一人は遅刻。一人は忘れられる。
正確無比に切り出された岩の壁。職人芸の極限としての壁。
金銀、さらに宝石に飾られた装飾が、その面をリズミカルに、波のように華やかに彩る。見上げれば、はるか高みにある天井に向けて、暗がりが増していく。
足元は、上質な赤い絨毯が、輝くように絢爛に、ずっと続いていた。
アーチ形の支柱の間から入る光で、昼は明るさに包まれている。
夜は、灯火の明かりで赤が際立つ。
王宮、女王の間に続く廊下を、ルメルとセフィは歩いていた。
女王の間に近づくにつれ、次第に装飾は美麗さを増していく。
――やがて、黄金色に輝かんばかりの、女王の間の重厚なドアの前に着いた。
ドアの横に幾つか文字が刻まれているが、セフィが目をやったのは、「魔法行使禁止」の注意書きだった。
女王の間で魔法を使っていいのは、女王ただ一人だけ。
他の者全てに、魔法は禁じられている。
セフィは高等魔法の使い手だが、一歩、女王の間に踏み入れれば――少なくとも魔法使いではなくなる。
重いドアを、ルメルが片手で開く。
金色の太い線が、ぐるりと広間を一周している。波のようなものもあれば、音楽を思わせるものもある。
過剰と言えるほどに、宝石も含めた装飾は美しい。
女王の座に向けて、二人は歩いた。
「ここ、久しぶりだろう」
ルメルが言う。
「……そもそもルメルに会うのがね。百日会ってない気がする」
セフィは穏やかな笑みを浮かべていた。荘厳な部屋の雰囲気に合う。
「――アリエラの所で特訓だったな」
元暗殺部隊の長、アリエラの名をルメルは口にした。
「……死にそうだったわ。体力はかなり、それはもう、付いたわよ。魔法使いだけじゃなく、剣士としても戦える。今はそんな気がする」
「訓練ね……」
無造作に、ルメルはセフィの肩に手を伸ばす。若干だけ、殺気を込めた。
ドレスの裾がばさああっと音を立てて翻り、ルメルの顔面にヒットしたブーツが、顔を通り過ぎて背に回される。その時にはルメルの左腕が――伸ばした手だ――セフィの両手で固められていた。
そのまま体重をかけて捻り倒したセフィが、我に返ったように、
「ごめんなさい。あの……勝手に」
そう謝罪するように言った。
ルメルは床に倒れていた。
「……いいよ。アリエラの訓練らしい。よく――学んだな。痛いし動けない」
考えるより前に反射で動く。アリエラの教えはいつもそうだった。
魔法と言えばセフィ。それが――たった百日でこうも変るのならば頼もしい。
痛みなど、それに比べればどうでもいい。
「いつまで遊んでいるの。一応、女王の前だというのは――まあ、よしとしましょう」
女王の座から声がかかる。
既にセフィは、腕を開放していた。ルメルは立ち上がると、非礼を詫びるように一礼した。
女王の護衛隊長。宮殿でも軽装の鎧は着けたままだった。帯剣もしている。
「――例の件と関連して、報告が一つあります」
数歩前に出ると、ルメルが片膝をついた。
「いいわよ。言って見て。ルメル」
「セフィが将来の大器を見つけたようです。――アリエラの訓練の途中で」
「ここ、どこなの。何でこんなに複雑になってるのよ王宮はっ」
キミリアは全力で廊下を走り抜けていた。どこまで行っても赤い絨毯ばかりだった。
階段を駆け上がり、行き止まりで引き返し――無意味としか思えない袋小路まである。
「隊長に殺される。絶対殺される。就任初日に遅刻とかないでしょ」
ほんの――一時間前までは栄華だ昇進だ就職だ将来完全安定、と思っていたのだ。
「また……階段だけとか何なの」
建築途中で諦めでもしたのか、天井に続くだけの階段を上がっていた。
なにより、天井が高い。薄暗い。駆け下りて、腕時計を一瞥する。
見てもしょうがないとは思うけれども、三分無駄にしていた。
「見ればだいたいわかるよって……」
体力自体はまだ余裕がある。絶望で足元がふらついていた。
本来、走ってはならない場所だとは理解している。
精々、速足で給仕が、宮殿に仕える者たちが行き交うだけだ。あくまで、優雅な足取りで。
もういい。恥を忍んで聞こう。そうキミリアは決める。
案内らしい掲示も見た。間取りも大体は聞いている。それでも駄目なものは駄目だ。
「あの……」
と、給仕らしい一人を呼び留める。
忙しそうだけれど仕方がない。
「なんです?」
格式高く、かつ雑務に向いていそうな服装の女性が立ち止まってくれた。
「女王の間には、どう行ったらいい、でしょうか」
全身を上から下まで、懐疑の目で見られる。
「…………女王の警備の方でいらっしゃるのに?」
着込んでいる鎧が、女王の警備兵だと主張している。金の飾りも含めて、誰にも見間違えようがない。
怪しまれるのは、当たり前だった。
「それが……ここに来るのは初めてでして……」
思い切って、言った。
侵入者だと思うのなら思ってくれていい。連行されれば、どこかでルメル隊長に会えるだろう。――希望的に過ぎるけれど。
「説明はお受けになっているはずです」
給仕だろうと怪しい者には、厳しいようだった。
たぶん、この宮殿に仕える者であれば――職務に忠実であり――誰でも疑うだろう。
キミリアとしては、どうしてこんな迷宮で誰も迷わないのか、と言いたかったが、それを言うタイミングではない。
敵に侵入されないように、とか様々な理由があるに違いない。
――疑いを解くのが先だ。
「この……この鎧が本物で……」
何も考えていない、と言われてもしょうがないことを言った。
「それはどうにでも欺けることです。――警備を呼んでよろしいですか?」
「それで、将来の大器とは大きく出たけど、いつ見せて貰えるのかしら」
問われたルメルは、女王の前で暫時、居心地が悪そうに見えた。
「予定では……いえ、後程になります」
ルメルとしてはとっくに会って、打ち合わせを済ませているはずだった。
周囲の気配を探る。
元より、女王の間の近くには人が少ない。食事時でもなければ人通りがないのだ。
――迷ったか。
キミリアは、片端から理解しているように頷いていた。説明が雑だったかもしれない。
「――なんとなくだけど、ルメル、その誰かさんは私が推薦した、あの新人?」
雰囲気から察したか、セフィが問う。
「そうだ」
「私でも最初は宮殿を歩き回れるまで、半日くらいかかったのよ。大体把握するまで。そういうことでしょ」
「――迷っているのね。無理もないわ。案内は昨日にでもしておくべきだったわね。ルメル。つきっきりで。その人は、魔法は?」
女王も寛容ではある。誰でも迷うからだ。
「どちらかというと、いや、アリエラの正統な後継者……とでも言うか」
女王は小さく笑った。
「肉体派ね。魔法は使えるのに身体が先に動く。……何日で着くかしら。ここまで。楽しみだわ」
重装の甲冑を着ている者は、この魔法都市、暁では少ない。
殆どが魔装――魔力を増加させ、防御にも魔力を使う――だった。軽装鎧に見える者もいれば、薄物を纏っただけに見える者もいる。
魔晶でネックレスでも作れば、それが鎧になる。後は趣味の問題だった。
キミリアの眼前にいるのは、威圧が目的だろう、全身鎧の兵だった。
「あ……あんまり、近寄らないでください」
無茶なことを言っていた。
「蹴とばして来たのは、そっちだろうがよ」
兵の鎧に靴跡がついている。
「殺気を感じると、その、反射的にですね……」
「――大人しくしていれば手荒なことはしない。最初から書状を見せていれば、疑いも薄れただろうに」
背嚢の荷物を検査され、ルメル直筆の書状が出て来たのは、幸運だった。
最初から出せというのは、その通りで何も言えない。
複製の効くものではない。真似られるものでもない。
そのあたりは確か魔法で何かするんだった。とキミリアは混乱した頭で思う。
「隊長に会わせて頂ければ、それで……」
それが最優先だった。これ以上取り調べだのを、受けている時間はない。
「簡単に会えるわけがないだろうが。この俺でも余程のことがなければ、お目通りは叶わない。ルメル様に確認はする。結果を待ってからだな」
牢ではないが、頑丈そうな部屋に閉じ込められ、鍵をかけられた。
キミリアとしては、焦りと混乱で魂が抜けそうだった。
叱責は覚悟した。
減給もあるかもしれない。
「……はぁ」
木の机に、倒れ込むように上半身を伸ばす。
ルメル隊長の笑顔が浮かぶ。
採用、と言われた時は夢だと思った。道場長アリエラ様の推薦もあった。
――ただ兵にするんじゃ面白くねえ。こいつはルメル、お前のとこで預かってくれよ。あたしが見込んだだけはあるからよ。
隊長が激怒した顔はどんなだろう。
どんな報告が届いているだろうか。
いきなり解雇、はないと思いたい。
――教訓。わかったふりをするのはやめよう。失礼じゃない範囲で聞けるだけ聞こう。
そう反省したところで、溜息を吐いた。