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虐げられ少女、鑑定の儀でsssランクのスキルもちだと判明し、ざまぁする。隣国で幸せに暮らすので、あなたたちは消えてください。  作者: ティアナ


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本編

冬の朝は、井戸の水が指を刺す。


リーネ・ヴァルモンは、かじかんだ手で桶を引き上げた。ひびの入った指先から血がにじむ。それでも手を止めれば、継母の怒鳴り声が飛んでくることを知っていた。


「リーネ! セシリアのお湯はまだなの!」


屋敷の二階から、甲高い声が降ってくる。リーネは小さく「はい」と答え、重い桶を抱えて厨房へ走った。


ヴァルモン伯爵家の長女。それがリーネの本来の肩書きだ。だがこの屋敷の中で、その肩書きが意味を持つのは、人前に出る日だけだった。


母が亡くなったのは、リーネが七つのときだった。半年も経たないうちに、父は新しい妻を迎えた。継母のマルグリットと、その連れ子でリーネと同い年のセシリア。二人が屋敷に来た日から、リーネの部屋は物置になり、リーネのドレスはセシリアのものになり、リーネの居場所は、厨房の隅と屋根裏の物置部屋だけになった。


「お前は母親に似て陰気だ。顔を見せるな」


父はそう言って、二度とリーネの目を見なかった。


使用人たちも、主人の顔色をうかがってリーネを下働きとして扱った。古参の料理長のトマスだけが、こっそりパンの端を残してくれる。それが、この八年間でリーネが受け取った唯一のやさしさだった。


人前に出る日――夜会や茶会、神殿の行事。伯爵家の体面がかかる場に限って、リーネは侍女に髪を結われ、頬に紅をさされる。着るのは、十三の年に一度だけ仕立てられた三着のドレス。丈が合わなくなっても新調されることはなく、それを順に着回している。


「あの子は身なりに無頓着で、わがままで。せっかく作ってあげたドレスも、すぐ飽きて着なくなってしまうの」


継母がそう吹聴して回ったおかげで、社交界には『ヴァルモン家の長女はわがままで気難しい』という噂がすっかり根づいていた。同じ年ごろの令嬢たちは、リーネが近づくと扇の陰で目配せをし、さりげなく輪から離れていく。


もっとも、目の利く者が見れば、察しはついたかもしれない。いつ見ても同じ三着のドレス。袖口からのぞく、骨の浮いた手首。わがままに育った令嬢にしては、あまりにも痩せすぎている、と。けれど、他家の内情に口を挟む者はいなかった。


湯を運び終えると、セシリアが鏡の前で髪を巻かせながら、鏡越しにリーネを見て笑った。


「ねえ、聞いた? 来週はいよいよ鑑定の儀よ。わたし、きっと聖女の素質があるって言われるわ。だって神殿の司祭さまが、わたしの魔力はとても澄んでいるって褒めてくださったもの」


「……おめでとうございます、セシリア様」


「あら、あなたも受けるのよね? 十五歳になった貴族の子は全員だもの。かわいそう。どうせ『スキルなし』って言われて、みんなの前で恥をかくのよ」


くすくすと笑うセシリアの後ろで、侍女たちも口元を隠した。


そして、その日の午後。リーネの婚約者であるはずのアルフレッド・ローゼン伯爵令息が屋敷を訪れ、応接間でセシリアの手を取っているのを、リーネは半開きの扉の陰から見てしまった。


婚約は、母が生きていたころに結ばれたものだった。アルフレッドはリーネに気づくと、汚れたエプロンを一瞥して、露骨に顔をしかめた。


「鑑定の儀が終わったら、正式に婚約を見直すつもりだ。ヴァルモン家の娘なら、セシリアでも構わないだろう?」


父は満足げにうなずいた。


リーネは何も言わず、その場を離れた。悲しい、とは思わなかった。そんな感情は、とうに擦り切れていた。この屋敷では、これもまた見慣れた光景のひとつにすぎない。


物置部屋に戻ると、窓辺に置いた小さな鉢植えが目に入る。母の形見の、名前も知らない白い花だ。水も日も足りないはずなのに、なぜかこの花だけは、冬でも枯れずに咲き続けていた。


「お母様。わたし、もう少しだけがんばります」


花びらに触れると、指先のひび割れがすうっとふさがった気がした。リーネは、それを気のせいだと思った。


一週間後。王都の大神殿は、色とりどりの礼服をまとった貴族の子どもたちであふれていた。


リーネが着ているのは、三着のうちのひとつ、色の褪せた灰青のドレスだった。今朝だけは侍女が髪を結い上げ、頬に紅をさした。伯爵家の体面のために。周囲から、ひそひそ声が聞こえる。「あれがヴァルモン家のわがまま娘?」「またあのドレスよ。新しいのを作らせても、すぐ飽きて捨ててしまうんですって」。同年代の令嬢たちは、目が合う前に顔をそむけた。


祭壇の中央には、人の背丈ほどもある水晶の鑑定球が据えられている。触れた者のスキルを読み取り、その名とランクを光の文字で宙に映し出す神具だ。ランクはFから始まり、A、S、SS。鑑定球が作られてからの二百年、この国でSSを超えた者は一人もいない。


「セシリア・ヴァルモン嬢、前へ」


名を呼ばれ、セシリアが胸を張って進み出た。白い手が水晶に触れると、柔らかな金の光が広がる。


《スキル:治癒魔法 ランク:A》


会場がどよめいた。Aランクは、十年に数人という逸材だ。継母マルグリットが扇の陰で勝ち誇ったように笑い、父は周囲の貴族から祝いの言葉を受けて上機嫌だった。アルフレッドは誇らしげにセシリアの肩を抱いた。


「リーネ・ヴァルモン嬢、前へ」


笑いが起きた。期待ではなく、見世物を待つ笑いだった。


リーネはうつむいたまま祭壇に上がり、冷たい水晶にそっと手のひらを当てた。


――何も起きなかった。


一秒、二秒。セシリアが口元を押さえて吹き出しかけた、そのときだった。


水晶の奥で、小さな白い光がともった。それは瞬く間に膨れ上がり、大神殿のステンドグラスを内側から真昼のように照らし出した。金でも青でもない、雪のように澄んだ白。神殿の床の石の継ぎ目から、季節外れの若葉がいっせいに芽吹く。


光の文字が、天井いっぱいに浮かび上がった。


《スキル:大地の聖域 ランク:SSS》

《効果:所在する土地に豊穣・浄化・守護の加護を与える。加護の強さは所持者の心身の状態に左右される》


誰も、声を出せなかった。


最初に膝をついたのは、鑑定を取り仕切っていた老大司教だった。震える声が、静まり返った神殿に響く。


「……聖域の御子。鑑定球が生まれるよりも昔、建国の地を開いたと伝わる初代聖女さまの御力だ」


大司教は顔を上げ、リーネの痩せた手首と、あかぎれだらけの指を見た。それから静かに立ち上がり、乱れた法衣の裾を整えた。


「大地の女神の御名において、リーネ・ヴァルモンのスキルをここに記す。汝の歩む地に、恵みのあらんことを」


定められた祝詞が唱えられ、リーネは定められた通りに一礼して祭壇を降りた。すれ違いざま、大司教が誰にも聞こえぬほどの声で告げた。「儀が終わりましたら、奥の間へ。ご家族もご一緒に」


儀は、何事もなかったかのように続けられた。次の子の名が呼ばれ、水晶がまた穏やかに光る。私語をする者は一人もいなかった。ただ、無数の視線だけが、何度もリーネの背に集まった。


席に戻ると、父は青ざめた顔で前だけを見つめていた。継母の扇は止まり、セシリアは唇を噛んでいた。


リーネは、自分の手のひらを見つめた。物置部屋の白い花。ふさがった指のひび割れ。母が亡くなってからも、なぜか毎年豊作だった領地の畑。


全部、自分だったのだ。


儀がすべて終わったのは、日が傾きはじめたころだった。


神殿の奥の間に集められたのは、大司教と記録係の書記官、ヴァルモン伯爵一家、そしてセシリアに付き添ってきたアルフレッド。部屋の隅にはもうひとり、大司教が「立ち会いを願い出られた方です」とだけ紹介した、異国の礼装の青年が控えていた。


扉が閉まり、大司教が口を開くより早く、空気が動いた。


最初に動いたのは、継母だった。


「まあ、リーネ! なんて素晴らしいの!」


マルグリットは長椅子から跳ねるように立ち上がって駆け寄り、リーネを抱きしめようと両腕を広げた。香水の甘ったるい匂い。八年間、一度も触れられたことのない腕。


リーネは一歩、後ろに下がった。


空を切った腕を引っ込めることもできず、マルグリットは引きつった笑顔のまま固まった。


「ど、どうしたの。お母様よ?」


「わたしの母は、八年前に亡くなりました」


静かな声だった。それなのに、奥の間の隅々まではっきりと届いた。


今度は父が進み出た。威厳を取り繕おうとして、声が上ずっている。


「リーネ。これまでのことは……その、行き違いがあった。今日からはお前の部屋を用意させる。ドレスも、宝石も、好きなだけ――」


「お父様」


リーネは、生まれて初めて父の目をまっすぐに見た。父のほうが、先に目をそらした。


「この八年、お父様はわたしの顔を見ませんでした。だから、わたしがどんなふうに暮らしていたか、ご存じないのだと思います。井戸の水がどれほど冷たいかも、屋根裏の冬がどれほど長いかも」


父は何か言いかけて、口を閉ざした。


「リーネ!」


割り込んできたのはアルフレッドだった。さっきまで肩を抱いていたセシリアを置き去りにして、彼はリーネの前に片膝をついた。


「誤解しないでくれ。婚約を見直すと言ったのは、君を家の重圧から解放したかったからだ。僕の婚約者は、最初から君だけだよ」


背後で、セシリアが「アルフレッド様!?」と悲鳴のような声を上げた。


リーネは、膝をつく元婚約者を見下ろした。不思議と、怒りは湧いてこなかった。ただ、ひどく遠いものを見ている気がした。


「アルフレッド様。先週、応接間で『ヴァルモン家の娘ならセシリアでも構わない』とおっしゃったのを、わたしは廊下で聞いていました」


アルフレッドの顔が、みるみる赤くなり、それから青くなった。


「あなたが欲しいのは、わたしではなく、ヴァルモン家の娘という肩書きと、今日わかったこの力でしょう。婚約は、謹んでお返しいたします」


「待って、待ちなさいよ!」


セシリアがリーネに詰め寄った。整えた巻き髪が乱れている。


「おかしいわ、こんなの! あなたなんか、物置で寝てる下働きじゃない! そのスキルだって何かの間違いよ。わたしのほうが、ずっと――」


「セシリア嬢」


老大司教が、低く制した。


「鑑定球は嘘をつかぬ。ヴァルモン伯、この八年、貴領の麦が王国一の実りであり続けたのは、あなたの手腕ではない。加護の強さは所持者の心身に左右される。これほどやつれ果ててなお、王国一だったのです。――その御子を『下働き』と呼んだのは、あなた方ご一家ご自身だ。今の言葉は、すべて記録させていただいた。その意味は、いずれ陛下の御前で問われることになりましょう」


セシリアは口をぱくぱくさせ、それきり何も言えなくなった。継母は扇を取り落とし、父はその場に崩れるように座り込んだ。


書記官のペンが、乾いた音を立てて紙の上を走っていた。わがままな令嬢という噂。いつも同じ三着のドレス。痩せた手首。社交界でばらばらに囁かれていた欠片が、セシリア自身の叫びによって、ひとつの記録につながってしまったのだ。


リーネは部屋の中央で、ひとり静かに立っていた。胸の奥で、八年間押し込めてきた何かが、ようやくほどけていく。


泣きたいとは、思わなかった。


「失礼。少し、よろしいだろうか」


張り詰めた空気を、穏やかな声が割った。部屋の隅に控えていた、あの異国の青年だった。


黒髪に深い青の瞳。胸元には、隣国エルディア王国の紋章である銀の鷲が光っている。


「エルディア王国、ヴィンター公爵家のレオンハルトと申します。親善の使節として儀に招かれておりましたが、猊下に無理を申し上げ、この場に同席させていただきました」


彼はリーネの前で足を止めると、ためらいなく片膝をついた。アルフレッドのそれとは違い、芝居がかったところのない、ごく自然な礼だった。


「リーネ嬢。あなたのお母上は、エルディアのご出身ではありませんか。旧姓をセラフィーナ・アーデルと」


リーネは息をのんだ。母の旧姓を、この八年、口にした者は誰もいなかった。


「どうして、それを……」


「アーデル家は、エルディアで代々『聖域』の力を継いできた一族です。お母上は十七年前、この国の伯爵に嫁がれて以来、便りが途絶えていました。亡くなられたことを我が国が知ったのは、ほんの半年前のことです」


レオンハルトは、懐から一通の封書を取り出した。封蝋には王家の紋章。


「陛下からの書状です。残されたお子の様子をこの目で確かめ、必要ならお渡しするようにと。――エルディアは、あなたを国の客人として、いえ、アーデル家の正統な後継者としてお迎えしたい。あなたがそれを望むなら、ですが」


「お待ちを!」


父が、這うようにして叫んだ。


「そ、その娘はヴァルモン家の者だ! 我が国の、我が領地の加護の要だ! 他国に渡すなど――」


「ヴァルモン伯」


レオンハルトは立ち上がり、初めて冷ややかな声を出した。


「この国の法では、未成年の子を著しく虐待した親は、その親権を失うと定められているはず。彼女のその痩せた手と、今日ご一家がこの場で口にした言葉が、何よりの証拠でしょう。あなたにまだ、彼女の行き先を決める資格がおありですか」


父は答えられなかった。


老大司教も、静かに言い添えた。


「聖域の加護は、御子の心に従うもの。意に反して縛りつけた土地に、恵みは降りませぬ。陛下も、それはよくご存じのはずです」


レオンハルトは再びリーネに向き直った。その目は、鑑定の光が灯る前から、ずっとこちらを見ていたのだと、リーネはふと気づいた。着古したドレスの痩せた少女を、彼だけは最初から笑っていなかった。


「急がなくていい。あなたが決めてください」


リーネは、目を閉じた。


物置部屋の、冷たい床。井戸の水。父の背中。継母の怒声。セシリアの笑い声。アルフレッドの冷たい一瞥。――そして、パンの端を残してくれたトマスの、しわだらけの手。


目を開けると、迷いは消えていた。


「行きます。エルディアへ」


そして、部屋に並ぶ家族と元婚約者を、リーネは一人ずつ見つめた。


「わたしは隣国で、幸せに暮らします。ですから、あなたたちは――わたしの人生から、消えてください」


三日後。リーネは小さな鞄ひとつと、白い花の鉢植えを抱えて、エルディアの馬車に乗った。見送りに来たのは、トマスひとりだった。


「お嬢様。どうか、たくさん食べて、たくさん笑ってくだせえ」


「トマスも、一緒に来てくれませんか。エルディアのお屋敷に、厨房があるそうなんです」


老料理長は目を丸くし、それから顔をくしゃくしゃにして泣いた。


馬車が国境の橋を越えたとき、リーネの腕の中で、白い花がひとつ、新しいつぼみをつけた。


エルディアに来て、一年が過ぎた。


アーデル家の古い屋敷は、王都の外れの丘の上にある。リーネが初めて足を踏み入れたとき、庭は長く手入れされずに荒れ果てていた。今では、季節を問わず白い花が咲きこぼれ、近くの村人たちが「聖女さまの丘」と呼んで、ときどき花を摘みにやってくる。


朝は、自分の部屋の、自分のベッドで目を覚ます。窓を開けると、厨房からトマスの焼くパンの匂いが上がってくる。パンの端ではない、焼きたての、まるごとのパンだ。


「リーネ様、今朝はクルミ入りですぜ」


「ありがとう、トマス。今日も最高の匂い」


こけていた頬はふっくらとし、あかぎれだらけだった指は、いつのまにかすっかりきれいになった。加護の強さは、所持者の心身の状態に左右される。リーネが笑うたび、エルディアの麦畑は黄金色に揺れ、病の流行りかけた村では、井戸の水が澄んでいった。


王はリーネを実の孫のように可愛がり、王都の学院で好きなだけ学ぶことを許してくれた。薬草学に、歴史に、刺繍。物置部屋では夢にも見られなかったことばかりだった。


そして、学院の帰り道には、いつも決まって迎えの馬が一頭、門の前で待っている。


「レオンハルト様。公爵様がそんなにお暇なはずはないと思うのですけれど」


「暇ではない。だから、暇を作っている」


真顔でそう言う彼に、リーネは思わず吹き出した。レオンハルトは少し照れたように目をそらし、それから、ためらいがちに手を差し出した。


「来月の収穫祭、一緒に回ってもらえないだろうか。……あなたが望むなら、ですが」


一年前と同じ言葉。リーネはその手を、そっと取った。


その一年のあいだ、祖国ではヴァルモン家の名が人々の口にのぼらない日はなかった。


リーネが国境を越えてひと月後、王城の大広間で、ヴァルモン伯爵家に対する審問が開かれた。


高い天井の下、左右の傍聴席は貴族で埋め尽くされていた。鑑定の儀でリーネを笑った者たちの顔も、そこかしこに見えた。誰もが、自分だけは笑っていなかったという顔をしていた。傍聴席の端には、エルディアの使節、レオンハルトの姿もあった。


玉座の前に引き出された伯爵夫妻は、わずかひと月で十も老けこんで見えた。その後ろにセシリア。さらに一歩下がって、ローゼン伯爵と息子のアルフレッドが控えていた。


「始めよ」


王の短い一声で、書記官が羊皮紙を広げた。


読み上げられたのは、あの日の奥の間の記録だった。「お母様よ?」と継母が言った。「行き違いがあった」と父が言った。そして、セシリアの叫び。「あなたなんか、物置で寝てる下働きじゃない!」


一言一句、余さず。傍聴席から、押し殺したざわめきが広がった。


「ち、違います、陛下!」マルグリットが叫んだ。「あれは娘が取り乱して、つい口を……リーネは自分から、物置を好んで……」


「では、こちらも説明してもらおう」


王が手を上げると、財務官が分厚い帳簿を運び込んだ。


亡き前伯爵夫人セラフィーナの持参金と遺産は、両国の王家が立ち会った婚姻契約によって、娘リーネが成人するまで手をつけてはならない定めだった。それが八年の間に、ほとんど残らず消えていた。財務官が淡々と読み上げていく。マルグリット様、真珠の首飾り。セシリア様、夜会用ドレス三着。マルグリット様、別邸の改装費。


そして、毎年同じ時期に、同じ名目で。


「『長女リーネ様 ドレス新調』。八年で、計二十四着分」


財務官は顔を上げた。


「リーネ様が鑑定の儀でお召しだったのは、十三の年に仕立てられた三着のうちの一着と確認しております。残る二十一着は、どこにも見当たりません」


傍聴席が、今度ははっきりとどよめいた。あの色褪せたドレスを見て扇の陰で笑った令嬢たちが、青ざめてうつむいた。


「わ、わたくしは夫に言われて!」


「何を言う、帳簿はすべてお前に任せていたではないか!」


「あなたが、あの子の顔を見るのも嫌だとおっしゃったから!」


「黙れ!」


王の御前で、夫婦は互いを罵り合った。八年間、娘ひとりを物置に押し込めて平然としていた二人が、今は互いの襟首をつかまんばかりだった。居並ぶ貴族たちは誰ひとり、それを止めようとはしなかった。


「お父様、お母様、やめて……」


セシリアのか細い声は、誰の耳にも届かなかった。


王の裁きは短かった。ヴァルモン家は伯爵位を剥奪、領地は王家に没収。前伯爵は平民に落とし、王都から追放。マルグリットは横領の罪により、北の果ての修道院へ生涯送るものとする。


マルグリットは悲鳴を上げて床に崩れ、父は虚ろな目で玉座を見上げたまま動かなかった。


「次に、セシリア・ヴァルモン」


名を呼ばれて、セシリアはびくりと肩を震わせた。それでも、顔を上げた。Aランクの治癒魔法。自分には、まだそれがある。


「陛下。わたくしは、母に言われていただけです。それに、わたくしには治癒の力がございます。この力で、きっと国のお役に――」


「その件については、神殿より申し上げる」


進み出たのは、老大司教だった。


「セシリア嬢。鑑定の儀の後、神殿はあなたを治癒師として迎えるつもりでおりました。ですが、取りやめました」


「な、なぜですか!」


「治癒の力は、他者の痛みに寄り添う心があってはじめて正しく働く。八年間、同じ屋根の下で、あかぎれだらけの手で井戸の水を汲む姉を見ながら、一度も手を差し伸べなかった方に、病人を任せることはできませぬ」


セシリアの顔から、血の気が引いた。


「Aランクの力が、あなたから消えることはない。ですが、それを誇れる場所は、もうどこにもない。――償いとして、辺境の療養院で一から務めなさい。包帯を洗い、寝具を替え、病人の熱を夜通し見守る。あなたの姉が、八年間そうしてきたように」


セシリアは振り返った。助けを求めて、アルフレッドを。


アルフレッドは、目をそらした。


「最後に、ローゼン伯」


王の視線が、ローゼン伯爵へ向いた。伯爵の額には、すでに汗が浮かんでいた。


「そなたの息子は、婚約者が虐げられていると知りながら、その妹に乗り換えようとした。そして聖域の御子と判明するや、手のひらを返した。これも記録にある。エルディアの使節殿も、その場でお聞きになっている。……どう処するかは、そなたに任せよう」


王の言葉は穏やかだった。だからこそ、その意味は明らかだった。エルディアとの火種を、ローゼン家が抱え込むつもりか、と問われているのだ。


ローゼン伯爵は、一瞬もためらわなかった。


「本日をもって、アルフレッドを廃嫡いたします。ローゼンの名を名乗ることも許しませぬ」


「父上!?」


アルフレッドが振り返った。その顔は、あの日リーネの前に片膝をついたときと同じだった。必死に、都合のいい言葉を探している顔。


「父上、僕は騙されていたんです! セシリアが、あの家が――」


「アルフレッド様!? あなた、わたしを選ぶって……!」


セシリアの悲鳴と、アルフレッドの言い訳が重なった。互いを指さし、責任をなすりつけ合う二人を、傍聴席の貴族たちはもう見てもいなかった。


傍聴席の端で、レオンハルトだけが、黙ってそのすべてを見届けていた。


セシリアは療養院で三日と持たず、夜のうちに逃げ出した。けれど、もう帰る屋敷はなかった。頼った親戚の家も、かつての友人の家も、門を開けなかった。


社交界の噂は、すっかりひっくり返っていた。わがままで気難しいのは、ヴァルモン家の長女ではなかった。姉を物置に押し込め、ドレスも婚約者も奪った妹のほうだったのだ、と。かつてリーネを避けた令嬢たちは、今度はセシリアの名が出るたびに、扇の陰で目配せをした。


名を失ったアルフレッドにも、縁談などあるはずがなかった。『婚約者が虐げられているのを知りながら、その妹に乗り換えようとした男』。その評判は、どこへ行ってもついて回った。


半年後、アルフレッドはエルディアまでやって来た。丘の上の屋敷の門前で、何日もリーネへの面会を求め続けた。


応対に出たのは、トマスだった。


「お嬢様は、お会いになりません」


「頼む、一目でいい! 僕は騙されていたんだ、あの家に――」


「あんたが応接間で何を言ったか、厨房まで聞こえてましたぜ」


老料理長はそれだけ言うと、門を閉めた。それきり、アルフレッドの姿を見た者はいない。


そして、ヴァルモン領。


リーネが去ったその春、畑の芽吹きは目に見えて遅れた。夏には井戸が濁って家畜が痩せ、秋の麦はほとんど実らなかった。没収された土地を引き受けようという貴族は、一人も現れなかった。


その話を聞いたとき、リーネは王に一つだけ願い出た。罪のない領民たちを、エルディアに迎えてほしい、と。


農民たちは国境を越え、エルディアの開拓村に移り住んだ。彼らが新たに拓いた畑には、すぐに青々とした芽が出そろった。あとに残されたのは、誰も住まない荒れ地と、ヴァルモンという名の汚名だけだった。


収穫祭を間近に控えたある日、一通の手紙が屋敷に届いた。国境の町の商人に、なけなしの小銭を握らせて託したらしい。薄汚れた封筒の差出人は、父だった。


戻ってきてほしい。領地を救ってほしい。お前は私の娘だろう。父を見捨てるのか。乱れた文字が、何枚にもわたって続いていた。セシリアの行方が知れない、とも書かれていた。もう一人の娘の身を案じる言葉はあった。けれど、リーネの身を案じる言葉は、一行もなかった。


エルディアは、ヴァルモン家の者の入国をすでに禁じている。父がこの丘にたどり着くことは、もう二度とない。


リーネはその手紙を、最後まで読んだ。それから丁寧に折りたたみ、暖炉の火にくべた。


あの日、奥の間で告げた言葉を、心の中でもう一度だけ繰り返す。わたしは隣国で、幸せに暮らします。ですから、あなたたちは消えてください。


紙の端が黒く縮れ、炎の中に消えていった。


怒りも、憎しみも、もう残っていなかった。あるのは、ただ静かな、ひとつの確信だけだった。


わたしの人生は、もうここにある。


窓の外では、白い花が風に揺れている。母が遺した、あの小さな鉢植えから株分けした花だ。リーネは花に向かって、そっと微笑んだ。


「お母様。わたし、今、とても幸せです」


丘の下から、蹄の音が近づいてくる。今日もまた、迎えが来たらしい。


リーネはエプロンではなく、レオンハルトから贈られた青いショールを肩にかけ、軽やかに階段を駆け下りていった。


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