秋風の眠り
蝉の声が遠のき、朝夕に涼しい風が吹くようになった頃。
沖田総司は、縁側で大きく伸びをした。
「いやあ、涼しいって素晴らしいねえ」
医者からも、ようやく、
「軽い稽古からなら」
と許しが出た。
軽い稽古でも、沖田には十分だった。
さすがに少し体重は落ちている。
だが、速さはそのままだった。
数日、様子を見る。
問題がなければ、仕事にも復帰する。
そう決められた。
◇
仕事復帰の日。
久しぶりの仕事は、井上源三郎と組んだ。
よほど嬉しかったのだろう。
巡回から戻ってきても機嫌がいい。
夕刻には、隊士たちと冗談を言い合っていた。
「総司、飯だぞ」
「はい、今行きます」
そう答えていた。
だから、夕飯の時間になっても姿を見せないことに、最初は誰も気に留めなかった。
「沖田さん、まだ来てないんですか?」
「そのうち来るだろ」
そう言っていた斎藤一も、箸を取ったまま、ふと顔を上げた。
――来ない。
沖田は、食事を忘れるような男ではない。
まして今日は、久しぶりの仕事復帰だった。
まさか また
その考えが頭をよぎった瞬間、斎藤の胸の奥に、嫌な冷たさが走った。
夏の間、沖田が倒れた時の光景が脳裏をよぎる。
斎藤は箸を置いた。木の触れ合う小さな音が、妙に大きく響いた。
「見てくる」
◇
「沖田」
返事がない。
斎藤は襖の前で一度足を止めた。
部屋の中から、物音がしない。
寝ているだけなら、寝息くらい聞こえるはずだった。
「沖田。入るぞ」
声を張る。
それでも返事はない。
斎藤は襖を開けた。
「……」
部屋は薄暗かった。
灯りもつけず、沖田は部屋の中央で横になっていた。
その姿が目に入った瞬間、斎藤の呼吸が止まった。
「沖田!」
駆け寄り、肩を抱き起こす。
沖田の身体は、驚くほど力なく斎藤にもたれかかった。
「おい。沖田、しっかりしろ」
返事がない。
斎藤は沖田の頬を軽く叩いた。
「沖田。聞こえるか」
目は、ほとんど開いていない。
唇もわずかに開いているだけだった。
斎藤の指先が冷たくなる。
「おい、目を開けろ。沖田!」
ようやく、沖田の眉がかすかに動いた。
「……ちょっと……眠くて……」
「眠くて倒れる奴があるか」
声を荒げながら、斎藤は額に手を当てた。
少し熱い。
その熱が、手のひらから腕を伝ってくるようだった。
「熱があるのか?」
「え……?」
沖田はぼんやりと笑った。
「ふわふわして、気持ちいい」
「何を呑気なことを言っている」
斎藤は沖田の背を支え直した。
「気分はどうだ。吐き気は? 息苦しくないか?」
「うーん……」
沖田が答えようとした、その時だった。
身体がぐらりと傾いた。
「おい!」
斎藤が慌てて抱き留める。
腕の中で、沖田の首が力なく揺れた。
「沖田!」
今度は何度呼んでも、返事がない。
斎藤は沖田の鼻先に手をかざし、息を確かめた。
かすかな呼吸が触れる。
それでも、胸の奥の動悸は収まらなかった。
しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえてきた。
斎藤は沖田の顔を見つめた。
「……寝ているのか、倒れているのか、どっちだ」
呟いた声が、自分でもわかるほど震えていた。
◇
「総司が倒れた?」
斎藤は、まず井上のところへ向かった。
声を聞いた瞬間、井上の顔色が変わる。
「いや、寝ているだけかもわからないんだが」
「わからないって……」
井上は立ち上がる拍子に膝を畳へぶつけた。
それまで穏やかだった夕飯時の空気が、一瞬で消し飛んだ。
「えっ、総司が!?」
「また具合が悪くなったのか?」
「先生は呼んだのか!?」
隊士たちが一斉に立ち上がる。
誰かが膳を倒し、味噌汁が畳へこぼれた。
別の隊士は立ち上がったまま、何をすればいいのかわからず、手を宙に浮かせている。
「騒ぐな!」
土方が怒鳴った。
だが、その声にも焦りが滲んでいた。
つい先ほどまで、沖田は元気そうに笑っていたのだ。
仕事復帰を果たして、皆と冗談まで言っていた。
それが、ほんの少し目を離した間に倒れた。
「誰か医者を呼べ!」
「もう走らせています!」
「水を――」
「水より布だ! 汗を拭け!」
「灯りを持っていけ!」
「布団をもう一枚!」
指示が飛び交う。
隊士たちは互いにぶつかりながら廊下を走り、誰かが開け放した襖に肩をぶつけた。
「総司、大丈夫だ。先生が来る」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、沖田は眠ったまま、わずかに眉を寄せただけだった。
斎藤は拳を握りしめた。
医者が来るまでが、ひどく長く感じられた。
◇
「沖田」
「……ん……」
呼びかけると、沖田がかすかに眉を動かした。
「先生が来る。もう少しだ」
「……」
「お前が倒れたせいで、屯所が大騒ぎだ」
「……えっ?」
弱々しい声だった。
斎藤は、安堵と苛立ちが一度に込み上げてくるのを感じた。
返事ができる。
意識もある。
それだけで、張り詰めていた身体から力が抜けそうになる。
「何? 一体どうしたの?」
「総司」
思わず強い声が出た。
沖田が驚いたように目を開ける。
斎藤はすぐに視線を逸らした。
「……悪い。だが、今は余計なことを言うな」
その時だった。
「先生が来たぞ!」
廊下から声が響く。
慌ただしい足音が近づいてくる。
斎藤は立ち上がったが、膝に力が入らず、畳へ手をついた。
すぐに立ち直り、医者を迎えるために襖のそばへ移る。
やがて医者が部屋へ入ってきた。
「沖田君は?」
「ここです」
斎藤が場所を譲る。
医者はすぐに沖田の脈を取り、額に手を当てた。
「……少し熱が出ていますね」
「やはり、また悪くなったんですか?」
井上が不安そうに尋ねる。
斎藤も息を詰めたまま、医者の顔を見た。
「いや、そういう感じではありません」
医者は沖田の顔を見た。
「くたびれたんでしょう」
その言葉を聞いて、斎藤の肩からようやく力が抜けた。
だが、完全には安心できない。
「本当に、大丈夫なんですか」
斎藤が低く尋ねる。
医者は斎藤を見上げた。
「今のところは。脈も乱れていません」
「今のところは、って……」
「慌てなさるな。疲れが出て、熱がこもったのでしょう」
斎藤は返事をせず、沖田の顔を見た。
眠そうに目を閉じている。
その姿を見て、ようやく息を吐いた。
「今日は久しぶりの仕事だったんでしょう?」
「はい」
土方が気まずそうに答えた。
「普通に……仕事を……」
「普通に、ねぇ」
医者がため息をつく。
「新選組の普通は、普通じゃありませんな」
「でも、先生が許可を……」
「私は『軽い仕事なら』と言ったんですよ」
「……はい」
「一日働いて、夕飯前に眠り込めとは言ってません」
部屋の外から、隊士たちの小さな声が聞こえた。
「怒られてる……」
「そりゃ怒られるだろ」
医者が障子の方を睨む。
「外!」
びくっとする気配。
「患者を休ませるんです。見物人は散ってください」
「は、はい!」
ぞろぞろと足音が遠ざかっていく。
部屋が静かになった。
◇
医者は改めて沖田を診た。
「あの……」
沖田がぼんやり顔を上げる。
「僕、本当に うたた寝しただけだと思うんですけど」
「そうでしょうな」
「じゃあ、もう起きても――」
「寝ていなさい」
「……はい」
沖田は素直に布団へ戻った。
医者は布団を掛け直す。
「食事は消化のいいものを少しずつ。水分も取ること」
「はい」
「それから、今夜はゆっくり休むことです」
「はい」
沖田が小さく頷く。
「……お腹すきました」
医者が苦笑した。
「それなら大丈夫そうですな」
井上がほっと息をつく。
「よかった……」
斎藤も、ようやく深く息を吐いた。
診察が終わるまで、ずっと握りしめていた拳を開く。
掌には、爪の跡が赤く残っていた。
医者は部屋を出る前に、井上へ小声で告げた。
「今夜は一人にしない方がいいでしょう」
「分かりました」
「疲れが出ているだけでしょうが、ひょんなことが起きては困りますからな」
「はい」
医者が出ていく。
斎藤も井上も近藤も、その背中を見送り、廊下の向こうに消えるまで動かなかった。
ようやく、沖田が本当に大事には至っていないのだと、身体が理解し始めた。
静かになった部屋で、沖田が布団の中から顔を出した。
「ねえ、井上さん」
「何だ?」
「僕、寝てただけなんだけど」
「うん」
「なんで、こんなに大騒ぎになったの?」
井上は答えなかった。
ただ、沖田の布団をもう一度きちんと掛け直した。
「……総司が悪い」
「ええ?」
「心配させる寝方をするからだ」
「そんなあ」
沖田は苦笑した。
その声を聞きながら、井上は小さく息を吐いた。
――まあ、元気そうだ。
よかった。




