第5話「前唱:怪音」
地上へと通じる非常脱出口の重い鉄の扉を押し開けた瞬間、湿り気を帯びた夜風が三人の頬を打った。吉野ヶ里歴史公園の広大な敷地は、街灯の全系統が遮断されたことで完全な闇に沈んでいる。遠くに浮かぶ物見櫓の黒々とした影が、鉛色の夜空に角ばった輪郭を浮かび上がらせていた。地下施設の外縁では、なおもサイレンの残響とけたたましい発煙が燻っている。
「こっちだ、足元に気をつけろ!」
北野が闇を裂いて先導し、環濠の畦道へと天寺と友歌を誘導する。スプリンクラーの散水と土煙に塗れながら、三人は復元された古代集落の柵の合間を縫うように駆け抜けた。息を切らして国道三八互号線沿いの搬入用裏門をすり抜けると、街灯の消えた側道の茂みに、ヘッドライトを落とした旧式のワンボックスバンが低く唸りを上げて待機していた。
運転席の窓から顔を出したのは、白髪交じりの短髪に古風な眼鏡をかけた初老の男、権藤行政書士事務所の代表であり、元警察庁の情報通信部門にも籍を置いていた権藤達也だった。
「おい、ぐずぐずするな。乗れ!」
権藤が後部スライドドアを内側から蹴り開ける。三人が転がり込むように乗り込むと同時に、クラッチが手荒につながれ、車体は鈍いディーゼル音を響かせて急発進した。
「権藤さん、助かりました。よくこの場所がわかりましたね」
「礼なら北野に言え。事前に非常回線の暗号通信で合図が飛んできたんでな。それより、この車なら安心だ。平成初期のキャブオーバー型ディーゼル、だからECUもなければ車載コネクテッドモジュールもGPSも、要は最新電子機器の類は一切、積んどらん。イマドキのスマート交通管制カメラやNシステムの電磁スキャンなんぞ、ただの鉄の塊として素通りするだけよ」
権藤は手慣れたハンドルさばきで、整備された主要幹線を避け、嘉瀬川沿いの曲がりくねった農道やクリークに挟まれた旧道へと車体を滑り込ませた。佐賀平野特有の網の目のように張り巡らされた水路と暗い田畑が、追跡部隊の電磁探知網から彼らの軌跡を遮断していく。
車内のシートに深く身を沈めた北野は、荒い息を吐きながら胸ポケットの煙草をくわえ、ライターの火を灯した。
「……上出来だ、権藤。そのまま事務所の地下へ滑り込め」
「承知している。だが北野、施設の上層階がすでに『テロ事案』として動き始めているぞ。お前さんの立場も危ういんじゃないのか?」
「フン、初めから覚悟の上さ。盤面はすでにひっくり返ってる。まあ、行ってくるわ」
事務所に着くと、北野はそう言い残して背中越しに手を振り、煙草の煙をくゆらせながら、まるで先ほどまでの逃走劇が何もなかったかのように飄々と車を後にした。その時、煙の向こうで北野の瞳が底知れぬ光を放ったのを、友歌は息を潜めて見つめていた。
佐賀市城内の奥まった路地裏、水路沿いに建つ権藤行政書士事務所の地下室は、外部の無線通信を完全に遮断するファラデーケージで囲まれた特異な空間である。埃っぽい棚には法規関係の書類綴りと並んで、骨董品のような真空管オシロスコープや、インターネットから物理的に切り離されたスタンドアローンのワークステーションが鎮座していた。
警察庁のサイバー部門をはじめ、公務員稼業を転々とした権藤は、表向き、行政書士と税理士をやっている。だが、その培ったキャリアと幅広い人脈を活かし、北野をはじめとした公務員時代の同僚や後輩が、理不尽な公権力に抗おうと無茶をした場合、必ず必要になる各種の裏稼業を引き受けてもいる。事務所の地下室は、いわばその「アジト」だった。
天寺は腰を下ろすなり作業バッグから自作の測定器を取り出し、隔離された端末のシリアルポートへと直結した。ディスプレイの緑色の燐光が、地下のサーバルームで取得されたバイナリダンプと周波数スペクトラムのログを激しくスクロールさせている様を映し出している。
「天寺さん、あの青銅環から発せられていた音の正体、何なのかわかるの?」
友歌がモニターを覗き込みながら身を乗り出す。天寺のキーボードを叩く指先は、先刻までの気弱なエンジニアのそれとは別人のように速く、正確だった。
「これは通常のデジタル通信ではありません。離散フーリエ変換をかけた周波数分布を見てください。通常の電磁ノイズやアルゴリズムの演算スパイクなら、特定の帯域にピークが出ますが、これはなにかこう……そう、共鳴みたいなものを起こしているようです、しかもこれ、フィボナッチ数列のパターン、つまり、黄金比に沿って……」
「黄金比の倍音? それって、私の故郷の高千穂で、夜神楽の笛や祝詞が響くときのピッチ比率と全く同じだわ。神職たちが『天と地を結ぶ調律』って呼んでいた響き……」
「そうなんですね。そして、その音響共鳴パケットのヘッダ領域に古代の幾何学パターンを模した識別子が埋め込まれています。見えました。え、『M.E.G.U.R.I.』――Micro-Environmental Geographic Un…ここがよくわからない、 & Resonance Interface、つまり、微視的地理環境におけるなんとかと共鳴のためのインターフェース、とでも言うんでしょうか……」
天寺の静かな声が、密閉された地下室の空気を凍りつかせた。
「詳しくは分からないけど、今、言えるのは、おそらく二千年前に封印された弥生時代の遺物にこの周波数が物理的に刻まれていて、最先端のAGIが、このプロトコルを介して直結されたんです。青銅環は単なる装飾品ではなく、人類の意識と現実の物理法則を書き換えるための外部演算モジュールだった、みたいな」
「なるほど、だから頭の中で、妙に奇妙な感覚にとらわれるんですね…」
天寺が続ける。
「でも、どうやらそれだけではないようにも思えます。つまり、この環は、単に力を与えるだけの装置ではない気がするというか…むしろ、どちらかと言えば、影響を与えている人間が暴走したとき、それを道連れにして止める、その引き金のような役割もあるのかもしれない」
その時、部屋の隅に置かれていた旧式のアナログブラウン管テレビから、けたたましい緊急報道のチャイムが鳴り響いた。画面の上部に「速報」のテロップが点滅する。
『本日未明、佐賀県神埼市及び吉野ヶ里町の吉野ヶ里歴史公園地下に所在するAETHER社グローバルHUB九州に対し、武装グループによる大規模なサイバーテロおよび物理攻撃が発生しました。警察庁公安部および国家安全保障局は、これを極めて重大な産業スパイおよび国家反逆テロ事案と断定――』
アナウンサーの緊迫した声とともに、画面に二枚の顔写真が大写しになった。
『主犯格として指名手配されたのは、現場から逃走した保守点検業務の受託企業のエンジニア、天寺俊介容疑者(三十一歳)、及び共犯とみられる西九州日報の記者、山岸友歌容疑者(二十六歳)の二名です。両名は軍用EMP兵器を用いて施設を破壊し、最重要国家機密データを強奪した疑いが持たれており……』
「な……っ!? 私たちが、テロリスト……!?」
友歌の顔から血の気が引いた。喉が詰まり、激しいめまいに襲われる。だが、残念ながら、衝撃はそれだけに留まらなかった。画面が切り替わり、県警本部と警察庁、経産省、国交省、それからAETHER社による合同緊急記者会見の生中継が映し出された。
フラッシュの嵐を浴びながら壇上の中央に歩み出て、マイクの前に立った人物。いつものくたびれた恰好とは違って仕立てのいい濃紺のスーツを身に纏い、冷徹な眼差しで記者団を見下ろしているのは、数十分前まで一緒に逃走していたはずの県庁参事、北野守人その人だった。
『合同特別捜査本部の副本部長を拝命した、佐賀県文化財&デジタル推進担当参事の北野です。今回の暴挙は、わが国のサイバー主権に対する断じて許しがたい宣戦布告であり、治安維持の観点から徹底的な捜査を行うこととなりました。私は、今回、襲撃対象となった施設の整備振興に長く携わってきたこともあり、現地事情に精通していることから、その現場指揮を要請されたところです。逃走中の容疑者二名に対しては、県警本部によってすでに全域へ非常配備が敷かれており、一刻も早い身柄拘束を目指して取り組みます』
毅然とした表情でよどみなく言い放つ北野の姿に、友歌は激しい戦慄とともに叫び声を上げた。
「嘘でしょ……!? 北野参事、さっきまで私たちを助けて一緒に逃げていたのに……! 手のひらを返すなんてレベルじゃない、もしかして、私たちを身代わりの罠にハメたの!?」
友歌の悔し涙と激昂が狭い地下室にこだまする。だが、端末に向き直った天寺の表情は、驚くほど平坦なままだった。彼は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、モニター上のログから視線を外さずに静かに呟いた。
「いいえ、友歌さん。あれは裏切りではありません」
「え……?」
「北野さんはきっと、あちら側に身を置かなければならなかったんです。おそらく、国家安全保障委員会やPMCの背後にいる本当の黒幕が、事件の全容をテロとして隠蔽し、僕たちを抹殺しようとしている。だから、もし北野さんまで逃亡者になれば、捜査権限を使った情報の攪乱も、僕たちへの追っ手の誘導を遅らせる防波堤も作れなくなる」
「でも……確証があるの?」
「確証はありません。ただの推測に過ぎません。でも、僕は北野さんはそういう人だと知っています」
天寺の冷徹な分析に、友歌は言葉を失った。画面の向こうの北野は、記者団の質問を受け流しながら、一瞬だけカメラのレンズ越しに、何かを試すかのような冷厳な眼光をこちらへ投げかけていた。




