幕間 権利を守る戦い
草上ノキアの人生は、言ってしまえば権利を守る戦いだった。
彼女には常に立場がつきまとった。神咒宗家の血筋で、分家でありながらも独自の成長を遂げた家柄。草上家は二代前に本家から分かれた分家のため、格式の高さという意味ではそれほどの価値があるわけではなかった。ただ本家のバックアップでしかなかった草上家が注目を集めたのは、養子として入った草上秀星の事業が成功して名を売ってからだった。
ありていに言って、政治的な価値が生まれてしまった。
その事実に対してノキアの母・草上名冬が張り切ってしまったのだった。
古くより続く魔導の血筋でありながら、その恩恵をあまり得ることの出来ない分家の娘として生まれた名冬は、その機会に権威を手に入れようと張り切った。
ノキアに求められたのは、今後の成長株である家柄の娘という立場だ。草上エレクトロニクスは一流企業に成長していたため、生まれた時からノキアには商品的な価値しかなかった。
「ノキアさん。あなたには、草上家の家柄がかかっているのですよ」
それが母である名冬の口癖だった。
幼い頃からノキアは様々な習い事をさせられた。華道に茶道、書道や日本舞踏と言った和式の作法から、ピアノ、バイオリン、バレエと言った洋式の芸術。果ては武道や武術に至るまで。その合間には一般教養を叩きこまれ、小学校入学時点で中学の単元を学習していた。
自分の時間などというものをノキアは持った記憶がなかった。
休む間もなく次の習い事をさせられ、睡眠は正に身体を休めるためだけの時間だった。それに疑問すら覚えなかった。
当時はまだ、父、秀星は現役で会社を回しており、家にいる時間が極端に少なかったため、母はとにかくノキアを立派にするという目的に執着し、スパルタ教育を行なった。
一日ごとに心が擦り切れていた。
それに気づくだけの感情をノキアは持っていなかった。
彼女は自身で当時を振り返り、まるでロボットのようだったと思った。命じられたことを実行するだけの自律人形。そこに自分なんてものはどこにもなかった。
「これは貴女のためなんですよ。ノキアさん」
「はい。お母様」
彼女は従順な娘を演じていた。
そんなノキアに、久しぶりに帰ってきた父がこんなことを尋ねてきた。
「ノキア。何か、やってみたいことはないかね?」
次はノキアがやりたいことをやらせてようと、秀星は気を回したらしい。
そろそろ自分で何かに興味を持つ頃だろうと思ったのだろう。しかし、ノキアはその質問に何も答えられなかった。やりたいことなど何もなかったのだ。
そんな娘の様子を見て、秀星は困ったような苦笑いを浮かべた。
「それじゃあ、ノキア。今の習い事は、嫌いかい?」
「わかりません。お父様」
「そうか。わからないか」
ニコリともせずに言い放つ娘に対して、父は不器用に頭を撫でてきた。
乱暴な手つきに不快感を覚えるよりも、せっかくセットした髪型が崩れるのを気にした。稽古の時間までにセットし直すのは面倒だとぼんやりと思った。父の真意が分からず、ただなされるがままに頭を撫でられていた。
やがて手を離した秀星は、ノキアにこう言った。
「ノキア。君は少し、疲れていないかい?」
「そんなことはありません」
「眠たいんじゃないかな? 目がとろんとしているよ」
「……そんなこと、ありません」
目をゴシゴシとこすりながら、ノキアは答えた。
そんな娘の姿に、秀星は微笑ましい物を見るように笑った。
「真面目なのは良いことだけど、やり過ぎは効率が悪い。君はもっと器用になるべきだ」
「けれど、もっと頑張りなさいとお母様は言います」
「ふむ、確かに名冬はそう言うだろうね。……なら、こうしよう。条件として、私を納得させてみなさい。条件を満たせば、お父さんは一つだけノキアのお願いを叶えるよ」
その時初めて、ノキアは父と約束を交わした。
「最初は何を言っていいか分からないだろうから、君のためになることを私が決めよう。けれど、君がやりたいと思うことがあれば、そちらを優先させていい。とにかく君は、好きなことを願うことが出来る権利を持っているんだ」
習い事で父を納得させるだけの習熟をすれば良い。始まりはただそれだけのことだった。
その日、秀星が見学したノキアの習い事は茶道と日本舞踏だった。そのどちらも、ノキアは小学生とは思えない腕前を見せた。それはもちろん、父の納得に足る熟練度だった。
その二つの習い事の時間は、毎週二日から、月に一度に減った。
そしてその日、ノキアは十時間の睡眠を得た。
ただ眠れ、と言われても、はじめはどうして良いか分からなかったが、気持ちに反して、意識はすぐに落ちた。それから十時間、彼女は全く目を覚まさなかった。
その日から、ノキアの求めるものは十分な睡眠となった。
草上ノキアは小学四年生にしてようやく、自我というものを持った。
自分のやりたいこととやりたくないことを自覚した。やりたくないことでも、やらなければいけない時はある。ならば、同じ苦労ならば短い時間で済ませるのが一番だ。
面倒は嫌だしきついのは論外だ。
つらいことも少し我慢すれば過ぎてくれる。
学校の勉強は簡単にサボれるが、家での稽古はサボったら別の機会を用意される。ならば全力で取り組み、最小限の時間でそれを済ませるべきだ。そう割り切って取り組む姿は、傍から見ると稽古に熱が入ったようにも見えたようだ。その合間で、ノキアは十分な睡眠をとった。学校はほとんど寝るために通っていた。
そして、一定の習熟度に達すると、胸を張って父に報告するのだ。
「もうこの稽古は必要ありません。月イチにしてください、お父様」
秀星もそれに納得し、ノキアの習い事はどんどん日数が減っていった。
名冬はそれが面白くなかった。無論、ノキアが新しいことを次々と覚えていくのは喜ばしいことだが、それが最終的に楽をするためであることを名冬はすぐに見抜いた。だから彼女は、より高度な習い事をノキアに課した。それはもはや意地の張り合いといっても良かった。
そんな中で、ノキアにとっては魔法の習熟こそが一番心が踊った。
現実での立ち居振る舞いが全く意味を成さない、上位次元の価値観。魔力の流れに溶け込み、情報を肌で感じ、現実を改変するその感覚は、全く自由のきかない現実の自分が、本当にちっぽけな存在であることを実感させてくれた。
初めて自分の魔力で明かりを灯した時の感動を、ノキアは一生忘れないだろう。
暗闇にぼんやりと灯る明かり。今からするとあまりに拙い、くすんだ明かりだったが、当時のノキアにとっては、この世のどんな明かりよりも明るかった。
ノキアは魔法に没頭していった。
その頃には、すでに自分が周囲の人間とは出来が違うのだということを自覚していた。幼い頃からの英才教育は、しっかりと草上ノキアと言う少女を才女に育て上げていた。
――だからこそ、驕りがあった。
同年代で自分に敵うものなどいない。それどころか、大人だって、自分よりも低能は腐るほどいる。与えられる課題も器用にこなし、自分のやりたいことをやる。まじめに取り組めば、自分にできないことはなにもないだろうと、そんなことを思った。
毎日、ノキアは習い事を片手間に、魔法の勉強に時間を割いた。新しいことを知るのがこんなにも楽しいとは知らなかった。心躍る気持ちで、日々未知の探求を続けていった。
だから――自然と、その論文にもたどり着いた。
小学六年生の時。
草上ノキアは、情熱というものを失った。




