19.深夜に彼女の部屋で
今までミツルが訪れた事のある女性の部屋は、家族の分を除けばふたつだけだ。
過度に整頓された御部屋と、足の踏み場もない汚部屋と。
そのリビングはどちらとも似ていなかった。
「というか、左右でここまで違う部屋も珍しいな」
まるで中央に見えない壁があるように、縦長のリビングは綺麗に性格が二分されていた。
質素な家具を機能的に配置し、なのに生活臭がこれっぽっちも感じられない右側。思いつきで買ったような前衛的な家具が並び、無駄なスペースなど無いとばかりに小物に溢れた左側。
解説されなくとも、ミツルは左右が誰の領土なのか一目で察した。
「右側が僕のスペースだよ。ティーチャ、あのソファーで寝ていいからね」
そう言ってサクラはトトッと脱衣所に消える。
「だろうと思ったよ」
ミツルが使用感の薄い籐編み風プラスチックソファに腰を下ろしたところで、リビング横の和室から薄い紫のサマーカーディガンを羽織ったレンが顔を見せ、ジトッと彼を見る。
「…………」
「なんだよ。安心しろ、そっちに入る気はないからな」
「私は猫か? テリトリーを主張するなら今ごろ君を叩き出してる」
「なら踏み込んでいいのか?」
「それはまた別の問題だ。それよりミツル君、今日は夕食は食べたのかい?」
「ああ、オニギリを二つ――」
ミツルの答えも半ばで、レンは頭を抱えて目を回す。
「それを夕食と言い張るとは……待ってろ」
和室のふすまから出てきた彼女は台所へ行き、冷蔵庫からタッパ入りの何かを二、三個取って戻ると、それをミツルの前の白いテーブルに置く。
さらにとって返し、小さな茶碗にご飯をよそい、箸まで見つくろって戻ってきた。
「開けていいのか?」
「ご随意に」
他人の家の常備菜に何も期待するところがなかったミツルは、タッパを開けて少なからず驚いた。
マッシュポテトを味付けしたと思われる一つを除いては、昆布の佃煮とイワシの煮付けという見なれた日本食だ。
「意外だ」
「それはいったいどういう意味だ?」
「いや、レンってアメリカ育ちだろ?
てっきりハンバーガーでも出てくると思ったら」
「偏見に満ちた予想をどうもありがとう。
が、どこの世界にそんなもんをタッパに入れて冷蔵庫に保管するバカがいるか。ついでに飯と合わせる阿呆もおらん」
「そういやそうだ。で、食っていいんだな?」
「愚問。とっとと食え」
テーブルの前にあぐらをかいたレンになぜか急かされながら、ミツルはイワシに箸を付け、その柔らかさに思わず声を上げた。
「柔っ!」
「骨まで食えるぞ」
レンのニヤリ顔に見つめられたまま、彼はイワシをご飯と一緒に掻き込んでその味に驚嘆する。
辛すぎず甘すぎず、そして絶妙に濃すぎない煮汁がイワシのほろ苦さとよく合う。そしてよく煮込まれた骨がコリコリしたアクセントになって実に食感がいい。
「私が作ったんだ、美味いか?」
ミツルはただうなずいて二口めを噛みしめた。
たかが夜食に三度も驚かされたのは今日が初めてだ。
「レンは……いい嫁さんになれるな」
「それは、前時代的な褒め言葉だな」
口では皮肉を言いつつ、だがレンの頬はしっかりゆるんでいた。
褒められて悪い気になる人も珍しいだろうが、その喜び方は微妙にベクトルがずれているようだ。
「そ、それよりミツル君はこんな時間まで残っていたんだな。
深夜残業は日本人の悪癖だが、ここではお疲れさま、だ。
資料の方はまとまりそうなのか?」
「んあ? ああ、そっちは問題ない。班長たちのおかげでだいぶ飲み込めてきたからな。改めて凄えって思ってるよ。三機ともよく考えられてる」
「私も赴任してすぐに思ったよ。あの三機は芸術品だ。
それも眺めて楽しむタイプじゃない。例えるならナイフだ、実用の芸術だよ」
「ああ、量産まで考えてあったしな。既製品の部品をあれだけ盛り込んであるのは、スポンサーの絡みもあるって話だったが」
「それはアッキーから聞いてるよ。最初は金に困っての事だったらしい。
だが今や町工場単位で高品位のパーツを調達できて、しかもスポンサー割引まで利くらしいからな」
なんだかんだ言ってミツルはレンとの会話が楽しかった。
特に今のような、共通の仕事の話で盛り上がれるのが嬉しい。彼女とは性別も年齢も、育った国すら違うのに幼馴染みのエリカ以上に気兼ねなく話せる。
自然と技術的な話を続けていくうちに、ふとミツルは関係ない事を訊ねてみる気になる。
「そういや、関係ないけどこの茶碗は?」
「それはサクラのだよ。その箸もそうだが」
「物を食わないあいつのために食器買ったのか」
「飾りみたいなものさ。同居してるのに食器が一組しかないのも寂しいだろう」
「まあ、な。で、もう一つ質問だ。
風呂場からずっと音がしてるんだが、あれはいったい?」
「シャワーを浴びている以外にないだろう」
「でもハンガーに専用の洗浄室、シャワールームがあっただろ。
あれだけじゃダメなのか?」
「人間みたいに垢が出たりはしないが、埃や汚れはこまめに落とすに限る。
といっても、これも飾りだな。彼女たちにはできる限り人間と同じ行動をさせてやりたくて――」
そこでハタとレンの声が止まる。
ミツルはいつの間にかシャワーの音が消えている事に気づいた。
そして脱衣所のドアが開き……
「サクラちょっと待て!」
「へ? なにレンちゃん?」
そこにはミツルが部屋にお邪魔したときのレンの格好をそっくりまねたサクラの姿があった。
思わず振り向いたミツルも思わず目が点になる。
これまで三人の裸の姿を確認する機会はなかったが、子細に見る湯上がりのサクラはどこまでも人間的だった。
火照った肌に差すわずかなバラ色、全身を走る筋肉や筋のつき方、腹部のなだらかな曲線におへその造形の自然さ。
「バカ者! すぐに服を着てこい!」
「えー、いつもレンちゃんこれでいいって言うくせにぃ」
ふてた表情を作りつつ、サクラはアゴを外したミツルの前を無防備に横切り、自分の部屋に消える。バスタオルをブンブン振ってた気がするが、ミツルはもう考えるのをやめる寸前だった。
「すまんミツル君、見苦しいものを……」
「……いいんだ。
いやよくないが、気にしないでくれ。確かに人間らしい、か」
三人娘に羞恥はない。これはミツルも承知の事実だ。
その概念を教え込むのは難しいし、重機モードへの応用も利かない。
行動だけ真似ていればこんな事もあるだろう。
それはいいのだが、にしてもサクラの身体の再現率は半端という概念が裸足で逃げ出すレベルで完璧だった。
「さすがに下まで付いてるって事はないんだろう?
……まさか」
苦し紛れの冗談にレンが顔を背けるのを見て、さすがのミツルも気まずさと妙な感覚を覚える。彼は頭を振ってそれを払いのけ、至極真っ当な質問をした。
「っていうか、なんでそこまで再現してんだよ」
「いや、発注先がな……ミツル君は〈大東洋工業〉を知っているか?」
「お前もいい度胸だな。ティーンエイジャーが成人男性にそれを聞くかよ。
あれだろ、そっち系のボディを作って半世紀以上ってアレだよな」
「そうだ。三人のボディはそこに発注したんだ。
限りなく人間に近いガイノイドを探したら、そこしか発注先が無くてな。
そしたら相手がノリノリで最新技術を詰め込みまくって……ああなった」
「俺は何も聞かなかった事にしといてやるよ」
ミツルは心頭滅却、と一息つき、そして目を開ければレンのどうしようもない表情。思考か三巡ほどしたあと、不意に彼に笑いがこみ上げてきた。
「な、なんだミツル君?」
「いや、十も年の違うお前とこんな話題で自然に話しちまって、どうしていいか俺にもわかんねぇ。もう笑うしかない」
考えれば考えるほど奇妙すぎる状況にミツルはおかしみの増殖を抑えられない。
目の前に気兼ねのなさ過ぎる少女。ちょっと行けば呆れるほど人間そっくりのロボット少女。彼女たちの日常に迂闊に踏み込んだ男性として、対応できる感情のキャパシティはもう無い。
意識するもしないも、そのどちららも滑稽なのだ。
「なんだか知らないが、もうちょっとはデリカシィを持ってくれ。
私も一応女性なんだし」
「自分で一応なんて言うなよ。お前は確かに女の子だ」
そう言って笑いかけたミツルに、レンは複雑だが確かな微笑みを返してきた。
「そう思うんだったら、深夜の女性の部屋で締まらない顔をするのをやめてくれ」
「だな、悪かった」
「お待たせー」
戻ってきたサクラは、薄いピンクのパジャマに犬のぬいぐるみを抱えていた。
「お、似合ってるぞサクラ」
「ティーチャに言われてもねえ」
こと服装指導についてはどうにも彼女の個性とぶつかってしまうミツルは、すでに服について彼女の信用を無くしてしまっていた。
「そう言わずに……あ、そうだサクラさっきの事なんだが、俺と班長見て何を考えてたんだ?」
「あ、あれはね、ちょっと疑問を作ってたの」
「疑問?」
サクラの不思議な答えにレンが関心を示し、ミツルは彼女に事情を説明した。
「――ふむ、ではサクラはそれを見てどんな疑問を得たんだ?」
「病気になるのは好ましくない事だよね。
なのになんで、健康を維持しようとするルールを嫌がるの?
班長もティーチャも、そういう風に表情が解析できたんだけど」
「そうきたか。
ま、強いて言うなら強制されるのが嫌いなんだよ。人に言われて健康になっても、それを好ましい、と感じるかどうかは個人次第なんだ」
「好ましさが人によって変わるの?」
まだサクラには早すぎたかもしれない。
彼女はひとしきり考えたあと、また今度にする、と言ってミツルの横に座った。
ミツルが時計を見ると、いつの間にやらここに来て一時間以上が過ぎていた。
まだレンに追い出される気配はない。どころかテーブルを囲んで見事に和んでしまっている。
「ちょうどいい、ミツル君にも見てもらおうか」
「レンちゃん、いいの?」
何やら二人が声を交わす。
ミツルが何事かと首をひねったところで、レンはテーブルから食器をどかすと、表面をパターンタップして部屋のエージェントを呼び出した。
「私のワークスペースと繋いでサスペンドワークをここに」
レンの音声指示にエージェントが無言で従い、合成音と共にいくつかのウィンドウをテーブル一杯に表示する。ミツルはその内容を見て、すぐにそれがエリカの持ってきた例のウィルス資料であることに気付く。
「ミツル君、この前からずっとこれを考えてたんだけど……
私の予想は当たってたかもしれない」
「ウィルスが内挿されてた可能性、ってやつか?」
「ああ、添付されていたリバースコードを追っていたんだが、削除されたいくつかのブラックボックスをサクラに復元解析してもらったんだ」
「そんな事が?」
「お任せだよ。僕の頭は超高密度の中央演算層なんだから」
「そのわりには普段の言動が……じゃなくて結果は?」
「リバースコードから推測すると、このウィルスは極小規模のパイロットウェアだと思う。独自の処理系を持ってて、主にシミュラ状態のハードに感染する機能があるみたい」
「ウィルスがパイロットウェアってことは、こいつは〈寄生型〉か」
ミツルは小さくうめく。
〈寄生型〉とは最も悪質な対インターウェアウィルスだ。寄生先のインターウェアになりすまし、その処理系を完全に乗っ取る。ウィルスの性質にもよるが、巧妙なものだと感染を見破るのは難しい。
「シミュラ状態、子プロセッサ専門の感染という事は、親プロセッサ、この場合は港湾の重機を管理する会社のサーバーに感染してれば……
いやでも、そっちもシロだったんだよな」
「ああ。でもミツル君、通信回線のことを考えるとまだ可能性は残ってるんじゃないかな。仮に仕込み元がサーバークラスの、それも港湾施設のものと同一IDのマシンを持っていれば……」
「原理上はできるな。アップデートそのものをでっち上げて遠隔で繋ぐ事が。
だがそんな事をすると次のアップデートで不整合が出るし、それ以前にこのためだけにサーバークラスプロセッサって、何億円するかわからんもんを買うとは思えん。足も付くだろうし」
「だね、そこはまだ非現実的なんだ。
おそらくもっとスマートな手があると思うんだけど」
互いに首をひねるミツルとレン。そこにサクラがひょいと首を突っ込む。
「回線の途中にもプロセッサがあるよね? そこから入れないのかな」
「〈IS.M.O〉の事か? それは確かに経由してるがあり得ないだろう。
イスルギのネットワークトラフィックの中心だし、海中にある完全立ち入り禁止の施設だ。警備は港湾施設の比じゃない」
「ミツル君の言うとおりだ。
あそこはSmarts本社並のセキュリティで守られてる。
万が一にも侵入はできないはずだ」
「そっか」
サクラの推測は、一週間前にミツルが抱いた疑問と基本が一緒だ。通信回線もインターウェアで制御されているため、掌握できれば内挿する隙はある。
だがイスルギのエクサ級ネットワークを管理している〈IS.M.O〉というプロセッサは物理的にも電子的にも難攻不落の要塞だ。
その本体はあのオフィスタワー〈セレスティア〉の地下というか海底にあり、施設と行き来する通路も警戒厳重な一本のみ。
到底ウィルスを蒔きにおいそれと入り込める場所ではない。
「ま、逆にすでに乗っ取られてるとすればぞっとしないな。
私たちの使うあらゆるインターウェアが汚染されていてもおかしくない事態だ」
レンが冗談めかしてそう言い、ミツルもそれは困るな、と笑った。
サクラは彼らに相づちを打つと、時計を指差す。
「もう一時半だよレンちゃん。ティーチャを叩き出すの?」
「いや、取りやめだ。喜べミツル君、泊まっていっていいぞ」
「ホントか?」
「しょうがあるまい。今から帰っても三時間と寝れんだろう。ここなら出勤三十分前に起きてもなんとかなる。
ただし、貸すのはそのソファと毛布一枚だけだ。
私やサクラの布団に入って来たら即通報だからな」
「するかよ。とりあえずレン、ありがとな」
レンは何やらモゴモゴ言ったあと和室から毛布を持ってきてミツルに渡し、「くれぐれも変な気は起こすなよ!」と釘を刺して引き上げていった。
なんだかはしゃぎ気味だったサクラも、「ティーチャも寝ないとダメだよね」と気を使って自室に戻る。
***
明かりの落ちたリビングで、ミツルは毛布にくるまろうとしてふと気になり、一面に開いた窓に寄る。
海沿いだからさぞいい眺めだろうと思い、カーテンを開ければ確かにその通りだった。月明かりに照らされた海面が美しい。
ミツルは数分それを堪能し、やがて何の気なく目を下に移す。
彼は自分が夢の中にいるのだと思った。
防波堤に立つ一人の女性。
遠目でも月明かりでも、ミツルは彼女の事がはっきりとわかる。
長い黒髪に妙に切れ長の目、スラリと高く、そして儚げな細身。
「……ハナ」
彼の声が聞こえたとすれば、それは夢だったからだろう。
その女性は彼のいる部屋を見上げ……彼の知らない、鋭い警戒心と敵意を面に宿して立ち去る。
***
次の瞬間、ミツルは見知らぬ天井を見上げる自分に気付いた。
どうやらあの邂逅は夢だったようだ。そう安堵の息を吐いた彼の顔を、開けられたカーテンの向こうから薄い朝焼けが照らしていた。




