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第1話 承認欲求の奴隷

 眼下には、まるで電子基板のように無数の光が瞬く東京都心の夜景が広がっている。


 都内の一等地、地上40階に位置する高層ビルの最上階。

 株式会社アンチフレアの代表取締役室のさらに奥には、およそ一般的なオフィスには似つかわしくない、特注の広大なアイランドキッチンが設置されている。


 黒の大理石で統一された重厚なワークトップ。壁面にはプロ仕様の巨大な冷蔵庫とオーブン。

 そしてさらにその奥には、本場イタリア・ナポリから職人を呼んで組み上げさせたという、本格的な薪窯まで鎮座していた。パチパチと爆ぜる薪の音が、静寂に包まれた空間に心地よく響いている。


 佐藤任三郎、30歳。


 企業の炎上対策やネットPRを請け負う凄腕コンサルタントとしての彼には、一つの絶対に譲れないルーティンがあった。


 それは、複雑に絡み合ったネット上の悪意や嘘、そして人間の醜い欲望と対峙する前、自身の思考を極限までクリアにするために行う「料理」である。

 食材を切り、火を操り、味を調和させるという絶対的な物理法則に従う作業は、形のないデジタル空間のノイズを祓い、自身の精神を研ぎ澄ますための、彼なりの神聖な儀式だった。


 今日のメニューは、王道のマルゲリータだ。


 大理石のワークトップの上で、24時間かけて低温発酵させた生地を取り出す。

 小麦粉と水、塩、酵母だけで作られた加水率70パーセントの生地は、まるで赤ん坊の肌のように滑らかで、それでいて強い弾力を持っていた。


 佐藤は一切の無駄がない、洗練された手つきで生地を伸ばしていく。

 指の腹を使って中心から外側へ空気を押し出すように広げ、縁の部分――コルニチョーネ――をふっくらと残す。その流れるような動きは、まるで長年連れ添った楽器を奏でるかのようだった。


 丸く広がった生地の上に、イタリア・カンパニア州のヴェスヴィオ火山麓で育ったサンマルツァーノ種のトマトを丁寧に裏ごしした特製ソースを、円を描くように広げる。

 酸味と甘みのバランスが完璧なその赤いソースの上に、空輸で取り寄せた新鮮な水牛のモッツァレラチーズをたっぷりと散らし、最後に自前のプランターで摘み取ったばかりのフレッシュバジルを数枚乗せる。

 仕上げに、黄金色に輝く上質なエクストラバージンオリーブオイルを「の」の字を書くように回しかければ、準備は完了だ。


 パーラーに生地を素早く乗せ、450度という灼熱にまで温度を上げた薪窯へと滑り込ませる。


 ここからは、わずかな隙も許されない時間との勝負だ。

 強烈な輻射熱により、生地の水分が一気に蒸発して表面がプクプクと膨らみ始める。コルニチョーネにヒョウ柄のような美しい焦げ目がつき、純白のモッツァレラチーズがとろけてマグマのように激しく沸騰する。


 約90秒。焦げる寸前、最も旨味が凝縮される絶妙なタイミングを見計らい、佐藤は窯からピザを取り出した。


 熱気とともに、バジルの爽やかな香りと、焦げた小麦の香ばしい匂いが部屋全体を満たす。完璧な焼き上がりだった。


 しかし、これだけでは彼の儀式は完成ではない。佐藤はすぐさま背後の冷蔵庫を開け、キンキンに冷えたガラス瓶を1本取り出した。


 赤いラベルに白いリボン状のロゴ。王冠を栓抜きで弾き飛ばすと、「プシュッ」という小気味良い音とともにボトルの口から白い冷気が立ち上る。

 コカ・コーラだ。


 熱々で強烈な塩気と脂のあるナポリピザを口に放り込み、口内が火傷しそうになるその瞬間に、氷のように冷えた強炭酸のコーラで脂ごと一気に胃袋へと流し込む。

 高級なワインやクラフトビールも悪くはないが、極上の職人技と大衆的なジャンクさが口の中で暴力的に交わるこの組み合わせこそが、佐藤にとっては他の何にも代えがたい究極のペアリングだった。


「うわ、またピザ焼いてる。ボス、そろそろ小麦粉の摂りすぎで死ぬよ?」


 佐藤の背後から、呆れたような、しかしどこか甘えるような声が響いた。


 振り返ると、オーバーサイズの黒いパーカーに身を包み、ごついヘッドホンを首から下げた少女が立っていた。

 田中襟華、17歳。

 アンチフレアの社員であり、佐藤が抱える「裏の仕事」における専属の天才ハッカーだ。


「死なないさ。言っているだろう、これは事件に向き合う前の、思考を極限まで研ぎ澄ますための儀式だ。……襟華も食うか?」


「食べる。あと、そのコーラももらう」


 襟華は小脇に抱えていた使い込まれたスケートボードを床に転がすと、有無を言わさず佐藤の手から瓶コーラを奪い取り、遠慮なくラッパ飲みで喉を鳴らした。


 「ぷはぁっ、生き返る」と息を吐き出し、マルゲリータの最もチーズが乗った中心部分を豪快にちぎり取る。


 佐藤はやれやれと小さくため息をつきながら、再び冷蔵庫に向かい、自分用の2本目の瓶コーラを取り出して栓を抜いた。


 それから数分間、二人は無言でピザとコーラの究極のペアリングを堪能した。

 佐藤が最後の一切れを飲み込み、2本目のコーラを完全に空にして息を吐き出した時、彼の精神は一切の雑念がない、研ぎ澄まされた氷の刃のような状態に仕上がっていた。


「……美味かった。これで儀式は完了だ。襟華、新しい『依頼』を持ってきているのだろう?」


 佐藤が静かに促すと、襟華は指先についたオリーブオイルをペロリと舐め取った後、ポケットから除菌用のウェットティッシュを取り出し、指の腹から爪の先まで几帳面に拭き上げた。

 そして、傍らのバッグから自身の商売道具である高精細のタブレット端末を取り出し、佐藤の前のカウンターに滑らせた。


「これだよ。渡辺弁護士がAIと人力で一次フィルターをかけた被害相談の束の中で、一つ、どうしても見過ごせない案件があってね。送信者は22歳の女性会社員。ターゲットは……出たよ、またしょうもない、底辺の承認欲求モンスター」


 タブレットの画面に表示されていたのは、派手な金髪に不快な柄のサングラス、全身を露骨なハイブランドのロゴ入りジャージで固めた男の動画チャンネルだった。


 チャンネル名は『ジャック・ザ・バズの突撃チャンネル』。

 登録者数は、なんと85万人を超えている。


「いわゆる『迷惑系YouTuber』というやつか」


「そう。一般人の些細なトラブルに首を突っ込んだり、店に理不尽なクレームを入れたりする動画でバズってる正真正銘のクズ。今回は、依頼人の実家である小さな定食屋がターゲットにされたみたい」


 襟華が画面をタップし、該当する一本の動画を再生する。


 タイトルは『【神回】態度の悪い老害店主に正義の説教してやったwww』。

 公開からわずか数日で、すでに再生数は200万回を突破していた。


 動画の中のジャックは、下町の古びた定食屋『あけぼの食堂』に、無断でカメラマンを引き連れて乗り込んでいく。


 彼は店のメニューの端から端まで、およそ1人では到底食べきれない量の料理を注文した。テーブルを埋め尽くす料理の山。

 そして彼は、それぞれの皿を一口だけ食べて「味が薄い」「肉がゴムみたいで食えたもんじゃない」「エサかよこれ」と大声で貶し、大半を残して席を立とうとしたのだ。


 当然、厨房から出てきた初老の店主は「食べ物を粗末にするな。そもそも動画の撮影なんて許可していない」と顔を真っ赤にして怒る。

 しかし、それこそがジャックの狙いだった。


 彼はカメラに向かって大袈裟に怯える被害者を演じ、「うわ、客に怒鳴り散らすヤバい店だ!」「みんな見た!? しかも厨房の奥にデカいゴキブリが見えたんだけど!」と、事実無根の捏造までまくし立てた。


 さらに悪質なことに、ジャックは動画の概要欄に店の住所と電話番号を晒し、思考停止した信者たちに向けてこう煽っていた。


『こういう老害がやってる不衛生な店は、飲食業界から淘汰されるべき! みんなで正義の声を届けようぜ!』


「……反吐が出るほど、ひどいもんだな」


「現在、あけぼの食堂のグルメサイトのレビューは、信者たちの荒らしによって星1つの最低評価で埋め尽くされてる。連日連夜の無言電話やイタズラ予約、挙げ句の果てには店への嫌がらせの張り紙までされた。店主のお父さんは心労で心筋梗塞を起こして倒れて、今は集中治療室に入院中。当然、お店は無期限の休業状態だよ」


「警察は動かないのか?」


「動かないね。名誉毀損や威力業務妨害で相談はしてるみたいだけど、『まずは民事で解決してください』ってお決まりのパターン。ジャック自身が直接店を破壊したわけじゃないから、信者の暴走ってことで責任から逃げ切るつもりなんだよ。弁護士費用も馬鹿にならないし、依頼人の家族は完全に泣き寝入り寸前」


 佐藤の内で、氷のように冷たく、そしてどす黒い感情が静かに渦を巻き始めていた。


 佐藤はタブレットの画面に映る、下品な笑い声を上げるジャックの顔をじっと見つめた。

 その瞬間、佐藤の瞳孔がわずかに収縮し、瞳の奥に青白い光が走る。


 彼だけが持つ特殊な異能、『電脳の審眼』の発動だ。


 佐藤の視界の中で、タブレットの液晶画面から、まるでヘドロのような赤黒いノイズのモヤが立ち上り始めた。

 それは動画のデータそのものに染み付いた、投稿者の「悪意」「他者を見下す優越感」、そして底なしに肥大化した「承認欲求」の塊だった。


 モヤは空間でうねりながら、次第に意味を持った文字の形を成していく。


『チョロすぎワロタ。ちょっと煽っただけでジジイ顔真っ赤じゃん』

『炎上様々だな。これで今月の広告収益も爆上がり確定』

『老害どもは俺の養分になればいいんだよ』

『もっとバカな信者どもけしかけて、この店完全に潰すかw』


 表向きの「正義」や「世直し」という言葉の裏に隠された、身の毛もよだつような醜い本性。本人は巧妙に隠しているつもりの邪悪な本音が、佐藤の目には明確な視覚情報としての「カルマ」となって突き刺さってきた。


「……真っ黒だな。他人の人生を壊して稼ぐ金と称賛でしか、己を満たせない底なしの怪物だ」


 佐藤が低く冷たい声で呟くと、襟華はニヤリと小悪魔のような残虐な笑みを浮かべた。


「やる? ボス」


「当然だ。依頼人の娘さんには、我々アンチフレアとして正式に依頼を受諾すると伝えてくれ」


 表の顔である『炎上対策コンサルタント』としての出番は、ここまでだ。


 ここから先は、法では裁けない悪質なインフルエンサーを、彼らが最も依存するネットの力を使って徹底的に社会から抹殺する『処刑人』の領域となる。


「襟華。まずは奴の裏垢、別名義の隠し口座、過去に削除した未編集動画、交友関係……すべて洗い出せ。仮想通貨のウォレットから出会い系アプリの履歴まで、電子の海に漂う塵一つ残すな」


「了解。もう大半はぶっこ抜いてあるけど、さらに深掘りするよ。あのクズの人生のブラックボックス、隅から隅までこじ開けてやる」


 襟華は自身のスマートフォンを取り出し、恐ろしい速度でフリック入力を始めた。


「じゃ、私は特等席に戻るね。徹夜確定だから、あとで夜食の差し入れよろしく」


 襟華は床に置いていたスケートボードを足先で器用に跳ね上げると、そのまま滑るようにして部屋を出て行った。


 自動ドアが静かに閉ざされる。

 襟華が去り、一人きりになって静寂を取り戻したアイランドキッチンには、再び薪の爆ぜる音だけが心地よく響いていた。


「さて……」


 佐藤はスマートフォンの画面を開き、ジャックの所属するインフルエンサー事務所の連絡先を表示した。


「まずは、気鋭のコンサルタントとして、彼に『最高のバズる企画』を提案してこよう。あの手の馬鹿は、高く持ち上げれば持ち上げるほど、落ちた時の音が大きくなるからな」


 発信ボタンを押す。

 通話が繋がるまでのわずかなコール音の合間、佐藤は獲物を狙う冷徹な処刑人の顔で、一人静かに呟いた。


「あなたの醜い承認欲求、私が最後まで満たしてあげましょう」


 夜景の光に溶け込むようなその静かな宣戦布告は、これから始まる残酷なショーの完璧な幕開けだった。

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