ANGEL:Ballerina Tree
全5話中の第2話です
僕はあの日、いまにも壊れてしまいそうな彼女の肩をそっと抱きしめていた。いつまでもいつまでも、降り続く雨の中で。
雨が降るたびに思い出す。この天界では雨は珍しい。といっても降らないわけではない。恵みをもたらす雨。天界に住んでいる動物や植物たちの糧となる雨。いつも暖かく優しく降り注ぐ。そんな雨の中で彼女は立ち尽くしていた。自分の肩を必死に抱きしめて、それでもなお震えながら立ち尽くしていた。こんな優しい雨の中で、なんて哀しそうに泣いているんだろう。そして雨は、彼女の涙を覆い隠すために降り注いでいるんだ。
でも、でも雨の中では彼女の涙は止まらない。涙は止まらない。僕はふらりと屋根のある廊下から一歩踏み出した。神の住まう城の中庭、濡れそぼった彼女のそばへ行き、僕はそっと彼女を抱きしめた。包み込めたら、彼女の震えが止まるほどの暖かさで包み込めたら……。
※ ※
彼女との出会いはありふれているものとすればそうだし、特別な出会いだったといえばそうだ。家が近かった。場所が近かった。でも遠い存在だった。彼女は人の子らを守る天使の一族。僕たちは来るべき戦の戦士の一族。僕の羽根は2枚、彼女は4枚ある。
ある暖かい陽射しの午後、僕はただ窓の向こうにある風景をぼんやりと眺めていた。まだまだ幼い頃のことだった。僕はただ、なにを見るでもなく外を見ていた。僕の家の窓から道がまっすぐに見えた。その向こうに小さな広場があった。その広場で何人かが遊んでいた。ぼんやりと見ていた。
その時、広場にしっかりと立ってまっすぐに僕をみつめる2つの瞳があった。暗褐色の燃えるような視線。けど全てを焼き尽くす業火ではない。優しい暖かさを与える暖炉の炎のような瞳。そんな瞳がまっすぐこちらを見ていた。
そう見ていた。僕はそう思った。遠くにいたから分らないはずだし、その時に見られた、という意識すらなかった。後でこのときを思い返したとき、彼女は僕を見ていたと僕は思った。
暗褐色の瞳の少女は力強い足取りで歩き出した。1歩1歩、まっすぐにこちらへ歩いてきた。そして僕の目の前で立ち止まる。僕はそっと扉を開けた。
そして彼女はしなやかな動作で右手をすっと差し出してきた。
「そんなところにいないで、さぁ、いっしょに遊ぼう」
僕はその手を固く握り返した。そして窓を乗り越えて外へ。その時に僕の胸は、周りの人にも聞かれてしまうんじゃないかと思うほど高鳴った。言いようのない解放感と高揚感。窓から乗り越えて外に出る。そして彼女が僕を連れ出してくれた。
それから毎日のように彼女たちと遊んだ。彼女は近所の子供たちの中心的存在だった。それは身分からではない。彼女はいつも明るかった。誰にでもそっと優しい言葉をかけた。そしてなにか動き出すとき一番はじめに行動するのは彼女だった。
ひまわりが太陽の方に向いて背伸びをするように、僕や周りの子供たちはみんな彼女のようになりたいと思っていた。みんなが彼女に憧れていた。僕もそうだった。
恋愛感情、それではない。憧れだった。純粋な憧れであった。ああいうようになりたい、そういう気持ちだった。
※ ※
僕たち天使には肉体的な接触は禁止されている。なぜそうなのかと問われても誰も答えは出せない。それは同族を殺してはいけない、というのに似ていた。手を握る、そういう行為でさえなぜだか妙な違和感に襲われた。
彼女にはそういうものがなかった。僕を連れ出す時にも手を握ったし、ことあるごとに握手をしたりもした。泣いている子にはそっと抱きしめて慰めたり、笑いあいながら肩を叩いたり。彼女は自由だった。いつでも自由だった。背中の翼で、どこまでも飛んでいける人なのだと思った。そして僕から見た彼女は、いつでも大空を自由に羽ばたいていた。
でも地面に立ち尽くしていたんだ、あの日。雨の日、彼女は必死になって涙をこらえようとして、でも駄目で、雨の中で苦しみもがいていた。
ああ彼女は苦しんでいるんだ。哀しいんだ。あの日僕を連れ出してくれた彼女に、僕はなにをしてあげられるのだろうか。今彼女を襲っている苦しみから、僕が盾となって守ってあげられないのだろうか。
僕は自然と彼女を抱きしめていた。彼女がそうしていたようにそっと胸に抱きしめて、彼女の髪を何度も撫で続けた。
いつまでもいつまでもそうしていると、次第に雨がやんできた。そして彼女の肩の震えもおさまった。
「ありがとう」
彼女はつぶやくようにそう言って、僕から体を離した。その時ふと、僕は寒さを感じた。
彼女はふらふらする足取りで中庭にある泉のほとりまで歩いて座りこんだ。
「まだ濡れているよ」
「いいの。隣、座る?」
僕は言われるままに隣に座った。そうして彼女の横顔を見た。彼女はまっすぐに城を見ている。いや城を見ているのではないかもしれない。遠くを見ているのかもしれない。
「あなたは何を思って私を抱きしめた?」
彼女はまっすぐ前を向いたままそう言った。なんとも答えられなかった。守ってあげたい、そんなことおこがましくて言えなかった。守る、力は彼女のほうが遥かに上だし、身分だってなんだって、僕はとことん彼女に劣っている。でもそれでも、僕は彼女に対して守ってあげたいと強く思った。
「ありがとう」
彼女はまたそう呟いた。呟いた後僕のほうを向いて柔らかく微笑んだ。
僕が頭の中で思ったこと、彼女には分ってしまったんだろうか。違う、いくらなんでもそんなことはできない。ありがとう、助けになったのかもしれない。僕は少しでも彼女を守ることができたのかもしれない。
※ ※
それから僕と彼女は度々会うようになった。お互い役目が違うからなかなか時間は取れなかったけど、それでも彼女から誘いがあって、僕はなるたけそれに付き合えるよう努力した。時には無理もしたし、それでも苦ではなかった。
彼女に会いたい。何度会っても別れ際に強くそう思う。
「また会いましょう」
彼女の言葉が心の中で反響する。また会いたい。
でも会ってなにかをするでもなく、ただただ話をしていた。いろいろな話をしていた。彼女はたくさん話をした。僕はたくさんの話を聞いた。彼女が話して僕がうなずく。ただそれだけだった。楽しそうに話をしている、そんな彼女が見られるだけで幸せだった。満たされる心、なんとなくそういうフレーズがよぎったりする。
彼女の家族の話。この世界に住む動物や植物の話。人の子たちの話。ずっと子供のときの話から昨日にあった事まで、なんでも話した。
そして、彼女の想い人の話も。
なんでも楽しそうに話した。そんな彼女を見ていると僕も楽しかった。でもなぜだか、彼女が遠くを見ながら語る「あの人」の話は、僕の中に不思議な感覚を生んだ。あの日彼女が体を離したときに感じた寒さ、それに似ていた。
僕は考えた。なぜそんな気持ちになるんだろう。僕には分らなかった。憧れていた人が誰かに取られているから? そうじゃない。それは関係ない。僕らはみんな、ああいう風になりたいと思っていたんだから。誰かが彼女を愛そうともそれは関係ない。
愛する、愛しているのでもない。いや、自信はない。もしかすると彼女を愛してしまったのかもしれない。でも実らない。僕では駄目なのだ。彼女が見ている視線はずっと高みだ。ずっと遠くだ。そんな彼女が僕に振り向いてくれるはずがない。それなのに愛しているなんて思えないような気がする。
そうか、守れないんだ。守りたいと思っている。だけど彼女には他に守ってもらう存在がいるんだ。そして彼女はあの人に守ってもらいたいと思っているんだ。僕じゃない。僕は選ばれなかった。幼い日に僕を連れ出した手は、別の方向に差し出されている。僕はその手につかまることはできない。触れることはできないんだ。
でも会いたくないわけじゃなかった。だから僕は何度も会いにいった。そしていろんな話をする。ただそれだけでも充分だったから。
彼女は幸せそうだった。だんだんと「あの人」の話が増えていく。そして彼女の眼差しはだんだんと優しくなっていった。
なんて美しいんだろう。僕はいつも思う。彼女自身の美しさ、それもある。でも幸せそうに語る彼女の姿を見ていると、彼女と「あの人」との間に結ばれた気持ちがどれほど美しいものかがなんだかわかるようだ。彼女をこんなにも暖かく包み込んで、こんなにも幸せにする気持ち。そしてきっと彼女もそうなのだろう。
※ ※
ある日、彼女に誘われていつものように中庭へ赴いた。彼女はいつものとおり泉のほとりに佇んでいた。まっすぐに僕をみつめる。僕はふっと、まだ子供だった日のことを思い出した。遠くにいる少女の姿の彼女と、今の彼女の姿がたぶって見える。
僕はなんとなく緊張しながら近づいた。
「こんにちは、いいお天気だね」
「うん、本当に」
いつも通りの会話。でも彼女は僕から視線を外さなかった。どうしたのだろう?
「突然なんだけれど、話を聞いてほしい」
「いつも聞いているよ」
「それとは違う話。もしかするとあなたまでひどい目に会わせてしまうかもしれないような、そんなお話。あなたは聞いてくれる。そして私はあなたを信用している。トレファン、聞いてほしいんだ」
彼女の肩が微かに震えているように見えた。ああ、あの時と同じだ。雨の中で震えていたときと同じだ。そう思うと僕の両手が自然と上がった。しかしそれは彼女の手で止められた。
「待って、それはいらない。ただ、話を聞いてほしい……。ごめん、わがままなこと……」
「わがまま? 分らない。君が何を話したいのかが分らないから、わがままかどうか分らない。僕をひどい目に会わせてしまうかもしれない話って、一体なに?」
「座ろうか」
僕たちは並んで座った。中庭には誰もいない。いつもいる動物たちもいなかった。音はある。風がそっと吹き抜けるとき、草花や木々の葉が音を一緒に流していく。僕たちはしばらく黙っていた。彼女はじっと一所を見つめている。微かに顔が強張っている。なにか我慢しているのか、いや決意しようとしているのかも。
「いいよ、言って。聞くから」
彼女はコクッとうなずいた。そしてこんなことを言った。
「肉体的接触は、禁忌?」
「えっ?」
突然そんなことを聞かれるとは夢にも思わなかった。なんと答えるべきか迷った。
禁忌といわれているし、肉体的接触を行うとなんだか妙な気分になるのは確かだった。でもなんだかそういう気持ちも薄らいでいるのは事実で、薄らぐ契機を作ったのは彼女だ。彼女は自由だ。決して何かに縛られたりはしない。初めて出会った頃からそうだった。肉体的接触に関して、今僕は大して深い意味合いがあるとは思ってはいない。
ありのままを話した。彼女はコクコクと小さくうなずきながら黙って聞いていた。そして全部聞き終わると、不意に左手を前につきだした。
「左手出して」
言われるままに従った。彼女は僕の左手に固い握手をした。彼女の感触、暖かさが僕に伝わってくる。
「私はこれがなぜいけないのかが分らない。誰かにちゃんと理由付きで駄目だと言われれば、納得できるならやめる。でもそれまでは握手したりとかはやめない。でも親しい信頼できる人とだけよ、もちろん。でもね、初めて、初めて肉体的接触は犯すべからざる禁忌だったのかもと思った日があったの」
僕はただ黙って聞いていた。ここからが、話したい本題なのだなと思った。
「あなたが私を抱きしめて慰めてくれた日、とても感謝していた。でもちょっと辛かった。あなたの気持ちはすごく伝わってきたけれど、うん、ちょっと辛かった。あの日、そういう禁忌に触れてしまったから。私はね、あの人とね、ひとつになったの」
そう言った時の彼女、本当に辛そうに笑っていた。幸せなんだろう、無理に笑っているのじゃなさそうだから。でも辛いのだ。不思議な表情だけど、僕には分る。
「人の子らでいうところの性行為。あの人としたの。どうしてもひとつになりたいと言われた。そして私もひとつになりたいと思った。なぜひとつにならなきゃいけないか分らない。でもいくら考えても答えは出ない。体の奥からどうしようもない強さでこみ上げてくる。私の中にそんな感情があるというだけで私は恐れおののいていた。あなたがいうほど、私は自由じゃない。でもあの人は軽々とそこを越えて私を導いてくれたの。だから私は受け入れた。ひとつになった。すごく幸せだった。なにか足りない部分がぴったりとはまったような、欠けた円が完全な円になったような……。言葉にするのは難しいわ。とにかくものすごく満たされたの。でもそれと同じくらいの強さで、私はとんでもないことをしてしまったような恐怖を感じたの。もう何もかもが終わってしまうと思った。なぜかは分らない。そう思った」
彼女の話は僕にはあまりにも衝撃だった。なぜそんなことをした? 疑問符がわきあがる。僕には分らない、全然わからなかった。でも彼女がとんでもなく深い闇の中にいるような錯覚を覚えた。今こうして握手できるほど近くにいるのに、とてつもなく遠くにいるような気がした。
僕は何も言葉が出なかった。かける言葉が見つからない。でも、彼女には言葉はいらないようだった。ただ話すだけ、聞いてもらうだけで楽になっているようだった。だんだん震えがおさまっている。
「その日から、私はあの人がとてつもなく遠いところにいる人のような気がしてた。逢うのが少し怖かった。でもどうしても確かめたいことがあった。なんでこんな気持ちになったんだろうって。だから今日逢いに行ったの。そして今度は私からお願いした。もう一度ひとつになってほしいって。あの人すごく驚いていた。あの人は私をひどく傷つけたと思ってたって」
彼女は少し笑った。辛そうな笑顔ではなく、本当に可笑しそうに笑った。
「今日ひとつになって少し分った。なんでこんな恐れているのか。私の存在する意味がなくなってしまうからなんだって。ひとつになった。そうしたら私、あの人のことしか頭に入らなくなってしまってた。私の本当の役目は人の子たちを愛し慈しむこと。でもそれができなくなってしまいそうだった。だから怖かったんだって。うん」
そこまで話し終えて、彼女は少し俯き加減で地面を見つめ続けた。もう話すことは終わったようだった。やはり僕にはかける言葉がみつからなかった。だから彼女と同じように地面を見つめた。
「ごめん、重かったね。ごめん」
「なんで……なんで謝るの?」
「ん……なんとなく、とても悪いことしたような気がして」
「そんなことないよ」
「でも重いと思う、こんな話。でも誰かに話したかった。ちょっと、私ひとりで抱えていけそうになかったから。今は抱えていけそうじゃなかったから。誰かに話したかった。そしてあなたならば話せると思った。わがまま聞いてくれて、ありがとう」
「こんなくらいで……。うん」
彼女は突然スッと立ちあがった。僕の視線が上がる。もう空は夕焼けていた。彼女は西日を背負って立っていた。全身がきらきらと黄金色に輝いていた。ああ、僕にもできることがあったんだ。
※ ※
それからしばらくしてからの事だった。城内が騒然としていた。なぜなら禁忌を犯した者が主によって裁かれたからだ。噂は瞬く間に広がった。あることないこと、広まってしまった。僕はそれら全ての話から耳をふさいだ。ただ真実を知っている人からの話だけ、それだけを聞こうと思った。
僕は慌てて彼女のもとへ赴いた。彼女は、自分の部屋でひとり、泣いていた・・・。
「シスカ……シスカ……」
彼女の部屋の窓をそっと叩きながら呼んだ。しばらくしてゆっくりと、彼女が僕の方を向いた。そしておぼつかない足取りで窓まで来て、そっと開ける。僕は部屋の中に入った。
今までの彼女とはまるで違う。太陽が沈んでしまった。ひまわりはどこを向けばいい?
「シスカ……」
「何も言わないで!」
僕は黙ったまま立ち尽くした。言葉を止められた。でも僕には呼びかけるだけで精一杯だった。かける言葉は見つからない。ただ僕は彼女を見つめていた。
「なぜ、なぜあの人だけ裁きを受けないといけないの! 私だって同じ罪を犯したはずなのに、なぜ私だけ……私だけ罰を受けていないの!」
心の底からの叫び。声はそれほど大きくはない。でも空気が一瞬で張り詰めた。彼女の全身から、陽炎のように力が立ち上る。
「あの人はなぜ一人で主に会いにいったの! なぜひとりで背負い込んで、私にはなにもさせてくれなかったの! 私はここで何をすればいいの! 教えて、教えてよ!」
僕は彼女に少しも近づけなかった。ただ見つめるばかりだった。
かける言葉もない。答えはどこにもない。僕はこんなにも無力だ。
彼女は泣き崩れてしまった。ただただ声を上げて泣いていた。太陽は沈んでしまった。そして僕は、彼女を守ってあげるなんて出来なかった。本当に、ただの思いあがりだったんだろう。
「ごめん……」
僕はそっと部屋を抜け出した。なにもできないなら、彼女に僕は必要ない。
耳の奥で、彼女の鳴き声がこびりついていた。
時間が流れていく。僕はそれから彼女に会わなくなった。彼女の方からも呼ばれなくなった。風の噂では、彼女は度々地上に降りてゆくらしい。彼女は人の子らを見守る役目を担っているから大した不思議はないのだが、今の彼女の役目からすると、そんなに地上に降りなくてもいいはずなのである。
彼女には理由があって地上に降りている。あの人を探しているのだ。あの人は地上に堕とされた。禁忌を犯したものとしては異例の措置なのだが、人の子としてのサイクルをあの人は負ったのだ。それがあの人に課せられた罰。
きっと彼女ならあの人を探し出すだろう。例え姿形が変わろうとも、天使としての力をあの人が失っていようとも、彼女ならすぐに見つけることができるだろう。彼女とあの人との間に出来た絆、僕にはとてもとても美しいものに見えたから。どんな禁忌を犯しても、やはり二人の絆は美しいままなのだろうから。
きっと彼女は幸せだ。
長く平穏は続いた。毎日同じ日々。相変わらず僕は彼女に会うことはできない。正直会うのが怖くなっていた。また彼女になにもできなかったら。彼女が傷ついたときになにもできなかったら。そして僕が彼女の今の幸せを壊してしまうようなことをしてしまったら……。
今の彼女はきっと幸せなんだ。だからそっとしておいたほうがいい。僕はもう関われない。いや始めから関わってはいけなかったのかもしれない。僕のわがままのせいで、もしかしたら彼女をひどく傷つけてしまったのかもしれない。
だけど会いたい。あの頃のようにいろいろな話をしたい。いやそんなことしなくてもいい。ただ一目だけでも会いたいとも思う。僕は平穏ではなかった。でも周囲は何も変わらず、ただただ何事もない日常が続いていた。
僕は必死になって武技の修行を続けた。忘れよう忘れたい、ただそれだけを思って。いい思い出になれいい思い出になったんだ、そう心に言い聞かせながら。毎日必死になって修行し、夜ベッドに倒れこんで泥のように眠る。その繰り返しだった。
しかしそんな僕の努力は無駄になってしまった。日常が非日常になった時、僕の儚い願いは脆くも消え去った。
天界に悪魔来る! その報は瞬く間に天界中に知れ渡った。何百年に1度くらい、とてつもない力と野望を備えた悪魔が現れる。7つの扉を突破し、この天界へとやってくる。そして狙うは主。
僕の家系はそんな悪魔たちを阻止するために、いつ来るか分らない悪魔と戦うために修行を続ける。寿命の間に一度も戦いをしない者だっている。僕は戦える。与えられた役目を果たせるのだから、これほどの喜びはない。日増しに高まる高揚感。それと同じくらい満ちてくる不安。僕はどこまでできるのだろう。
神の住まう城近在の天使は全て召集された。僕たちは戦いに特化しているが、そういう者でない者もそれなりに戦いはできる。剣の技ではない、内にある聖なる力の問題なのだ。それならば僕よりよほど強くて高位の天使はたくさんいる。
だが天使たちにはそれぞれ重要な役目を与えられている。どれが欠けてもならない。特に高位になればなるほど、世界の運行に支障が出る。彼らを失うわけにもいかない。たった一人の悪魔でさえ、天界だけでなく地上をも巻き込んで震撼させるのはたやすい。しかしそうはさせない。
戦いの日、僕は最前線で戦った。しかし全く歯が立たなかった。それなりの覚悟はしている。自分の役目の為に戦い、そして死んでいくのだ。これは喜びなんだ。でも倒されるわけにはいかなかった。悪魔を主の元に行かせるわけにはいかない。なにより、彼女と戦わせるわけにはいかない。
どんなにボロボロになっても戦った。多くの同胞がヤツに倒された。それでも僕らは戦い続けた。悪魔を封じる手だては完成している。あとはそこに力を注ぎこむだけ……。
だが僕の中にそれほどの力は残されていない。立ちあがる力さえ残ってない。ここで終わりなのか・・・。
僕は必死になって立ちあがろうとした。その時声が聞こえてきた。
「待ちなさい! それ以上この天界で狼藉を働くことは許さぬ! 早々に魔界へと帰るか、さもなくばここで打ち倒されるか!」
シスカ……! なぜここに、なぜここにいるんだ!?
「シ……シスカ……。来るな……。こいつは尋常なやつじゃ……」
その瞬間右手に激痛が走った。
「今助ける!」
く、来るな……。君が来たら、傷ついたら……。
ああ、やっぱり僕は彼女のために何もしてやれないんだ……。いや、少しでも彼女の助けになるなら!
僕はありったけの力を込めて悪魔の体へと剣を突き立てた。悪魔が一瞬ひるんだ隙にシスカの剣が悪魔の右腕を貫いた。そしてシスカの力によって聖呪縛がほどこされ、悪魔は神の住まう城深くに封印された。
そして僕は彼女の肩に掴まり、城の中にある施療院へと運ばれた。
※ ※
施療院で数日を過ごした。深い傷もあったそうだが命には別状はなかったそうだ。軟膏のおかげで傷の治りも早い。
この数日間に1度だけ彼女が見舞いに来てくれた。だが僕は会わなかった。会う気になれなかった。本心は会いたかった。でも会ってはいけないような気がした。恥ずかしさもあった。僕は結局力不足だった。近づいたと思った人はやはり遠くの存在だった。僕は守る存在ではない。守られる存在でしかないんだ。弱いんだ。
でも仕方ないことだ。主がすべてお決めになったこと。それを無理して変えようとしたのは僕だ。そして失敗したのは僕だ。一人で踊っていただけだ。結局、叶わぬ想いなんだ・・・。
想い? 想い……。僕は一体彼女に対してどんな想いを抱いていたと? 分っていたはずだ、彼女には想い人がいると。はじめから分っていたはずだ、僕と彼女では様々な面で大きなへだたりがあると。それなのに僕は想いを抱いていたと? 馬鹿だ。そんなことに必死になっていたのか。馬鹿だ……。
出会わなければよかった。あの幼き日、差し出された手に掴まらなければ、こんなことにはなっていなかった。僕は今こうして施療院のベッドで眠ることはできなかったはずだ。ここじゃない場所で、多くの同胞とともに眠っていたほうがよかった。いや、そうすべきだったのか。
結局、僕の存在とはなんなのだろう? 僕はなにがしたかった?
答えなど、どこにもない。
と不意に、目の端に白いものがちらりと見えた。僕はゆっくりとそちらの方に顔を向けた。そこには窓がある。その向こう、窓の外にシスカがいた。彼女は半ば俯いて、じっと窓の外に立っていた。僕はしばらくその姿を見つめていた。もしこの部屋に入ってこようと思うなら、彼女は自分の手で窓を開いて入ってくるだろう。鍵もかかっていない。
しかし立ち尽くしたままでぴくりとも動かない。どうしたんだろう、そして僕はどうすればいいんだろう? その時ふっと、幼い日のあの出来事が頭によぎった。
僕は窓を開け、ゆっくりと左手を差し出した。彼女はその手をそっと取り、部屋の中へ入ってくる。そして僕がすすめるままにベッドに座った。
「もう、大丈夫なの?」
「お陰さまで。痛みはほとんどない。完治はさすがにまだだけど」
「あの日、もう少し私が早く見つけていられれば、あんなことにはならなかったのかも……」
「違う。君が来てくれたからこそ、悪魔を封じることができた。君が来なければ、僕もあそこで死んでいた」
嘘だ、そんなことが言いたいんじゃない。彼女に優しくする理由は? ないはずだ。
「偶然なの。私は地上に行ってて、あなたも気づいているかもしれないけれど、あの人を見ていたの。でも嫌な予感がして戻ったら……あんなことに……」
「でもよかった。君には怪我ひとつなくて」
嘘だ。
「怪我くらい! 怪我くらいしたっていい。私は迷った。このまま嫌な予感を無視してあの人を見つづけていたいと思った。天界がどうなってもいい、今この時間だけが欲しいと思ったわ。だから遅れたの。遅れて、たくさんの仲間が死んだ……」
「地上に降りているのは知っていたよ。なんとなく。君ならあの人を見つけられると分っていたから。それに迷うのは仕方ない、あんなに君はあの人を愛していたんだから……」
嘘だ!
「でもあの人は……。もう無理なの、あの人に会うためには、私も堕ちないとダメなの……。そして私は、そうしたいと思った……。何がなんでもそうしたいと。どんなことをしてもいい、他のものがどうなっても構わない。私はあの人と一緒にいたい……。でもそんなわがままが、どれほどの人を傷つけるのか……。それがわかってしまったら、私は一体どうすればいいの!」
「自由に……自由にするといい。君の翼は力強い。自由にできるはずだ。その想いが強くてどうしようもないなら、それに従ってみるのもいいんじゃないか?」
嘘だ!!
「僕もできるだけ手助けする。僕にできることなら、なんだって……嘘だ!!!」
僕は叫んで思いきり窓を叩いた。激しい音がしてガラスが砕け散る。そして僕の拳にうっすらと血が流れはじめた。
彼女は驚いて僕を凝視している。僕はその視線と真っ直ぐ向き合うことはできない。
僕はなんて最低なんだ・・・。
「う……そ……?」
「ごめん……」
「なにが嘘なの? お願い、言って。あなたは今まで私の話をたくさん聞いてくれた。私はそれに何も応えてあげてない。お願い、言って」
「ごめん……」
「私には……何もしてあげられないの? そんな私が、本当に自由にできると思うの? ……思わないから……嘘なのね……」
「ち、違う! それは本当、君はできる。自由にしていいんだと思う。それは本当だ。嘘は……僕だ……」
彼女がすっとベッドから立ちあがった。そして僕を優しく、壊れないようにそっと抱きしめた……。
こんなに暖かいなんて。こんなに幸せな気分になれるなんて。こんなに満ち足りた気分になれるなんて……。僕はきっと、幼いあの日からこれを求めていたんだ。彼女にこれを求めていたんだ……。
「愛して……いる」
「え……?」
「僕は君を……愛しているんだ……」
「……………………」
彼女の体が微かに震えている。僕は彼女の体から離れた。
彼女の顔を見る。
涙が、あふれていた……。
「ごめんなさい!」
彼女はそう言い残して去っていった。
僕は……僕はどこへ行けばいい?
※ ※
しばらくベッドに寝転んで天井を眺めた。頭の中は真っ白だった。何かを考える気も起きなかった。
突然城全体が激しい振動に襲われた。そして爆発音。窓の外をぼんやりと見る。いつもの景色以外なにも見えない。
城内が慌しくなった。僕には無関係だった。
声が聞こえた。
「悪魔が脱走した! 人質を取られている!」
あの悪魔か……。あんなに犠牲を出して捕らえたのに、もう脱走なんて。また多くの犠牲が出るのかもしれない。打ち倒せばいいものを。主はなぜ封印を選んだのだろうか……。
人質? 不意にその言葉を拾って、頭の中がはっきりと覚醒する。
人質は誰だ? まさか……。
僕はいてもたってもいられずに外に飛び出し、すぐ近くにいた同胞を捕まえた。
「悪魔が逃げたって!?」
「ああ! 今必死で阻止しているところだ!」
「人質は!?」
「人の子らを見守るものだ! 名前は……」
「いい、ありがとう!」
そう言いながら僕はもう飛び出していた。武器も防具もない。でもいざとなれば、命を落としてでもシスカを助け出す!
激しい爆音が響いた。あっちか!
全速力で飛ぶ。体が悲鳴を上げはじめた。傷は完治していない。
そんなもの知るか!
視界に捕らえた! 悪魔、そして……やはりシスカだ! でもなぜ、なぜ!?
もう少しで戦線に届くというところで、悪魔はひらりと身をかわして逃げていった。
「トレファン!」
呼び声。声のしたほうに振り向くと、同じ役目の者がいた。
「どうしたお前! 大怪我して休んでいたんじゃないのか!?」
「私は行く」
行こうとした僕の肩を掴まれる。
「ヤツの力はお前が一番知ってるはずだ。なにがあったかは知らんが冷静になれ。武器も持たずにどうする。今追撃準備をしている。とにかくお前もそれに合流しろ」
シスカ……。必ず助ける!
※ ※
すぐに追撃隊が編成された。斥候の報告でどこに悪魔がいるかは分っている。僕たちはすぐさま向かった。城からはそう遠くはない。
追撃隊はすぐさま攻撃に移った。
「やめろ! 人質がいるんだぞ!」
「聖なる力ならば傷つかん! 一気に片をつけるぞ!」
しかし天使たちの攻撃は一撃たりとも悪魔には通用しなかった。なんと無力なことだろう。
悪魔が高々と片手を上げた。そこに恐ろしく強大な力が集まり始める。禍禍しい漆黒の力。その力が一度解放されれば、ここにいる天使だけでなく、天界すら危機に陥ってしまうのではないか。
その時、シスカが悪魔の動きを止めた。腕にしがみついて必死になって止めようとする。
「いまだ、撃てぇっ!」
誰かの声。そして目が痛くなるほど強い光が一瞬で空を切った。
「シスカ!」
僕の声は激しい爆音でかき消された。爆炎の中に次々と光の矢が叩きこまれる。やがて攻撃の手が止まった。ゆっくりと煙が晴れて行く……。
「お、おおっ!」
どよめきの声が上がった。煙の中から悪魔が現れた。全身を自らの血で染め上げていた。悪魔はゆっくりと手を下ろし、そしてシスカのほうへ振り向いた。少し笑ったように見えた。
悪魔はぐらりと揺れて、ゆっくりと自然落下し始めた。
「とどめだ、とどめをさせ!」
天使たちは一斉に悪魔へ襲いかかった。しかしその行く手をシスカが阻む。シスカは一気に力を放出し、強烈な光を放った。天使たちは不意を打たれてみな目を眩ませた。僕は辛うじて光をさけることができた。
シスカはそのまま落下している悪魔を抱きとめ、森の中へと消えていった。
しばらくして天使たちの視力が回復した。とどめをさせなかった無念と、そしてシスカの裏切り行為への怒りで包まれていた。
僕は、シスカがどこへ消えたのか、黙っていた。
※ ※
一度城に戻った。別の部隊が悪魔を捜索している。シスカも捕らえられ、御前会議に出されるらしい。
彼女がなぜ悪魔と行動を共にしていたか。彼女は堕ちる気だ。悪魔の力を借りて、なにがなんでも地上に行くつもりだ。生身の肉体をえて、あの人と一緒になるんだ。
そこまで追い詰められている。そして僕が追い詰めてしまった。あんなこと言わなければよかった。彼女を愛することができるほどに、僕は強くはないのに。あまりにも無力なのに。
でも、僕には本当に何もできないのかな。この命を燃やし尽くす結果になろうとも、本当に僕には何もできないのだろうか。彼女にはたくさんの幸せをもらった。だけど僕は彼女に何一つ恩返し出来ていないように思う。だから何かひとつ、何かをしたい。
やはり彼女が幸せなのが僕にとっても幸せなのだ。そして彼女の幸せ、それはあの人と一緒にいることだ。ならば僕は、彼女が地上へ行く手伝いがしたい。悪魔の力なんか借りなくても、僕が必ず地上に連れていく。それが僕の幸せだ。
その時召集がかかった。裏切り者シスカを連れてきたという。これから御前会議まで地下牢に幽閉し、主自らが審判をくだす。
あの人が地上に堕とされたのは異例の措置である。だからシスカは、おそらく魔界へと堕とされてしまうのだろう。そうなれば彼女は一生あの人とは逢うことが叶わない。
そうなる前に……。
天使たちが城の大回廊に整列する。その間を天使が二人、シスカを率いて歩いていく。僕の目の前を通っていく……。
「シスカッ!」
僕は声を上げると同時に飛び出した。握り締めた剣で、シスカを縛り上げる力を断ち切る。そして僕は彼女の腕を掴んだ。
「行こう、君のいるべき場所はここじゃない! あの人のところへ!」
彼女が驚いた表情を見せる。しかしその表情を見ている暇はなかった。
状況を飲みこんだ天使たちが一斉に襲いかかってきた。僕は無我夢中で聖なる力を発散させた。
爆発音。そして振動。がらがらと石片が落ちてくる。僕の力が城の天井を突き破った。
「行こう!」
「ごめ……」
「謝るのは、天国の門に着いてからだ!」
シスカの表情が引き締まった。僕と彼女は翼を目一杯に広げた。
そして青空へ向けて、来るべき希望に向けて一気に駆け上がった。
つづく
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