Ex-01『子猫と少女』
Ex-01『子猫と少女』
今日も滞りなく一日が終わりました。
中学校での成績は満点で、先生方は満足そうに頷いてくださいました。生徒会の放課後の打ち合わせも、私の進行によって予定より五分早く終了いたしました。それが私の、月島家の娘としての当然の務め。そしてこの学校の生徒会長としての通常業務です。
私のブラウスは、雨の予報がある六月の湿った空気の中でも、少しの汚れも、少しのしわも許されていません。お母様が選んでくださったこの白い生地は、とても厚くて硬く、私を外界から守るための特別な色のようです。
駅から自宅へと続く、いつもの決められた帰り道。 私は一歩も寄り道などしません。だって、お母様が位置情報を確認していることを知っていますから。歩幅だって七〇㎝。いつも通りの間隔です。
その時でした。
大きな道路が交差する高架下の、薄暗いコンクリートの隅から、その「音」が聞こえてきたのです。
「……みぃ」
か細くて、いまにも消えてしまいそうな、小さな、けれど切実な音。 それは、私の整然とした世界には存在しない、不確かなノイズでした。
なに、この音? いいえ、声?
私は立ち止まってしまいました。
無視しなければダメと、頭の中の私が私を叱ります。関われば服が汚れてしまうかもしれません。危険が及ぶ突発的ななにかに巻き込まれてしまうかもしれません。それになにより、このままではお母様が決めた帰宅時間に間に合わなくなってしまいます。
それだけはなにがあっても避けなければならないことでした。
私は、何事もなかったかのように歩き出そうとしました。
「……みぃ、みぃ」
でも、二度目の声が、私の足に目に見えない鎖をかけました。気づけば私は、買ってもらったばかりの革靴を汚すのも厭わずに、埃っぽいコンクリートの影へと歩み寄っていました。
そこには打ち捨てられた小さな段ボール箱がありました。雨水を含んでふやけた箱の中から声が聞こえるのです。
ちょっと怖い気がしました。でもそれよりも初めて心の中に湧き上がってきた好奇心の方が大きかったのです。
私は段ボールの中を覗き込みました。
その底に、その子はいたのです。
それは、自分の体よりも大きな声で鳴いている、泥にまみれた小さな子猫でした。
灰色の毛並みは固まっていて、小さな体は小刻みに、激しく震えています。
寒いのでしょうか。それとも私が怖いのでしょうか。
よく見てみると、体は濡れています。いまは止んでいますが、今日は雨が降っていました。そんな中に、この子は放置されていたのです。寒さと恐怖の両方に襲われていてもおかしくないです。
その子の瞳が、私を見上げました。
濁りのない、真っ直ぐな、助けを求めるような眼差し。
私は思わず、息を呑みました。
「……どうしよう」
独り言が、私の震える唇から漏れました。
私は恐る恐る子猫に手を差し伸べました。
私の白い指先がその子に触れようとして、空中で止まっています。
こんなに汚れたものに触れてはいけない。
こんなに不確かな命を背負ってはいけない。
けれど、私の指先の震えは止まりません。
それは、お母様に叱られることへの恐怖ではなく、目の前のこの子が、私の手から滑り落ちて消えてしまうことへの、言葉にできない不安でした。
周囲を何度も確認しました。
知っている人が私を見ていたらどうしよう。お母様に連絡されたらどうしよう。
幸い、この薄暗い高架下を歩く人は誰もいません。
私は、自分の白いハンカチを広げると、泥で汚れるのを覚悟して、その小さな、けれど三七・五度の熱を帯びた命を、そっと救い上げました。
なんと表現していいのかわからない、いい匂いがします。
ほんのり甘いミルクの匂い……? お日様に当てたタオル? 香ばしいナッツの匂い?
この小さな命を抱いた時、私の中でなにかが音を立てました。
これが私の人生で初めての、誰にも言えない「正しくないこと」の始まりでした。
あの日から、私の世界には「正解のない時間」が混じり込むようになりました。
学校では、いままで通り完璧な生徒会長を演じています。授業の内容はすべて理解できていますし、先生方への受け答えも、一分の隙もありません。けれど、教科書の文字を追っていても、私の耳の奥には、あの高架下で聞いた小さな、消えそうな鳴き声がずっと響いているんです。
放課後、お母様から届く「早く帰りなさい」という無機質な通知を指先でなぞりながら、私は生まれて初めて、決められたルートを外れて走り出しました。
高架下に辿り着くと、雨に濡れたコンクリートと、ふやけた段ボール箱の、鼻を突くような酸っぱい匂いが私を迎えます。 箱を覗き込むと、その子はまだそこにいました。昨日はあんなに大きく聞こえた鳴き声も、いまは掠れて、やっと聞き取れるほどになっています。
「……どうしましょう。まだ、何も食べていないのね」
私は、あわてて近くのコンビニエンスストアへ駆け込みました。
店内は、目が痛くなるほどに白く明るい光で満たされています。棚に並ぶ色とりどりの商品。私はその前で、金縛りにあったように立ち尽くしてしまいました。
「猫ちゃんのご飯は、どれが正しいのでしょう……」
学校のテストなら、すぐに答えが分かります。だけど、ここには「仕様書」も「模範解答」もありません。
スマートフォンで調べました。牛乳は猫ちゃんの体に良くないという記事もあれば、専用のミルクが必要だという意見もあります。小さな銀色の缶詰や、カラフルな袋に入ったカリカリとした粒。
私はパニックになりながら、何分も、何分も棚の前で立ち止まってしまいました。スマホの画面を何度もなぞり、指先は冷たく震えています。
結局、私は一番高価で、一番栄養がありそうな猫用ミルクと、柔らかそうな離乳食を、震える手でカゴに入れました。
高架下に戻り、地面に膝をつきます。
「汚しちゃダメ」と、頭の中のお母様の声が響きます。私の白いブラウスは、泥水の跳ねたコンクリートに触れれば、二度と元の真っ白な色には戻らないでしょう。
でも……。
いまの私にとって、服の汚れよりも、目の前の小さな命の灯火が消えてしまうことの方が、ずっと、ずっと怖かったのです。
私は、清潔なハンカチを汚すのも厭わず、その子をそっと抱き上げました。
昨日よりも、その体はなんだか小さく、軽くなっている気がします。けれど、指先に伝わってくる三七・五度の熱は、確かにそこにありました。
「……お願い、食べて……」
私は、プラスチックの小さなスプーンで、離乳食をその子の口元に運びました。
最初は怯えるように鼻を近づけて、匂いを嗅いでいます。安全だとわかったのか、舌で舐めるように食べ始めました。
「食べてくれた……」
泥で汚れた毛並みが、私の指に触れます。ザラザラとした感触。でも、その奥にある肌の柔らかさは、あまりにも無防備で、私が家で守り続けている「冷たい静寂」とは正反対の温かさでした。
私はその時、なんて表現したらいいのかわからない、胸が締め付けられるような、それでいて温かい感情を覚えました。初めて知る心の動きです。
その時、ポケットの中でスマートフォンが激しく震えました。
お母様からの、帰宅時間を確認する合図です。
私はビクッと肩を跳ねさせ、思わずその子を落としそうになってしまいました。
「……困ったな。もう行かないと……」
時間は刻一刻と過ぎていきます。私は、食べ残したご飯を片付け、段ボールの隙間にタオルを詰め込みながら、あたふたと立ち回りました。 髪は乱れ、靴には泥がつき、心臓は壊れた時計のように激しく脈打っています。
完璧な私。
どこにも隙のない、お母様様の自慢の娘。
そんな私の「殻」が、この数日間で、ボロボロと剥がれ落ちていくのを感じていました。
だけど、立ち去り際に振り返ったとき、その子がほんの少しだけダンボールから顔を出して、私を見ていました。小さな、だけど温かい命。
私は自分の汚れた指先をぎゅっと握りしめました。
明日も、明後日も、私はきっとここへ来てしまうんでしょう。
正解も、マニュアルも、出口も分からないまま。
ただ、あの小さな熱を、この手で守り抜くために。
その子のお世話を始めてから、三日が経ちました。
誰にも言えない「秘密の空白」が私にできてしまいました。その空白の為に私は生徒会を少しだけ早く切り上げ、足早に向かうようになりました。
いつもの高架下です。
手元には、昨日よりも少しだけ上手に準備できた、温かいミルクの瓶があります。 こっそりと家庭科室の電子レンジで温めました。人肌くらいの温度が最適みたいなので、来るまでに冷めても大丈夫なように、ちょっと熱めにして、高架下に向かいます。
「これなら、きっと喜んでくれるはず」
私はそう自分に言い聞かせながら、コンクリートの隅にしゃがみ込みました。膝が地面について、制服の緑のスカートに埃がついてしまいます。
普段の私なら、悲鳴を上げていたに違いありません。だって、お母様に叱られるから。でも、ダンボール箱の中から「みぃ」と小さな声が聞こえた瞬間、そんな汚れのことなんて、どうでもよくなってしまいました。
ミルクを飲むその子の喉が、ごくごくと小さく動いています。指先に触れる背中の毛は、驚くほど柔らかくて、けれどその奥には、壊れてしまいそうなほど細い骨の感触がありました。
「……あのね」
私は、その子に話しかけてみました。誰かに見られたら、きっと「生徒会長が独り言を言っている」と驚かれてしまうでしょう。でも、ここには私とこの子しかいません。
「昨日、調べたの。あなたと、……もっと仲良くなる方法を」
私は、スマートフォンで調べたことを思い出しました。そこには、教科書にも、お母様が買い与えてくれたマナーの本にも書いていないことが載っていました。
『猫と目が合った時、ゆっくりと瞬きをしてください。それは、あなたのことを信頼しています、愛しています、という合図なのです』
愛している、という合図。 私には、あまりにも遠い言葉でした。
私がいままで鏡の前で練習してきたのは、お母様に「良い子ですね」と言ってもらうための、完璧な角度の「笑顔」だけ。それは、相手に本心を悟らせないための、厚い壁のようなものです。けれど、この子にそんな嘘は通用しません。
私は緊張しながらも、自分の手をぎゅっと握りしめました。
手のひらに爪が食い込んで、少しだけ痛いです。そうしていないと、失くしてしまいそうだったから。
ミルクを飲み終えたこの子が、ふと顔を上げました。 宝石のように透き通った瞳が、真っ直ぐに私を捉えます。
「……やって……みるね」
私は深呼吸をして、この子の瞳をじっと見つめました。 それから、心の奥で「大好きですよ」と唱えながら、本当に、本当にゆっくりと、瞼を閉じました。
光が消えて、世界が暗くなります。
一秒、二秒。 暗闇の中で、鼻をくすぐる雨の匂いと、この子の小さな息遣いだけが、鮮明に聞こえてきました。
そして、ゆっくりと目を開けた時。
その子は逃げることもなく、私を見つめたまま、とろけるような仕草で、ゆっくりと、瞬きを返してくれました。
「……あ」
胸の奥が、じわっと熱くなるのを感じました。
それは、テストで満点を取った時の達成感とも、お母様に褒められた時の安堵感とも、全く違うものでした。
なんて説明したらいいのか、わかりません。でも、とても大切な気持ちだということはわかります。
冷え切っていた私の指先に、あの子の体温が、三七・五度の優しい熱となって伝わってきます。言葉なんてなくても、私の想いが届いて、そしてこの子の想いを受け取ることができました。
「……ありがとう」
私は、なぜか溢れ出しそうになる涙を必死に堪えながら、もう一度だけ、不器用に瞬きをしました。 あの子は、安心したように私の膝に頭を預けてきました。
私のブラウスは泥で汚れ、髪は湿気で乱れています。
でも、いまの私は、鏡の中にいる「完璧な私」よりも、ずっと、ずっと自分らしい気がしたのです。
この「魔法の瞬き」は、私だけの、たった一つの大切な秘密になりました。
あの子と出会ってから、五日が経ちました。
高架下の薄暗い景色も、コンクリートの湿った匂いも、いまの私にとっては、お母様の用意してくださる清潔なリビングよりもずっと、心が安らぐ場所になっていました。
「……今日は、少しだけ暖かいね」
私はいつものように地面に膝をつき、ダンボール箱の中を覗き込みました。
最初は泥の塊のようだったあの子の毛並みも、私が毎日少しずつ拭いてあげたおかげで、いまでは柔らかな光を反射するようになっていました。ミルクを飲む力も強くなり、私の指先を甘噛みする時の小さな歯の感触が、いまでも愛おしくてたまりません。
あの子を抱き上げると、腕の中に「三七・五度の熱」が伝わってきます。
それは、教科書に載っている数字としての温度ではありません。ドクンドクンと脈打つ、一生懸命に今日を生きている、確かな命の鼓動です。
私は、ずっと続けてきた「魔法」を施しました。
「……見ていてね」
あの子と真っ直ぐに目を合わせます。 それから、心の奥で『大好きですよ。幸せになってくださいね』と、祈るように唱えました。
すると、あの子は私を見つめ返したまま、とろけるような仕草で、いつもと同じようにゆっくりと瞬きを返してくれました。
「……はぁ」
胸の奥が、熱い塊を飲み込んだように震えました。
言葉なんてなくても、私の想いが届いて、そしてあの子からも「愛している」というお返事をもらえました。それは、お母様に「期待通りですね」と言われるよりもずっと、私の不器用な心を優しく包み込んでくれました。
その時、遠くから足音が聞こえてきました。 私は慌ててあの子を箱に戻し、柱の影に身を隠しました。
現れたのは、優しそうなご夫婦でした。
「昨日から気になっていたこの子。やっぱり放っておけないわね、お父さん」
「ああ。うちで一緒に暮らそうか」
ご主人が優しく箱を持ち上げました。 箱の中から、あの子が一度だけ「みぃ」と啼きました。
それは私へのお別れの挨拶だったのか、それとも新しい生活への期待だったのかは分かりません。けれど、あの子が冷たいコンクリートの上ではなく、誰かの温かな腕の中に居場所を見つけたことに、私は激しい寂しさと、それ以上の安堵を感じていました。
ご夫婦が去っていった後、私は空っぽになった段ボール箱を見つめて立ち尽くしてしまいました。
ふと見ると、私の白いブラウスの袖に、あの子がつけた小さな泥の跡が残っています。
私は、いつもなら「汚れ」として嫌悪するはずのその跡を、そっと指先でなぞりました。
この汚れは、あの子が私にくれた「生きた証」です。私の指先に伝わった、あの熱の記憶です。
私は、誰にも見られないように、空っぽの箱に向かってもう一度だけゆっくりと瞬きをしました。
もう、返事は返ってきません。
スマートフォンの画面が光り、お母様からの「帰宅の時間です」という通知が届きました。
私は深く息を吸い、乱れた髪を整え、再び「完璧な月島レイナ」の仮面を被りました。
明日からも、私は一点の曇りもない「白」を纏って生きていくでしょう。
だけど、私の胸の奥には、あの子と分け合った秘密の熱が、消えない灯火のように灯り続けています。
この熱を知っている限り、私はきっと、冷たいだけの世界でも歩いていける。
そう確信しながら、私は夕闇に沈む高架下を後にしました。




