番外編
八つの夏、ヴィンター公爵領は死にかけていた。
三年続いた日照りで畑はひび割れ、領民は南へ逃げ、幼いレオンハルトの母は熱病に伏せていた。父である公爵は、毎晩のように書斎で帳簿を睨み、朝になると目の下の隈が一段濃くなっていた。
そんな夏の終わりに、ひとりの若い女が屋敷を訪ねてきた。淡い金の髪に、雪のように白い外套。アーデル家の娘、セラフィーナだと名乗った。
彼女は挨拶もそこそこに庭へ出ると、ひび割れた土に膝をつき、両の手のひらを当てた。
それだけだった。呪文も、祈りの言葉もなかった。ただ、彼女が触れたところから、土の色が変わっていった。灰色から、焦げ茶へ。焦げ茶から、しっとりとした黒へ。その夜、三年ぶりに雨が降った。
翌朝、庭の隅に、見たことのない白い花がひとつ咲いていた。
「この花はね、わたしたちの一族にしか咲かせられないの」
セラフィーナは、花を見つめる少年の頭を撫でて笑った。母の熱は、その日のうちに下がった。
「いつか、わたしに娘ができたら。きっとこの花を咲かせるわ。そのときは、仲良くしてあげてね」
翌年、彼女は隣国の伯爵のもとへ嫁いでいった。手紙は最初の二年だけ届き、やがて途絶えた。
――それから十七年。
鑑定の儀の日、来賓席に座っていたレオンハルトは、水晶が白く輝いた瞬間よりも、その直後のほうをよく覚えている。神殿の床の石の継ぎ目から芽吹いた若葉。その中に、ひとつだけ、白いつぼみが混じっていた。
八つの夏に見た、あの花だった。
祭壇の上の少女は、色褪せたドレスの袖から骨の浮いた手首をのぞかせ、自分の手のひらを呆然と見つめていた。周りの誰も、あの花に気づいてはいなかった。
レオンハルトは膝の上で拳を握った。爪が手のひらに食い込むのも構わずに。
――仲良くしてあげてね。
あの人の娘を、この国はこんな目に遭わせていたのか。
◇
リーネを乗せた馬車が国境を越えた夜、レオンハルトは隣国の王都の宿で、ひとりの男を呼んだ。
ギルベルト。ヴィンター家に三代仕える従者の家の生まれで、表向きは公爵の護衛。裏向きのことは、公爵家の者しか知らない。
「リーネ嬢は、あの家の者たちに『消えてください』と言った」
「伺っております」
「彼女は優しい人だ。あれは言葉どおりの意味で、それ以上を望んではいない。二度と顔を見たくない、名を聞きたくない、それだけだ」
レオンハルトは、窓の外の暗い王都を見下ろした。
「だから、それだけを叶える。あの人の目にも、耳にも、二度と触れないように。――手は汚すな。だが、手加減もいらない」
ギルベルトは何も問わず、深く頭を下げた。
◇
最初に消えたのは、マルグリットだった。
横領の罪で北の修道院へ送られた女のことを、レオンハルトは一度だけ、修道院長への手紙で問い合わせた。ヴィンター家は、その修道院に毎年多額の寄進をしている。院長は、寄進主の問いに丁寧に答えた。
『新入りの務めは、冬の夜明け前の水汲みと、礼拝堂の床磨きでございます。身分にかかわらず、例外はございません』
それで十分だった。
雪解けの頃、二通目の手紙が届いた。
『修道女マルグリットは、冬のあいだ、夜明け前の井戸汲みを最後まで務めました。春を待たず、主の御許へ召されましたことをご報告いたします。ご親族からのお申し出がございませんでしたので、墓標には名を刻んでおりません』
レオンハルトは手紙を二度読み、暖炉の火にくべた。名のない墓が、北の果てにひとつ増えた。それだけのことだった。
次は、アルフレッドだった。
廃嫡された男がエルディアに紛れ込み、リーネの屋敷の門前に居座っている。トマスがお玉を振り回して追い返したと聞いたその日の夕刻、レオンハルトは丘の麓で男を待っていた。
「ローゼン殿。お帰りの道をご案内しましょう」
公爵自らの言葉に、アルフレッドは顔を輝かせた。リーネ嬢に取り次いでもらえるのではないか。そんな期待が、ありありと浮かんでいた。
「ギルベルト。国境まで丁重にお送りしろ。……北の峠を通ってな。あそこは景色がいい」
「かしこまりました」
北の峠は、秋の終わりになると地元の猟師すら近づかない。足元の岩が、雨のたびに谷へ崩れ落ちるからだ。
三日後、ギルベルトが戻ってきた。外套の裾に、峠の赤土がこびりついていた。
「ローゼン殿は、峠の上で、ご自分で国境へ向かうとおっしゃいました。お止めしたのですが」
「そうか」
「翌朝、国境の関所に、鞍を付けたままの馬が一頭だけ戻ってきたそうです」
レオンハルトは、読みかけの書類から顔を上げなかった。
「あの峠は、この時期よく崩れる。気の毒なことだ」
それきり、アルフレッド・ローゼンの名を口にする者はいなかった。ローゼン家も、廃嫡した息子の行方を問い合わせてはこなかった。
◇
セシリアについては、レオンハルトは何もしなかった。何もしないことを、選んだ。
療養院を逃げ出した娘は、エルディアとの国境を目指していた。アーデル家の後継者の妹を名乗れば、温かい屋敷に迎えてもらえる。本気でそう信じていたらしい。
関所には、王の名で定められた入国禁止の名簿が届いていた。衛兵は規則どおりに彼女を追い返した。それだけだ。誰も彼女に手を触れてはいない。
その夜、国境の山には、その冬いちばんの吹雪が来た。
春になって、雪の解けた街道沿いの岩陰で、行商人がひとつのブローチを拾った。銀の台座に、白い花をかたどった真珠細工。関所の衛兵がそれを見て、ヴィンター公爵家へ届けた。
ギルベルトから受け取ったブローチを、レオンハルトは長いあいだ手のひらに載せていた。
見覚えがあった。八つの夏、セラフィーナの白い外套の胸元で光っていたものだ。母の形見を奪われたことを、リーネは一度も口にしなかった。きっと、取り返せるとさえ思っていなかったのだろう。
ブローチの裏には、細い金の髪が一本、絡みついていた。リーネの色ではない、くすんだ金だった。
レオンハルトはそれを丁寧に取り除き、銀細工師に磨き直させた。
最後は、父親だった。
屋敷に届く郵便は、ギルベルトの手の者が検めていた。前伯爵からの手紙は、六通。どれも、リーネの目に触れる前に灰になった。七通目だけは、迷った末に届けさせた。あの人はもう、自分の人生を自分で選べる人だから。
リーネはそれを読み、燃やした。
八通目は、来なかった。
しばらくして、ギルベルトが短い報告を持ってきた。隣国の王都の外れ、木賃宿の物置で、凍えて動かなくなった男が見つかった。身元を示すものは何もなかった。ただ、握りしめた拳の中に、ヴァルモン家の紋章を彫った古い指輪がひとつあったという。
「物置、か」
レオンハルトは、それだけ呟いた。
◇
収穫祭の前夜、レオンハルトは丘の上の屋敷を訪ねた。
庭には、白い花が咲きこぼれていた。八つの夏に見た、あの花だ。その真ん中で、リーネが振り返って笑った。ふっくらとした頬。あかぎれひとつない指。
「レオンハルト様、また暇を作っていらしたんですか」
「ああ。渡したいものがあって」
小さな箱を開けると、リーネは息をのんだ。磨き直された銀のブローチが、月明かりに白く光っていた。
「これ……お母様の。どうして」
「ある場所で、見つけた。もう、あなたのものだ」
リーネは何か問いたげに彼を見上げた。けれど、レオンハルトの目を見て、それ以上は聞かなかった。代わりに、両手でブローチを胸に抱きしめた。
「ありがとうございます。……あの人たちのことは、もう何も聞こえてこなくなりました。不思議なくらい、静かです」
「そうか」
「わたし、消えてくださいって言っただけなのに。本当に、消えてしまったみたい」
レオンハルトは、彼女の胸元にブローチを留めてやった。指先が、わずかに震えたかもしれない。
「それでいい。あなたは、言葉にするだけでいい」
――残りは、私の仕事だ。
その言葉は、口には出さなかった。
銀の鷲は、狩った獲物を巣に持ち帰らない。巣で待つ者には、ただ、空が晴れたことだけを知らせればいい。
夜風が庭を渡り、白い花がいっせいに揺れた。いつか八つの少年に、仲良くしてあげてね、と笑った人の花が。
「来年も、一緒に収穫祭へ行ってくださいますか」
リーネの問いに、レオンハルトは、八つの夏から一度もしたことのない顔で笑った。
「来年も、その先も。あなたが望むなら」




