続編 22
眩い太陽の光に、ユナは身じろぎした。
こんなに気持ちの良い日は、久しぶりだ。
以前、家の中は物で溢れていて、太陽の光は、ほぼ遮断されていた。
エルフィスの好意で神殿に移ってからも、色々と忙しくて安眠できなかったのだ。
(今日は病み上がりだから、一日休んでも良いって、昨日ヘラさんにも言われたし……)
体をうんと伸ばした。
(仕事もなくて、朝寝坊できるなんて、幸せだわ)
心地よい敷布の感触に、まだまだ眠れそうな心地の良さを覚えた。
カナが隣にいるのだろう。
触れ合っている人肌の温もりに、ユナは相好を崩した。
「……カナ」
くすぐったいくらい、細かな髪の感触が掌にあった。
ユナは夢心地にカナを抱き寄せる。
……が。
カナにしては、何か違っていた。
まず大きい。
そして、意外に骨張っている。
更に甘い花の香りがした。
いつもの、微かに汗を滲ませながら眠っているカナのものではないようだった。
しかも、それは力も強かった。
距離を縮めてきたユナに応えるように、更に背中に手を回して抱擁してきた。
もうこうなってくると、完全にカナではないことは明白だった。
……エロフィスだ。
眠っているのだろうか?
寝ぼけているのだろうか?
そして、寝台の傍らで寝ていたはずのユナがどうしてエルフィスの傍らに行ってしまったのか?
(私も相当寝ぼけてたってこと?)
ともかく、こうなったら、さっさと逃げるが勝ちだろう。
ユナが夜這いを仕掛けてきただの、朝帰りしただの下らない噂を流される前に、カナとひっそり逃げるのが得策なのだ。
(でも……ね)
もはや密接に絡みついた身体を引き離すのは至難の技のようだった。
(ああ、まったく何たることよ)
顔面にエルフィスの吐息まで感じる。
ユナは怖いものには蓋をする心意気で、いまだに目を瞑っていたが、どうやら相当な至近距離に追い込まれているようだ。
ここで目を開けてしまったら、朝から麗しいご尊顔が眼前にそびえていることだろう。
しかし、目を開けないことには、この窮地から逃れる術もない。
――究極に困った。
……しかし。
「狸寝入りを見ているのも楽しかったんだけど……」
ユナの葛藤を察したかのように、耳触りの良い低音が飛んできた。
「眉間に皺を寄せられたら、あまりいい気はしないね」
「…………エ、エルフィス様」
ユナはゆっくりゆっくり時間をかけて目を開けていったが、それで衝撃が薄らぐというわけではなかった。
想像以上の間近に、エルフィスがいる。
鼻の先が触れ合ってしまうような距離だ。
紫銀の髪が日の光に染められて、きらきらと輝いている。
純白の神服に宝石のように澄んだ紫の瞳はよく映えていた。
やはり今日も美しくあらせられますね……。
そんな言葉を繰り出す余裕も、経験値もユナにはない。
(どうしよう……)
もう無闇やたらに口も開けられなかった。
下手したら、口の中まで覗かれてしまいそうだった。
(た、助けて)
ユナは窒息を起こすのではないかと思うくらい、呼吸を止めて顔を敷布に押し付けようとしたが、そんなことはどだい無理だった。
がっしりと顎を掴まれて顔を上げさせられた。
「…………あ、あの。エルフィス様。カナは?」
ユナは、カナを迎えに来たのだ。
この広い寝台のどこかで、カナも眠っているはずではないか。
「寝起き初の言葉がそれなわけ?」
「た、大切なことですから……」
早鐘を打つ心臓に呼吸が合わせられずに、話すこともままならない。
もはや、これは病だ。
こんな病から、さっさと卒業してしまいたかった。
ユナの穴があったら全力で飛び込みたい衝動を知ってか知らずか、エルフィスは平然と言ってのける。
「カナちゃんなら、もう施設に行ったよ」
「う…………うそ」
そこはかとなく、嫌な予感はしていたが、口にされるともう唖然とするしかない。
じゃあ、いつから?
一体、いつからこんなことに、ユナとエルフィスはなっていたのだろうか?
ユナの動揺を楽しんでいるのだろうか、エルフィスが留めをさした。
「カナちゃんが出て行ったのは、結構前かな」
「な、何で、その時に私を起こして下さらなかったんですか。エルフィス様?」
「君だって病み上がりなんだし。休めるときに休む必要があるでしょ。カナちゃんも、お姉ちゃんを休ませてあげてって言っていたからね。可愛い妹がいて良かったね」
「…………」
気にかけてくれたことは有難いし、休みたいとも思っていたが、何もよりにもよって、エルフィスの寝台でなくても良いではないか?
それに、エルフィスだってユナを慮ったと嘯くのなら、隣で寝ている必要などないのだ。
(気を利かせて、何処かに出て行ってくれるのが優しさというものよね?)
しかし、エルフィスにそんな常識が通用するはずもなく、それをきちんと口に出して責められるほどユナの思考はまとまってなかった。
「あ、そういえば……セルジ様は?」
――そうだった。
セルジがいない。
出来ればユナを軽く足蹴にするセルジなんかを頼りたくないが、彼なら事の真相を知っているかもしれない。
しかし、エルフィスは小さく欠伸をするだけで、心底つまらなそうに答えた。
「まったく、そうして君は僕の前であっさり他の男の名前を出すんだよねえ」
「セルジ様は、エルフィス様の従兄弟であらせられます」
「それでも、セルジは男だよ。そして、僕も性別でいえば男」
「連呼しなくても、一応分かっていますが?」
「ふーん。分かっているけど、僕のことを意識してくれないんだね?」
「もしかして、朝から酔っぱらっていらっしゃる?」
「妬いているんだよ。分からないのかな?」
(……だから、どうしてコイツは)
話を色恋方面ばかりに持っていくのだろうか……。
「分かりました。要するに、エルフィス様は、私の質問に答えたくないんですね」
嫌味たっぷりで責めたつもりだったのに、エルフィスはにっこり笑顔でうなずき返す。
「そうそう。今頃、気づいたんだね。そうだよ。ユナ。どうせ君から僕に話すことなんて、僕から距離を置こうとする話ばかりだろう。君は逃げるのが好きだからね。そんなのを聞いていたら、日が暮れちゃうし、勿体ないじゃないか。僕はユナ=リンディス、君自身と話す時間に充てたいんだよ」
「エルフィス様は潔いくらい、自己中心的ですね?」
「そうだよ。だけど、君だって僕と同類じゃないか」
反論できないのが悔しいところだった。
「まあ、そういうわけで、僕は、一度本気で君を口説いてみたいと思っていたんだ」
「はあ?」
彼の口から語られる言葉は、ユナにとって馴染のないものばかりで、本当に恐ろしい。
「口説く?」
「うん」
あっさり認められて、益々辟易した。
(何言ってるんだろ? やっぱり酔ってるのかしら? それとも、また魔道具のせい?)
昨晩、熟睡できたからだろうか、とってもエルフィスは、ご機嫌な様子だった。
(本当、逃げないと。コイツの訳の分からない言葉に呑まれそう……)
いい加減、上体を起こそうとユナは姿勢をただそうとしたが、しかし次の一言でユナは豪快にこけた。
「――だからさ、僕は君のことが好きなんだって、言ったはずでしょう?」
駄目押しがきた……。
記憶にないと、シラを切れないほど、はっきりと言いやがった。
エルフィスは抑揚なく、熱っぽくもなく、しかし苛立ちと愛着の混じった声音で告げた。
「……でね。僕は少し不機嫌なわけだよ。ユナ」
「不機嫌?」
こんなに弛緩しきった顔をしているのに、彼は不機嫌らしい。
エルフィスはわざとらしく大仰に自身の額を押さえた。
「そうだよ。分からないとは言わせないけどね。だって、あんなにはっきり告白したのに、君は何事もなかったのかように、朝からどーでもいいことを、僕の前でまくし立てるわけさ。カナちゃんも大切だ。セルジも、まあいないのは不自然だ。だけど、せっかくの雰囲気を須くぶち壊しているんだよね。君は」
「雰囲気も何も……」
ただうっかり寝てしまって、目が覚めた途端、こんな目に遭っているユナの心中も察して欲しかった。
しかし、エルフィスは容赦する気はないらしい。
「いっそ、そんな君の唇を僕の唇で塞いでしまおうかと考えている最中なんだけど」
「とっ、とんでもない!」
ユナは急いで、自分の口を両手で覆った。
エロフィスめ。
手が早いだけでなく、口もいやらしいとは、歩く猥褻物というユナの思い込みは正しかったのだ。
この男の言葉は、本気か嘘か分からないことが多いが、用心に越したことはない。
……だけど。
(用心って?)
それもなんか変な気がする。
ユナは、本気でエルフィスが嫌なのか?
もしも、受け入れてしまうような素地があるのなら、ここで変に拒否するほうがお高くとまっていると思われてしまうのではないだろうか……。
しかし、心の準備というか……。
(いや、準備なんて一生できそうもないし)
――一体、ユナは何がしたいのだろうか?
(……だから。私とエルフィス様じゃ立場が違うんだって……)
結局はそこに、話が行きついてしまうのだ。
陽光をいっぱい蓄えたエルフィスの紫銀の髪は、神々しく輝いている。
ユナの暗い闇に慣れた虚ろな目に、彼の存在はまぶしすぎるのだ。
何もかもが……違いすぎる。
――今、ここで手を伸ばせば、届く距離なのに。
だけど、その寝癖一つない、さらさらなエルフィスの髪を、ユナは先ほど寝ぼけて少し引っ張ってしまった……ような気がする。
それ以外にも、眠っている間に、色々としてしまったかもしれない。
(ああ。何しちゃったのかな。私……)
勝手にユナを寝台に転がしたのはエルフィスかもしれない。
それでも、二人きりの時、とんでもないことをしていたとしたら、ユナはこの先、生きていけそうになかった。
(絶対、何かやらかしてそうだわ。でも、思い出せないのよね)
「……あの。本当、その、すいません。エルフィス様」
ユナは両手を口に当てたまま、もごもごと言った。
エルフィスは退屈そうにしていた手枕をはずして、目を丸くしている。
(あ、しまった。また主語がなかった)
これじゃエルフィスに言葉の意味なんて、分かるはずもない。
すぐにユナは気がついたが、しかしエルフィスの言葉の方が早かった。
「へえ。今度は謝罪? どうしてそうなるのかな、ユナ。僕に謝罪要求するのなら、まだ分かるんだけどね。君がそうくるのはいつもながらに想定外だよ。まあ、まったく意味が分からないけど、いいよ。聞くよ。面白いから」
(面白い?)
……これが?
「私にとっては面白いことなんかじゃ、断然ありませんよ。大変なことじゃないですか」
「そう」
鼻歌でも出て来そうな気安さでエルフィスは相槌を打った。エルフィスがそんなのだから、ユナも子供のようにむきになってしまうのだ。
「ずっと私ここで寝てたんですよね。その……エルフィス様に酷いことしなかったかなって気になってしまって、怖いんです。ほら、寝相が悪かったりとか、歯ぎしりが凄かったとか、涎で大変なことになっていたとか、一応、お風呂には入ってましたけど、得体のしれない悪臭が漂ってきたりなんかしたら、それは私の仕業かもしれないわけで。大変なご迷惑をおかけしてしまって……ですね」
「―――まさか」
エルフィスがぽかんと大口を開けたまま、呟いた。
「女の子の口から、ここまで連続でそんな言葉を聞くとはねえ。だから。君はなにもかも台無しというかさあ」
わざと小さな声を放ったエルフィスの言葉は聞き取れず、しかし、むすっとした顔に恐怖したユナは、エルフィスの隙を見て、体を起こして正座した。
ユナの謝罪は、甘かったのだろうか?
それとも、エルフィスの中の嫌な記憶を発掘してしまったのか?
エルフィスが口の端に皮肉げな笑みを蓄えていた。
「やっぱり、君も自己中心的だよね? 自分が僕に何かしたことばかり考えている。だけど、普通は自分が僕に何かされたんじゃないかって考えない? それが通常の女性の反応でしょう?」
「エルフィス様が私に。一体なにを?」
「それは本気で言っているの? つい今まで自分で口を押さえていたくせに。男女が二人きりでいたらどうなるか。心当たりがないってわけじゃないんでしょう?」
「………ははっ。まさか」
軽く一笑してみせたが、真顔のエルフィスに沈黙がおりてきて、ユナは初めて焦った。
(……まさかっ!?)
ユナは、自分でナイトドレスの襟元の中身を確認してみる。
一応、下着に乱れはないし、特に異常はなさそうだが?
「……またまたご冗談を」
通常の女性という単語に軽く反発して、上品に笑ってみせたが、エルフィスはいまだに憮然とユナを眺めている。
「冗談に聞こえるの?」
「………………」
………………聞こえなくなってきた。
「ほら。僕は君の言う通りエロフィスだし。こないだも言ったはずだけど、寸止めするのには疲れちゃったんだ。まさか、一晩中一緒にいて手を出さないなんて、そんな幻想あるはずないじゃない。だけど、安心して。一応、君が起きている時に堪能したいから、一線は越えてないし、唇だけは残しておいた」
「…………それは、エルフィス様なりのお気遣いってことですか?」
「いや。……ただの趣味かな」
(ええっと、何だっけ? 一線? 線ってどこの線? …………で、唇を避けた? 何が? 一体何が唇を避けて、私の身体のどっかを通過したのよ?)
さっぱり想像がつかない……というより、考えたくない。
――けど。
全然、安心なんかできないではないか?
ユナは本格的に恐れをなして、自ら、襟元から頭をつっこんで自分の体をのぞき込んでみた。
ドレスが伸縮性のある素材でよかった。
いちいちボタンをはずしていられるほど、冷静ではいられない。
さすが、エロフィスだ。
(脱がせやすいドレスしか、女に送らないという……)
とっさに、こんなことが出来てしまうドレスはきっと他にないだろう。
(ああ……。まったく私はどうしてこんなことしてんだろ)
記憶にないということがこんなに恐ろしいこととは思わなかった。
しかし、一通り下着の中まで確認してみたが、特に不自然に脱がされた形跡はない。
(そうよね。この貧相な体の何処にこいつの理性を壊すような仕組みがあるのよ?)
やっぱりエルフィスの戯言だと確認して、ユナは口を開いた。
「あの……。やはり、エルフィス様が安眠を崩した私に対しての腹いせに仰せになっているようにしか感じられないのですが?」
ユナはドレスに頭をつっこんだまま、エルフィスの気配がする方を向いた。
前が見えないので、正確にエルフィスが何処にいるのか掴めなくなっていた。
――何だ。この格好は?
多分、エルフィスの百年の恋も冷めるような間抜けな格好だったに違いない。
微かにエルフィスの肩が上下していような気がする。
(笑っているの?)
察したものの、やはりその通りだった。笑い混じりの声だ。
「その格好は、僕と面と向かうと照れるからしてるのかな。残念だけど、実に興味深くて面白いだけで、今更君を嫌いになったり、軽蔑することもないよ」
「……そんなつもりはないんですけどね」
「だから、心配はいらないって。ユナ。僕だって寝込みを襲って純潔を奪うほど悪い人間でもないからね。だけど、どの程度まで、君が眠っていられるのかどうかには興味があったから。まあ、程々にね」
「ほっ、程々?」
こいつは生粋の変態だ。
何で、そんなことに興味を持つのか。
バカじゃないのか?
それとも、相当の暇人なのか。
「エルフィス様。私は、程々の「ほど」について知りたいんですけど……? 一体、どの程度から程々となるのでしょうか。私のおバカな知識力では見当もつきません」
「分かった。じゃあ、今から実演しよう」
――こうなると思った。
エルフィスが言葉の通りにじり寄ってきたので、ユナは後ろにじりじりと後退した。
「……分かりました。もういいです。朝ですからね。エルフィス様は、仕事もあるでしょうし。は、早く起きて支度を」
「では、まず、朝食代わりに君の唇を堪能して、君の眠っていた時にしていたことの続きをしようか?」
……何で、そうなる?
「……眠っていた時にしたこと? ……て、だから、エルフィス様。正直におっしゃってください。気になるじゃないですか。ちょっと魔が差したというのなら、ほら、幸い、私にはまったく記憶もないですし、誤魔化せばどうにでもなりますから……ね?」
「君は、記憶になければ誰に何をされても許せるわけ。……誰にでも?」
「誰にでも……ではないです」
「そう。――なら、良い」
エルフィスがまるでその一言を待っていたかのように、手を叩いた。
「やっと言ってくれたってことだね。ユナ」
「はっ?」
「誰にでも良くないってことは、僕なら許せるってことでしょう。ユナも僕のことが好きなわけだ」
どうして、そう都合よく解釈してしまうのか……。
否定ができない自分も辛い。
…………もう、逃げたい。
(助けて。神様、セルジ様……)
ユナは神が坐す神殿の奥、大神官の寝室で、純粋に神に祈ったものの、この時ばかりは、聞き届けられる様子はなかった。




