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プラスチック・ブルー  作者: いわたとおる


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7 『ソースの匂いとシャンプーの香り』

 7 『ソースの匂いとシャンプーの香り』


 僕にとって、放課後の生物準備室は聖域だ。

 教室という名の監獄から解放され、誰の目も気にせずにいられる聖域。プラモデル製作という、ただ指先の感覚だけに没頭できる唯一の時間。何者にも代え難い至福の間だ。

 外は梅雨の激しい雨が降り続いていた。だが、そのノイズさえもここ(シェルター)の静寂を際立たせるBGMに過ぎない。

 今日は湿度が高いため、塗装はできない。

 僕は作業机に向かい、ひたすらにパーツの表面処理やすりがけを行なっていた。四〇〇番のサンドペーパーでゲート跡を削り、六〇〇番でならし、八〇〇番で整える。

 シュッ、シュッ、という微かな摩擦音。プラスチックの粉が雪のように舞い、指先が白くなる。

 この単調なリズムこそが至高だ。世界がこの部屋だけで完結しているような、完璧な平穏。

 その平穏は、唐突に破られた。

 ノックもなく、ドアが乱暴に開かれたのだ。いつもの「静かなる来訪」ではない。何かに追われているかのような、切迫した気配と共に、奴が転がり込んできた。

 月島レイナだ。

 彼女は入室するなり、背後のドアを素早く閉めた。ガチャリと鍵をかける。それだけでは安心できないのか、ドアノブを二度、ガチガチと引っ張って施錠を確認し、さらにはドアに耳を当てて、音で何者かの気配を確認する。その動きは、生徒会長というよりは、指名手配中の逃亡犯のそれだった。

「……何をした」

 僕はペーパーを持つ手を止めて、尋ねた。

「誰かを殺したか、それとも学校の金庫から金を盗んだのか」

 彼女は肩で息をしながら振り返った。

 その顔色は蒼白で、しかし、瞳だけは異様な興奮にギラギラと輝いている。

 彼女は濡れた鞄を、赤ん坊を抱えるように大切に胸に抱きしめていた。

「佐藤くん、換気扇」

「は?」

「質問はあと。いますぐ換気扇を回して。……『強』にして」

「だから、なんで……」

「いいから早く! これがれたら、私は社会的な死を迎えてしまうのよ!」

 いままで見たこともない必死な表情で、月島レイナは訴えてきた。

 ただごとではない。

 僕は作業を中断し、換気扇の紐を引いた。古びたファンが唸りを上げて回り出す。なんだ? 毒ガスでも蔓延したのか? まさか、コロニーに撒かれたG3(ジー・スリー)ガスか。

 僕はオタク度を全開にして、有らぬ妄想を暴走させた。

 環境が整ったのを確認すると、月島レイナはようやく作業机の、僕の聖域であるスペースに鞄を置いた。彼女は周囲を警戒するように一度キョロキョロと視線を彷徨わせてから、鞄のファスナーを開け、そこから厳重に包まれたコンビニ袋を取り出した。

 コンビニ袋? なんで?

 僕の疑念などお構いなしに、月島レイナはガサガサと袋を開ける。中から現れたのは、凶器でも盗品でもなかった。

 黒い円盤状のパッケージ。極太のゴシック体で書かれた『日清焼そばU.F.O.』。

「……おまえ」

 僕は脱力した。

「それを食うためだけに、ここをアジトにしたのか」

「静かに。壁に耳あり障子にメアリーよ」

 どういうギャグセンスなんだ。

「何年前のダジャレだよ」

「え? これダジャレなの? 生徒会の子たちが『内緒話する時の魔法の言葉』って言ってたから……」

 たまに……いや、結構な頻度で思うことがある。うちの生徒会長はアホなのか。世間知らずなのは知っているが、ここまで来ると、ただのアホだとしか思えん。

 僕の心の中のボヤキなど意に介さずに、彼女は真剣そのものの眼差しで、パッケージのフィルムに爪を立てた。

「今日の予算委員会、本当に最悪だったの。運動部の部長たちが文句ばっかり言って……。全員の顔面に書類を叩きつけてやりたかったけど、さすがにそれはできないから」

 ビリッ、とフィルムが破かれる。

「だから、やってやることにしたの」

「何をだ」

「不良行為。……校内での買い食いよ」

 彼女は宣言した。優等生の彼女にとって、校則違反の校内でのカップ麺の飲食は、精一杯のレジスタンスなのだろう。反抗の犯行がカップ焼きそばというのは、いささか可愛らしすぎる気もするが、本人は至って本気だ。やっぱりアホだった。

 僕は小さく溜息をつき、コーヒー用の電気ケトルのスイッチを入れた。お湯が沸くまでの間、彼女はソワソワと落ち着きがなく、実験台の周りをうろうろしていた。

 なにをそんなにソワソワしているのだろう。カップ焼きそばを食べるのが初めてだとか? いやいや、いくらなんでもそれはないだろう。高校生にとってカップ麺は、この上ない間食の友だ。

「作り方は分かるのか?」

「馬鹿にしないで。説明書くらい読めるわ」

 説明書……。

 彼女は蓋を半分まで開け、中から小袋を取り出し――そして、迷いなく液体ソースの封を切り、乾いた麺の上にぶちまけようとした。

「待て!!」

 僕は思わず大声を出して、彼女の手首を空中で掴んだ。

「えっ、なに!?」

「おまえ、いまなにを入れようとした」

「ソースだけど……」

「馬鹿か! お湯を入れる前にソースを入れてどうする。湯切りの時に、全ての味が排水溝に流出するぞ」

 僕が指摘すると、レイナは目を見開き、自分の手元のソース袋と、乾いた麺を交互に見た。

「……あ」

 彼女の顔からサーッと血の気が失せた。

 こいつ、知らなかったのか……。

「危なかった……。構造的欠陥かと思った」

「おまえの脳みその欠陥だ」

 僕はソースの袋を奪い取り、机の脇へ避難させた。先が思いやられる。

 三分間の待ち時間は永遠のように長く感じられた。

 雨音だけが響く部屋で、僕らは黙って円盤を見つめていた。彼女の視線は孵卵器の中の卵を見る時と同じくらい真剣で、どこか祈るようだった。

「……よし、時間だ」

 僕が合図をすると、月島レイナは緊張した面持ちで容器を手に取り、流し台へと向かった。

 この準備室の設備は古い。シンクは傷だらけのステンレス製で、熱湯を流すとどうなるか、箱入り娘の彼女はまだ知らない。

「火傷するなよ。ゆっくり傾けろ」

「分かってる。子ども扱いしないで」

 いや、するよ。だって……。

 彼女は慎重に湯切り口を下に向けてお湯を捨て始めた。熱湯がシンクの底板に当たる。

 その瞬間だった。熱膨張を起こしたステンレス板が、耐えきれずに悲鳴を上げた。

 ボコッ!!

 古びた準備室特有の、底板が反り返る爆音。

「ひゃっ!?」

 月島レイナが短く叫んだ。

 驚きのあまり、彼女は小動物のようにその場でピョンと飛び跳ね、背後にいた僕の方へ身を引いた。

 ふわり、と重力に逆らって、制服のプリーツスカートが翻る。スローモーションのように、視界が切り取られた。ブルーチェックのスカートの奥。太腿の柔らかなライン。そして、そこにあってはならない、眩しいほどの純白。

 ――見てしまった。

 僕の動体視力は、その「白」の残像を網膜に焼き付けてしまった。

 レースの質感まで認識できるほどの圧倒的な白。

 清潔で、無防備で、侵してはいけない聖域のような白。

 薄暗い梅雨の準備室の中で、そこだけが発光しているかのように眩しかった。

 普段の彼女は生徒会長という鉄壁の鎧を着ている。けれど、その下にはこんなにも華奢で、頼りないほど女の子らしい「秘密」が隠されていたのだ。

 見てはいけない。分かっているのに、脳裏にこびりついたその残像は、瞼を閉じても消えてくれない。

 僕は反射的に顔を背け、天井を仰いだ。

 全身の血液が沸騰したように熱い。心臓が肋骨を叩く音が、雨音よりも大きく耳元で鳴り響いていた。

「あ……」

 月島の声が震えている。彼女は着地すると同時にスカートの裾を両手で押さえ、耳まで真っ赤にしていた。

 彼女も気づいている。見られたかもしれない、と。だが、ここで「見た」と言うわけにはいかない。それは彼女の尊厳に関わる問題であり、何よりこの奇妙で、心地よい友人関係を崩壊させかねない。

「……ふふ古いシンクだだだからな。よよよく鳴るんだ」

 僕は努めて平静を装ったが、声が上ずった。

「そそそ、そうだね。……しし心臓止まるかと思った」

 彼女もまた、僕と目を合わせずに答えた。

 部屋の空気が、湿気とは違う種類の熱を帯びていた。

 気まずい。

 けれど、その気まずさの中に、どうしようもないほど甘酸っぱい電流が走っている。

 ダメだ。忘れろ。

 僕は自分に言い聞かせた。

 月島がソースを混ぜ合わせると、強烈な匂いが充満した。スパイシーで、ジャンキーで、暴力的な香り。それがいまの僕には救いだった。この匂いが、さっきの「白」の記憶を少しだけ中和してくれている気がしたからだ。

 僕たちは長机に並んで座り、一つの焼きそばを突っついた。二人で同時にいただきますをする。

「……ん」

 一口食べた彼女が目を見開いた。

「すごい。味が濃い。……体に悪そう」

「それが美味いんだろ」

「うん。……背徳の味がする」

 彼女はふふ、と笑い、また一口頬張った。

 僕は彼女の横顔を盗み見た。

 リスのように頬を膨らませて食べる姿は、教室で見せる冷徹な生徒会長とは別人のようだ。口の端に少しだけソースがついている。

 普段なら「ついてるぞ」と指摘できるのに、いまはそれができなかった。そこを見ると、また別の想像をしてしまいそうだったからだ。

 沈黙を埋めるように、彼女が視線を孵卵器へ向けた。

「ねえ、佐藤くん」

「なんだ」

「この子たちに、名前つけない?」

 彼女は箸を置いてから、ガラスの向こうの三つの卵を指さした。

「愛着が湧くと、観察に支障が出るぞ」

「いいじゃない。どうせなら、強そうな名前がいい」

 彼女は焼きそばの容器を見つめ、それからさっきのシンクの方を見て、悪戯っぽく言った。強そうって、闘鶏でもするのか。

「じゃあ、右の子が『ソース』」

「……安直だな」

「真ん中の子が『ユーフォー』」

「そのままだろ」

「で、左の一番小さい子が――『ボコ』」

 僕は吹き出しそうになった。

「ボコって……。いじめられそうな名前だな」

「そうね。三つの中で一番小さくて、弱そうだもの」

 彼女はガラス越しにその小さな卵を見つめ、それからさっきのシンクの方へと視線を移した。

「でもね、さっき一番大きな音を立てたでしょ? 『ボコッ』って」

 ああ、あの爆音か。

「一番弱そうに見えても、熱くなれば、あんなに大きな声を上げられる。……ただ黙ってへこまされたりしない」

 彼女の瞳に、強い光が宿る。

「ボコちゃん。あなたは強く育つのよ。何があっても、大きな音を立てて跳ね返すの」

 それはまるで、彼女自身への切実な願いのようにも聞こえた。

 ソース。ユーフォー。そして、ボコ。ふざけた名前だが、彼女がそう呼んだ瞬間、ただの有機物の塊だった卵たちが、確かな人格を持った「仲間」になった気がした。

「……ごちそうさまでした」

 完食した容器を片付けると、現実に引き戻される瞬間が来た。匂いの隠蔽工作だ。

「やばい、まだ匂う! 佐藤くん、もっとあおいで!」

「おまえが持ってきたんだろ!」

 二人で下敷きを持ち、必死になって換気扇へ風を送る。

 ドタバタと動き回るたびに、彼女の髪からふわりと甘いシャンプーの香りがして、それがソースの匂いと混ざり合う。 そのちぐはぐな感覚が、僕たちの関係そのものみたいだった。

 下校のチャイムが鳴り、彼女は逃げるように帰っていった。

 一人残された生物準備室。

 僕は椅子に座り込み、深く息を吐いた。まだ鼻の奥にはソースの匂いが残っている。

 そして瞼を閉じれば、あの瞬間の光景が――恥じらうような白さが、鮮明に蘇ってくる。

 僕は自分の右手の指先を見つめた。次の工程は、やすりがけだ。この指で、微細な凹凸を削り、形を整えていく。

 数日後、また彼女がここに来たら。

 その時、僕は平然とした顔でいられるだろうか。

 雨音はいっそう強くなり、僕の熱を冷ますように降り続いていた。



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― 新着の感想 ―
放課後の生物準備室。いつもいい時間がながれていて、拝読するたび尊いなぁと感じます。 今回、月島さんの隙がいろいろ見れて可愛いかったです。 カップ焼きそばあるあるには笑いました。 シンクのボコッ、グッ…
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