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Angel;A watch fire

全5話中の第3話です。

 目を瞑るとそこには炎があった。私が気づいたときから常にその炎が私を赤々と照らしていた。

 炎は時に真夏の太陽のように私の身を焦がし、あるときは暗闇を振り払ってくれる優しい蝋燭の炎のように、ゆらゆらと燃えていた。

 私はどうしても、その炎をこの手で掴みたかった。なぜそう思ったのは、いまでは到底思い出せないし、思い出しても大した理由はないのだろう。何が燃えているのだろう、熱くないだろうか? そんな好奇心が掴みたいになったんだろう。

 しかしいくら手を伸ばしても炎には届かなかった。私は必死になって手を伸ばす。届かない。一歩近づく。しかし届かない。

 私はどうしてもその炎をこの手に掴みたくて、必死になって前へと進んだ。しかし炎は相変わらず遠くにあって、遠くから私を照らすだけだった。

 ひどく悔しくて、夜飛び起きて独り泣いたこともあった。

 いや泣いた理由は他にある。そう、他に。ずっと心の片隅や頭の片隅で自問自答し続けていたくせに、その答えについて完全に無視していたこと。それがたまたま、寝ている間に飛び出してきて、私の涙になっただけ。

 ずっと私は、こう思っていた。

 もしもその炎を手にしたら、その後私はどうして生きていくんだろう?


     ※    ※


 天使の仕事は親から子へ、子から孫へと引き継がれる。その仕事の内容は様々だ。私の父は『人の子らを守る』者。そして父の仕事は私の仕事になった。

 ひどく毎日が辛い。他の仕事とは明らかに違う仕事だった。

 剣を持ち、命を奪う。

 それが私の仕事である。たしかに奪う命は悪魔の命であり、最も憎むべき相手である。死んで、殺して当然のような者たち。それに剣で切り刻もうとまた元の通り戻ってしまうのだから、正確には命を奪っていることではない。

 しかし断末魔の絶叫や滴る血のぬくもり、そして剣を突き立てる瞬間の手応えは本物なのである。

 父は有能であったらしい。私が仕事を引き継いだときから父は引退したのだから、父の仕事振りは伝え聞いて知っているだけで見た事はない。しかし人の話では有能であったそうだ。

 有能とは力が強いとか戦いが上手いというのではないらしい。しかしとにかく有能であったという。家格が低いので他人に命令できる立場ではなかったが、皆納得して父の指示に従ったという。

 私が仕事を始めたとき、私は父が目標であった。決して同じようにはできないだろうけれど、それでも父のような立派に勤めを果たす天使になりたかった。だけれど戦いを繰り返すうち、次第にその目標が音をたてて崩れていった。

 私は人に決して漏らしてはならない疑問の波に翻弄されていた。

 そんなある日、悪魔たちが大挙して人間の世界に介入しようとしていると知らせを受けた。悪魔たちは人の耳に良からぬ考えを吹き込み、そして神の示した道を踏み外させようとする。その最たるものは、人同士による殺し合いだ。

 規模が小さいものから大きいものまで。とにかく道を外れてしまった者は悪魔にとり込まれ、悪魔の血肉となってしまう。悪魔はそうして力を養い、神に並ぼうと、いや神に取って代わろうとしているのだ。

 私たちは過去、幾度か大きな失敗を犯してしまった。人同士でとてつもなく大きな戦いをさせてしまった。なんとか早期に収束させようと努力したが、人々は望むと望まざるとに関わらず、神の道を大きく踏み外してしまった。

 私たちはその時の悔しさを胸に、二度とは繰り返させまいと固く誓った。

今悪魔たちは、まさに同じ方法で多くの人を惑わせようとしている。なんとしてでも私たちは阻止しなければいけない。

 戦いはそれは凄惨なものだった。殺し殺され、流れる血が空を染め上げ、それは赤々としていた。

 多くの同朋を失い、それ以上に悪魔たちを倒した。そんな戦いのさなか、私はたった独り、してはいけないことをしてしまった。

 ただ呆然と、戦いを見ていた。

 剣をだらりと垂らし、戦いから少し離れた場所でぼんやりとその戦いを見ていた。赤い空を背にして、同朋や悪魔たちの叫び声を聞きながら、私はただただその光景を見ていたのだ。

 なんでこんなことをしているのだろう?

 ひどく不思議だった。こんな戦いをしなければならない理由が、私にはまったく分からなかったのだ。

 人を悪魔の自由にさせてはいけない。人を正しく神の道にいざなわなければならない。それを邪魔し、迷わせ、自分の血肉としてしまおうとする悪魔たちを放っていてはいけないんだ。

 分かるのだ。そこまではほんの子供でも分かるのだ。

 だからってなぜ、殺し殺されなければならない?

 神は私たちをお造りになられた。そして同じように悪魔もお造りになられた。人もこの世界もなにもかも、神がお造りになったものじゃないか。

 人同士の争いは駄目で、同じ神の子であるはずの天使と悪魔は、こう争いをしているのは納得ができない。

 確かに悪魔たちに話し合いなんてものは通じないし、やはり倒してしまわなければ人を惑わしてしまうのだろう。

 でも本当にそうだろうか?

 その疑問が浮かび上がった瞬間、私は力を失った。ただだらりと腕を垂らし、目の前に起こっている事をただぼんやり見ているしかなくなっていた。

ああ、目の前の炎が、遠く……遠く……。

 炎。遠く……遠く? なぜ今、目を開けているのに炎が見えているのだろう?

 目を瞑ったときにしか見えない炎、それを私は今見ている!

 突然私はじっと目を凝らした。炎は、その正体はいったいなんだ!

 天使達が戦っている。その一番前、悪魔たちとの最前線。

 金色に燃えあがる8枚の羽根を背負った天使が、自らの使命になんの疑いもなく突き進んでいる。

 私の炎……。今まで決して掴むことができなかった、あの炎……。

 私の全身に力が漲った。熱い炎が全身を駆け巡り、その炎が私を突き動かす。私はいつのまにか天使達の最前線で戦っていた。なにもかも忘れていた。さっきまで抱いていた疑問も、今自分が何をしているのかも。

 それから後にどんなことが起きたのか、それすらも記憶になかった。いつのまにか、戦いは終わっていた……。


     ※    ※


 気づいたとき、私はベッドに寝かされていた。なぜ自分がここにいるのだか、全く分からなかった。

 じっと見つめていた天井から目を移すと、見知った顔があった。幼馴染のトレファンが、椅子に腰掛けたまま眠っていた。その顔に優しげな黄色い光があたっている。その光の元を探すと、窓の外に月が出ていた。

 あの戦いから、いったいどのくらいたったのだろう? それにあの戦いの結末はどうなったのだろう?

 私はゆっくりと上体を起こそうとして激痛にみまわれた。左のわき腹がズキズキする。 手を当てると包帯が丁寧に巻かれていたが、それがしっとりと濡れている。手を見ると僅かに血がついていた。ああ、私は怪我をしたのか……。

「ああシスカ。目が覚めたんだね」

 少し眠そうな声でトレファン。起こしてしまった。私は返事すらままならず、ただ首を縦に振った。

「君はあの戦いで酷く傷ついて。大天使様がご自身で君をここまで運んでくれたんだよ」

「ああ、そう……」

 なんとなく素っ気無い。今の今まで心配して、看病までしてくれた友に対してする返事ではない。それは私自身そう思った。ただそういうことに今は気が回らない。

「戦いはね、大丈夫。悪魔たちは退散していったそうだよ」

 なにがどう大丈夫なのだろう? いや今回は人を惑わすことがなかったのだから、大丈夫なんだろう……。なんだ、私はなぜこう気が立っている? 何か、何か……。

「トレファン、今さっきなんて言った?」

「え? 戦いは大丈夫……」

「その前」

「ええっと……君が戦いの中で怪我して、大天使様が君を……」

「大天使様!」

 それだ! 私の中で燻っているもやもやしたものは、それなんだ!

 あの戦いの時に見た炎。8枚の黄金の羽根を持った、私の炎!

 だけど、だけどなぜ大天使様が私などを?

「君はね、大天使様の隣でずいぶんと立派に戦ったそうだよ。だから大天使様が自ら君を運んで、手当てしてくれたんじゃないかな」

 まるで心を見透かされたかのように答えてくれる。トレファンと話をしていると、時々こういうことがある。だから私は彼と話をしているとき、ずいぶんと楽をさせてもらっている。

「大天使様が? 私の傷を?」

「うん。大天使様がおっしゃるには、自分の代わりに傷を受けた、のだって」

「そう……なの。私戦いの時の記憶がなくって。なんだか突然、なにもかも分からなくなって、ただがむしゃらに戦ったから……」

「うん。でも君の手当てはそれだけじゃないって。大天使様がこうつぶやいていたんだけどね、自分の力が及ばずに大切な君を傷つけてしまったって。どうも大天使様は君のことを知っているようだったよ」

「え?」

 私たち『人の子らを見守る者』を統べているのが大天使レベリエル様であることは、その仕事についている者以外でも誰でも知っていることだ。けれど私は一度も面識はない。 けれど大天使様は私を知っている? それに大切な? いったい、いったいどういうことだろう?

「とにかく、なにかお腹の足しになるものを持ってくるよ」

 トレファンはそう言って席を立った。私は小さく「ありがとう」とつぶやいて、窓の方を向いた。夜空に星や月が浮かんでいる。しかし今の私にはなにも映っていなかった。

 大天使様が私を知っている? 大切な? それは私がどうというより、きっと私の父が関係しているのだろう。そうに違いない。だって私なんて、大した天使ではないのだから。 けれど、私が追いかけていた炎がついに目の前までやってきた。あまつさえ、向こうからも近づき始めてしまった。この手に、この手に掴めてしまうじゃないか!

 その炎を掴んだあと、いったいどうすればいいんだろう?

 私はとてつもない恐怖に囚われ、肩を抱きしめながらカタカタと震えるしかなかった。


     ※    ※


 トレファンは毎日でも私を見舞ってくれた。幼馴染だからだろうか。私には分からない理由で、トレファンは毎日来る。そして毎日こう言うのだ。

「顔色が大分よくなったね」

 それからほんの少しだけ雑談して、トレファンは帰る。けれどそんななにげない時間が、私にはとても貴重だ。ベッドに寝転がり、特になにをするでもなくじっと天井を見つめていると、気が狂いそうなほどの勢いで私の脳を衝動が揺さぶる。

 来てしまった、私のすぐ手の届く所に、炎が!

 それはある日不意に訪れた。その日私はベッドに寝転びながら外の景色を見るともなしに見ていた。

 背後で扉が静かに開かれる。私はトレファンがいつものように来たのだと思った。そしてゆっくり寝返りをうつ……。

 そこにいたのはレベリエル様だった!

 私はあまりのことに驚いて、掛けていた布団を蹴飛ばして飛び起きた。

「ああ、楽にしていてくれて構わないよ」

 彼はそっと部屋に入ってくる。そして床に落ちた掛け布団をそっと拾うと、私の体に掛けてくれた。

「あなたの怪我はまだ完治していないんだから。ゆっくりすることだ」

 私はあまりに呆然としてしまって、いったい何を言われているのかも分からずただ彼を見つめてばかりいた。

 切れ長の瞳、長いまつげ。彫刻のように美しいラインの鼻筋と輪郭。薄い唇。透き通るように白くきめの細かい肌。男でも見とれてしまうほど美しい顔立ち。そういう噂はまさに本当だったのだ。

 なんて美しいんだろう……。

 私は失礼にもじっと睨みつけていたようで、彼はつるりと頬を撫でた後「なにか顔についてる?」と言った。

 私は突然、自分が何をしているのかが分かってとても恥ずかしくなって、顔を真っ赤にしながらただただ必死に目線を外した。

「フフフ。そんなに一生懸命にならなくっても」

 なにかがおかしかったのだろう。涼やかな含み笑いを幾度もしていた。

 ひとしきり笑ったあと、彼は丁寧に謝った。怪我をしたのは自分が至らなかったからだ、と。

 いいや、それは単に私の力が足りなかっただけだから、私はひたすら恐縮していた。

 それに、私の父の名前も出た。彼もまた天使の手本として父を見ていたという。だからなおさら怪我させてしまって申し訳無く思っているとも言った。

 ただ私はその時ふと思った。私がもし父の子ではないとしたらば、彼はここまで丁寧に謝っただろうか?

 謝ったんだろうな。私は勝手にそう想像した。私は少しずつ場慣れして、彼を少しずつ観察していた。言葉の端々も、動作の隅々にも、この人には嘘偽りなんてない。真に誠実で慈愛に溢れている。それが体から漏れ出て部屋を満たしている。正に神の教えたもう道を真っ直ぐに歩いている人。それが彼に自信と威厳を形作っている。単に顔が美しいだけではない。体中から溢れるその力が、多くの者を酔わせるのだ。

 私も多分に漏れず、彼に強く惹かれていた。なにげない雑談をしていても、私の鼓動は高鳴り続けている。

 血液が風の様に速く全身に駆け巡っているこの昂揚感! 体の隅々にまで力が行き渡る充足感! そして彼が作り出すなんとも不思議な安心感!

 それらの全てが私を刺激していた。ああこれが求め続けていた炎。やっぱりこの人こそ、私の求めていた炎なんだ!

 時間は駆け足で過ぎ去り、いつのまにか部屋も薄暗くなりかけていた。

「おや、もう夕暮れか。楽しい時間というのは、流れるのが早くていけないね。私は仕事がまだちょっとあるから、これで失礼させてもうらね。ゆっくり休むんだよ、シスカ」

 彼はそう言って、入ってきた時と同じように静かに部屋を出ていった。

 暗くなっていく部屋の中、私はベッドに寝転んでじっと天井を見つめていた。

 まだ部屋の中にさっきまでの時間の残滓が残っている。彼の匂い、彼の存在感。胸の鼓動が収まらない。

 それに耳に残る声。

「シスカ……」

 私はどうしようもなく落ちつかなかった。落ちつこうとしても余計に感情が波になる。いてもたってもいられない。

 恋を、恋をしてしまったみたい……。


     ※    ※


 時間というものはひどく速く流れていくものらしい。

 怪我も完治して自らの職務に戻った。それ以来日に日にレベリエル様と話をする機会が増えていった。

 彼は忙しい。私などよりもずっと責任は重い。だからわざわざ暇を作らねば私とそう話をしてる時間などないのである。

 無理をさせているのだろうか? ふとそう思う時もあるけれど、しかし体全体に染み入る充足感は、そんな疑問すら溶かしてしまう。

 重すぎる不幸は一人で抱えていけるものではない。けれど幸せも同じなんだな。

 人の子を見守る役目だから、人の子らが辛いものを話してしまって楽になろうとするのは知っている。知識として知っていた。けれどまさか自分がそうなるなんて思わなかった。

 私は余りにも幸せだった。酷く恐ろしく不安になるほど幸せだった。家で独り寝ていると、訳も無く涙が流れてくることもある。

 恐ろしくて不安。それは辛いことだ。けれどその原因は幸せにあるのだからなんとも複雑だ。いったい私はどうしたんだろう?

 だから私は話してしまうことにした。なにもかも包み隠さず。けれど容易に人には語れない。なんせ私の相手は大天使なのだから。

 身分の違い、と言えば簡単になってしまう。でもそうではない。もう中身からなにから格が違う。自分でもはっきりとそれを認めているのだから、他人が見れば滑稽に映るだろう。非難したり蔑んだりするかもしれない。なんて身の程知らずか。

 私の話し相手はトレファンしかいなかった。彼はどんな話でも真剣に聞いてくれるし、非難がましいことなどひとつももらさない。

 彼に甘えすぎていたかもしれない。けれど話してしまわないと潰れそうであった。他のことを考える余裕なんてものはない。

 いろんな話をした。レベリエル様がこう言ったとか、こんなことをしたとか。トレファンにとってはまさにどうでもいい話なのだが、彼は真剣に聞いてくれた。そして聞いてくれたからこそ、私は楽になった。過分な幸せも抱えていけるようになった。

 ただ過分な幸せにも、たったひとつだけ綻びがあった。

 私はまだ、炎を掴んではいないんだ。

 レベリエル様とどんなに親密になろうとその想いは消えない。消えないどころか、親密になればなるほど想いが大きくなっていった。 それはどうすることもできないじゃないか。自分に言い聞かせてみる。けれどそう騙されてはくれなかった。

 炎を掴んでいない理由、それはこうなんじゃないかと。

 結局親密になっていく度合いは、レベリエル様のさじ加減ひとつなんだと。レベリエル様が暇を作って私との時間に充てているのだから、それを一方的に解消されても文句は一切言えない。言ったところでそれは我侭になる。

 レベリエル様が、あちらから私に近づいているのだ。私が手を伸ばしているのじゃない。だから捕まえられないんだ。

 ただそこまで思って自嘲する。なんて自分勝手な思いこみだろうか、と。

 レベリエル様の方から親密になってくれているというのは、逆にいえば私にそれほどの魅力があると肯定していることだ。それに自分の気持ちについても棚上げしてしまっている。 なんて馬鹿な女だろう。

 母も、父と出会った時はこうだったのだろうか? なんだか自分一人だけ勝手に浮かれている気分がして、ひどく可笑しかった。

 ただ、ただそんな一人相撲な思案が、終わりになる時がきてしまう。そんな下手な理屈なんてきれいに流されてしまうような出来事が起こった。

 夜である。辺りは静かだ。

 私はレベリエル様に呼ばれて彼の部屋に赴いた。

 しっかりした造りの机に、蝋燭1本が揺らめいている。その前でじっと座ったまま、蝋燭の炎を見つめるレベリエル。彼の皮膚はただ橙色の光りを反射させているだけだった。

 その姿を見た瞬間、私は正体の分からない不安に襲われた。なんだろうこれは? レベリエル様が、蝋燭の炎に、負けている・・・。

 いつもの自信はどこへ行ったんだろう? いつもの威厳、力、空気。いやもうそんなことはどうでもいい。いつもの彼はどこへ行ったんだろう?

 なんだか悄然としている。疲れているようにも見えた。ただとにかく、今の彼には声がかけられなかった。

 私の気配を気づいたのか、彼はゆっくりと立ち上がったあと振り向いた。

「夜遅くに、ごめんね」

 私はただ、首を横に振るしかできなかった。

 それを見て、彼がそっと笑った。ただなんとなく力の感じられない笑みだった。

 彼はそのまま部屋を横切り、ベッドに腰掛けた。そして手を組み、じっとしている。なにも話さない。しきりと、手の組み方を変えている。

 なんだろう、この張り詰めた空気は?

 まるで戦いの直前のような。けれどこの暗さはなんだろう?

「こんなこと、こんな……いや。とにかくあの……」

 彼の言葉はすぐさま部屋に拡散してしまい、私の耳には届かない。

「あの、こんなこと……。君を巻き込みたくはないんだ。いや、そんな偽善的なことで誤魔化したって駄目だな。あの、とにかくこれだけは言いたい」

 ごくりと、唾を飲みこむ音がやけにはっきりと聞こえた。それは彼が発したのか、自分なのか判然としない。

「聞いてくれ。僕は、僕は……君を愛している。心から、愛している」

 どきりとした。ひどく胸に刺さる。

 私は驚いて彼を見た。彼も私をじっと見つめていた。

「僕は……どうしても耐えきれない。愛している君にこんなこと……。嫌なら言ってくれ。きっと苦しみを乗り越えるから」

「何……を?」

 私には、彼の言わんとしていることがさっぱり分からなかった。ただやけに重大な話が待っている、その予感が緊張となって全身を震わせる。

「君と……君とひとつになりたい」

「え? な、何? いまなんて……?」

「人の子らを見守る僕たちなら知っているだろう。人の子ら、愛し合う二人がしているように、僕たちも、僕たちも……ひとつになりたいんだ……」

 全身から一気に力が抜ける。まるで棒を地面に落としたかのように、私はすとんと床に崩れ落ちた。

「シスカ!」

 レベリエル様が慌てて近づき、そっと私の手を取った。そしてもう片方の腕が背中に回される。

 彼のその手、腕、胸、吹きかかる吐息。なんて、なんて熱いんだろう!

 頭がくらくらとした。それは熱さのため。そしてひとつになることの意味が分かったためだ。

 そんな、そんなこと……できないじゃないか!

 けれど、けれど……ああ駄目。頭がくらくらする。なにも考えられない!

 いや違う! 何も考えられないのは頭がぼうっとするからじゃない! 答えが決まっているから、それ以外なにも思いつかないからだ!

 その答えを言ってしまえば、一体、一体どうなってしまう? 私たち二人は一体……。

「レベリエル様……私、立てない……。どうか、どうかあなたが……私をベッドに導いて……」

 私はレベリエル様の逞しい腕に抱え上げられた。そしてそっと、まるで壊れ物を扱うかのように優しくベッドに寝かされた。

 ふっと蝋燭の明かりが消える。部屋の中が凄く暗い。レベリエル様の吐息が聞こえる。私の吐息も聞こえる。

 レベリエル様の鼓動が伝わってくる。まるで破裂してしまいそうなほどの勢いだ。

 部屋にはただ暗闇と静謐が満ちている。その中で私たち二人は、ただ求め合った。

 私は必死になってレベリエル様の指の動きを追った。やがて二人の息が重なり合い、ついに……。

 瞬間、目の前が真っ白になった。

 ああ、ああ私はようやく、炎を手に入れたんだ……。


     ※    ※


 悲劇だったんだ。私たちは幸せに狂ってしまったのかもしれない。

 だけれど流れ行く時間は止められもせず、私はそれに流されていくしかなかった。

 炎を手に入れた私は、とてつもない不安と絶望を感じてしまった。その原因がなんなのか、私には全くわからない。そして考えるだけ無駄なんだ。

こればかりは人には話せないと思いながら、結局トレファンに話してしまった。

 なんと甘えた性根だろうか!

 だけれど私に平穏は訪れない。ただ少しだけ休める時間があるとすれば、それはレベリエル様と強く抱き合っているその時だけだった。

 その時はなにもかも忘れて、ただ暖かさに身をゆだねてしまえばよかった。だけれどそこから一歩踏み出せば、底無しの沼があった。

 私はなんとも無力で、もはやどうすることもできなかった。かといって割り切って堂々とするのも無理があった。

 馬鹿だ、馬鹿だ馬鹿だ馬鹿馬鹿馬鹿!

 私は酷く自分を罵った。しかしそんなことをしてもどうにもならないことはよく分かっている。

 それに、そんなことはまだ、ほんの入り口でしかなかったのだ。

 突然、私は大天使長に呼ばれた。神の直接下にあり、全ての天使を統べる6人の天使。

 その天使達が一同に会している場に、私は呼ばれたのだ。

 その大きな場所の周囲に、6人の天使が並んでいる、はず。余りにも神々しすぎて私には見えない。

 ただ私にもはっきりと目に映ったものがある。部屋の中央で、酷くやつれた様子で座っている、レベリエル様……。

「これから、これなる天使レベリエルの処分を決定する。天使シスカ、あなたもよくお聞きなさい」

「そ、そんな……」

 ひどく、ひどくゆっくりと地面が迫ってくる。やけに鈍い音がした後、なんとなく全身に痛みが走った。やがて手足が固いとか冷たいとかを知覚し始める。

 地面が近づいたのではなく、あなたが倒れたのよ。頭の片隅でぼんやりと私の声がする。

「天使レベリエル。禁忌を犯した罪により、堕落。人の子として地上に送るとする」

 レベリエルがなにか言いながらゆっくりとお辞儀をした。

 なに、これで、これで終わり? それはおかしいじゃないか。おかしいよ!

「わ、私……私は……私には……?」

「そなたは預かり知らぬこと。全ては天使レベリエルの犯した罪である。そなたは全てを忘れて自らの職責に立ち戻りなさい」

「そんな、そんな馬鹿な話があるか! 罪を犯したのは私とて同じこと! ならば私も堕としなさい! 地上でなくとも、地獄でも構わないわ!」

 私は自分がどこにいるか、誰と喋っているのか全く見失って叫んだ。頭の中は真っ白で、目の前は赤く染まり、そして体中に怒りの力が駆け巡る。

 だって、だって私も同じ罪を負っているはずなのに、罰せられるのがレベリエル一人だなんて、間違っているから!

 その時、ゆっくりと私に近づいてくる者があった。誰だか分からない。その者は私の目の前にくると、無言のまま私の頬を平手打ちした。

 その途端視界が晴れた。目の前にいたのは、レベリエル様だった。

 私は痛みは感じなかった。ただそれよりもはるかに大きい衝撃が私の頬をずきずきとさせる。

 私はたたかれた頬に手を当てたまま、呆然とレベリエルを見つめていた。

「父と、天使長の御前である。控えなさい」

 凛とした声で言いきる。

「でも……」

「父がお決めになったことである」

 レベリエル様はそう言ったあと、そっと私の頬に手のひらをあてがい、ゆっくりと撫でてくれた。もうずきずきしたものはなくなっていった。

「シスカ……愛している。でも、さよならだ。ごめん、こうなることははじめから分かっていたことだから……」

 遠くで歌が聞こえる。天使長たちが歌っている。ああ、レベリエルを連れていこうとしている……。

「シスカ、シスカ……」

 私は頬に当てられた手を、両手でぎゅっと握り締めた。そこに暖かさがある。レベリエル様の中に炎があるから。そして私の中にも、同じ炎がある。

「愛してるよ……」

 レベリエル様は優しくそうささやき、最高の笑顔を見せた。その瞬間、彼は光り輝く細かい粒となり、消えてしまった……。

「う……ううう……うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」

泣いても泣いても、私の涙は枯れることはなかった……。


  つづく


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