第25話 琥珀色の瞳とパンドラの箱
秋の穏やかな日差しが差し込む、動物病院の待合室。
佐藤は膝の上に置いたプラスチック製のキャリーケースを、静かな眼差しで見つめていた。
「佐藤さん、お待たせしました」
診察室から出てきた獣医師が、柔らかい笑顔で声をかける。
「血液検査の結果もすべてクリアしました。ミルクも卒業して、離乳食をしっかり食べられるようになりましたね。これならもう、ご自宅でお迎えいただいて全く問題ありません」
「……ありがとうございます。先生方のおかげです」
佐藤は立ち上がり、短く頭を下げた。
キャリーケースの格子状の扉越しに、サビ柄の子猫が「みゃあ」と小さく鳴いた。数日前、冷たい雨の裏路地で体温を失いかけていた時の弱々しい姿はもうない。黒と茶色が複雑に混ざり合った毛並みは艶を取り戻し、薄い粘膜が取れた瞳は、透き通るような美しい色をしていた。
「名前は、もう決められたんですか?」
獣医師の問いに、佐藤はキャリーケースの扉を少しだけ開け、そっと指先を差し入れた。
子猫は待っていたかのようにその指に頭を擦り付け、小さなピンク色の舌で指の腹を舐める。
「ええ」
佐藤は、その小さな温もりを確かめるように目を細めた。
「『琥珀』です。この子の瞳の色から取りました」
「琥珀ちゃん。素敵な名前ですね」
琥珀、と佐藤が低く呼びかけると、子猫は耳をピクッと動かし、まるで自分の名前を理解したかのようにゴロゴロと喉を鳴らした。
佐藤の口元に、自然な笑みが浮かぶ。
嘘や悪意が渦巻くデジタル空間とは無縁の、ただ純粋に生きようとする小さな命の鼓動。それが、張り詰めていた彼の神経を確かに解きほぐしていた。
★★★★★★★★★★★
アンチフレアの代表取締役室。
佐藤が戻ると、すでに窓際のデスクで作業をしていた千尋が顔を上げた。
「おかえりなさい。……その子が?」
千尋の視線が、佐藤の手にあるキャリーケースに釘付けになる。普段の隙のないビジネススーツ姿からは想像もつかないほど、彼女の表情は柔らかく崩れていた。
「ああ。今日からここで世話をすることになる。名前は琥珀だ」
佐藤が日当たりの良いコーナーに用意していたケージに琥珀を移すと、千尋はたまらず席を立ち、ケージの前にしゃがみ込んだ。
「琥珀ちゃん……可愛いわね。少し、触っても?」
「爪には気をつけてくれ」
千尋がそっと指を伸ばすと、琥珀は物怖じすることなく彼女の指にすり寄った。千尋の口から、珍しく小さく高い声が漏れる。
しばらく琥珀を撫でていた千尋だったが、やがてゆっくりと立ち上がり、スーツの皺を整えてから、本来の冷徹な顔へと戻った。
「……木下が、今朝逮捕されたわ」
「早いな」
佐藤はコーヒーメーカーのスイッチを入れながら、短く応じた。
木下――昨夜の配信で自滅した『ジャスティス・マスク』の本名だ。
「昨夜の配信を見ていた恐喝の被害企業三社が、今朝一番で警察に駆け込んだのよ。明確な証拠データが全世界にばら撒かれた後だから、警察も即座に動かざるを得なかった。容疑は恐喝と名誉毀損」
「奴の供述は?」
「『佐藤という男にハメられた』と泣き喚いているらしいわ。でも、彼がダウンロードしたあなたに関する偽のスキャンダルデータは、時限式の自滅プログラムによって完全に消去されている。警察がPCを押収したところで、残っているのは彼自身が裏で企業を恐喝していた本物の証拠だけよ」
千尋が手元のタブレットを操作し、ネットニュースの画面を表示させる。
「ネットの反応も、予想通りね。昨日まで彼を『正義の味方』と崇めていた信者たちは、彼がただの恐喝屋だと知った途端、一斉に手のひらを返した。今はもう彼に見切りをつけて、別の新しい娯楽を探して散っていったわ」
「……砂で築いた城は、崩れるのも早い」
佐藤は出来上がったコーヒーを二つのカップに注ぎ、一つを千尋に渡した。
「ご苦労だった。これで、一つ片付いたな」
「ええ。……でも、ここからが本番でしょう?」
千尋がカップを受け取り、佐藤の目を真っ直ぐに見つめる。
佐藤は無言で頷き、コーヒーを一口飲むと、エレベーターに向かって歩き出した。
★★★★★★★★★★★
地下のハッキングラボは、いつにも増して重苦しい空気に包まれていた。
メインモニターの前に座る襟華は、目の下に濃いクマを作り、血走った目で画面を睨みつけている。その後ろで、彩が腕を組んで壁によりかかっていた。
「ボスの読み通りだったよ」
佐藤が入室するなり、襟華が振り返らずに口を開いた。
「昨夜、奴が物理キーの認証を通した一瞬のバックドアを突いて、中枢サーバーの表層データと稼働ログを限界まで抜き取っておいたよ。……でも、これ、私たちが想像していたよりもずっと厄介な代物かもしれない」
襟華がキーボードを叩くと、モニターに複雑なネットワークの構造図が表示された。
「炎上を意図的に起こしてインフルエンサーを操るなんて、このシステムの機能のほんの一部に過ぎない。……これを見て」
襟華が画面を切り替える。そこには、過去数年間のSNSのトラフィック量と、特定のキーワードの増減を示すグラフが並んでいた。
「数十万単位のボットアカウント群が、AIで自然な会話を生成しながら、特定のキーワードをトレンド入りさせたり、逆に検索結果から意図的に弾いたりしている。……その稼働のタイミングが、あまりにも不自然なの」
襟華がいくつかのグラフをハイライトする。
「ある企業の重大な不祥事が発覚した日。本来なら大炎上するはずのそのニュースは、なぜか別の芸能人の些細なスキャンダルに掻き消されてトレンドから消えている。……こっちは、特定の法案が国会で議論された時期。賛成を後押しするような世論が、ボットによって爆発的に形成されてる」
彩が顔をしかめ、低く呟いた。
「……ただ炎上を起こすだけじゃなく、実際に特定企業の株価操作や、法案可決時の世論誘導まで行っていた具体的なログが残っているわね。……本物のバケモノだわ」
「ああ。相手は一介の詐欺師やインフルエンサーとは訳が違う」
佐藤の声は平坦だったが、その言葉には重い事実がのしかかっていた。
襟華がさらに別のログファイルを展開する。
「それでね、ボス。抜き取ったログの残骸から、このシステムの稼働履歴を遡れるだけ遡ってみたんだけど……」
画面に表示された、膨大なデータの羅列。
その一番下に記録されていた、システム稼働の最も古いタイムスタンプ。
それを見た瞬間、佐藤の呼吸が、ほんのわずかに止まった。
『2021/11/14』
5年前の11月。――最愛の妹、結衣がネットリンチによって命を絶った、あの悪夢の時期。
佐藤の視線がその日付に縫い付けられたまま、動かなくなる。
ラボの空気が、一瞬にして凍りついた。
「……任三郎」
彩が、佐藤の背中を見て短く声をかけた。千尋も息を呑み、言葉を失っている。
「……そうか」
沈黙の後、佐藤の口から漏れたのは、怒号でも悲嘆でもなく、低く、冷え切った刃のようなつぶやきだった。
「あの不自然な拡散スピード。……愉快犯の仕業などではなかった。このシステムの、最初期の稼働テストだ」
佐藤の手が、無意識に固く握りしめられる。
あの事件は、ただの不幸な事故でも、単なる悪意の暴走でもなかった。この巨大な世論操作システムを完成させるための、都合の良い実験台として消費されたのだ。
「……結衣は、このシステムに殺された」
佐藤はゆっくりと目を閉じ、そして再び開いた。
その瞳には、かつて木下を前にして見失いかけたような、焦燥に駆られた怒りはない。ただ、深海のように静かで、底知れぬ冷酷な決意だけが横たわっていた。
「ボス……」
襟華が不安そうに佐藤の顔を見上げる。
「一応、中枢サーバーへの物理キーのアルゴリズムはコピーできたけど……データセンターの最深部は、あの静脈認証をクリアしない限り物理的には絶対に扉が開かない。オンラインからも、これ以上の深層アクセスは即座に逆探知されるリスクが高すぎるよ。……どうする?」
佐藤は静かに首を横に振った。
「いや、今はまだ動かない」
佐藤はモニターの電源を一つ落とし、振り返ってチームの面々を見渡した。
「相手は顔のないシステムそのものだ。こちらが不用意に動けば、システムごと切り離されて逃げられるか、あるいは我々自身が『国家の敵』として世論ごと潰される。……正面からは行かない」
佐藤はホワイトボードの前に歩み寄り、これまでインフルエンサーたちを狩るために使っていた相関図をすべて消し去った。
「情報を集めろ。このシステムに関与している企業、政治家、そして大元のスポンサー。ネットワークの全容を完全に把握するまで、一切の接触を断つ」
佐藤は新しいマーカーを手に取り、真っ白なボードの中央に『ネットフィクサー』と書き込んだ。
「5年間待ったんだ。焦る必要はない。……確実に息の根を止めるための、準備を始めよう」
誇張された台詞も、芝居がかった身振りもない。
ただ、その静かな言葉と行動の重さが、これまでの戦いとは次元の違う『本物の戦争』の始まりを告げていた




