EP3-プロローグ 孤独の少女と孤高の少年
第三部 抗いの拳編開幕です。
2026年11月の文学フリマ東京43にて完結巻を頒布するので、その原稿を先行公開します。
かつて少女は孤独だった。
誰もが一度は経験する万能感。それに伴い襲ってくる、誰も自分を理解してはくれないという錯覚――肥大化した自我はちっぽけな自意識を守るために他者の理解を拒む。
まして、彼女は才女だった。
ニ歳の時には読み書きを覚え、五歳の時には数字を文字通り自由に扱うようになった。論理を解し、法を読み解き、やがて理を紐解いた。八歳になる頃には、そこらの学者では手がつけられないほどに、彼女は学習を終えてしまった。
情操に似合わぬ知性。
あまりにも早すぎた才覚の発露は、多くのものを彼女から置き去りにした。
始めは彼女の才覚を褒めそやした大人たちも、やがてその才覚に畏怖を抱き、終いには鬱陶しがるようになった。唯一の味方と言えた母であっても理解からは程遠かった。同年代など論外だ。自分以外の同い年は猿同然だった。同じ言葉を喋っているのが信じられないほど、会話が噛みあうことはなかった。
彼女は、孤独だった。
「おかしい」
そう、彼女はつぶやいた。
私の中には道理を紐解く知識の数々がある。なのに、なぜ私は何も持っていない。
知識を吸収すればするほどに開けていった視界が、今はどんどん狭まっていた。
嫌だ。
暗いのは嫌だ。
目の前が見えなくなる。先が見えないのは死ぬほど辛い。視界が閉じていく。だから私は勉強した。だから私は知らないことをなくそうとした。
知識を身に着け、疑問を解きほどき、不可能を否定し、真理を追求し、叡智を目指し、なのに、なんで、こんなにも、わからないことばかり……。
やがて、彼女は諦めた。
世の中馬鹿ばかりだ。どうせ私が何をしても誰も分かってやくれない。
ならばいっそ、好きに生きればいいと。
八歳の少女が抱くにはあまりにも捨て鉢な思いを抱きながら、彼女は生きていた。
なのに。
彼女――久我アヤネは、外を諦めきれなかった。
ある日のこと。
親の都合で親戚の家に連れてこられたアヤネは、そこで一人の男の子を見つけた。
暗い部屋で一人座り込んだ少年がいた。彼の周りに広げられているのは知育玩具の山である。統一性など何もなく、知能発達のためにただ無秩序に揃えたような歪さがあった。その中心で男の子は一人遊んでいた。
その姿が癇に障った。
まるでその小さな背中が、自分とかぶって見えたのだ。
「何してんのよ。あんた」
だから声をかけた。
子供が振り返る。同い年くらいの男の子だった。彼の手には、立体パズルらしきものが握られている。ずっと、彼はそれと格闘していたらしい。
「貸しなさいよ、それ」
男の子の返答も待たずに、アヤネは彼の手からパズルを奪った。そして、数秒その構造を観察すると、一瞬で完成させてしまった。
つまらない、と彼女は解いてしまったパズルを放り投げた。
暇つぶしにもならない。随分苦労しているからどんなに難しいのかと思って手を出してみたが、拍子抜けだった。一瞬で興味をなくした彼女は、他になにか面白そうなものは無いかと部屋の中を探し始める。
その時、真っ先に興味の外へ追いやった存在が口を開いた。
「そっか。そうすればよかったんだ。なら」
目を丸くして床に落ちた立体パズルを見つめていた少年は、そう呟くとともに、落ちたパズルを拾い上げてあっさりと壊してみせた。そしてすぐに組み直し始める。その手つきはお世辞にも器用とはいえなかったが、手つきに迷いはなかった。彼の手つきがぎこちないのは、アヤネのやり方を模倣しようとしていたからであり、方法自体は間違いじゃなかった。
すぐにパズルは完成する。
「出来た」
そう、男の子は感慨深そうに言った。その言葉には、達成感と共に一抹の悔しさも混じっていた。
その意味がアヤネにはわからなかった。しかし、一つだけ分かったことがある。
「ねえ、あんた」
少しだけ試してみたくなった。
アヤネはそのへんに落ちている知恵の輪の中で、難しそうなのを選ぶ。
「これ、解いてみなさい」
「……それは、難しすぎるよ」
「バカね。こんなのは、順番にやってちゃいつまで経っても終わらないの。最初に一番難しいのを解けば、他のはソレ以下でしか無いのよ」
「そりゃそうだけど」
「ヒントをあげるわ。回転する回数は四回」
「…………」
そのヒントに、彼はじっと考え始めた。
まだ結果は出ていない。しかし、その反応だけでアヤネには十分だった。
万感の思いが彼女の裡に湧き上がる。
冷めきっていた胸中に熱が灯った。それは涙腺を刺激し、彼女の頬に一筋の雫を伝わせる。無造作に涙を拭いながら、彼女は沸き立つ心をそっと落ち着ける。
胸のうちにあふれる感情はやがて言葉となる。
「……やっと、見つけた」
そのつぶやきを聞くものはいなかった。
ただその場には、アヤネの言葉に触発されて課題に没頭する男の子だけが居た。
「私は久我アヤネ。あんたは?」
「……シオン」
「ねえ、あんた」
アヤネはその姿を見下ろしながら、決定事項を伝えるように言った。
「私の弟子になりなさい」
「嫌だよ」
にべもなく断られた。
――それが、二人の出会い。
久我アヤネと久能シオン。
後に神童と呼ばれる、二人の子供のファーストコンタクトだった。
八年後。
十一月に十六歳を迎える久我アヤネは、病室の天井を見上げていた。
不自由な両足と虚弱な内臓器官。四年前に負った傷は未だ彼女を苛んでいる。
八年前、全てを知った気でいた自分。
四年前、何もかも知らなかった自分。
そして今。
あの頃と、何が変わっただろうか。
病室に来た訪問者は、つい先程帰ったところだった。お見舞いと言うべきなのだが、彼との間にまだそれほどの関係があるとは思えない。しかし、初めの頃は嫌悪感が優っていた感情は、いつの間にかなくなっていた。
来客が帰ったのを見計らってか、声がかけられた。
「機嫌がいいようだな。そんなに良い来訪であったか?」
「……そんなに楽しそうだった? 私」
からかい混じりの言葉に、アヤネは素直に返した。
その反応が以外だったのか、半透明だった影は驚いたように実体を取る。
中華風の武人――バディの飛燕は、怪訝そうな顔をして気遣わしげに尋ねる。
「大丈夫か、アヤネ。私が席を外している間、あの男に何か毒でも盛られたか?」
「本気で焦ってる感じが癇に障るわね。なんでもないわよ」
そっけなくアヤネは言う。
そう、なんでもないのだ。
なんでもないことが、こんなにも心躍るのだと知っただけの話だ。
「それより聞いたわよ。シオンのヤツ運び込まれたんでしょ?」
「今しがた、病室に入ったと聞いた。どれほどの怪我かは知らぬが、入院期間は三日といったところだという」
「ふぅん。『言霊の幸わう国』相手に、それで済んだのなら上等かしら」
言いながら、アヤネはそばにある車いすを叩いてみせる。
外に連れて行けという合図だ。
「見舞いかね? 君から出向くとは珍しい」
「あいつのバカ面を見たいだけよ。ま、勝負の結果は気になっていたことだし」
そう言い訳をしながら、アヤネはかつての相方であった少年の元へ向かう。
無知に向き直り、
後悔に背を向け、
閉じた視界を開き――
様々な感情を入り乱れさせながら、彼女はそっと、息を吐いた。




