第6章 Ⅲ
―――壁があった。
アルメルダ神国を囲む巨大な壁。
その一端が存在していた。
もっとも、ユナが壁だと分かったのは、見張りの役人がエルフィスに敬礼したからだった。
壁は無色透明だ。
確かに壁が存在していると感じることが出来るのは、微妙に壁の外の景色が歪んでいるせいだろうか。
(なんか、味気ないな……)
ユナにはいまひとつ感慨がなかった。
アルメルダ神国の人間にとって、この壁は生まれたときから存在している必然だ。
特に奇異に感じることもなければ、ここから出られる術があるなんて、想像もしていない人間が大部分だろう。
「大神官さま、今日も見学ですか?」
役人が気安くエルフィスに話しかける。
今日も……ということは、しょっちゅうエルフィスはここまで足を運んでいるということなのだろう。
「ああ、しばらく二人にして欲しいから、君たちは見張り小屋にいて良いよ」
「はあ」
ユナの父親の年くらいの役人は、白地の神官服を着ていたが、何処か国立神殿で目にする神官とは雰囲気が違っていた。
「ここにいるのは、正規の神官じゃないんだ」
エルフィスは、ユナにだけ届くような小声で伝えた。
役人はユナを不審に一瞥しながらも、しずしずとエルフィスが支持したとおり、近くの小屋に引っ込んでいく。
おそらく、数人の役人が持ち回りでこの壁を監視しているのだろう。
(ここで監視したからって、どうなんだろう?)
ユナが密かに小首を傾げていると、
「とりあえず、これも雇用の一環というやつだよ」
エルフィスがユナの心情を汲んで、素早く答えた。
前を見据えているエルフィスの歩みは止まらない。
ユナもここで一人ぽつんとするわけにもいかず、彼の後ろを歩いた。
でこぼこの砂利道を、足元を確認しながら進む。
馬車が近くまで寄せられなかった理由を、しみじみと実感していると、ようやく赤土の平坦な大地が見えてきた。
役人の拠点であるらしい小さな木組みの小屋を背後に、ただ殺風景なだけの原野。
……空と大地の他に何もない。
そういえば、壁の周囲は立ち入り禁止で、建物を建てることも出来ないよう、法律が出来ていた。
隣り合っている国も、そこは辺境の場所なのだろう。
アルメルダの景色と乖離していない。
「ユナ、触ってごらんよ」
エルフィスは既に透明な壁に手を触れていた。
「痛くないですか?」
「大丈夫だよ」
ユナはおずおずと壁に触れた。
見えない。
でも、確実に存在している壁だ。
触ってから、試しに何度か叩いてみるが、びくともしない。
「壁です」
「そうだね」
当然のことを頷きあいながら、二人で空を仰いだ。
この景色は何処までも続いているはずなのに、閉ざされている。
今更ながら、信じられない現実だった。
「壁の周囲に近づいてはいけないというのは、アルメルダ神国の掟だからね。まあ、破ったって良いんだけど、この壁を越える術を身につけている人は……、王族以外いないからね」
エルフィスは自嘲気味に呟いた。
「もっとも、魔法を失っている王族にはその力もないだろうね……。ヘラだって、ガイナ教の信者で、裏であの人が動いているのなら……、壁の解除法を試しているかもしれない」
「あの人?」
「フェルナンディのことでしょ」
弟のことを、あの人という呼び方をするのか?
ユナは納得がいかなかったが、エルフィスはさっさと話題を変えていた。
「別に壁を壊そうという気運は、今にはじまったことじゃないんだよ。昔から、何度もあったんだ。そして、その度、王族は試してきた。僕も例外じゃない」
「えっ?」
「アーク=エルメダ=ルミネス」
「な、何?」
驚いて、ユナはエルフィスから飛び退いた。
エルフィスは、そんなユナの狼狽ぶりを、けらけらと子供のように笑い飛ばした。
「あはは。何も起きやしないよ。僕だって何度も試しているんだ」
「何だったんですか?」
「勿論、呪文だよ。僕が素であんな意味不明な言葉を口走るはずがなじゃないか?」
「もしかして、この壁を取り除くヤツですか?」
「そうだよ」
エルフィスは、あっさり肯定する。
「そんな! いきなり、重要呪文を使ってしまって良いんですか?」
「別に。どうせ発動しないもの」
ユナは愕然とした。
エルフィスは、魔法が使えない。
だが、壁の撤去方法は知っていると言っていたのに……。
「つまり、壁は……、取り除くことが出来ないということですか?」
「出来るさ」
「本当に?」
「今更、君に嘘はつかないよ。この壁をなくす方法を僕は知っている。まあ、やってみろと言われて、その場ですぐに出来るものでもないし、今まで壁がなくなったことがないんだから、実際やってみないと効力があるかどうか、僕にも分からないんだけどね」
エルフィスは特徴的な紫色の瞳を細めて、壁を見遣った。
「今唱えた壁を取り除く呪文ね。あれは、僕が小さい頃、他言無用だって厳重に前置きされてから、密閉された神殿の奥で先代の大神官から習ったんだ。でも、大神官も既にこの呪文を僕が使えないことは分かっていたから、まあ、事のついでという感じだったかな」
「でも他言無用って?」
「効果のない呪文なんて、ただの意味不明な言葉の羅列に過ぎないじゃない。場所が悪いのかって、僕はここ以外にも神殿とかいろんな所で唱えてみたけれど、何の意味もなかった」
「それは……、また」
「僕だって、このままで良いとは思っていないんだ。でも、なかなか決心がつかなかった」
「エルフィス様?」
(変だ……)
何が?
とまでは、ユナには分からない。
だが、やはりエルフィスは何処か変だった。
「一度、君とちゃんと話しがしたかった。こんな所まで連れて来て言い訳みたく感じられるかもしれないけど……」
エルフィスは、言葉を切ってから腕を組んだ。
長い袖がひらひらと、乾いた空気に揺れる。
ユナの家にいたせいで、不自然な灰色になっている神官服が痛々しかった。
「……まあ、言い訳なのかな」
素直にエルフィスは認めた。
穏やかだった。
エルフィスは黙っている。しかし、ユナは以前のように沈黙が怖くなかった。
エルフィスの眼差しを静かに追いかける。
こんなに近くにいるのに……。
もう、明日からはまったく赤の他人になる。
それは、ユナが望んでいることだ。
エルフィスの表面上の顔に、騙されるつもりはない。
(……だから)
今だけは、二人で並んで、空を見上げるのも悪くはないと思った。




