第3章 Ⅳ
―――雨だった。
ユナが国立神殿で働いてから初めての大雨だった。
今日こそはと、徹夜で書き上げた「退職願」は、ユナのスカートのポケットの中に収まっている。
エルフィスはやって来たユナに、早速部屋の掃除を言いつけた。
いくら何でも、雨の中、屋外で占い活動をやらせるわけにもいかないらしい。
さすが国家機関。
最低限の人権には配慮していると言いたいのだろう。
しかし、部屋の掃除すら満足に出来ないユナがエルフィスの私的空間を綺麗にしなければならないのだ。
しかも、本人は直ぐ傍で優雅に読書中だ。
恐ろしい……の一言である。
(掃除は良い仕事だわ。占いよりはマシだし……。でも、とにかくこの男、邪魔だから、置物みたいになってないで、とっとと外に出てくれないかしら?)
「僕、もしかして邪魔?」
「いいえっ!」
びくっと、肩を震わせて、ユナは力をこめて雑巾を動かした。
応接用の机の上を何度も拭く。
手前の机で大判の本を広げているエルフィスは、頁をめくる手を休めているわけではないのに、口も動かし続けていた。
「君、家では掃除しているの?」
「えっ?」
ユナは呼吸をとめて、振り向いた。
エルフィスはユナを見ていないが、沈黙は答えを待っている証拠だろう。
「す、すいません」
「どうして謝るの?」
ユナはしゃがんでいた状態から立ち上がって、深々と頭を下げた。
「私の掃除は、やはり下手でしょうか?」
「…………そうきたか」
「はっ?」
「いや、別に。掃除の仕方なんて僕もそんなに自分でしたことはないから、分からないよ。要するに、まめにするかしないかの違いなんじゃないの?」
「そうでしょうか?」
「要は、やる気なんじゃない」
まるで、ユナの日頃の態度を把握しているかの言動だ。
(私は、どうせぐーたらですよ)
しかし、反発しながらも、分かってはいた。
どうして、こういう指摘に、心の底から謝罪することが出来ないのだろう……かと。
エルフィスの言っていることは、間違っているわけではないのだ。
正しいことを言っている。
(掃除が出来ないんじゃないのよ。しないのよ。私は……)
なのに、それに対してこんなふうに心の何処かで毒づいているユナ自身が一番愚か者なのだ。
そんなユナの内心が表情に出てしまっているのだろう。
だから、自分はこんなにも周囲から疎まれてしまうのだ。
「僕はね。ユナ……」
「はい」
今度こそ、真摯な姿勢でエルフィスの話を聞こうとエルフィスに視線を合わせる。
しかし、エルフィスの方がユナから目を逸らした。
「先日、落ち込むことがあってね」
「は、はい。なんでしょう?」
「生まれて初めて知人から、エロフィスと呼ばれたんだ」
「げっ!」
「どうしたの?」
「い、いえ」
命の危険はなさそうだが、心臓は一瞬止まった。
ユナは立ちくらみを感じて、数歩後退すると、くるりとエルフィスに背を向けた。
体の震えを隠すように、掃除を再開させる。
机の脚を拭き始めていた。
先ほどまでの反省など、何もかも吹き飛んでいた。
(ま、まさか昨日の私の言葉がバレているわけじゃないわよね?)
さすがに、それはありえない。
ユナの自宅付近は、とんでもない田舎だ。人間自体がいるはずがない。
困却するユナを嘲笑うかのように、エルフィスの過剰な演出は続いた。
「ねえ、ユナ。僕は、そんなに有害な男なのだろうか?」
(…………ある意味。確かに)
「い、いいえ」
ユナは心情とは裏腹に、激しく首を振った。
「そんな、滅相もありませんです」
「僕はね。別に女性をそんな卑猥な目で見ているわけではないんだよ」
「も、勿論ですよ」
あははは……と、ユナは乾いた笑声をあげた。
「そう、分かってくれると有難いな。僕は君と話す話題というものが、一体どうしたら良いのかと考えて、緊張? いや、考えているうちに、ついつい僕の女性の好みばかりになっているかもしれないんだ」
エルフィスが手を動かす音がしないので、本を読むのをやめたのだろう。
ユナを見ている。
(どうして? そんなことを私に言うわけ?)
誰か……、エルフィスの家臣の誰かが、エルフィスの日頃のユナに対する発言について、忠告したのだろうか。
(セルジが? まさか)
それだったら嬉しいことだが、もしもそれでエルフィスに目をつけられたのなら、ユナにとっては面倒なので、やめてもらいたいところだった。
(それにしても…………)
是非、ユナと同じことを感じているその知人とやらに、会ってみたいものだ。
第二王子に向かって、そんな口を利ける人間はこの国にそうはいないはずだ。
「君は不思議な子だね。ユナ」
「そっ、そうでしょうか?」
「そんなに、毎日自分を偽って過ごしていたら、ものすごく疲れない?」
的確というより、ぞっとするような質問にユナは素知らぬふりをするしかなかった。
「分かりません。私には……」
「それだよ。ユナ」
エルフィスは、音を立てて本を閉じると、立ち上がって部屋の中を歩き始めた。
「君の返事は鸚鵡返しばかり。本当の気持ちを出してくれないから、僕はついつい君の本音を聞きたくなって、空回りばかりしてしまう。少し悲しい気分だよ」
「…………すいません」
とりあえず、謝っておく。
(嘘つけ)
……と、ユナは気付いている。
エルフィスもまた嘘をついている。
それがどういった類の嘘なのか、見抜くことが出来るほどユナは利口ではないが、言葉のすべてが本当だと信頼できるほど、この男は純粋ではない。
しかし、ユナのその感情もまたエルフィスにはばれてしまっているのだから、怖い。
エルフィスの綺麗な紫色の瞳が呆れた色に染まっているのを、淡々と眺めているのが辛くて、ユナは、逃げるように話題を変えた。
「あ、あのエルフィス様」
ユナはわざとらしく窓に両手をついた。
「先ほどから、神殿の外が慌しいのですが、あれは一体何なのでしょうか?」
「ああ……」
エルフィスはけだるそうに、答えた。
「宗教団体でしょ?」
「はっ?」
ユナは窓の外に目を凝らす。
適当に振った話題だったが、口にしてみると気になった。
遠くに見える神殿の正門。
往来と神殿を取り囲むように築かれた巨大な正門の前には、黒山のような人だかりが形成されている。
しきりに何かを叫んでいるようだが、ここまでは言葉となって聞こえてこなかった。
エルフィスは、首を傾げているユナを暫く放置していたが、やがて面倒臭そうに口を開いた。
「君は知らないようだね。あれはガイナ教というやつだよ」
「ガイナ教……?」
「最近、有名な宗教らしいけどね」
エルフィスは、わざとらしく腕を組んだ。
「君も知っているだろ? 大神官の仕事の一つは宗教の認可だ。僕は、あの宗教を認可していない」
「はあ。それで?」
ユナは、エルフィスの言葉をゆっくりと咀嚼しながら頷いた。
「あの方々はエルフィス様に認可して欲しくて押し寄せているのですか?」
「そういうことになるね」
「そうなのですか……」
(宗教している人も、大変だなー)
冷ややかに感じながら、ユナは雑巾を広げて、途中だった掃除の仕事を再開しようとした。
………………果てしない沈黙。
「ちょっと待って」
エルフィスが痺れを切らしたように、ユナの背中に呼びかけた。
「ねえ、どうしてそうなるのさ? 普通そこでどうして認可をしないのですか? って、そう返ってくるものじゃないの?」
「…………えっ。ああ」
ユナは初めて気がついた。
そうかもしれない。
ユナは、興味のないことには、すこぶる鈍いのだ。
もしかしたら、家に戻った所で、ようやく、このことに疑問を抱いたかもしれない。
「そうですね。気になります」
「本当に?」
エルフィスは、上目遣いで尋ねてくる。
子供のような反応をする男だ。
別にどうでも良いことかもしれないが、とりあえず肯定すると、エルフィスは、仕方ないな……といった風情で、微苦笑した。
「壁……なんだよね」
エルフィスは、もったいぶって呟いた。
「君も知っているでしょう? アルメルダの国境を覆っている大きな壁」
「はい」
当然だ。
アルメルダ神国で「壁」の存在を知らない者はいない。
ユナは実物を見たことはないが、その壁を作ったといわれている神王ルーガスのことは、アカデミーの教科書にも載っている。
「ガイナ教は、その壁を除けと主張しているんだよ。まあ、国王ルーガスの偉業は否定していないみたいだけど、このアルメルダ神国を救うためには、ガイナ教徒にとって、壁は必要ないものみたいだね」
「それは、おいそれと許可出来ませんね」
「でしょ? 僕は大神官として、それを簡単に許すわけにはいかないんだよ。だから、まあ、たまにああして押し寄せては、集会開いたりして、訴えかけてくるわけ。神殿の近衛兵やセルジは対応に困っているだろうね」
「……ああ、それで」
ユナは、いつも変態かと思うくらいエルフィスの傍らにいるセルジがいないことに合点がいった。
「苦労されているんですね」
「一応、僕も大変なんだよ。もっとも、ガイナ教の教祖は若くて綺麗な女性らしいから、一度会ってみたいとは思っているんだけど」
(何を言っているんだろう。この人は)
苦労しているのは、エルフィスではなく神官とセルジである。
エルフィスが今まで熱心にしていたのは、読書だけではないのか。
例によって、無心になって、人形のように首肯すると、背後で扉を叩く音がした。
「失礼します」
女性の声だった。
「うん、何?」
エルフィスが眠そうな声で、聞き返す。
(こんな態度で仕事が出来るのなら、疲労など感じないだろうな……)
ユナがある意味感心していると、一拍おいて重そうな扉が開いた。
声の主は、マリベルだったらしい。
昨日は休みを取っていたので、会わずに済んだのだが。
(相変わらず、怖い)
部屋の中央にやってきたマリベルは、エルフィスに恭しく一礼する。
鮮やかな茶色の髪は、今日もしっかりと頭の上で纏められていて、まったく隙がなかった。
「エルフィス様。フェルナンディ長官がお見えになっていますが、如何なさいますか?」
「へえ…………」
エルフィスは無感動に首肯すると、それ自体が宝石のような白皙をユナに向けた。
「ユナ……。フェルナンディというのは、僕の弟なんだ」
「その……ようですね」
自分でも、どうしてもっと気の利いた返事が出来ないのかと、殴りたい衝動に駆られたが、ユナとて知っている。
フェルナンディという名が第三王子のことを指していることくらいは……。
(じゃあ、今日も、これは出せないなあ……)
ユナは、ポケットの中でよれてしまっている「退職願」に気持ちを飛ばしていた。
すごすごと雑巾を持ったまま、ユナは退散の構えを取る。
国王の由緒正しい血をひく兄弟がここで何をするのか、見当もつかなかったが、自分には関係ないと、高を括っていた。
しかし……。
「何処に行くの? ユナ」
エルフィスは、静かに退出しようとしていたユナを目聡く見ていたらしい。
ユナは雑巾をちらつかせて、訴えた。
「他の場所を掃除しようと思ったのですが……」
「いいよ」
「はっ?」
「君はここにいればいい」
「な、何?」
(とうとう血迷ったのか?)
ユナもそう思ったが、マリベルも同感だったらしい。
青ざめたマリベルの顔がユナの視界に入った。
「私がここにいて、どうするのですか?」
「弟に会うのは、久々なんだ。一人で会うのは、何だかかったるいんだよね」
マリベルが口には出さない何かをエルフィスに主張しているが、エルフィスは無視だった。
「掃除っていったって暇でしょ。マリベルは色々と忙しいだろうけど。ユナは仕事がないんだから、ここにいればいい」
「しかし」
まだ納得がいかない様子のマリベルに、エルフィスは会心の一言を放った。
「マリベルは仕事があるんだ。君にユナをまかせたら益々忙しくなってしまうじゃないか。ね? だから、とりあえず、フェルナンディを呼んできて」
(ああ、なるほど)
ユナは納得した。
特に贔屓というわけではなく、仕事が出来ないユナのための処置ということらしい。
ユナは、ポケットの中に手を突っ込んだ。
(……ほんと)
この「退職願」で、すぱっと格好良く辞められないものだろうか。
独り、そんな夢想をしてユナは悲しくなった。




