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HUMAN:Paradise Lost

全5話中の第4話です。

3話までは10年くらい前に書いた話。そしてこの第4話は、一ヶ月ほど前に書いたものです。

矛盾してないように気をつけはしましたが、はてさて。

 ある日、バスケットの中で泣きわめく僕を、店の前でみつけたそうだ。

 18才の誕生日の日、おじいさんが教えてくれた。

 けど僕にはずっと前から分かっていたような気がしていた。

 だからそう告げられても、一切驚かなかった。


   ※    ※


 店のカウンターから道行く人々を眺めていると様々な人種をみかける。肌の白い人、黒い人。ヨーロッパ、アフリカ、東洋。

 この街には多くの人種が暮らしていて、だけどみんな一様に忙しそうだ。

 店に並べられた色とりどりの花には、一切目もくれない。なぜこんなオフィス街に花屋がポツンとあるのだろう。子供のころから不思議だったけど、どうやらおじいさんとおばあさんの願いがこめられているらしい。

 あくせくと生き急ぐ街の人たちに、少しでも潤いと安らぎを与えたい。

 経営は苦しいけれど、食べていけるだけでも十分なんて言いながら笑うおじいさんとおばあさんを見たら、靴のつま先に穴が開いても買い換えられなくても、僕は文句のひとつも言えなかった。

 僕が子供の頃は、休みのたびに店番をしていた。二人は敬虔なクリスチャンで、僕が店番をして、二人は教会に行った。僕は教会に行かなかった。

 行ったって意味なんてないのに、とぼんやり思っていた。

 ハイスクールまで進学させてもらってからは、僕は大学進学はせず、すぐおじいさんに弟子入りした。

 花の名前や育て方を習い、朝のセリにも一緒にでかけた。そうして5年。ようやく一人でもなんとか切り盛りできるようになった。

 おじいさんもおばあさんも、もう70は超えているし、そろそろゆっくりしてもらわないと。


 その日、僕は朝の仕入れを終えて花たちを店内に運び込み、開店の準備をしていた。とその時、のっそりとふたりの男が店内に入ってきた。

 異様な姿だった。スーツも靴も真っ白。かぶっているハットも真っ白。着ているものにもまして、ふたりの男はどちらも肌が白かった。

 風貌は、まるでギリシャ彫刻のように整った顔だった。

 そんな男がふたり、店内に入っても花には目もくれず、まっすぐに僕のほうへ歩いてきた。

「まだ開店していませんが・・・」

 なんとなく嫌な予感を感じた。身構えながら男たちをじっと見た。

 僕の目の前に来た男たちは、やにわに跪き、頭をたれた。

「レベリオン様をお迎えにあがりました」

 ふたりは声をそろえてそう言った。

「え? 誰、それ? 人違いでしょう?」

 僕の名前はレベル。似ているが人違いだ。

 ふと店の外を見ると、通りを歩いていた人々が、店内の異様な光景に足を止めて眺めていた。

「ちょっと、人が見てますよ。さっさと立って、回れ右して出て行ってください」

「人違いではありません。あなた様は私たちの救世主であらせられます。私たちとともに来てくださらねば、ここを去るわけにはまいりません」

「はぁ? 意味が分からないんだけど」

「今は分かりますまい。とにかく私どもと一緒に来ていただきたい。時間がありません。事情はおいおいお話します」

「警察呼びますよ?」

「お呼びいただいても結構ですが、私たちには歯が立ちますまい。ただの人間では・・・」

 その言葉に、僕は言いようもない恐怖を感じた。

 これは何か、とんでもないことに巻き込まれたんだと感じた。

 こいつらはマフィアかなんかのたぐいで、人間違えをして僕を連れ去ろうとしているに違いない。

「とにかく、私はあなたがたが言う人とは違います。迷惑ですから出て行ってください!」

「仕方ありません、時間もないですし……。手荒いことはしたくなかったのですが」

 男が立ち上がり、僕のほうに手を伸ばしてきた。

 本能的に僕はその手を叩き落し、そのまま体を男たちにぶつける。男たちは不意のことでやや体勢を崩した。

 その隙に僕は店外に向けて走った。とにかく逃げないと!


 店はマンハッタンのフィフスアベニュー沿い、エンパイアステートビルに程近い場所にある。

 フィフスアベニューをそのまま南に走り出し、ワシントン公園に向かう。

 後ろから男たちが追ってきてる様子はないが、異様な焦燥感は消えない。

 一旦噴水横で息を整えて周囲を見回す。いつもと変わらない光景が広がっている。

 と、遠くにチラリと、白い男が見えた気がした。

 僕はあわてて駆け出す。

 どこをどう走ったかは分からなかった。とにかく路地から路地へと走りぬけた。いつのまにかウェスト・ストリートに出ていた。それでも背後に白い男たちがいるような気がしてならなかった。

 ウェスト・ストリートを南下していく。途中で息があがり、急ぎ足でさらに南下する。

 やがて、巨大な双子のビルが見えてきた。WTCのツインタワーだ。

 そこで方向転換。WTCの南側から東へ進路をとり、FDRへ向かおうとしたその時だった。

 頭上で轟音が聞こえた。

 音のするほうを見ると、いやに低い位置に飛行機が見えた。南からまっすぐ、こちらに向かって飛んでくる飛行機。

 そしてそれは、あっという時間もない間に、WTCの双子のビル、南側のビルに突っ込んだ。

「うわぁぁっ!」

 あまりのことに、僕は頭を抱えてうずくまる。

 なんて日だ!

 あの変な男たちが来てしまったから、僕の平和な日常が消し飛んでしまったんだ!

 うずくまる僕に向かって、ビルからガレキやガラスの破片が降り注ぐ……。


 ※     ※


 ふと目を開けると、信じられない光景が広がっていた。

 完全に倒壊してもうもうと粉塵を巻き上げているツインタワー。その様子が、足元に広がっていた。

「うわぁぁぁぁっ!」

 あまりの出来事に、僕は声を上げる。

「大丈夫、落ちたりはしません」

 やさしげな声が耳に響いた。

 ふと顔を上げると、今さっき僕を追いかけていた、あのしろづくめの男だった。僕は再度声を上げた。

 なんとか逃げようと、反射的に体当たりしようとしたが、今度は軽々と止められた。

「そんなにお暴れになりませんように。落ちてしまっては大変です。あなた様は、今はまだ羽根がございませんのに」

 ふと男を見る。すると様子が変わっていた。

 ギリシャ彫刻のような顔立ち。そしてそれにふさわしい、真っ白でゆったりとした長いローブを身にまとっていた。

 そして彼らの背中には、カモメを思わせるような真っ白な、大きな羽根が広がっていた。

「あなた様は全ての記憶を無くされて、地上の人の子として堕とされましたので、きっと今の私たちの姿を見られても、驚きしかございませんでしょう。しかしこれだけはお知りになってください。あなた様の本当のお名前はレベリオン。天使の世界では大天使、神の側近として悪魔と常に戦い勝利してきた偉大な戦士でございます。天界に戻られれば全て思い出されるでしょうし、そしてまたもとのお姿にお戻りなられるでしょう。とにかく今は私どもを信じ、ともに天界においでください」

 まったく、言われている意味が理解できなかった。

 夢でも見ているのかとも思う。

 軽く頬を叩いてもみるが、目の前の男たちの羽根は消えないし、自分が今宙に浮いている事実も変わらなかった。

 一体、僕はどうしてしまったんだろう!

 なぜだか僕は眼下に広がるマンハッタンの街の、自分が育った家を探した。ゆっくりと、街が遠ざかる。

 おじいさん、おばあさん。なぜだか急に胸が締め付けられ、自然と熱いものがこみ上げてきた。

 あふれ出てしまうのをぐっとこらえ、今一度街を見る。

「もう時間が残されていません。人間の世界はこれからますますひどくなるでしょう」

 男もまた、地上の様子を見ながら、独り言でも言うようにつぶやいた。

「それもこれも、私たちのふがいなさの所為です。天界を、まさか悪魔が蹂躙する日が来るなんて!」

 男は言い終えて、深くため息をついた。もう一人の男は、なにかをぐっとこらえるような表情をしていた。

「地獄から地上まで、生身のままで現われることのできる悪魔などいませんでした。さらには、地上から天界までの7つの門を突破するなどと、夢にも思いませんでした……。まさかそんな日が来るなんて」

「全ては私どもの慢心が招いたこと……。そして天界の平和が乱されれば、人間界もまた平和ではいられなくなる……。なんと悲しいことか……」

「で、僕がそんなとこに行ったとして、なにができるっていうの? 僕はただの人間だし……というか、まったく今の状況が信じられないというか、まったく飲み込めないんだけど?」

「今は信じて共についてきてください。天界までたどり着けば……」

「さあ、第一の門が見えてまいりました」

 いつのまにか、周囲がまるで夜のように暗くなり始めていた。

 つい先ほどまで朝だと思っていたのに、空に星が瞬いているのが見えた。

 そしてその星空には、巨大な門が浮かんでいた。

 黄金に輝き、美しい装飾がなされた、両開きの門。

 と、その門に、黒いシミのようなものが見えた。

 そのシミは徐々に大きくなり、やがてひとつの像を結んだ。

 真っ黒な肌をした犬。そしてひとつの胴体にあたまがふたつ……。

「なんだと! ケルベロスだと!」

 真っ黒な体躯は、恐ろしい力を秘めているのが十分分かるほど筋肉で盛り上がっている。

 ふたつの頭にある、それぞれの両目は炎のように真っ赤に光っていた。

 そして両の口から炎がちらちらと、まるで舌のように見え隠れしていた。

「私たちが通ったときには、悪魔などいなかったぞ!」

「お前たちが切り札を探しに行ったことぐらい、とうの昔にお見通しだ。切り札を見つけて帰ってくるところを一網打尽にと、わざわざ通してやっただけのこと」

 漆黒の犬は、聞きざわりの悪いしわがれた声だった。

「へっへっへ、その貧弱な人間が、切り札ってわけか。まとめてヤッちまえば、天界もおしまいだな」

 漆黒の犬は、そりぞれの口でニヤッと笑ったあと、その鋭い牙の生えた口を大きく広げた。そこに、炎の玉が出来上がる。

「まずい、ファイアボールか!」

 炎は一瞬で巨大化し、そして糸が切れたように犬の口から離れた。

 その時、炎の固まりはとんでもない速度で僕たちめがけで突っ込んできた。

「やばい! とにかくレベリエル様をまもれ!」

「よし!」

 ふたりの男が僕の前に立った。僕はただ、あまりの出来事が続きすぎて、脳みそが完全に蕩けてしまったかのように呆然とその光景を見ているだけだった。

「はぁぁぁぁっ!」

 男たちが声を上げる。その声にあわせるように、黄金色に光る、半透明のなにか膜のようなものが周囲を包んだ。

 そして、巨大な炎の塊と、黄金色の膜がぶつかりあった。

「うわぁっ!」

 あまりのまぶしさに、僕は腕で顔を覆い、目を強く瞑った。

 その時、不意に何か吐きそうになるような強烈な浮遊感を感じた。目を開けると、周囲の膜がまるでガラスのように粉々になって砕け散るのが見えた。

 羽根を生やした男が二人、ボロボロの姿になって僕のそばを通り過ぎていった。

 そして僕は、落ちていた。

「うわぁぁぁぁぁっ!」

 不意に意識が遠くなった……。


 ※   ※


 夢を見ているようだった。

 僕の目の前には、美しい女性が一人。

 その女性の肩に手を置く、たくましい男性が一人。

 ふたりはこの上なく優しい、おだやかな表情でなにかを見ていた。

 その何かに視線を向けると、それはかわいらしい赤ん坊だった。

 女性に優しく抱かれて、赤ん坊は穏やかに眠っている。

 美しい部屋だった。それほど広くなく、狭くもなく。よく掃除が行き届いていたし、丁度も上品なものがそろっている。しかし、なにか骨董品を思わせるデザインの丁度だった。

 部屋には、家族の纏う雰囲気と同じように、穏やかな光が窓から差し込んでいた。

「あなた、こんなにもかわいい子をさずけていただけるなんて、わたしたちはなんて光栄なんでしょう。神様には感謝しても感謝しきれない……」

 女性は若干目に涙を浮かべながら、つぶやくようにそう言った。

 その声は僕の耳に、なんとなく懐かしさを響かせた。

「名前は決めたかい?」

 男が優しく問いかける。

「レベリオン。あなた、ステキな名前でしょう?」

「いい名だな。強く聡明な子になりそうだ。いずれこの子は、私と同じように、我が父の為に大いに働く子になるだろう」

 男性はそういうと、赤ん坊のやすらかな寝姿にまた見入っていた。

 と、その時。赤ん坊かわずかに身じろぎをした。そして眠りながら、まだ成長していない、2枚の小さな羽根を広げた。

「もう羽根を動かして。きっとこの子は、誰よりも高く早く飛んでいけるでしょうね」

「そうだね」

 ふたりは静かに微笑み合っていた。

 その姿を見て僕の頭にはある言葉が浮かんでいた。

 父さん、母さんと……。


 はっと気が付いた。

 僕はまっさかさまに落ちていた。

 地上がグングンと近づいてくる。

 ああ、僕はこのまま落ちて死んでしまうのか……。

 いやこれは夢だ。死ぬわけがない。このまま目を瞑れば、やがていつもの平凡で平和な日常に目を覚ます……。

 不意に、なにか背中がむずがゆく感じた。手を背中に伸ばす。指先に、なにかフワフワしたものが触れた。

 目を開けて精一杯振り返って自分の背後を見た。

 そこに信じられないものがあった。自分の背中に、巨大な、カモメを思わせるような巨大な羽根が広がっていた。

 僕の体は無意識のうちに羽根を動かしていた。驚きの感情より早く、僕は風を捕らえて空中に静止した。

「えぇぇぇぇっ!」

 まったく信じられなかった。もう頭の中はパニックを通り越していた。

 非現実的なことが起こりすぎて、完全に脳は許容範囲を超えてしまい、思考を停止させてしまっていた。

 混乱し感情もメチャクチャな状態だったが、なぜか体だけは勝手に動いた。今僕の体は、僕のものではないような、そんな気分になった。

 僕の体はいつの間にか羽根の使い方を習得していて、風よりも早く僕の体を飛ばした。

 気を失って自然に落下していく二人の男。僕はその二人に追いつき、男の手をつかんだ。

 男たちの落下が軽々と止まる。

 その衝撃で、男たちが目を開けた。

「あぁ、レベリオン様……。見事な羽根が……」

「は? 羽根? なんのこと?」

 もう思考がまとまらなすぎて、自分で何を言っているかも分からなかった。

「助かりました、ありがとうございます。もう大丈夫です、お手を……」

 ふと見ると、男たちの手を力いっぱい握り締めていた。

「ああごめん……」

 手を離すと、男たちはふわりと浮き上がり、僕の左右に並んだ。

「とにかく、あの地獄の門番を倒さない限り、先へは進みません。どういういきさつで力を取り戻されのかは分かりませんが、今のレベリオン様もきっと力が使えるはずです。共に戦いましょう!」

 男はそう言いきると、右手を高々と空に上げた。するとそこに、キラキラと黄金色に輝く一振りの剣が現われた。

 もう一人の男もまた、同じように剣を手にする。

「さあ行きますよ!」

 そういうと男たちは、風よりも早く空に向かって上昇していった。

「え、あ、ちょっと! 訳がわからないってば!」

 男たちはみるみる漆黒の犬に近づき、巨大な火の玉を避けながら一太刀浴びせようと躍起になっている。

「どうすればいいんだよ。もう、どうにでもなれっての!」

 僕は見よう見まねで空に右手を突き出した。

 驚いたことに、そこに黄金色に輝く、異様に長い刃を持つ剣が現われた。

 その剣の柄をぐっと握る。巨大さゆえに重さを覚悟していたが、拍子抜けするほど軽かった。まるで羽根を握っているようだった。

「ええい! もうどうにでもなれよ!」

 僕は走っている感覚で体を動かそうとする。すると自然と体が応え、羽根が風を捉えた。

 みるみる漆黒の悪魔と距離を縮める。

「でやぁぁぁぁぁ!」

 意味をなさない言葉が口からほとばしる。悲鳴にも似た声をあげながら、僕は剣を振り上げた。

「貴様ら全員、消し炭になってしまえ!」

 地獄の門番は、ひときわ巨大な火の玉を作り出し、それを吐き出した。

 まっすぐに僕に投げ付けられる炎の塊。

「レベリオン様!」

 僕の体はまたしても自分の意思を無視して勝手に動いた。

 長大な剣が頭上から振り下ろされる。剣なんてものを使ったこともないし触れたことすらないのに、自然な動きで剣を袈裟斬りに振り下ろす。

 目の前に迫っていた火の玉。そこに剣がめり込む。

 火の玉はその剣の当たったところから真っ二つに裂け、僕の両脇を通り過ぎ、背後で大爆発を起こした。

 その爆風に乗り、僕は一気にケルベロスとの間合いを詰めた。

「な、なんだと!」

 ケルベロスは避けようとする。その喉元に向かって、僕は一直線に剣を突き出した。

「いやぁぁぁっ!」

 冷静な部分の自分の頭が嫌になってしまうほどの奇妙な雄たけびを上げて、僕は剣を突き出す。

 するどい切っ先がケルベロスの喉に突き刺さる。いやな感触が手に伝わる。

 剣は勢いを失わず、そのままケルベロスの体を貫いた。

「ま、まさか……大天使が復活してしまったのか……」

 ケルベロスは、聞き取りにくい声を一層聞き取りにくくしてつぶやく。

「冥界の王よ……こたびの件は失敗に終わるかもしれませんぞ……大天使が復活した……。ぐふっ!」

 血を吐き出し、ケルベロスはぐったりと力を無くした。その瞬間、真っ黒な霧となって四散した。

「レベリオン様……レベリオン様!」

「え、あ、え?」

「やりましたね! ついにご記憶を取り戻されたんですね!」

「は? 何が? え?」

「あ……ええっと……」

 うれしそうに男たちが詰め寄ってきたが、僕の反応を見て戸惑っていた。

「ん……コホン。とにかく、危機は脱しました。さあ時間がありません。天界に向かいましょう」

「え、ああ。いやもう、どうとでもしてくれ」

「では遠慮なく、参りますよ」

 僕は男に背中を押される。

 黄金に輝く巨大な門が、自動でゆっくりと開かれていった。


 ※     ※


 門を抜けると、その先は荒涼とした荒地が続いていた。

 大地にふわりと降り立つと、細かな粒子の砂がふわっと舞い上がった。

 空はまもなく夜になりそうな夕暮れを思わせる紫色。見渡す限りここは、砂と枯れた木しか見えなかった。

「こんなところが天界?」

「いえ、まだそこへ到る道のはじめですが……これは……」

「我々がここを通って人間の世界に降り立ったときはこんなではありませんでした。草花や森が広がる、豊かな土地でしたが……」

「やはり悪魔の仕業でしょう。さきほどの門を守っていた門番は、地獄の番犬ケルベロス。すでに悪魔たちは天界へ向けて進軍しているのでしょう」

 はっきり言うと、とうに頭の処理限界を超えている話であったが、もう僕はそんなもんかと受け入れることにした。

 いまだに頭の片隅には、まだこれは嫌な夢の続きなんだ、という考えが残っていた。

「こうなっては一刻も猶予はありません。急ぎましょう」

 男たちはふわりと浮き上がる。僕もゆっくりと、空に向かって浮き上がった。

 なぜ飛べるのか、自分でもまったく分からない。けれど、どうやら体は覚えているようで無意識に空を飛んだ。


 第二の門は完全に破壊されていた。わずかな隙間を抜けると、やはり同じような荒涼とした大地が続いていた。

 僕には、ちゃんと門をくぐって先へ進んだのか、それとも同じところを進んでいるのは、まったくわからなかった。

 だが男たちは確実に、自信を持って先に進んでいるようだった。

 3つ目の門が見えてきた。その門も半壊していた。

 なかば崩れかかり、今にも完全に崩壊しそうである。

「私どもと悪魔とは、長く戦い続けてきました。悪魔は隙あらば人間を取り込み、人間界を苦しみと悲しみに満ち溢れさせようとします。それが悪魔たちの力の源になるからです」

 崩れかかった門を前に、男がぽつりと呟くように言った。

 もうひとりの男が続ける。

「私たちの使命は悪魔と戦い、そして人の平和と愛を守り続けてまいりました。時には大きく負け、人の世界に大きな悲しみ苦しみが覆う時もありました。しかし今は事情が違います」

「今までは人の世界を舞台にした戦い。しかし今は、天界での戦いです」

「たった一匹の悪魔が、今まで名も聴いたことのない悪魔が、単身で乗り込んできたのです。どうやってやってきたのかは分かりませんが、一瞬にして天界を混乱に陥れました」

「その悪魔はとてつもなく邪悪で強大な力を持っています。今天界にいる天使の誰も敵いませんでした。天界は今にも、その悪魔に乗っ取られようとしています」

「そうなってしまえば、人間に平和と愛をもたらすものがいなくなり、人間界は永遠に闇に包まれるでしょう」

「この悪魔に対抗できるのは、ただお一方しかおりません」

「あなたです」

「ふーん、そうなんだ」

 僕はとっくの昔に考えることを止めていた。だからそっけない返事をしたが、どうやら男たちはひどく落胆してしまったみたいだった。

 こんなにも分かりやすく、気落ちしていると顔に書いてある表情を見たことがなかった。

 僕はそれがあまりにもおかしくて、つい吹き出してしまった。

「笑い事ではございませんよ!」

「いやいやおやめなさい。未だ記憶がはっきりと戻られていないだけだ。いまはとにかく、前に進もう」

 男は軽くため息をはいてから、半壊した門へ向けて歩き出した。

 僕はその様子をぼんやりと見ていたが、ふと背筋に寒気を感じた。とてつもなく嫌な予感がした。

 体が勝手に反応していた。わずか数歩先にいる男たちに向かって体当たりした。

「うおっ!」

 男たちと僕は、もんどりうって地面に倒れた。

 その瞬間、内臓にまで響くほどとてつもない轟音が響く。僕たちは一瞬で砂煙に巻き込まれた。

「うわっ、ゴホッゴホッ!」

「こちらです!」

 男に手をつかまれ、半ば強引に空へ連れて行かれた。

 砂煙を脱したところでふわりと浮き上がる。ついさきほど見たツインタワーの崩壊のように、巨大にそそり立つ砂煙が見えた。

 と、徐々に晴れていく。

 そこに、一人の男がいた。男と言っていいのか。

 とてつもない巨躯であった。10メートルはあろうかという巨体だった。その体にはまるで甲冑のように分厚い筋肉がまとわり付いている。

 その男は、自分の背丈ほどもある巨大な斧を持っていた。先ほどの砂煙の正体は、その斧を振り回し、地面に激突したものであった。

 斧が叩きつけられた地面は、まるで隕石が衝突でもしたかのように、大きくクレーターができていた。

 男がゆっくりと顔を上げる。

 深い月のない夜のような漆黒の瞳。頭には長い長い角。

 顔が、山羊のようであった。

「バ、バフォメット……!」

「S級悪魔が、こんな所に!」

「よくかわせたな小僧ども。少しは楽しませてもらえそうだな」

 バフォメットは巨大な斧を軽々と持ち上げ、肩に担いだ。

「ケルベロスより伝達があった。どうやら、面倒なヤツが天界に向かっているらしいな。お前たちだろう?」

 バフォメットがこちらをキッと睨みつけてきた。それだけで足に震えがくる。心臓が鷲づかみされたように、息苦しかった。

「くそ、やつを倒さない限り、天界へ戻ることはできんぞ!」

「しかし、ヤツの力はとてつもない……」

「やるしかなかろう!」

 男たちはさっと剣を出現させると、止める暇もなくバフォメットへと突っ込んで行った。

「笑止! 貴様らの力程度で、この私をどうこうできると思うか!」

 巨大な斧が、軽々と一振りされた。

 それは天使の男たちには当たらなかったが、斧は風を切り、その風が刃となって天使におそいかかる。

「くっ!!」

 天使は慌てて剣を構えて防御姿勢をとる。そこに空気の刃があたり、激しい火花を散らした。

「たった一振りでこんな!」

「力が違いすぎる!」

 必死に耐えていた二人であったが、ほぼ同時に、二人の持つ剣の刀身が、嫌な音を立てて折れた。空気の刃は勢いそのまま、天使たちの体を直撃した。

「うわぁっっっ!」

 二人は風に舞う木の葉のように軽々と吹っ飛ばされた。

 バフォメットは、まるで重さがないように軽々とジャンプし、とどめの一撃を食らわせようと高々と斧を振り上げた。

 僕は無意識のうちに剣を出現させると、両者の間に割って入った。

 僕の剣とバフォメットの斧。ふたつが激突し、とてつもないエネルギーが開く。それは一瞬で大爆発を起こした。

「うわぁぁぁぁっっっ!」

 僕は衝撃に吹き飛ばされて、地面に叩きつけられた……。


 ※     ※


 僕は、誰か見知らぬ女性を抱きしめていた。

 美しい、とても美しい女性だった。

 抱きしめた体から、早鐘のように打つ心臓の鼓動が伝わってくる。

 僕は何をしようとしているんだろう?

 ああ、僕はこの人とひとつになりたいと。全てを自分と同じにしたいと思っている。

 その気持ちには、どんなことがあろうと逆らえなかった。

 禁忌を犯そうとする、無意識からくる恐怖すら、今は影を潜めて現れない。

 しかし、どうして僕は、この人とひとつになりたいと思うんだろう?

「レベリエル様……」

 心の奥まで深く染み入る、まるで春に優しく通り過ぎていく南風のような声。

「様はやめておくれ。呼び捨てでいいよ」

 僕は優しく語りかけたつもりだった。しかし完全に失敗していた。声が上ずっていた。

 興奮と焦りと、愛おしさと緊張が混然となって僕を支配している。

 どうして僕は、ひとつになりたいと思ったのだろう?

 人の子らを守りながら、人の子らの営み全てを愛おしく感じていた。

 そして人の子らは、次の世代の遺伝子を残していくため生殖活動を行い、そして子を産み育み、役目を終えるとやがて命の炎を燃やし尽くして天界へとやってくる。

 他の多くの動物たちと同じ。人の子らの命の営みには、なんら差異がない。

 しかし、ただそれだけではなかった。僕にはそこに、愛の炎が燃え上がるのを見た。命のきらめきを見た。

 自分たちをも燃やし尽くしてしまいそうなほどの激しい感情。

 僕はそれに憧れたのだろうか?

 僕はそこに、なにがあるのか知りたいだけではないのか?

 いや、違う。違う。

 僕が求めているのは、そんな単純な、理性的なことではない。

 今僕の腕に包まれている女性。僕の大切な人。

 僕が向ける愛情と大きさと深さは、父である神様ですらこの人にはかなわない。

 もっと傍にいたい。もっともっと、できるだけ近くに……。できるならば、ひとつに溶けてしまいたい。

 ああこれが、人の子らの見せる、あの美しい炎なんだ……。

「レベリエル……」

「シスカ……」


 ※     ※


 はっと飛び起きた。一瞬気を失っていたみたいだ。

 地面に叩きつけられた僕は、深い穴の下にいた。衝撃で吹き飛ばされ、地面を深く抉ったんだろう。

 しかし、身にひとつも傷はない。痛むところはない。

 むしろ今、体の奥から、心の底から大きく偉大な力がわきあがっていた。

 その力は僕の体を引き裂いてしまいそうなほど、グングンと広がる。

 自分がとてつもなく恐ろしく思えた。今自分の中に、とんでもないほど力があるのが分かる。

 その力が教えてくれる。先ほど対峙していたバフォメット、その悪魔ですらはるかに凌駕する力を、いま自分が持っていることを。

「シスカ……」

 一言、自然に呟いた。

 その瞬間、僕の体では狭すぎた、強大なエネルギーが全身からほとばしった。

 その勢いに任せて、一気に空に躍り出る。

「な、なんだと……」

 バフォメットがいた。彼は僕を、驚きの目で見ていた。

 そして一目見て感じたのだろう。

 恐怖。

 僕はほとばしるエネルギーに身を任せた。

 その瞬間。自分の背後に新たな羽根が現れた。今まであった羽根は4枚に広がる。

 そしてそれを覆うように、大きな羽根が2枚現れた。6枚の羽根を持つ天使。

「ば、ばかな……この私を超えていくというのか……」

 バフォメットは、じりじりと後ずさる。

 僕はゆっくり間合いを詰めていく。

「バフォメット、そこを通してもらう」

 僕はゆっくりと剣を構えた。

「こ、これはまずい……。一旦撤退だ!」

 バフォメットはひらりと舞い上がり、黒い霧となって彼方に飛び去っていった。

 僕は安堵した。今はまだ、ケルベロスを剣で刺し貫いた感触が残っている。

 相手が悪魔だとしても、容易に命を奪うことなど、たやすくできるわけがない。

 戦わずに、命を奪わずに済んでよかった。

 そして僕は慌てて、倒れている天使ふたりに駆け寄った。

 あふれでる力を手のひらに集める。黄金色の光が広がって、天使たちを包んだ。

 みるみる傷が消えていく。

「うっ……」

 やがて天使は目を覚ました。

「エレル、そしてアライル。大丈夫?」

 不意に名前が浮かんだ。僕はこの人たちを知っている。今まで知らなかったことが不思議に思うほど、僕は今このふたりをよく知っている。

「レ、リベリエル様……もしや……」

「ご記憶が……」

「いや、君たちのことは知っている。思い出したとか、そういうのは分からないんだけど……。なんか僕も自分が自分でまったく分からないんだよ」

 エレルとアライルは、じっと僕を見ていた。

「その羽根!」

「6枚の羽根! しかし……本当のレベリエル様は8枚お持ちでらっしゃった。まだ不完全ということか……」

「しかし、私たちは天界に戻られるまでは普通の人の子だろうと思っていた。しかしレベリエル様はすでにこのお姿。六大天使様がたが念入りにかけた技を、レベリエル様は超えているのではないか……?」

 エレルとアライルの会話は、僕には未だに意味が分からなかった。

 しかし、僕にはふたつ分かったことがあった。

「何にせよ、どうやら僕は普通の人間ではない。天使なのかどうかは分からないけれど、特殊な力があるみたいだ。先ほどの恐ろしい悪魔も、去って行ったよ。寂しいけれど僕は、どうやら人間ではないみたいだね」

「ええ、もちろんです、もちろんですとも、レベリエル様……」

 エレルの言葉に軽くうなづいて返した。

「そして僕のこの力が、君たちの役に立つのだろう。どこまでできるかはわからないけど……。とにかく、一人、助けなきゃいけない人がいる。シスカ、今とてつもないことに巻き込まれているようだ」

「シ、シスカがお分かりになりますか!」

「彼女の慄きや恐れが、なんとなく僕の心に伝わってくる……。急がなければ、どうやら取り返しがつかないことになりそうだ」

「いきましょう。門はあと4つです。7つ目の門の先が、天界です」

「よし、行こう。立てるかい? エレル、アライル」

 二人の天使はゆっくりと立ち上がり、体のどこにも異常がないのを確認した。

 そしてゆっくりと浮き上がって門を目指した。

 僕はつとたちどまり、来た道を振り返った。振り返ったところで、見えるのは荒涼とした大地だけだった。

 分けもなく寂しさがこみ上げ、どうにも抑えられず、僕は一滴の涙を流した。


 ※     ※


 第三の門をくぐると、生々しい戦いの傷跡が残っていた。

 あちこち大地は裂け傾き、大きなクレーターがいくつもあった。

 そこに倒れて動かない天使たちが幾人も倒れていた。みな絶命しており、さすがに僕の力でもどうにもできなかった。

 みな一様に、ひどい傷の有様だった。僕は見ていられなかった。

「守備隊の者たちです。痛ましい……」

 エレルは、倒れた天使たちの手をそっと握り、そして胸の前で組ませてあげていた。

「悪魔の軍勢が通過したのでしょう。ここより先に進軍したようですね」

 多くの足跡が、まっすぐ先に進んでいる。

「行きましょう。天界で暴れる無法者のせいで、天界の結界が極端に弱まっている。そのせいでこうも易々と悪魔の軍勢が進軍しているんです」

 僕はひとつうなずくと、まっすぐに続く足跡を追った。ふたりもすぐにそのあとを追う。


 ほどなくして、遠くにもうもうと砂煙が上がっているのが見えた。その砂煙の先に、わずかだが黄金色に輝く光が見えた。

「行くぞ!」

 僕はそう叫ぶと、さっと剣を取り出し、一気にスピードを上げた。

 近づくと、有象無象の悪魔の群れが我先にと門へと流れ込んでいる最中だった。

 とてつもない数だった。一体一体の力はたいしたことがないものの、ぱっと見ただけで万を超える数が、狭き門に集中していた。

 僕の体は頭の指令を無視して、悪魔の軍勢の最後尾めがけて落ちていった。

「でやぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」

 そして軍勢のしんがりに突入すると、闇雲に剣を振るう。

「うわぁ、天使が攻めてきたぞ!」

「取り囲んで殺してしまえ!」

 僕に向かって、一度に何十という悪魔が襲いかかってくる。

 しかし僕はいっさいひるまず、剣を横一閃に振り切る。

 剣から刃状の光が放たれ、何十という悪魔がその刃に切り裂かれ、一瞬で霧散した。

「こいつ強いぞ!」

「数だ、数で押し切れ!」

 悪魔軍は自分の命など顧みていないのか、どんなに仲間が倒されようとも次々襲い掛かってきた。

「エレル、アライル!」

「おう!」

 上空から、ふたりの天使が次々にエネルギーを光の塊にして打ち込んできた。あちこちで爆発が起こり、何百という悪魔が四散していく。

「レベリエル様! とにかく前へ! 援護いたします!」

「おぉっ!」

 僕はきっと門の先を睨みつけた。直線を行っても何千という悪魔が塊となって集まっている。

 剣を地面と水平に構え、わずかにかがんで力をためる。

 大きな翼が金色に輝く。僕の背後から、暖かな風がふわりと吹き抜けた。

「でやぁぁぁぁぁっっ!」

 絶叫にも似た声が、僕の口からほとばしる。頭の片隅では、こんなことをするような人間じゃないのに、という声がしていた。

 しかし僕は今、前に進む気持ち、それで必死だった。

 僕は一気に駆け出した。金色の翼が風を捉える。剣を突き出す。その切っ先から、円錐状に光の壁が現れる。

 光の壁に触れただけで、悪魔はもろくも消し飛んだ。あちこちで断末魔の悲鳴が上がる。しかし今の僕の耳には届かない。

 僕のスピードはますます上がり、全ての音を置いてきぼりにしていった。

 上空から、ふたりの天使が援護射撃する。次々に爆発が起こる中、僕はついに門を潜り抜けた。


 次の地には、大地を埋め尽くすような、とてつもない数の悪魔たちがいた。

 僕は体の言うことに身を任せた。

 自然に上空へと向かう。

 上空から見ると、漆黒のカーペットが、美しい草原や森を次々と飲み込んでいく様が見えた。

 体が極端に熱くなってくるのを感じた。全身の血が沸騰しているように感じられた。激しい怒りが僕を包む。

「それ以上は行かせないぞ!」

 僕はあらん限りの声を発して、剣を頭上高々と持ち上げる。

 その切っ先に、大きな光の玉が浮かび上がる。恐ろしくエネルギーを密閉した、巨大な光。

「テンペスト!」

 僕は言葉を発し、剣を振り下ろした。

 その瞬間、光の玉から次々と光の筋が発射された。光の筋は正確に悪魔たちの体を貫いていく。

 光の玉から、とてつもないスピードで、何千、何万もの光の筋を放つ。目に見える勢いで、漆黒の絨毯が引き裂かれていく。

 ようやく力が尽きたとき、ようやくエレルとアライルが追いついてきた。

「レベリエル様お体ご無事ですか!」

「え? あ、ああ……」

 一度に力を使いすぎたようで、まるで貧血のときのように目の前がかすむ。

「あとは私たちにお任せください。レベリオン様はお先に」

「うん、ああ。後は頼んだ」

 僕は両手でバシッと頬を打った。幾分か意識がはっきりする。

「まだ油断ならない数だ。エレル、アライル、どうか無事で。また再会しよう、天界で」

「もちろんにございます。では」

「いざ!」

 ふたりは剣を構え、次々に地上へと急降下していった。

 あちこちで激しい戦いが始まった。

 僕はそれを確認した後、先へと急いだ。


 ※     ※


 途中の道中でも、小部隊の悪魔たちに出くわした。先遣隊だろうか。

 手ごわい悪魔にも何人もでくわした。

 しかし誰も、僕を止められない。

 次々に撃滅して先を急ぐ。

 第五の門、第六の門。

 それを潜り抜けてついに、天界へと続く最後の門までたどり着いた。

 その門は今までのどの門よりも巨大で、立派であった。

 全てが黄金色をしており、全てに細かな彫刻や飾りがしてある。

 これが天国の門だ。

 僕はその門の扉に触れる。

 その瞬間、とてつもなく邪悪な力が僕を圧倒し、僕を扉から引き剥がした。

「な、なにっ!」

「そう易々とは先へは行かせんぞ、大天使レベリエル」

 腹に響くような重低音。その言葉、その声にどれも禍々しい邪悪な力がこめられていた。

 門の前に、漆黒のヴェールのような霧が集まり、ひとつの像を結んだ。

 ひとりの男だった。美しい顔立ち。ギリシア彫刻を思わせた。

 真っ白い肌。その姿はまるで天使のようである。

 しかし纏うのは漆黒のローブ。そして背にはカラスのように真っ黒な、8枚の羽根。

「我が名はベリアル。大天使としては2番目の位にあり、また地獄では、ルシフェル様の右腕としてあるこの私と、戦い勝つことができるならば、この門を通してやろう」

 ベリアルは静かに語る。しかしその声その言葉は、僕の全身を強く打ち、心の奥まで邪悪に染めようとしてくる。

 それに抗うだけでも汗が噴出してきた。

「おやおや。まだ真には覚醒していないようだね。私がいる、というだけで、そなたは今にも消し飛んでしまいそうではないか」

「くっ……」

 ついに僕は、その邪悪な力に耐え切れず、片膝を地に付けた。

「くそ……この先に、助けたい人がいる……。すぐそばに感じる……感じるのに……」

「ハッハッハ。残念だが、君の快進撃はここで終わりだ。そして、天界も終わる。ルーファスの陽動がよく効いた。まあ少々やりすぎではあるがね。しかし大きな戦果だ」

 あまりに違いすぎる力の前に、僕は少しずつ意識が遠のいていくのを感じた。

 かすかに目を開けると、腰からスラリと剣を引き抜き、ゆっくりと近づいてくるベリアル。

 そうか、僕はここまでか……。


 ※    ※


 僕は薄暗い一室にいた。

 さほど広くはない。丁度も、簡素なベッドと小さなタンスだけ。

 開かれた小さな窓からは、優しい日の光と、柔らかな風を室内に招き入れていた。

 僕はその部屋の片隅で片膝をつき、ひたすらに頭をたれていた。

「そうかしこまらんでよいぞ、わが子よ」

 野太い、しかしよく通るバリトンの声。

 耳がとてつもない幸福感に包まれる。

 恐る恐る視線を上げる。

 ゆったりとしたローブを纏う、一人の初老の男が立っていた。

 顎には立派な髭をたくわえ、右手には男の身長ほどもある立派な樫の杖が握られていた。

 今僕が目の前にしているのは、全ての生きとし生けるものの父、全知全能の神、その人であった。

「私の前では何者をも隠し事はできないよ。かしこまって外見を取り繕ったとしても、その心まではとりつくえまい」

「はっ」

 僕は短く答えた。

「もうすでに、私は知っているよ。君と、シスカのことを」

「申し訳ございませんでした、私は、私は……」

「いや、そこまでだ」

 僕が何か言葉をつなごうとしたとき、父なる神は僕の言葉をさえぎる。

「禁忌を犯した。私との約束を破った。確かに重大なことである。しかし、私はそれを一切咎めるつもりはない」

 僕はその時、父の言葉をまったく理解できなかった。

「レベリエル、わが子よ。真実の愛は、見つかったかな?」

「えっ!?」

 思わず、僕は父を凝視した。

 父は僕をじっと見つめていた。その表情は至極柔和で、かすかに微笑んでいるようにも見えた。

「真実は愛は、見つかったかな?」

「あの……ええ……」

 私の全身から、途端に滝のような汗が噴出した。突然の質問にうまく答えられないでいた。

 焦る気持ちが口を動かそうとするが、声にならなかった。

「その様子では、どうやらいまだ真実の愛、というものを見つけてはいないようだな、わが子よ」

「ただ……ただ夢中で……。シスカが、彼女が大事で……とにかく、愛おしく……」

「わかるよ、わが子よ。果たしてそれが、その気持ちは、お前は真実の愛と、感じるかね?」

「い、いえ……。思いません」

「しかし、その気持ちは、私との約束をも上回る気持ちであったのだろう?」

「もうしわ……」

「謝らずともい。責めているようだったなら、こちらがすまなかった。責めてはいないから、安心おし、わが子よ」

 あまりに、あまりに優しい言葉。

 うまく頭が回らなかったが、僕は深い安らぎをえた。

 少し、汗が引いたように感じる。

「私には、それが真実の愛、というものなのかは見当がつきません。自分でも抑えきれない、なにか悪魔的な感情のようにも思われます。しかし、私はなにものをもより、シスカが大事で仕方ありません。そしてそれは、自分の命以上です。私にとってシスカは、すでに別の天使ではない。私とシスカは同体のように感じられます」

 うまく回らない頭を無理やりに回転させ、なんとか言葉をつなげる。

「育ててくれた父母に対する気持ちとは違います。仲間に対する気持ちとは違います。人の子らを見守っている時に感じる気持ちとはまったく違います。そして、仲間のうちでも愛し合って結婚していく者もいますが、そういった者から聞く話の気持ちとも、まったく違うように感じます。私には、そこまでしか分からないんです」

 正直に、自分の思い、考えを述べた。

「私はね、レベリエル。お前がこの天界で、とても大きな役割を果たしてくれると思っているんだよ。期待している……というと重荷になってしまうかもしれない。けれど私にははっきりと分かるんだ。いずれ、そう近い将来、この天界にとてつもない災厄が起こる。そして天界は崩壊するだろう。私が直接手を出すわけにはいかない。しかし、完全に天界がなくなってしまうのも困る。だがその時立ち上がってくるのは、真実の愛に目覚めた者だ。私は知っているんだよ、レベリエル。なんでも」

 静かに語る父。しかしその声の裏に、一抹の悲しさがあるのを感じ取った。

「私にひとつ、考えがある。君や、シスカには大きな悲しみと傷を与えてしまうかもしれない。だけどどうかこれだけは覚えていてほしい。君の為に、そして天界の為に君に犠牲になって欲しい、だけど私からレベリエルの愛は、一切変わらない、と」

「考え……?」

「君には、人の子として転生してもらいたい」

「えっ!」

 私は驚きを禁じえなかった。驚きを隠すことすらできないほどの衝撃であった。

「私が……人の子として……。堕ちる……」

「いやそうではない。堕天ではない。たしかに、君の今ある記憶は消さねばなるまい。それは、人の中で暮らすには障害にしかならないから。天使としての力も同じくだ。しかし堕とすわけではない。いずれ天界に戻ってきたとき、君の力を全て返そう。一時的に私が預かるだけだ」

「なぜ……」

「最もな理由ではある。まあ一番は……これから訪れるであろう災厄に備えるため。そして、君には、今まで見守ってきた人の子の立場となって、見守られる側になって、初めて気づく様々なことを経験してほしい。それが君や天界にとって、大きな大きな力になる」

「そんなことが、私に可能なんでしょうか……」

「私は、できれば君に、この天界を統べる者になってほしいと思っているよ、わが子よ。私を超えるほどに……」

「そんな、我が父!」

「まあまあそう声を荒げんでも。ちょっとした冗談ぐらいに思っていてほしい。ところで、どうかね? 私の計画に賛同してくれるかね?」

「我が父の仰せのままにいたします」

「よろしい。では六大天使にもそのように伝える。早速だが出発してもらわねばならん。シスカに別れもさせてやれんが……まあ、いずれ帰ってきてからでよかろう」

「今からですか!」

「すまんな」

 神はそういうと、私から背を向けた。

 私は深々と頭を下げ、静かに部屋を出た。

 そして僕はその日のうちに、人間界へと旅立った。生まれてすぐの赤ん坊の姿となって……。


 僕は人に生まれて、一体なにを見てきたのだろう?

 僕は、本当に、真実の愛を見つけたのだろうか……?


 ふと僕の脳裏に、おじいさんとおばあさんの笑顔がよぎった。

 おじいさんは、僕がどんなにやんちゃしたとしても、一切声を荒げることなく、じっくりと粘り強く話し合って僕を諭してくれた。

 おばあさんは、どんなときでもニコニコと笑顔を絶やすことがなかった。

 殺伐としたビジネスの街で少しでも潤いをと、儲けを考えずに花屋を開店させたふたり。

 毎週日曜日は、欠かさずミサに赴くふたり。

 そんなふたりの花屋には、数多くの常連さんもいた。みんな笑顔で花を抱えて帰っていく。


 ※     ※


 目の前に、大きく剣を振りかぶったベリアルがいた。

 僕は跪いたままだった。

 ベリアルの剣が、僕めがけて振り下ろされる。

 僕は手を伸ばし、剣を現した。

 全てがゆっくりと。今にも時が止まってしまうんじゃないかと思うほど、すべての動きが緩やかだった。

 僕は剣を肩に担ぐ。その剣に、ベリアルの剣が叩きつけられる。

 激しい金属音が響き渡り、とてつもない衝撃が体を襲う。

 両者のぶつかりは衝撃波となり、地面を大きく抉った。

 砂煙がもうもうと巻き上がる。

 とてつもない衝撃。そして禍々しい邪悪なエネルギー。僕に容赦なく襲い掛かる。

 しかし、いつの間にか僕は、それらを平気で受け止めていた。

 両者の剣を肩に担いだまま、僕はゆっくりと立ち上がった。

 勢いよく、サッと剣を振る。ベリアルが後方に飛んで間合いを空けた。

 僕はゆっくりと浮かび上がる。空に向かって、ゆっくりと……。

 僕の体に力がみなぎってくる。泉の奥底から、何千年という時を経て染み出してくる源泉のように。

 その力はなんとも心地よかった。暖かな春の空気に包まれているような。程よい湯加減の温泉に浸かっているような。

「ついに目覚めたか。大天使レベリエル……」

 僕はゆっくりと剣を構える。全身が黄金色に輝く。

 そして僕の背にはいつのまにか、3枚の巨大な羽根が増えていた。

「そうか、ついに現存の天使を超えるか……」

「ベリアル。この度は悪魔側の失敗である。大人しく引くがいい」

「まさかこんな隠しダマをされていたとは、さすが神。我らの父といったところか」

 僕とベリアルの間には、とてつもないエネルギーの接触で、パリパリと稲妻が鳴っていた。

「しかし、大人しく引くのもまた癪に障る。一戦ぐらいは手合わせしようぞ」

「ならば……勝負だ!」

「いざ勝負!」

 僕とベリアルは、同時に詰め寄る。

 互いの剣と剣が交錯する。

 あまりに大きなエネルギーのぶつかりに、その場に太陽が出現したかのような大爆発が起こった……。


  つづく

 みなさまからの感想、レビューをお待ちしております。

 あと、私のほかの作品もどうぞよろしくお願いします。

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