第12章 来るべき時
細矢 胡桃子の憔悴は誰の目にも明らかだった。胡桃子はなるべく表に出さないことを心掛けていたが、日に日にやつれていく様子を見せつけられては気がつかないはずがない。
ボーッとして話を聞かないことが多くなったり、目の下にくまが出来たり、挙句の果てには話している途中で涙が流れてきたりするのを、胡桃子は必死で取り繕った。
そしてそれは件の覗き事件の前後だったわけだから、男子が胡桃子を傷つけたからであるとの噂がこれまたTKMMボム級の波及効果で広がった。
今回に至っては殆ど正解である。
しかし、そのような噂が流れてしまうことは胡桃子にとって追い打ちでしかなかった。自分のせいで、自分が勝手に傷ついてあまつさえ黄鞠に風評被害が流れること。それによって、黄鞠に迷惑がかかることが一番の苦痛だった。
この胡桃子の異変について、最も早く気づき、最も近くにいた人間がいる。
胡桃子のルームメイトの三条 燕だった。
実は三条 燕は初登場ではない。彼女はいつぞやシグノの席を取り囲んでいた5人のアルファベットのEである。ただ、黄鞠が見た二回目のEは胡桃子だったので、彼女は二回目には参加していない。
その理由があった。
確かに当初、彼女は男子の入学を不純な動機の入学だと思った。男子がこの学校にいるのはおかしいと思ったのは至極当然のことである。だが、彼女は入学当初から覗きの事件が起きる中でただ男子を攻撃したいがための運動であると客観的に思ってしまったうちの一人だった。ただただ男子を否定したい女子たちのグループにずれを覚えた彼女は、いつの間にかそのグループを抜けた。
ただ今回の話は別である。
胡桃子の様子がおかしくなり憔悴していく様子を見たのならば、まずその原因を推測する。そうなれば男子が胡桃子を傷つけたと推測するしかなかった。そうとしか考えられないのである。
今回の件については事情はどうあれ男子が一方的に悪いという風潮だった。当然、ただ嫌い、ただ叩きたいイナゴみたいな女子はいた。
だが、それだけではない。その原因は胡桃子が極めて品行方正で信頼における人物だったから。それを一番よくわかっていたのは、ルームメイトか中学時代の同級生だろう。彼女は他人を悪く言わない。彼女は誰にでも優しい。ついでに中学時代は極めてモテたらしい。
ともあれ三条 燕は日に日に憔悴していく胡桃子を放置することなどできなかった。
部屋にいるとき、さりげなく事情を聞いてみた。帰ってきた返答はいつも「大丈夫だから、何でもないから」だった。でも全然大丈夫ではない、全然何でもなくはないことは明らかだった。
このままではいつか倒れてしまうと心配になるほどだった。
そして、唐突にその日が訪れる。
三条 燕は比較的惰性の強い人間だった。いつも時間をギリギリまで使う。朝食より暖かい布団を好み、時間に追われることが苦痛で苦痛で仕方のない人間、つまり普通の学生ということだ。
だが、高校生になってからそのライフスタイルに変化があった。早寝は……あまりしていないが、時間に余裕をもって起きるようになり、朝食を抜くこともない。
生活にメリハリがついたのはルームメイトになった細矢 胡桃子の影響だった。胡桃子は家庭的で優等生だった。胡桃子が規則正しい生活をしていたのでつられて規則正しい生活をするようになったのだ。
燕と胡桃子は驚くほど速く打ち解けていた。本来、三条 燕も細矢 胡桃子もは人づきあいが得意というわけではないが胡桃子の人畜無害さととっつきやすさを兼ね備えた人物でありながら、全く凄そうな気がしなかった。
燕はとりわけ一人が好きなわけでもなく、コミュニケーションを煩わしく思うこともない人間だった。
胡桃子は胡桃子で流されやすく、敵意を向けるのもむけられるのも嫌う人柄だったのでとりあえず誰とも仲良くしようと心掛けていた。
お互いに捻くれたところもなく、変な美学とかもないので仲良くなるのは当たり前。燕は胡桃子を嫌う人間は殆どいないだろうと思った。善人で顔もいいから基本的に第一印象は完璧であって、全然凄そうに見えないので嫉妬とか羨望とかそういった印象も持たれない。
燕は別段、他人を評価することが得意な人間ではないが、胡桃子は八方美人で流されやすい性格であり、
ぶったたけば壊れやすそうな性格だと直感的に感じていた。そして今胡桃子はハンマーで殴打されている
のだ。
その日、燕が起きて布団を片付けてようとしていると胡桃子はすでに制服に着替え終えた後だった。
「あ、おはよう、燕ちゃん」
胡桃子の様子は昨日と同様に見てわかるほどだった。声に覇気がなく、震えるような声を無理やり押さえて明るい声を出そうとしているのが丸わかりだった。そして無理に笑顔を作っているのもまた丸わかりだった。
「ねえ、大丈夫? 顔色悪いよ」
「……え? そうかなぁ、ちょっと寝不足かなー、なんて」
彼女が無理を重ねているということは明らかだった。正直、見ていられないほどにだ。
でも、彼女は決して自分の口から語ろうとはしない。自分で抱え込んでいる。
そして、その憔悴していく過程をまざまざと見せつけられた燕の我慢ももう限界に近かった。とてもじゃないが見ていられない。友人として、どうにかしなければいけない。
燕は学校へ行く前に必ずシャワーを浴びる習性があった。中学生のころは時間がないので、二日に1回ほどだったがここに来てから毎日欠かしたことがない。
今日もシャワーを浴びた後、朝食を適当に食べて学校に行くつもりだった。シャワーを浴びている最中に、燕はある物音に気付いた。何かが倒れる音のようだった。
倒れるようなものはあっただろうか?まぁ、なくはない。立てかけておいた何かが倒れたのだろう。
そうだとしても胡桃子がそれに気づいて直すだろう。
そう結論付けたすぐ後、嫌な胸騒ぎが駆け巡った。
……まさか!
燕はシャワールームを飛び出した。その胸騒ぎは正解だった。胡桃子が部屋で倒れていたのだ。何かが倒れる音は部屋の中で胡桃子が倒れる音だった。
「っっ! ちょっと! 大丈夫!」
ついに来るべき時が来た。
胡桃子が目を覚ますと、そこは自分のベッドの上だった。
「……あれ」
胡桃子が目を覚ます。目に映るのは、天井と自分をのぞき込むルームメイトの燕の姿だった。身を起こそうとするが、ルームメイトがそれを制止した。
「駄目、今日は休んで」
「……大丈夫、大丈夫だから」
「駄目」
燕は有無を言わさない。
「今日はゆっくり休んで。先生には私が言っておくから」
「……うん」
胡桃子はそれ以上何も言わなかった。
「帰ったら何があったか聞かせてもらうから」
そういって、燕は部屋を出た。本当は心配でならなかったが、それでも燕にはどうしてもやるべきことがあった。
一人になった胡桃子はシーツで顔を隠した。
男子トイレが遠いことは余りにも迷惑で不便だった。どうしても下半身の限界に来た時にこのトイレしか使えないというのは少し不安がある。苦肉の策で女子トイレで用を足すことはできるかもしれないがばれた瞬間人生が終わる。そんなリスクは背負いたくないものだ。
黄鞠がトイレから出てくると、人影が見えた。また君か。
と思ったら違う。細矢ではない。見覚えがあるので多分クラスメイトだと思うが、名前は憶えていない。
多分俺に用があるのではないかと思う。
そうでなければ、女子がこんなところに来ることはない。
でも、自分から声をかけるのはなんとなく嫌だったので無視して教室に戻ろうとする。
「待って」
案の定声をかけられた。その声のトーンからして好意的に話をしに来たわけではないらしい。
「……何だ何だ俺に用でもあるのかよ」
「ある」
黄鞠は燕の方に向き直る。その顔は感情的ではないにしろ、その顔からは敵意がにじみ出ていた。
「で、何の用だよ」
「……今日、胡桃子が倒れた」
「倒れたって、風邪か?」
「違う。原因を胡桃子は話してくれない。でも私はルームメイトだから様子がおかしいことはわかる」
「そう。で、何でそれを俺に言うんだ?」
「……私は別に覗きのことであなたを攻めようとは思っていない。あれは客観的に見れば胡桃子たちが悪いと思ってる。でも、胡桃子の様子がおかしくなったのはあの日の後のこと。あなたが無関係だとは思えない」
「だったら何だって言うんだ。俺が結果的に覗きをして、裸を見られた。その精神的ショックが原因で倒れたなんて言われたって俺の知ったことじゃねえよ、被害者面も大概にしてくれ」
黄鞠は思わず声を荒げる。
「わかってる。胡桃子がそんな理由で倒れたなんて思っていない。理由は分からないけど、でも、私はこのまま放っておくことはできない」
「くどいな。俺に何をどうしろって言うんだ」
「……私は事件の前後で何があったのか知らない。あなたが胡桃子を傷つけたことは明らかだから、とりあえず胡桃子に謝罪してというつもりもない。でも、これ以上胡桃子に関わらないで。これ以上あの子を傷つけることだけはしないで」
燕は毅然とした態度で黄鞠にそう言った。黄鞠は当然彼女に敵愾心を向けていたが、今はその敵愾心が薄れていた。
俺を一方的に悪としていないからだった。それによく見るとその体は少し震えていた。自分より一回り大きい男子生徒と一対一で対峙するのは、少なからず恐怖を感じるのかもしれない。しかし、彼女はここで黄鞠と対峙している。
悪意ではなく、誠意を持つ相手には誠意で返すくらいの常識はある。
「……わかった、お前いいやつだな。俺はもう二度と細矢には関わらない。約束する」
黄鞠はそう答える。
女子特有の団結力というものは黄鞠が世界でトップクラスに嫌いなものだった。そして、女子全てがそれを振りかざすものだと思っていた。だが、それは少し違うのかもしれない。確かに思いっきりその特権を使って、気に入らないものを攻撃する女子もいるのかもしれない。俺をあからさまに避ける奴は多分そういうやつなんだろうが、物事を客観的に見ている女子というのも結構いるのかもしれない。
女子はみんなクズばっかだと思っていたが、クズじゃない女子だって結構いるのではないか?今の俺はそう思っていた。偏見の目を持っていたのは、何も女子だけじゃない。表面しか見ていなかったのは俺だって同じだった、のかもしれない。
まあ、違うかもしれないが出来ればそうあってほしいなって思ってしまうのでした。
そして燕も黄鞠に対しての凶暴で野蛮な男子という先入観はなくなった。噂とは違う。話せば分かる人間だということをこの目で確認したからだ。
一方、疑問も残る。
だったらなぜ胡桃子はあれほど苦しんでいるのか?誠意を誠意で返すことが出来る人間が、なぜ胡桃子みたいな善人を傷つけたのかがわからない。噂では血も涙もない性欲まみれの人間の屑だけれども、それは嘘かもしれない。意外と心当たりを聞けば、答えてくれるかもしれない。
そう思い、聞こうとしたがその前に黄鞠が口を開いた。
「とはいってもお前に言われるまでもなく、俺は二度と細矢に関わらないつもりだった。細矢には避けられていたし、面倒事も嫌だからな。細矢にも二度と関わらないから、二度と関わるなと言ったくらいだ」
その話を聞いて一瞬の硬直の後、燕はハッとする。
「ちょっとまって! それって、その話をしたのっていつのこと!」
「いつって、確か一週間前だ」
ルームメイトだったからこそ分かる!胡桃子が決定的に変わったのはその日だった。そして、それ以外に推測できるようなことがない。
「もういいか? 俺は教室に戻るぞ」
「あ……うん」
一人残された燕は考え込んでいた。それが胡桃子を傷つけた原因なのかということだ。
しかし、もし自分が全く胡桃子の立場で同じことを言われたとしても全く傷つかない。お互いのことなんて殆ど知らないからだ。だが、もしこの一言が致命的な傷になる状況があるとすればどんな状況だろうか。
胡桃子がこの男子に好意を持っていた?考えにくい。
入学してから全然時間は経っていない。あの男子はちっちゃいくて凄い子といつも一緒に行動しているし、胡桃子と接する機会なんて無いはずである。私が知らないだけ?
「やっぱりちょっと待って!!」
黄鞠は振り向く。
「何だなんだよまだ用あるのか?」
「この学園に来てから、胡桃子と一緒に何かする機会はなかった?」
「何かって何だよ。あるわけないだろ。俺はいつもシグノと一緒にいるしそもそも好き好んで俺に近寄ってくる女子なんてシグノ以外いねぇよ」
「じゃあ何か、何か、胡桃子と関わったことはないの?」
「かかわったこと…ねぇ。一応小学校のとき同級生だった…と思う」
「何で疑問形なの?」
「だって、殆ど覚えていないだよ。お前小学校のときだけに一緒だった男子のことはっきり覚えてるか?」
覚えていない。確かにそういわれてみれば燕は小学校のときのクラスメイトの男子のことなんて殆ど覚えていない。中学は魔法特別科に進学したから小学校からの付き合いの人間はいなかった。小学校時代の男子はもう顔も思い出せない。
そう考えれば、この男子の言っている事は納得できるし、きっともう何も得ることもないだろう。でも目星はついた。後は胡桃子に聞くしかなかった。
「もういいか? 今度こそ俺帰るぞ」
「あ、うん。もういい」
黄鞠は再び歩き出して、やっぱり止まって振り向く。言い残したことがあった。
「あっ……そうだ。お前名前なんて言うんだ?」
「クラスメイトの名前くらい憶えなよ。三条 燕だよ、えーと……名前何だっけ」
「自分だって人のことを言えないじゃないか! 音無だ、音無 黄鞠」
「音無 黄鞠、おとなしきまり」
キマリ、キマリ、でもキマリは通さない…オトナシ、オトナシ、うっ、頭が。
「ぷっ!」
「お前今失礼なこと考えただろ」
ごめんなさい、考えましたとは言えなかった。笑いのツボに入りすぎてこらえることに必死だったからだ。
「失礼なやつだな君は」




