第7章 Ⅵ
「エルフィス様!」
誰も近寄らないので、ユナがエルフィスに駆け寄った。
うつ伏せになって、赤い絨毯に横たわっている青年は、神が創り上げた人形のようだった。
色素のない顔に、おそるおそる触れる。
まだ温かい。
唇は、微かに赤く、眠っているようにすら見える。
とりあえず、抱え起こし、揺さぶってみる。
反応はない。
(ふざけているんだ。きっと……)
空笑いしながら、ユナはエルフィスの心臓に手を当てた。
――――心音がしない。
「まさか……」
心臓の位置が掴めていないだけだ。
(だって……。人の心音を確かめる機会なんて早々あるものじゃないもの)
ユナは、慌ててエルフィスの右手を取った。
脈を取ろうとする。
でも、手首の何処にユナが手を当てても、脈拍を見つけることは出来なかった。
(混乱しているんだわ。……私)
落ち着こうと自らの心臓に手を当てて、息を吐く。
だが、ユナを待ち受けていたのは、国王のきつい一言だった。
「エルフィスは、…………死んだ」
ヘラの支えで上体を起こした国王は、冷然とした眼差しで倒れているエルフィスを見下ろした。
「…………死んだ?」
ユナは否定をして欲しくて、ヘラを見上げたが、彼女は悲しそうに目を伏せるだけだった。
信じられないし、信じるつもりもなかった。
けれども、少し振り返ってみれば、過去のエルフィスの言動、行動から、こうなることは予見できたのだ。
(神官は一生結婚できないなんて……)
その言葉を口にするたびに、いずれ来るかもしれない未来が思い浮かんだに違いない。
(怖かったんだ)
終わりが見えていたからこそ、女の人とも遊んでいたし、不真面目を気取っていたのかもしれない。
(壁を無くせば良いなんて……)
ユナは、衝動的に不用意な発言をした。
そんな事情があるなんて知らなかったのだ。
(私は知らなかったのよ……)
彼に対して、腹を立てていた。
もう会いたくないとも、思ったりもした。
だけど、死んで欲しいなんて一度も願ったことはない。
「こんなのってない」
ユナの脳裏に、両親が死んでしまった日のことがよみがえる。
あの時だって、人の死など儚いものだと噛み締めたはずだ。
どうして、もっと孝行できなかったのかと、悔やんだはずだ。
黒い染みのように、ユナの心にじわじわと現実が広がっていく。
「そこをどきなさい」
「……この人を、どうしようっていうんですか?」
「古式に則った方法で対処するまでだ。息子の最期の望みだ。お前は今日の出来事は何もかも忘れて、健全に暮らせば良い」
「そんなこと出来るはずないではないですか! エルフィス様に何をするつもりなんですか?」
「心臓を抉りだし、神に捧げる。祭壇の方はヘラが準備している」
ユナは耳を疑った。
「父親が息子の心臓を取ると……?」
「レンフィスやフェルナンディ……、況してやセルジになど出来るばずがないだろう。私がやるしかない。それこそ、他人にはやらせたくはない」
国王はよろよろと立ち上がり、ユナの前に立っていた。
片手には、短剣が握られている。
……本気らしい。
たとえ、それで壁が取り除かれることがなかったとしても……。
唯一の方法を試さざるを得ないのだ。
深く刻まれた皺が国王の表情に影を作る。
罪悪感などまったく抱いていないようだったが、僅かに細められた瞳に悲哀の色があった。
「……私にとって、最期の仕事だ。このまま壁は放置できない。既に長い期間にわたる魔法の力で、国内の自然の理が捻じ曲げられている。旱魃や、地震もその一つだ」
「…………地震?」
「壁」の存在のために、ユナの両親は犠牲になったというのだろうか。
ユナの心が大きく揺れる。
(だけど、……でも)
エルフィスは、知っていた。
ユナの両親が天災で死んでいることも……。
(すべて承知した上で……、この人は私と向かい合っていた)
「娘よ。いい加減に、そこをどきなさい」
国王がきつく命じた。
ユナは動かない。……動けなかった。
分かっていた。自分はこの国の最高権力の命令に、背いている。
国王は、間違っていない。
世迷い言だと、軽んじることは出来ないのだ。
このまま、天変地異が続き、経済の悪化が著しくなれば、アルメルダ神国の再建は難しくなる。まだ間に合ううちに、為政者であれば、唯一の救済の道を試すべきなのだろう。
しかし……。
「嫌です」
ユナは、強くエルフィスを抱き締めた。
見殺しになど、したくなかった。
(だって……)
エルフィスは、ありのままの心でユナに向かって来てくれたではないか……。
ユナが出会ったどんな人間とも違っていた。
素直に謝っていた。何度も、何度も……。
決して、ユナのように愛想笑いで、誤魔化そうなんてことはしなかった。
権力で、都合の悪いことをねじ伏せようともしなかった。
(なのに、感情をころころ変えて、エルフィスを困らせてしまったのは私だ)
最後の最期まで……。
「エルフィス様は、まだ生きてます。だって、こんなにあったかいんですよ。これで死んでいるなんて……。嘘よ」
「……貴方は」
国王に寄り添っていたヘラが一歩だけ、ユナの方に足を踏み出した。
「エルフィス様のことが、好きなんですね」
「私は、……ただ」
「ただ? 素直になれないだけなんでしょう?」
「ヘラ」
渋面を向ける国王に、ヘラは潤んだ瞳で微笑みかけた。
「アーク=エルメダ=ルミネス」
「それは……」
「私が発動させることが出来なかった、壁の解除魔法です。せめて……」
「アーク=エルメダ……、ルミネス?」
ユナは、小声で復唱した。
国王から少し離れたヘラは、それ以上何か語ることはなく、祈るように、その呪文を唱え続けた。
(こんな呪文……)
唱えたところで、何かあるわけでもない。
エルフィスも、無駄だと言っていたはずだ。
(だけど……)
ユナは一心不乱に口を動かし続けた。
その呪文が唯一の拠り所であるように、何度も何度も唱えた。
「馬鹿なことを……」
国王が嘆息をして、短剣をその場に落とす。
……そして。
百雷が落ちるような轟音が国中に響き渡った。




