第1話「序唱」
二〇三X年、人々は最先端AGIによって、人類史上かつてないほど便利で快適な日常を享受していた。世界の片隅の蝶のはばたきですら捕捉するほどの高精度センサーによるデータ収集網と、過去二十数年ほどの人工知能の発達史の中で培われた非線形力学やパターン認識技術の高度化に裏付けられた超高精度な予測アルゴリズムによって、人々は、あらゆる危機を未然に回避し、考え得る中で最良・最善の人生の選択を行うことが可能になっている。
都市生活に付きまとう様々な混乱は全てが未然に回避され、事故や病気の兆候はそれが悲劇的な結末を迎えるはるか手前の段階で制御され、果ては個々人の日頃の些細なストレスであったり、公私ともどもに渡る買い物などの些末なものから職業選択などの重大な出来事に至るまでの選択の迷いすら、今では強いられることがほとんどなくなった。
世界はもはや、何一つ不測の事態の起こらない、調和した最適解のゆりかごと化している。
東京・湾岸エリアの高層マンションの一室では、八十二歳になる高齢の男性が穏やかな朝を迎えていた。重度の認知症を患う妻の傍らで、自律型介護ロボット「Care-AETHER」が静かな動作音を奏で、完璧なタイミングで投薬やバイタルチェックをこなしていた。スマート環境制御システムが室温と陽光を絶妙に制御し、万一、心拍数や血圧にわずかな変化などあろうものなら即座に緊急搬送ドローンが手配される。それは、かつて社会問題と化した「老々介護」の実情とはもはや無縁の、何一つ不安のない平穏に満ちていた。
太平洋を挟んだアメリカ・カリフォルニア州、サンフランシスコの一〇一号線バイパス。午後五時のラッシュアワーを埋め尽くす無数のEV群は、AETHER社のレベルファイブ完全自動運転アルゴリズム「AETHER-Drive」に運行を委ね、時速百キロで寸分の狂いもなく流れていた。その中のとある一台の車中、二十八歳の妊婦は陣痛の予兆に一抹の不安を覚えてはいるものの、車載AIの合成音声が優しくガイドし、かかりつけの産婦人科医への道中をサポートしている。妊婦は、助手席の夫とともにこの細部まで最適化された社会システムに全幅の信頼を寄せ、シートに身を深く沈めていた。
大西洋の向こう、ドイツ・フランクフルトの証券取引所近くの投資銀行フロアでは、三十一歳のクオンツ・トレーダーが、八枚のマルチモニターの前で静かにコーヒーを味わっていた。AETHER社が提供するAGI「プロビデンス」のAPIと直結したミリ秒単位の超高速ポートフォリオ最適化AIアルゴリズムが、世界中の通貨、株式、債券、暗号資産への資産配分を全自動で最適化し、人間には不可能な正確さで莫大な利益を叩き出し続けている。彼がやるべきことは、お気に入りのキリマンジャロを飲みながら、気が向いた時にアルゴリズムの挙動と運用の成果を確認する程度に過ぎず、その姿はかつて、秒単位での判断と取引を終始、繰り返すことに追われる「トレーダー」とは様変わりしていた。
赤道直下、ケニア・ナイロビ外縁のキベラ地区では、二十四歳のシングルマザーがスマートフォン一つの「M-Pesa」とAETHERの地域給水最適化AIが管理するスマート水栓の前で笑顔を浮かべていた。AIが地域の水圧と需給を緻密に予測して配給する共有水栓からは、電子コインをかざすだけで常に清廉な水が溢れ出し、AI自動配送ドローンが三人の子供たちに必要となる食料や物資を、その時・その場に応じて細大漏らさず極めて正確に届けてくれる。かつての渇水と貧困の恐怖は去り、スラムの日常は確かな潤いに満ちていた。
中国・広州市外縁の精密部品工場では、三十二歳の工場経営者が異音一つないAI自動生産ラインの稼働を満足げに見つめていた。「天網」の信用スコアと工場管理AGIに全工程を委ねたラインでは、産業用ロボットのアームが流れるような手さばきでパーツを組み立て、受注データから出荷指示書、従業員の勤怠に至るまで、すべてがクラウド上のAIによって自動処理されていた。
世界中のあらゆる都市で、ありとあらゆる階層の人々が、この不条理のない平和と快適さが永遠に続くものと信じて疑わなかった。だが、こうした穏やかで快適な日々の傍ら、人々の確かなくらしを静かに支えてきた極東のある基幹インフラが横たわる地底で、今、まさに異変の予兆が芽吹き始めていることを、この時はまだ誰も知る由もなかった。




