第一話 拾われた日
道の端で倒れかけていたとき、私は死ぬかもしれないと思っていた。
大げさじゃない。本当にそう思っていた。
王都を追い出されて三日。持っていた食料は昨日の昼に尽きた。水は今朝の小川が最後だ。空はどんよりと曇っていて、風が冷たくて、足がもう言うことを聞かない。
銀髪が土で汚れているのがわかった。聖女として着ていた白い法衣も、ずいぶんくたびれた。
おかしいな、と思った。
三日前まで、私は王都の神殿にいた。食事は出て、部屋はあって、聖女という肩書きがあった。それが今は、道端でへたり込んでいる。
理由は、単純だった。
無能だったから。
聖女の力を使うたびに周囲の何かが壊れた。制御できなかった。それを「暴走する危険な力」と判断されて、追放された。形式的な裁判もなかった。神官長が一枚の書状を読み上げて、翌朝には王都の外に出されていた。
文句は言えなかった。実際に、私の力は人を傷つけてきた。
だから、追放は正しい判断だと思っていた。
今も、思っている。
ただ、思いながらも足が動かなくて、視界が少しずつ暗くなってきていた。
あ、倒れるな、と思った瞬間、
「おい」
低い声がした。
顔を上げる力も残っていなかったから、靴だけが見えた。革の、厚底の、きれいな靴だ。旅人の靴じゃない。騎士か、軍人か、そういう種類の靴だった。
「生きてるか」
「……生きてます」
ぎりぎりで返事をしたら、ため息が聞こえた。
「見ればわかる。生きてるかどうかじゃなくて、立てるかって聞いてる」
「立て、ます。たぶん」
「たぶんって何だ」
短い沈黙があった。
それから、腕を引っ張られた。強い力で、でも乱暴じゃなかった。丁寧に、でも迷いなく、私を立たせてくれた。
視界がぐらついた。その人の肩に手をついたら、そのまま支えてくれた。
ようやく顔が見えた。
長身だった。鎧を着ていて、腰に剣を下げていて、切れ長の目が私を見下ろしていた。短めの金髪が、風に少しだけ揺れている。
美人だった。ただ、その顔に感情というものがほとんど載っていなかった。
「聖女の法衣だな」
「……元、です。追放されたので」
「追放」
繰り返したけど、驚いた様子はなかった。
「行くあてはあるか」
「ないです」
「正直だな」
「嘘をつく理由もないので」
その人が少し私を見てから、視線を道の先に向けた。
「俺の家はここから一時間歩いたところにある」
「はい」
「来るか」
来るか、というのは、ついてこいという意味なのか、どうするか選べという意味なのか、判断できなかった。
「……ご迷惑では、ないですか」
「迷惑なら声をかけない」
それもそうだ。
「では、お願いします」
「荷物はそれだけか」
私が持っていた小さな布袋を見て聞いてきた。
「はい」
「持ってやる」
「自分で持てます」
「持てる顔じゃない」
有無を言わさず布袋を取られた。
歩き始めると、その人は私の歩くペースに合わせてくれた。長い足があるから、本来はもっと速く歩けるはずなのに、何も言わずにゆっくり歩いてくれた。
「名前は」
「リリア、です。リリア=ソレイユ」
「エルザだ。エルザ=ヴァルト」
「エルザさん」
「呼び捨てでいい」
「では、エルザ」
エルザは返事をしなかった。でも、なんか、少し歩く速度が落ちた気がした。気のせいかもしれない。
一時間歩いて、辺境の村に着いた。
小さな村だった。家が二十軒あるかないか。畑が広がっていて、遠くに森が見える。王都とは全然違う、静かな場所だ。
その中でも端の方にある、石造りの家にエルザは入っていった。
「ここだ」
中は、思っていたより広かった。
一階に台所と居間があって、二階に部屋がいくつかあるらしい。家具は少ないけど、ちゃんと掃除されていた。生活している感じがした。
「二階の一番奥が空き部屋だ。使っていい」
「本当にいいんですか」
「ああ」
エルザが台所に向かって、何かを出し始めた。
「腹減ってるだろ」
「あ、お手伝いします」
「座ってろ。揺れてる」
「揺れて、」
確かに足元がふらついていた。
私はテーブルの椅子に座った。
エルザが無言で料理を始めた。手際がいい。騎士なのに料理ができるんだ、と思いながら見ていたら、しばらくしてスープとパンが出てきた。
「食え」
「いただきます」
スープをひと口飲んだ。
あたたかかった。塩加減がちょうどよくて、野菜の甘みがあって。
三日ぶりにちゃんとしたものを食べた。
気づいたら、目が熱くなっていた。
「どうした」
「あ、えと、」
「まずかったか」
「おいしかったです。すごく」
エルザが少し間を置いた。
「なら泣くな」
「ごめんなさい。泣くつもりじゃなかったです」
「わかってる」
エルザは向かいに座って、自分もスープを飲み始めた。
しばらく無言だった。でも、その沈黙が不思議と苦じゃなかった。
「追放された理由は」
「力が制御できなかったから、です」
「聖女の力が?」
「はい。使うたびに周囲に影響が出て。制御不能と判断されて」
「誰が判断した」
「神官長が」
エルザは少し眉を動かした。
「神官長が自分で判断したのか」
「そうです」
「正式な裁判は」
「ありませんでした」
エルザが何も言わなかった。でも、その顔が少しだけ変わった気がした。無表情のまま、でも、何かが動いた。
「……おかしいと思います?」
「思う」
即答だった。
「でも、私が制御できなかったのは本当のことなので」
「制御できないのと、追放される理由は別だ」
そんなふうに言ってくれる人は、初めてだった。
神殿では誰も、そういうことを言ってくれなかった。みんな、制御できない力は危険で、危険な聖女は追放されて当然、という結論を先に持っていた。
「リリア」
「はい」
「ここにいる間、力を使う練習をしてもいい」
「え?」
「俺も多少は魔力の扱いがわかる。見てやれないことはない」
私はしばらく何も言えなかった。
追放されてから三日間、次にどこへ行くか、何をするか、そういうことを考える余裕もなかった。ただ歩いて、倒れかけて、拾われた。
なのに今、この人は「練習してもいい」と言っている。
「なんで、そんなに良くしてくれるんですか」
「道端で倒れてたから」
「それだけですか」
「それだけじゃないと何か変わるか」
変わらない、と思った。
変わらないけど、知りたかった。
「変わりませんけど、知りたかっただけです」
エルザが少し私を見た。
切れ長の目が、静かにこちらを向いていた。
「倒れてた人間を見捨てられる性格じゃない。それだけだ」
「そうですか」
「そうだ」
エルザがスープの残りを飲み干して、立ち上がった。
「食べ終わったら風呂に入れ。水は張ってある」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「それでも言いたいので」
エルザが少し止まった。
振り返りはしなかったけど、止まった。
「……好きにしろ」
それだけ言って、台所に戻っていった。
私はスープの最後のひと口を飲みながら、窓の外を見た。
曇っていた空が、少しだけ晴れてきていた。
三日前、王都を出たとき、もう何も残っていないと思っていた。聖女としての立場も、居場所も、未来も。全部終わったと思っていた。
なのに今夜、あたたかいスープを飲んで、眠れる部屋がある。
それだけで、なんか、もう少し生きていられる気がした。
隣の部屋から、エルザが食器を片付ける音がした。
静かな音だった。
私はその音を聞きながら、ここが案外悪くないかもしれない、とぼんやりと思った。




