「——今、言うてはどうじゃ」
「今、ですか」
「聞こえるかもしれん」
『死者は、風に乗って言葉を拾う』——と、
東の国の、古い葬礼歌にあるのう。
信じるか、信じぬかは、生きておる側の勝手じゃ。
セルが、夕空を見上げた。
雲が、少しだけ、赤かった。
セルの唇が、動いた。
声は、出さなんだ。
じゃが——動いた。
そして——
ほんの少しだけ、
今度は本当に、笑うた。
初めて、じゃった。
夜、マルタの家で、竈の火を見ておった。
「何、ぼーっとしてんだい」
「考え事を」
「また考え事か」
「うん」
マルタが、呆れたように笑うた。
「そんなに考えて、疲れないのかい」
「疲れる時は、疲れる」
「珍しく素直だね」
わしは、少し笑うた。
——師の、師。
二十年前、王都魔法院に二人おった師筋。
ゼムと、もう一人。
もう一人が、誰か——わしは全知で、知ることができる。
じゃが、知らぬままにしておくぞ。
『知りすぎた者は、早う老いる』——と、
一万年前、雪の山の老婆が言うておった。
わしはもう、十分に老いておる。
これ以上、急ぐこともあるまい。
リオンという若者は、
師に問いを渡されて、
弟子に問いを渡して——
静けさを、探しに行った。
そして——見つけた、のかもしれん。
見つけた瞬間に、連れていかれた。
『花の命は短し』と言うが——
短い花ほど、香りは深いこともある。
それは皮肉なのか、それとも——
求めたものに、辿り着いたのか。
わからん。
火が、ぱちり、と鳴った。
渡された火は——消えん。
今、セルが、持っておる。
そして、セルは今日、もう一度、受け取った。
死んだ師からではなく、
生きておる師から、じゃ。
『魚を与えるより、釣りを教えよ』——と、
海辺の漁師が、わしにそう言うたことがある。
一万年前のことじゃがな。
あれは——正しかったのう。
魚は、一度食えば消える。
釣りの仕方は、消えん。
渡すというのは——
そういうことじゃ。
一万年、わしはそれを知らんかった。
今日、少しだけ、わかった気がする。
「マルタ」
「あん?」
「人は、渡せるものを、どれくらい持っておる」
「は? 急に何だい」
「いや、ただ——聞いてみた」
マルタが、少し考えた。
「……そりゃ、人によるだろ。
でも、一つくらいは、誰でも持ってるんじゃないかい」
「一つ、か」
「一つあれば、十分だろ」
わしは、頷いた。
一つ、か。
一万年、わしは何も渡さなんだ。
今から——一つ、渡すとしたら、何じゃろう。
まだ、わからん。
じゃが——わからんことが、また一つ、増えた。
悪くない。
窓の外、月が出ておった。
明日、ゼム先生は、どんな顔で教壇に立つのじゃろうな。
少しだけ、楽しみじゃ。
お読みいただきありがとうございます。
ゼム先生が、リオン先生の、最初の師でした。
庇った十歳の弟子を、二年だけ教えて、院を去った。手紙を書いたが返事は来なかった——それが二十年後、別の弟子の手で、弟子のノートを通して、届いた。
『魚を与えるより、釣りを教えよ』というのが、今回のキーでした。魔力を失っても、命を失っても、釣りの仕方は、誰かの手に残り続ける。
そして——まだ、もう一人「師筋」がいます。ゼム先生が「名前は、まだ言えん」と飲み込んだ、もう一人。
「面白い」「続きが気になる」と思ったら、ブックマークと評価をいただけると、セルが、もう一度、本当に笑える日が近づくかもしれません。
次話、ヴィンが初めて、自分から「渡す」ことを試みます。




