【15】ネバーエンド、フォーエバー
「ただいま……」
いつもより重く感じるホテルのドアを押しながら、俺はそっと玄関の様子を見た。
「…………」
「……おっと」
玄関では、サヤが電気も点けずに立っていた。
どうするべきか暫く逡巡したが、こういう状況に遭遇したことが無い俺は、何一つ手立てを思いつかなかった。
仕方ないので、普通に入った。
「…………」
サヤは黙って突っ立ったままだ。
……さて、なんて声を掛ければ良いものか。
いや、謝るべきだな。心配かけたんだし。迷う必要は無い。普通に謝ろう。
「……サ───ん」
しかし、俺が口を開こうとするのとほぼ同時に、サヤが突っ込んできた。
サヤは何も言わず、俺の胸に顔をうずめる。
「……うーん、と……」
……同年代の女の子がこんなにくっついてくる体験は初めてだ。
サヤの艶のある黒髪から、シャンプーのいい匂いがする。あと温もりが……すごい。形容しがたい良さがある。もしこんな空気じゃなければ、内心跳ね回っていたことだろう。
だが、今はこんな空気なのでそんなことはしない。俺は空気の読める男。
「───」
「……ん? なんて? 」
「……あ、怪我……」
サヤは何か言おうとしたが、すんでのところで飲み込んで脇腹の苦無のことを指摘したようだった。何を言おうとしたんだろうか。
「あぁ、ちょっと狙撃されてさ」
「い、痛くないの……? 」
「痛い。けど慣れた。ただ衛生的な問題があるから、ちゃんとした処置をしたいとこだけど……」
深夜だし、俺行方くらましてる人間だし、苦無だし。
どうにかして誤魔化したいが、どうしたものか……。
「とりあえず風呂───はちょっと傷が染みそうだし、飯食いたいな……なんかある? 」
「えっと、冷蔵庫にサンドイッチがあるけど、それよりもっと気にした方が良いことないかな……? 」
「傷の手当? 今はローブの切れ端と『能力』で固定と止血してる」
「え、あ、そう、なの……? 消毒とか、しなくていいの……? 」
「あんまり素人がするもんでも無い気がするな。サヤが応急手当の知識持ってるなら良いけど───鵐目ー、帰ったぞー」
俺はローブをハンガーに掛けながら鵐目を呼ぶ。鵐目は誰かと電話しているらしく、ベランダから煙草を挟んだ手を振って答えた。
煙草吸いながら電話すんなよ……。
「───よいしょ」
俺は『触れずに冷蔵庫を開けて、レモンティーとサンドイッチを取り出した』。途中で色んな所にぶつけてしまったが、とりあえず手元まで持ってくることが出来た。
「あれ? 前からそんなこと出来たっけ? 」
「さっきの戦いで出来るようになった。今練習中」
俺はニュースを見る為にスマートテーブルを叩いて、壁に掛かっているモニタを点けた。行方をくらましている関係上自分のアカウントを使うわけにはいかないので、ホテル付属のゲストアカウントでログインする。
「……そういえば、最近ネット使ってないなぁ」
「下手に使うと居場所がバレそうだからな。でもアレだな、案外ネット使えなくても生きていけるんだな、現代っ子」
「そうだねー……」
サヤとそんなことを喋りつつ、俺は三つほど開いたニュースサイトを同時にスワイプしながら流し目に見ていく。
……ざっと見た感じ、コンビナートの騒ぎはまだあまり大きくなっていないようだ。
「……ホテル生活始めてから、サヤって普段何してるんだ? 」
「ん〜……。鵐目さんと話したり、後は……寝てるかなぁ」
「へぇ……。大丈夫? 退屈じゃない? 何だったら、本とか買いに行くか? 」
「今は大丈夫かな。今はちょっと───」
サヤはそこで一旦口を紡いだ。
「うん。ちょっとだけ、ゆっくりしていたい」
そう言うと、サヤは膝を抱えた。顔は外の、東京の夜景に向けられていた。
「……中学の時からさ、ずっと高校受験の為に勉強してて。夏休みも冬休みも春休みも講習受けてて。しんどかったけど、親に『良い高校に入れば将来は楽できる。今の苦労も大人になって振り返れば良い思い出になる』って言われてたの」
「……うん」
サヤは淡々と語る。
俺は淡々と相槌をうつ。
「私もね、『後で苦労するか、今苦労しておくか』だったら後者を選ぶ人間だったから、我慢して続けてたんだ。それで努力し続けて来て、遂に良い高校に入学したの」
その高校の名前を聞いてもいいか尋ねると、サヤは嫌がらずに名前を出してくれた。偏差値70越えの、名門女子校だった。
俺はソレを聞いて、素直に「すごいじゃないか」と言った。サヤは恥ずかしそうに、悲しそうにはにかんだ。
「合格した時、すごい嬉しかった。今までの辛い時間が報われたと思った。親も私のことを褒めてくれた。でもね、当たり前だけど、私の人生はそこがゴールじゃなかった」
「うん」
「……前から、薄々気づいてはいたんだよ? 高いハードルを一度超えたら、その後三年間ずっと超え続けないといけないことに。でも気づいてないことにしてたんだ。親とか、塾の先生とか、学校の担任とかがみんな『君はすごい、頑張ってる、将来は明るいよ』って言うから、きっと大丈夫だと思った。多少大変でも何とかなるって、根拠の無い自信があったんだ」
「……でも、駄目だった」
俺が言葉を次ぐと、サヤは静かに頷いた。
「心が折れた原因は、一つじゃない。色んなことが積み重なって、私の心の中で確実に傷を負わせていたの。だから具体的なことは言えないけど、一つ言えるとしたら───」
サヤは一旦言葉を切り、ため息をついた。
そして、独白を再開した。
「私の上位互換がいたこと。私と同じ境遇で、私より心が強かった人。私より将来設計をきちんとしてて、私より部活を楽しんでて、私より健康的な生活をしてた人。その人と会話するにつれて、私はどんどん───どんどん、そう、辛くなった」
「……うん」
「だって私がカフェイン剤飲んで勉強してる間、あの人はテニス部で友達とダブルスしてたんだよ? 私がゲロ吐くほど努力しても、あの人は常に一歩先で、余裕で笑ってるんだよ? そんな人が隣に居てさ、メンタル保てるわけ無いじゃんか……」
……これは……。
「……そうやって、ずーっと高いハードル死に物狂いで飛び越え続けてさ、ずーっと周りがヘラヘラしながら軽く飛ぶのを見せつけられてさ、これから先も、多分死ぬまでこのハードル走は終わらないんだろうなって思うと……」
サヤはそこで言葉を切って、深く息を吐いた。結論なぞ言わずとも察しろ、ということだろう。
……やっべーなどうしよこれ……。
「……大変、だったんだな……」
「ん……」
「……俺みたいな人間が、あーだこーだと言う資格は無いわけで。君がこの選択をしたことに異議を申し立てるつもりは無いし、むしろ……尊重したい」
「……? 」
どうにかして彼女を元気づける───いや違うな、納得させる?───為に、ここはかなり慎重に言葉を選ばなければ。
「俺はあんまり人と喋らないから、こういう時どんな言葉を掛けるべきか分からない。分からないけど、俺は……そうだな、君を支えたい」
「…………」
「コレは個人的な思想なんだけど、人間は須らく幸せであるべきだと思っている」
やっべ、緊張で『須らく』の用法間違えた……!
「サヤは、中学三年間と高校の分のちょっとを勉強に費やしてて、ソレは君が将来を幸福にする為に払ってきたコストだ。そして、本来であれば今も、多分大学入ってからも、卒業して仕事をし始めてからも払い続けるであろうものだ」
「うん……ソレが多過ぎて、心が折れちゃった」
「ああ。だから、サヤはもう頑張らなくていい。面倒事は俺と鵐目に任せて、君は心を休めるべきだ」
俺が「もう頑張らなくていい」と言ったあたりで、サヤはハッとしたように俺を見ていた。
「いいの……? め、迷惑じゃない……? 」
「意外とお人好しなんだぜ、俺。女の子一人養うくらい、訳ないさ」
実際、BWTから三億円を踏んだくれば余裕だろうし。
「大体みんな、将来のことなんて何も分からないのに『君の未来は明るい』なんて適当言って。もしいきなり突然変異したウイルスが蔓延したら、それまでの三年間を一体どうやって責任取るんだろうな? 」
……ちょっとアレな雰囲気が出始めたので言い訳しておくと、猛勉強してエリートコースに乗った人間と中卒だったら、もちろん99.9%の場合前者の方が幸せだ。
ただ、今必要なのは正論ではなく、慰めの言葉なのだ。
彼女は99.9%を信じ切れなかっただけなのだ。
「君は十分頑張ったんだ。払ったコストの分、君は幸せになる権利がある」
俺はそう締め括って、彼女の肩に手を置く。
サヤは、肩に置かれた俺の手に自分の手を重ね、震える声で、
「……初めてだよ……そんな事言ってくれた人……」
と、言った。
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「終わったー? 」
「……何だよ鵐目、雰囲気ぶち壊しやがって」
「いやホラ、なんか二人だけの世界で完結しちゃってるからさ、ちょっと開かないとなって思って」
「……んで? 結局何の用なんだ? 」
「───これから、闇医者に診てもらうのさ! 」





